第181話 呼ぶ声にも、足を止める
紙を届けてくれたヴィーラに伴われ、アラクネが砦へ来たのは、翌朝だった。
鬼太郎は食堂へ招く前に、中庭の広い場所で足を止めた。相手は紙を片手に持ち、もう一方で、道へ張り出した低い枝を示した。
「東へ行くのか」
「はい。レーシーさんへ、ご挨拶をしたいと思っています」
「あれが、ここへ来いと言ったわけではないな」
「まだ、こちらのことをご存じかも分かりません。まず、お話を聞いていただける場所を伺えればと」
アラクネは紙を折り直した。
「奥まで連れてはいけない。私が通っていたのも、手前の方だ」
「その先へ、無理にお願いするつもりはありませんよ」
鬼太郎は隣へ来たキーノと目を合わせた。
アラクネは、二人の足元へ視線を下ろす。
「道がまだ分かる所までは行ける。そこで呼んでみろ。話す気があれば、返事をするかもしれない」
「いつも、そうして会うのですか」
「いつも会えるわけではない」
言い終えると、アラクネは東の木立を見た。
「呼び声を聞いて、奥へ探しに行く者はいる」
以前聞いた、知っている声の話だった。
鬼太郎は相手の向いた方を見た。中庭から続く道には、今も荷を運ぶ者が通っている。その先の木々も、遠くから見れば普段と変わらなかった。
「返事が聞こえたからといって、ついていけばよいとは限らないのですね」
「先に、そちらで呼んだ相手か確かめろ」
アラクネはそう言って、鬼太郎へ紙を返した。
◆
葉煙草の包みは、鞄の中で押し潰されない場所へ入れた。
鬼太郎が留め具を閉じると、キーノは自分の鞄を肩へ掛け直した。
「移ってきた連中を、すぐ連れていく話にはしないんだな」
「ええ。どなたなら住めるのか、何を求められるのか。聞かないままお連れして、話が違うと言われても困りますので」
「向こうが、何人寄越せと言ったら?」
「僕の一存ではお約束できませんね。住みたい方にも、条件を聞いて選んでいただきます」
キーノは頷いた。
「商人は、もう次の荷を待っていそうだ」
「まず、お話ができてからですね」
鬼太郎は腰のホルスターを確かめた。
ケストレルを抜く時に、鞄の端が邪魔にならない位置へ直す。黒檀の杖は、右手へ持った。
新しく掴んだ火の感覚は残っている。
ただ、掌の先へ芯をまとめる間、動く相手が待ってくれるわけではなかった。慣れたアギを放つつもりで、同じ速さを当てにすれば、間に合わない。
使える場面を選ぶ必要がある。
キーノが、その手元を見ていた。
「何を考えてる」
「会ってもいない相手へ、どう戦うかばかり考えていてはいけませんね」
「考えてたんだな」
「準備はしておきたいので」
キーノは呆れたように息を吐き、自分も杖を取った。
出発する前に、鬼太郎は東へ挨拶に行くことをヴィーラへ伝えた。帰りを待って用事を持ち込む者がいるかもしれない。今日のうちに返事を求める話は、預かってもらう。
門の外で待つアラクネの所へ行くと、彼女は二人の荷を見た。
「それだけか」
「はい。お待たせしました」
先に歩き出した身体へ続き、鬼太郎たちは道へ入った。
◆
初めのうちは、見覚えのある場所を通った。
川沿いへ向かう分かれ道。荷を置いて休める平らな石。根元へ雨水の溜まる木には、泥のついた小さな足跡がいくつもあった。
アラクネはそこで東へ曲がった。
道幅が狭くなり、鬼太郎は鞄を身体へ寄せた。前を行く相手は、低く絡んだ枝を避けながら進む。キーノはその後ろを歩き、鬼太郎が続いた。
「前に通った時も、こちらから?」
「そうだ。この先で、よく糸を掛けられる枝があった」
アラクネは足を緩めたが、立ち止まらなかった。
「今は、そこまで取りに来ない」
「レーシーさんがいるからですか」
「声を聞きながら、糸の具合まで見ていられん」
仕事をする場所としては、不便だったのだろう。
鬼太郎は木々の間を見た。
