第十六話 海の向こうの霧
西へ進むにつれ、道端の文字が変わった。
最初の国境を越えた翌朝、鬼太郎は宿の窓から見知らぬ町を眺めていた。
低い屋根。
濡れた石畳。
早朝から荷車を押す男。
ブルガリアで見てきた町と大きくは違わない。
だが、店の看板に書かれた文字は読めなかった。
「出るぞ」
背後でイリーナが言った。
鬼太郎は窓から離れた。
「今日は、どこまで行くのです?」
「行けるところまでだ」
「昨日も同じことを聞きました」
「今日も同じ答えだ」
イリーナは荷物を持ち、部屋を出た。
鬼太郎も小さな鞄を右手で持つ。
左腕の傷は、動かさなければ痛まなくなっていた。
それでも、鞄を持つことも、射撃の支えに使うことも避けている。
傷を開けば、旅が止まる。
旅が止まれば、余計な金がかかる。
医者の言葉へ従う理由は、それで十分だった。
◆
最初に乗った車は、二日目の昼に替わった。
荷台へ木箱を積んだ古い車だった。
三日目の夜には、その車も降りた。
次は、羊毛を運ぶ幌付きの荷車。
鬼太郎とイリーナは、荷物の間へ座った。
国境では車から降ろされた。
名前を聞かれた。
どこへ行くのか尋ねられた。
鬼太郎は、そのたびに一度だけイリーナを見てから答えた。
「キリル・ヴァシレフです」
繰り返すうちに、その名前を口にする間が短くなった。
名前は、自分そのものではない。
墓場鬼太郎という名前も、キリル・ヴァシレフという名前も、他人が自分を呼ぶためのものだった。
今は、キリルという名の方が国境を開ける。
それだけの違いだった。
四日目の朝。
二人は街道から外れた倉庫へ着いた。
壁の漆喰は剥がれ、屋根の端に穴が開いている。
倉庫の前には、暗い色の車が一台停まっていた。
その脇で、顎の太い男が煙草を吸っている。
イリーナが決められた言葉を告げた。
男は煙草を地面へ落とし、靴底で潰した。
先にイリーナを見る。
次に、鬼太郎を見た。
「子供がいるとは聞いていない」
「書類には二人とある」
「女が一人と、荷物一つだ」
「その荷物が子供だ」
男は顔をしかめた。
鬼太郎の鞄を見て、後部座席を見た。
「場所を取る」
「契約した額は払ってある」
「子供は別だ。もう一人分もらう」
「払わない」
イリーナは即座に答えた。
男が一歩近づく。
「なら、ここまでだ。歩いて西へ行け」
「そうしますか?」
鬼太郎が尋ねた。
男は初めて、鬼太郎の顔を正面から見た。
「口を挟むな」
「置いていかれても構いません。別の車を探しますので」
男は鼻で笑った。
「こんな場所で、どこから車を探す」
鬼太郎は、男の背後へ目を向けた。
「あなたの車が残るでしょう?」
男の顔から笑いが消えた。
右手が上着の内側へ動く。
鬼太郎は、その動きを見ていた。
〈シュライク〉は身につけていない。
車の中に隠されている。
今使えるのはアギだけだった。
距離は近い。
男が武器を抜くより先に、顔へ炎を当てられる。
「やめろ」
イリーナが男へ言った。
同時に、鬼太郎の前へ半歩出る。
「ここで死体を作れば、次の検問まで車を替えられない。あんたも金を受け取れなくなる」
「誰が死体になる」
「試すか?」
男はイリーナを見た。
それから、鬼太郎を見る。
鬼太郎は微笑んだ。
男の右手が、上着から離れた。
「乗れ」
「追加の金は?」
「いらん。だが、車の中では黙らせろ」
「それは本人に言え」
イリーナは後部座席の扉を開けた。
鬼太郎が乗り込む。
男は運転席へ回りながら、小さく何かを吐き捨てた。
知らない言葉だった。
「何と言ったのです?」
「黙っていろと言った」
「先ほど聞きましたよ」
「なら、黙っていろ」
車が倉庫を離れた。
◆
旅の六日目に、空気の臭いが変わった。
湿った風の中に、塩と油が混じっている。
道の先へ、背の高い柱が並んでいた。
その向こうに、灰色の水面がある。
「海ですか?」
鬼太郎は車窓から尋ねた。
「そうだ」
イリーナが答える。
前世にも海はあった。
崩れた建物の向こうに、黒く濁った水を見た記憶がある。
だが、今世で海を見た記憶はなかった。
