第179話 待つ日々にも、火は育つ
ヴィーラの引いた線のそばへ、フォーンが短い枝を置いた。
「水を汲んだのは、この辺りだ。ここから上へ行くと、先にいた者の場所になるのか」
「その少し手前に、倒れた木がある。そこを目印にしてほしい」
ヴィーラは土の図だけでは済ませず、川上を指した。フォーンはそちらを見て、荷を背負い直す。
「後で、一緒に確かめたい。違う木を見ていたら困る」
「案内する」
鬼太郎は頷いた。
枝一本の太さに収まっている線も、歩けばそれなりの距離になる。話を終えて戻った後、互いに違う場所を境界だと思っていては意味がなかった。
ブラウニーたちには、寝床に必要なものを聞いた。
大きな空き地はいらない。雨が入らず、誰かの通り道から外れ、荷を乾かせる場所があればよいという。ヴィーラが近くで心当たりを挙げると、彼らはすぐに見に行きたがった。
「そこで何をするかも、周りの方へ伝えてください。急に物が置かれていたら、分かりませんからね」
「言う。勝手には、置かない」
鬼太郎が頼める仕事について尋ねると、先ほどまで震えていた者が、自分の包みを開いた。布を折り、乾いた葉を挟んだ小袋を取り出す。何に使い、どれくらい保つかを説明する頃には、隣の者も口を挟むようになった。
残った二体のオーガも、座る場所を変えて話へ加わった。
通るだけで枝を折ってしまう場所や、足を置けば崩れそうな川岸がある。小さな者たちと同じ道を通すより、先に広い道を見せた方がよさそうだった。
「運ぶなら、運べる」
一体が、脇にある荷を顎で示した。
「ただし、飯になるものと替えろ」
「何でも無料でお願いするつもりはありませんよ。何を運び、何を渡すかは、その都度決めましょう」
「先に言え。運んでから、そんな物は渡せねえと言われるのは嫌だ」
「それは、僕も困りますね」
鬼太郎は笑った。
フォーンが枝の先を地面へ当てたまま、こちらを見た。
「逆は、どうなる」
「逆、ですか」
「俺たちが境界を守っていても、前からいる者が越えてくることはあるだろう。後から来たのだから、我慢しろと言われるのか」
ヴィーラも顔を上げた。
鬼太郎は、土の上の線を見た。
「今、こちらで境界を決めるなら、双方に守っていただきます」
「先にいた方でも?」
「ええ。後から、違う条件へ変えたいのであれば、その時に相談していただく。先に越えてから承知しろと言うのでしたら、取り決めをする意味がありません」
ゴブリンが一度、顎を引いた。
「決めた線は、互いの線だ。こちらだけが動かせるものではない」
フォーンは少し黙ってから、枝をヴィーラへ渡した。
「それなら、話を続けられる」
すべてを、その場で決めることはできなかった。
実際の場所を見なければ分からないこともあり、今ここにいない住民へ確かめる話も残った。鬼太郎は、まだ決まっていない場所を決まったことにせず、誰が誰へ聞くかを確かめてから立ち上がった。
砦へ戻る頃には、木々の間へ入る光が低くなっていた。
◆
翌朝、町へ向かう荷に、ボリス宛の注文が添えられた。
鬼太郎はそれを送り出してから、砦の近くの開けた場所へ向かった。
足元は、落ち葉と枯れ草を除いてある。標的に使うのは、小人から譲られた木材の切れ端だった。厚さの近いものを選び、間隔を空けて並べる。背後に人や獣がいないことを確かめ、鬼太郎は水の入った桶の位置も見た。
「今日は、何をする」
キーノが少し離れた所へ立った。
「炎を、もう少し」
「もう少し、で済むのか?」
「確かめてみないと分かりませんね」
鬼太郎は右手の杖を身体の脇へ下ろし、左手を開いた。
以前から、掴めそうな感覚があった。
小さな火を作る。狙った場所へ放つ。その間に、力を余計に使ってしまう箇所を減らす。覚醒してから繰り返してきた動きは、ほかの魔法よりも身体へ馴染んでいる。
今は、走った直後でも同じ火を作れる。
相手を追って手を向け直し、必要な時に放つことも、以前より速くなった。身体が大きくなった分だけではない。腕を動かしてから力を集め直す無駄が、少しずつ減っていた。
