第183話 煙の向こうに、まだ先がある
紙を開く音が、木々の向こうで続いた。
鬼太郎は石から目を上げた。キーノも、包みの消えた場所より奥を見ている。
やがて、葉の間から細い煙が流れてきた。
乾いた葉を焼く匂いに、卓で確かめた時よりも濃い甘さが混じる。二股の幹のそばで、木陰の一つが動いた。
最初に見えたのは、長い指だった。
煙管を口元から離し、枝に似た腕が下がる。その向こうから、人の形をしたものが歩み出てきた。
鬼太郎より、ずっと背が高い。
肌には古い樹皮を思わせる筋が走り、髪と髭には苔や葉が混じっていた。肩の輪郭も、背後の木へ溶けてしまいそうだった。顔を上げた鬼太郎を、深く窪んだ目が見下ろす。
先ほどから声を聞いていた相手が、ようやく、こちらの前に立った。
「悪くない葉だ」
低い声とともに、薄い煙が漏れた。
「それは、よかったです」
鬼太郎は黒檀を身体の脇へ下げたまま答えた。
レーシーの目は、その太い杖から、短い上着の裾へ移った。腰のホルスターに収まった銃を見てから、空いている左手へ戻る。
「次も、同じものを持ってこられるか」
「商人へ確かめれば。手に入れるまでの日数と値段は、その時に伺います」
「今日のものには、何を返せばよい」
「そちらは、ご挨拶です。次から必要な品をお頼みになるのでしたら、代わりに何を出せるか、相談しましょう」
レーシーは煙管へ視線を落とした。
鬼太郎は、相手の吸う間を待った。木々の奥から出てきても、立つ場所は幹のすぐそばだった。こちらへ無造作に近づいてくるつもりはないらしい。
「葉だけか」
「薬や道具も。品によっては、扱う店を探すところからになりますが。本も取り寄せてもらえますよ」
煙管を持つ指が止まった。
「本?」
「ええ。森の外の土地や、そこで暮らす者について書いたものもあります。何を知りたいかによって、選ぶ本は変わりますね」
「お前は、それを買わせているのか」
「はい。読んでみなければ、分からないことも多いので」
レーシーは鬼太郎の鞄を見た。
「持っているか」
「今日は、お見せするための本を選んでいません。ご興味があるのでしたら、次に何冊かお持ちしましょうか」
鬼太郎は、すぐに商人へ注文を増やそうとはしなかった。
「まず中を見てから、欲しいものを決めてもよいでしょう。よく知っている話ばかりでは、買っても面白くないでしょうから」
「人間の町が、どのように変わったか。それは分かるか」
「場所を選べば、そうした本もあると思います」
レーシーはしばらく黙り、煙管を口へ戻した。
「では、見せろ。次に来る時でよい」
「分かりました。お持ちする本を考えておきます」
キーノが鬼太郎を見た。
目が合うと、僅かに眉を上げる。帰った後に確かめることが、また一つ増えた。
◆
「ここへ来たい者も、まず俺が見る」
レーシーが言った。
「何ができるか、自分で見せろ。お前の言葉だけで、住む場所は渡さぬ」
「ええ。ご本人も、それを承知して来ていただく形にしましょう。ただ、暮らし始めてから何を求めるのかも、先に伺いたいですね」
「気に入った力を、俺に見せてもらう。俺が呼べば、その話を聞く。俺の森で勝手に獲物を追い、木を倒すことは許さぬ」
「呼ばれたら、何でも言うことを聞けと?」
キーノが口を挟んだ。
レーシーの目が、彼女へ移った。
「何をさせるかも聞かず、誰が来る」
「聞いて、断れるならいい。ここへ来たら、もう帰れないという話では困る」
鬼太郎は遮らず、レーシーの返事を待った。
長い指が、煙管の柄を撫でた。
「俺が会うと認めた者なら、帰りも通す。話が合わぬ者を、いつまでも置いておくほど暇ではない」
「では、来る前にご連絡します。来たい方の人数と、どなたが同行するかも」
鬼太郎は隣のキーノへ目を向けてから、続けた。
「住む方にお願いしたいことは、それぞれお会いになってから、もう少し詳しくお話しください。今の言葉だけで、僕から大丈夫だとお伝えすることはできませんので」
「お前が決めて、寄越せば済むものを」
「帰ってきた方に、そんな話は聞いていないと言われたら、僕も困りますよ」
レーシーは喉の奥で笑った。
今度は、顔が見えていた。木の軋む音に似たものは、相手の口から出ている。
足止めについても、すぐに頼める形にはならなかった。
誰を侵入者と呼ぶのか。東へ許されて来る者を、南の者がどう見分けるのか。こちらから知らせを持つ者を、迷わせずに通すにはどうするか。
アラクネも前へ寄り、自分が通る道と、ほかの者が使う道を挙げた。
鬼太郎は鞄から紙と書く道具を出した。黒檀を収め、石の平らな所を借りる。
決めたことと、持ち帰って確かめることを分けて書いた。
少なくとも、東へ逃げた者を追って、許しもなく奥まで踏み込まない。東から南へ来る用事のある者も、南で勝手に罠を置くことまで許されたわけではない。
その先の通行や連絡の方法は、実際に行き来する者にも聞く必要があった。
レーシーは、書き終わるまで待っていた。
「お前は、一人で来たわけではないのだな」
鬼太郎が顔を上げた。