伸びた枝の下へ潜るたびに、来た道が隠れた。ほんの数歩前まで見えていた太い幹も、横から見れば、ほかの木と重なってしまう。
それでも、まだ足元には通った跡がある。
やがて、泥へ残る足跡が減った。
砦の近くで聞こえていた、誰かが枝を折る音や、荷の金具の鳴る音も届かない。鳥が短く鳴き、離れた所でまた鳴いた。
キーノが後ろを見た。
鬼太郎は、少し先にある倒木を指した。
「あちらを越えてきましたね」
「ああ。下を通った枝も、まだ見える」
二人の見ているものが同じだと確かめてから、先へ進んだ。
アラクネが止まったのは、地面の浅い窪みを越えた所だった。
左手の木は、途中で幹が二つに分かれている。右側には、苔に覆われた石が並んでいた。その間にも歩ける幅はあるが、落ち葉は手前より厚く積もっていた。
「私は、ここまでだ」
鬼太郎は相手の横へ並ばず、一歩手前で止まった。
「ここからが、東の領域ですか」
「ここで、線を決めたわけではない。この辺りなら、私は戻る道が分かる」
アラクネは、通ってきた窪みを振り返った。
「あれのいる所まで行って、戻れるかは別だ」
「分かりました。ありがとうございます」
鬼太郎は鞄を手前へ回した。
葉煙草を取り出す前に、隣のキーノを見た。彼女は杖を下げたまま、木立の奥を見ている。
その向こうから、声がした。
「坊主」
鬼太郎の指が、留め具の上で止まった。
右奥だった。
低い声に、笑いが混じっている。
「こっちだ。何をしてる」
サーシェスの声だった。
姿は見えない。
木の陰へ立っていれば、あの男なら見つけにくい。それでも、今は足を向けなかった。
キーノが鬼太郎を見た。
鬼太郎は彼女へ顔を向け、目が合ってから小さく頷いた。
「聞こえましたか」
「ああ」
キーノの返事は、すぐ隣から聞こえた。
アラクネも動かなかった。声のした方へ身体を向けず、二人がついてこないことを確かめるように、顔だけを寄せる。
「行くな」
「ええ」
鬼太郎は鞄から葉煙草を取り出した。
杖先を声の方へ向ける代わりに、右腕を下げる。包みは左手へ持ち、誰かが見ているなら分かる高さまで上げた。
「東にお住まいの、レーシーさんへお話を伺いたく参りました」
声を、木々の向こうへ通した。
「南の砦に暮らしている、墓場鬼太郎と申します。こちらはキーノさんです。ご挨拶の品を持ってきました」
返事はなかった。
葉の擦れる音が、頭上を渡る。
鬼太郎は包みを持った腕を少し下げた。声のした場所だけを見続けず、幹の間と、枝の重なる所へ目を移した。
足元の落ち葉が、一枚滑った。
キーノの靴は、その場にある。
「……聞こえていないのか?」
今度は、左から聞こえた。
キーノの声だった。
隣のキーノが唇を結んだまま、そちらを睨んだ。
鬼太郎は息を一つ吐いた。
声だけを聞いて追えば、二人とも別の方へ歩かされる。
しかも、いま隣にいる相手の声だった。知っている者が森へ来ているかどうか、それだけで避けられるものでもない。
「こちらでお待ちします」
鬼太郎は、先ほどと同じ場所から告げた。
「お話を聞いていただけるのでしたら、ご返事を」
アラクネが、少し後ろへ身体を寄せた。
鬼太郎はそれを追わず、視界の端へ残した。キーノもまだ隣にいる。
葉の擦れる音が止んだ。
少しの間、鳥の声もなかった。
「南の人間が、何を求めてここへ来た」
低く、ざらついた声だった。
サーシェスとも、キーノとも違う。
鬼太郎は、聞こえた方へ顎を向けた。二つに分かれた幹の先は、幾本もの木が重なって暗い。声の主がそこに立っているのか、それさえ確かめられなかった。
だが、こちらの名乗りへ返ってきた言葉ではあった。
「この森へ、新しく住みたいという方が増えています」
包みを持ち直す。
「東の土地を、こちらで勝手に使ってよいとは考えていません。まず、そこに暮らすあなたのお話を伺いたいと思いまして」
鬼太郎は、前へ踏み出さずに笑った。
「お時間をいただけますか」