だが、その先には、まだ続かないものがある。
鬼太郎は内側の力へ意識を向けた。
「アギ」
掌の先から火球が飛んだ。
木材の中央へ当たり、炎が表面を舐める。鬼太郎は狙った位置からずれていないことを確かめ、火が残る標的へキーノと水をかけた。
同じ大きさの木を、次の位置へ置く。
今度は、火の中心へ注意を向けた。
広げる前に、そこへ力をまとめる。
掌の先が明るくなった。外へ伸びる炎の奥に、小さな芯ができる。
手を向け、放とうとした。
その途端、芯が崩れた。
鬼太郎は先へ押し出す動きをやめた。掌の前で広がりかけた火を、まだ手元にある力とともに収める。
「今のは、出さないのか」
「放てば、いつもの炎へ戻ってしまいます。少し多く力を使った分だけ、強くはなるでしょうが」
「欲しいものとは、違う?」
「ええ。手を離しても、今のまとまりを保ちたいんです」
鬼太郎は指を開き直した。
掌に火傷はない。だが、先ほどの一度よりも、内側の力が減っている。
形を作っただけで、これだった。
もう一度試す前に、どこで手応えが変わったかを書き留めた。
◆
返事が届いたのは、それから二日後だった。
ボリスは、挨拶の言葉より先に品の値段を書いてきた。
葉煙草には選べる品が二つあり、香りと質の違いが短く添えられている。甘い酒は用意できる。銀の櫛は細工まで確かめるため、もう少し日数が欲しいという。
鬼太郎は卓へ紙を置き、キーノへ見せた。
「急いで揃えた悪い品より、待つ方がよさそうですね」
「挨拶に持っていく物だ。最初から相手を怒らせても仕方ない」
「では、こちらの煙草にしましょう」
鬼太郎は質のよい方へ印をつけ、返事を書いた。
指定した品を揃え、知らせた日に砦へ持ってきてほしい。受け渡しは、いつもの場所でよい。
紙を乾かす間、窓から外を見た。
中庭の端では、ブラウニーが古い布の縫い目を確かめていた。キーノが使い道と寸法を伝えて渡したもので、すべてを任せる前に、まず一つ仕上がりを見ることになっている。
森から来る者が増えたからといって、皆を砦へ住まわせたわけではない。それでも、必要な話を終えた者の幾らかは、用事を持って門を通るようになった。
「お前は、午後も火か」
「はい。休んだ分は戻っていますから」
キーノは鬼太郎の帳面へ目を落とした。
成功の印は、まだなかった。
「昨日と同じことを、疲れるまで繰り返すなよ」
「今日は、放す前の形を変えてみます」
「違う。疲れるまでやるなと言っている」
鬼太郎が笑うと、キーノは返事を待つように腕を組んだ。
「休む時間も取りますよ」
「最初から、そう言え」
◆
火を大きくした日は、うまくいかなかった。
掌から離れる前に、外へ広がる方へ力が逃げる。見た目は派手になるが、中心に作りかけたものは残らない。
反対に、小さくまとめることだけを考えた時には、放つ動きへ移れなかった。
鬼太郎は一度、普通のアギへ戻した。
狙い、作り、放つ。
慣れた火球は、間を置かずに木材へ当たった。
「そいつは、考えなくても飛ぶんだな」
木陰からサーシェスが言った。
「狙うことは考えていますよ」
「さっきまでは、手を伸ばしたところで止まってたぜ」
鬼太郎は左手を見た。
芯を保とうとして、手元へ力を留めている。
普段なら一続きで行っている動きを、自分で止めていた。大きくするか、小さくするか。その前に、まとまった力を送り出す途中で、何を変えてしまっているのか。
「……少し、分かった気がします」
「気がする間は、まだだな」
「ええ。ですから、確かめます」
鬼太郎は次の標的へ手を向けた。
中心へ力をまとめ、今度は、それを掌へ残そうとしなかった。
火が離れた。
短い距離を、明るい芯が走った。だが、木へ届く前に輪郭が揺らぎ、散った炎が標的の端を焼く。
鬼太郎は息を吐いた。
額へ汗が滲んでいた。先ほどのアギと、同じ負担ではない。まだ放ち切れていないのに、何度も続ければ、その後の練習ができなくなる。
「今日は、ここまでにしましょう」
そう言うと、サーシェスが少し眉を上げた。