レーシーの目は、紙へ向いていた。
「ここへ来ていない者の話ばかり残る」
「僕一人で続けている取引ではありませんからね」
紙を畳み、鞄へ収める。
「その分、できることも増えます。あなたにも、そう思っていただければよいのですが」
◆
レーシーが、鬼太郎の手へ目を落とした。
「その手の火も、見てみたいものだ」
鬼太郎は笑った。
「何に向けて放つかによりますね」
「俺の木を焼かねばよい」
「でしたら、燃えても困らないものと、火を消せる場所をお借りできますか」
レーシーは二人の顔を順に見て、幹の脇を指した。
「こちらだ。離れずに来い」
今度は、姿が見えていた。
アラクネも頷いたのを確かめ、鬼太郎は黒檀を取り出した。レーシーへ続くキーノとの間を空けず、石のそばから歩き出す。
少し進むと、細い流れに沿って砂利の露出した場所へ出た。
レーシーが指したのは、水際へ倒れた枯れ木だった。幹の一部は割れ、乾いた断面が上を向いている。背後には低い石と水があり、火を移しそうな下草は少なかった。
鬼太郎は枝葉の落ちていない所を選び、キーノたちが射線から離れたことを確かめた。
「炎以外も、少しお見せしましょう」
黒檀を右手へ下ろし、左手を水際の石へ向ける。
「ブフ」
冷気が白く流れ、濡れた石の表面へ薄い氷が張った。
レーシーは煙管を口から離した。
鬼太郎は次に、砂利の上へ落ちた細い枯れ枝を選んだ。
「ザン」
枝が跳ね、先の石へ当たって折れた。すぐに次を放たず、鬼太郎は左手を下げた。
レーシーの目が、右手の杖を見た。
「そちらは、使わぬか」
「今の力には、使っていません」
鬼太郎は枯れ木へ向き直った。
「アギ」
左の掌から火球が飛び、割れた幹の端を焼いた。炎が残った場所へ、鬼太郎は鞄から出した野営用の容器で水を運んだ。
キーノも手を貸した。
煙を出す木から離れ、まだ濡れていない中央の断面を見る。
「最後に、もう一つ」
鬼太郎は容器を足元へ置き、黒檀を右手に戻した。
キーノが水際へ下がる。
左の掌を開き、内側の力へ意識を向けた。
火を作る。
広げる前に中心へまとめ、手元を離れても崩れない形を保つ。
掌の先に、明るい芯が生まれた。
まだ、放てない。
形を急がせれば、先に外側へ力が逃げる。鬼太郎は呼吸を止めず、目を標的へ向けたまま、火をまとめた。
「アギラオ」
赤橙の火球が、左手を離れた。
芯は途中で散らず、幹へ届いた。
当たった所から炎がほどけ、割れた木の側面へ回る。先ほどの表面を舐める火とは違い、中央の厚い部分が音を立てて黒く裂けた。
鬼太郎は左腕を下ろした。
内側の力が、はっきりと減っていた。
呼吸を整え、杖を収める。それからキーノと水を運び、幹に残った炎を消した。水をかけても煙の出る割れ目を確かめ、もう一度濡らす。
レーシーは、その間も見ていた。
「初めの火より、遅い」
「ええ。先日、ようやく形になったばかりです。相手が待ってくれる場所でしか、今は見せられませんね」
「それも、取り戻した力か」
鬼太郎は顔を上げた。
自分が口にした魔法の名より、今の問いの方が気になった。
「そのように見えましたか」
「できぬものを探す顔と、知っているものへ手を伸ばす顔は、違う」
鬼太郎は少し笑い、焼けた幹へ目を戻した。
「今は使えませんが、以前の僕は、もっと強い炎を扱えました」
覚えている感覚と、今の手に作れるものには、まだ大きな隔たりがある。
「これほど時間をかけずに放てましたし、もっと頑丈な相手にも届きました。ほかの力も、今のままではありませんでしたね」
「それを、また使うつもりか」
「はい。いずれは」
鬼太郎は左手を開いた。
火傷はない。ただ、もう一度同じ火を作りたい気持ちと、減った力は別だった。
「そのために、学ぶことも、鍛えることも続けています」
キーノが脇から容器を差し出した。
「今日は、もう十分だろう」
「ええ。お見せしたかったものは、これで全部です」
鬼太郎は受け取り、水を切って鞄へ戻した。
◆
レーシーは、幹の黒い裂け目から人間の子供へ目を移した。
この力があれば、弱い者へ命じる方が早いこともあるだろう。
それでも、この人間は、森へ来て自分の都合だけを押しつけなかった。住みたい者を勝手に渡さず、ここにいない者の取り分も、決めたふりをしなかった。
力が足りないから、頭を下げているのかと思えば、その顔には卑屈さがない。
差し出す品を選び、相手の欲しいものを聞き、自分に渡せないものは渡せないと言う。
そのうえで、まだ強くなると笑っていた。
「南の人間」
鬼太郎が振り向いた。
「本を忘れるな」
「ええ。次にお伺いする時に」
「それと、次の火だ」
子供の笑みが、少し深くなった。
「そちらは、本よりお待たせするかもしれませんよ」
「ならば、その間に本を見ていよう」
レーシーは煙管を持ち上げた。
東へ移る気はないと言った人間に、次に来る理由ができた。
森の外を記した紙が、どの程度のものかも気にかかった。だが、それを選んで持ってくるという、この子供自身も、もう少し見ておきたかった。