水面は地平まで続いている。
小さな船と、建物ほどもある船が、同じ水の上を動いていた。
車は港へ入らなかった。
倉庫の並ぶ道を通り、港から離れた建物へ入る。
顎の太い男は、そこで残りの金を受け取った。
二人を乗せてきた車で、そのまま去っていく。
次に用意されていたのは、荷台の広い別の車だった。
イリーナが鍵を受け取り、二人は日が沈むまで建物の中で待った。
イリーナは、革の封筒から次の書類を取り出した。
「英国側では英語を使う」
「父から習っています」
「どの程度だ」
「簡単な会話と、少しの読み書きです」
「私が話している間は、必要なこと以外を言うな。分からなければ、分かったふりをするな」
「今までと同じですね」
「相手の言葉を半分しか理解していないのに、自分から話を増やすなということだ」
「分かりました」
外が暗くなると、港の門が開いた。
二人を乗せた車は、ほかの荷物とともに船へ入った。
◆
船が岸を離れてから、鬼太郎は甲板へ出た。
風が強い。
左腕の傷が、冷えた空気の中で僅かに疼いた。
背後では、大陸の灯が少しずつ遠ざかっている。
ブルガリアは、もう見えない。
生まれ育った家もない。
父と母の亡骸は、家とともに焼いた。
残ったものは鞄の中にある。
襲撃者の杖。
父の書類。
自分で稼いだ金。
〈シュライク〉と弾薬。
そして、少しずつ戻ってきた前世の記憶。
アギ。
銃の扱い。
プリンパ。
青い装束の人物。
その人物と刃を交えた。
背中を預けて戦った。
最後には、互いに傷だらけになって向き合った。
そこから先は、まだ霧の中にある。
「落ちるなよ」
後ろからイリーナの声がした。
「泳げないのですか?」
「泳げても、この海で落ちれば死ぬ」
「では、落ちないことにします」
鬼太郎は手すりから離れた。
遠ざかる灯へ、もう一度だけ目を向ける。
ブルガリアで必要なものは得た。
買い手は約束を守った。
ペタルは、自分の手に合う銃を作った。
ニコラは、今世にも戦う価値のある人間がいると教えた。
それらは、すでに自分の中にある。
戻る必要が生じれば戻る。
今は、海の向こうへ進めばよい。
◆
翌朝、海の上には霧が出ていた。
白いものが水面を覆い、その向こうに黒い陸地が見える。
船が近づくにつれ、建物と煙突の形が浮かび上がった。
「あれが英国だ」
イリーナが言った。
鬼太郎は、霧の向こうを見た。
父が生まれた国。
それ以上のことは、まだ何も知らない。
船が港へ入る。
車と荷物が順番に降ろされた。
英国側の係官が書類を確認している。
聞こえてくる言葉は、父から教わった英語だった。
だが、速い。
知っている言葉同士がつながり、別の音に聞こえる。
イリーナが書類を渡した。
係官は英語で質問する。
イリーナが答えた。
鬼太郎には、親戚、滞在、子供という単語だけが聞き取れた。
係官が鬼太郎を見る。
「名前は?」
短い質問は理解できた。
「キリル・ヴァシレフです」
鬼太郎も英語で答えた。
自分の発音を聞いた係官が、僅かに眉を動かす。
「英語を話せるのか」
「少しだけです」
「誰に習った」
鬼太郎は一度、イリーナを見る。
「父です」
「父親はどこにいる」
次の質問は、半分しか分からなかった。
父という言葉と、場所を尋ねられていることだけを拾う。
鬼太郎は黙ってイリーナを見た。
イリーナが代わりに答えた。
係官は書類へ目を戻す。
別の係官が、車内と荷物を確認した。
鬼太郎の鞄も開かれる。
衣服と食料が動かされる。
細い杖を包んだ布も持ち上げられたが、中までは開かれなかった。
〈シュライク〉には届かない。
父の書類にも届かなかった。
確認が終わる。
書類へ印が押された。
車が港の門を通り抜ける。
英国の道へ出た。
細かな雨が窓へ当たっている。
鬼太郎は濡れた街並みを見た。
父の国へ来たという実感はなかった。
知っている人間も、帰る家もない。
ブルガリアと同じように、ここにも使えるものと邪魔なものがある。
違いは、まだ見分けられないことだけだった。
◆
港から数時間走り、車は古い建物の裏へ入った。