「もういいのか」
「今のうちに、書いておきたいので」
鬼太郎は、火の消えた木を見た。
以前は、放った途端に崩れていた。
今日は、一瞬だけでも、手を離れてから残った。
次に確かめることはあった。
そのための力まで、今使い切る必要はなかった。
◆
幾日か、朝の空気の冷たいうちに試すことを続けた。
休む間には、学校の課題へ取り組んだ。杖の呪文を復習する日もあり、森で決まった境界を確かめに行くこともあった。
腕が長くなれば、前に覚えた位置から杖先がずれる。身体が成長したことは、何をしても以前よりうまくいくという意味ではなかった。足を置く場所も、反対の手を空ける時機も、今の身体で繰り返す必要がある。
それでも、以前は疲れで続けられなかった試みを、形を崩さずに終えられることが増えていた。
火を作る間に肩へ力を入れすぎない。
中心へ意識を向けても、狙いから目を外さない。
掌の前へ留めず、狙った先へ送る。
できた部分を、翌日も確かめる。
その朝も、最初の一度は通常のアギだった。
木材の表面へ残った焼け跡を見てから、鬼太郎は次の標的を置いた。厚さは近い。置く位置も変えない。
キーノが水の桶を脇へ寄せ、後ろへ下がった。
「いいぞ」
「はい」
鬼太郎は右手の杖を下ろし、左の掌を標的へ向けた。
内側の力へ触れる。
火の形へ変え、広がる前の中心へまとめた。
掌の先に、赤橙の炎が生まれる。その奥が、周りより明るくなる。
形を保てた。
放つまでの間へ、無理に別の動きを挟まない。
今、作っているものを知っている。
繰り返した感覚の先へ、忘れていた名が繋がった。
「アギラオ」
火球が、掌を離れた。
明るい芯は崩れなかった。
標的へ届いたところで、まとまっていた炎がほどけた。木の中央から強い火が広がり、側面まで包んで立ち上がる。
キーノが半歩、足を引いた。
鬼太郎も、すぐには次を作らなかった。
火の中で木が鳴っている。表面へ炎が走っただけではない。厚い部分へ黒い裂け目が入り、そこからも赤いものが覗いた。
鬼太郎は杖を収め、桶を取った。
火勢が弱まった所へ水をかける。キーノも別の桶を持ってきた。煙と白い湯気が上がり、二人は風上へ回って、残った火を消した。
焦げた木には、まだ触れない。
「今のが、欲しかったものか」
キーノが聞いた。
「ええ」
鬼太郎は、息を整えてから答えた。
内側の力が、はっきり減っていた。
普通のアギより大きい。作り、保ち、放つ間にも、まだ余分な力を使っているのだろう。それでも、標的へ届くまで同じ芯が残った。
「アギラオ、と言ったな」
「そういう名でした。思い出せましたよ」
「次の炎か」
「はい。ようやく、手を離れても保てました」
鬼太郎は、前の標的と見比べた。
同じような厚みの木材だった。先に撃ったものは、表面の焼け跡が残っている。今のものは中央が深く焼け、火が消えても形が崩れかけていた。
頑丈な相手にも、当たれば違う損傷を与えられるかもしれない。
だが、その相手は、木のように待ってはいない。
今の形成には時間がかかった。慣れたアギなら放てていた間も、掌の前で火をまとめていた。動きながら同じものを作れるかも、まだ分からない。
「もう一度、やるのか?」
キーノの声で顔を上げた。
左手を見て、指を閉じる。
同じ感覚を残したまま、もう一度試したくはあった。
「今日は、今の形を書いておきます。次に、同じものを作れるか確かめましょう」
「そうしろ。明日は、商人が来る日だ」
「忘れていませんよ」
「お前、火を見てる時は返事が遅い」
鬼太郎は笑った。
帳面を開くと、キーノが標的を見たまま、自分の立っていた場所から炎がどう見えたか話し始めた。手を離れても明るい部分が残ったこと。当たってから、前より広く火が回ったこと。
鬼太郎は自分の感覚の脇へ、それも書き添えた。
頁の上に、新しい名が残った。
アギラオ。
その下へ、まだ遅い形成と、一度で減った力のことを書く。
覚えた炎を、使える手にする。
鬼太郎は次に試すことを一つだけ記し、羽根ペンを置いた。