表には看板がない。
窓の内側には板が打ちつけられていた。
イリーナが裏口を三度叩く。
間を置いて、二度。
扉の覗き窓が開いた。
中から男の目が二人を見る。
イリーナが英語で名を告げた。
覗き窓が閉じる。
鍵の外れる音がした。
扉を開けた男は、鬼太郎を見ていなかった。
イリーナだけを中へ通す。
鬼太郎も続こうとすると、腕で止められた。
「子供は外だ」
鬼太郎にも、その言葉は理解できた。
「この子を連れてきた」
イリーナが答える。
男が鬼太郎を見る。
「何のために」
「あんたに渡すためだ」
男は眉を寄せた。
それでも二人を中へ通した。
建物の奥には、小さな事務所があった。
机。
椅子が三脚。
壁際には、肩から上着を膨らませた男が二人立っている。
机の向こうに座る男が、英国側の買い手だった。
年齢は、ブルガリアの買い手より若い。
指には太い指輪をつけている。
男はイリーナへ何か尋ねた。
早口で、鬼太郎にはすべて聞き取れない。
イリーナが革の封筒を机へ置く。
「頼まれた人間を連れてきた」
買い手は封筒を開けた。
中の紙を読む。
途中で顔を上げ、イリーナの後ろを見た。
「どこにいる」
「そこだ」
イリーナが鬼太郎を示す。
買い手は笑わなかった。
冗談を聞いた顔でもなかった。
ただ、しばらく鬼太郎を見たあと、紙を机へ投げた。
「俺が頼んだのは、使える人間だ」
ゆっくりした英語だった。
鬼太郎にも理解できる。
「子供を預かるとは聞いていない」
「その子供が、書かれている仕事をした」
「六歳の子供が?」
「武装した相手を追い、捕らえ、殺した」
買い手は椅子へ深く座った。
「ブルガリアでは、子供を売るために随分な話を作るらしい」
壁際の男たちが笑う。
鬼太郎は、机の向こうの男を見た。
ブルガリアの買い手は、誘拐犯の焦げた服と怯え方を見ただけで、部下へ鬼太郎に触れないよう命じた。
目の前の男は、紙に書かれた報告を読んでも信じない。
見たものから判断するのではなく、六歳の子供にはできないという結論へ、見たものを合わせている。
ブルガリアの買い手より、見る目がなかった。
買い手が指を曲げる。
壁際にいた一人が鬼太郎へ近づいた。
男は鬼太郎の肩へ手を置き、正面を向かせる。
鬼太郎は抵抗しなかった。
右腕。
左腕。
小さな手。
上着の下に武器がないことも確かめられる。
「細い。傷はあるが、喧嘩もできないだろう」
「左腕の傷は銃弾だ」
イリーナが言った。
「転んだ傷に見える」
買い手は封筒の紙を指で叩いた。
「炎を使う。専用の拳銃を持つ。元兵士を一人で殺した。そんな話を、俺に信じろと?」
「信じるかどうかは、私の仕事ではない」
イリーナは車の鍵を机へ置いた。
「人間と荷物を、指定された場所へ運んだ。ここから先は、あんたの仕事だ」
買い手は舌打ちした。
「荷物はどこだ」
「車の中だ。隠し場所は、この子に教える」
「俺に教えろ」
「契約にない」
イリーナは机から離れた。
鬼太郎へ、ブルガリアの言葉で話す。
「父親の書類は、後部座席の下だ。右側の留め具を外せ」
「〈シュライク〉は?」
「荷台の床。左奥の板だ。弾はその隣にある」
買い手は二人の会話を理解できない。
苛立った顔で机を指先で叩いている。
「これで終わりだ」
イリーナが鬼太郎へ言った。
「ここから先、私はお前の叔母ではない」
「ええ。最初から知っていますよ」
鬼太郎はイリーナを見上げた。
「ですが、仕事は見事でした。お世話になりました」
「金をもらって運んだだけだ」
「それでも、最後まで約束を守りました」
イリーナは答えなかった。
事務所の扉へ向かう。
開ける前に、一度だけ足を止めた。
「英国で問題を起こしても、私は戻らない」
「戻っていただく必要はありません」
イリーナは扉を開け、そのまま建物を出ていった。
足音が遠ざかる。
鬼太郎は追わなかった。
◆
英国側の買い手は、机の上で両手を組んだ。
「あの女は、お前が人を殺せると言った」
鬼太郎へ伝わるよう、先ほどよりゆっくり話している。
「何人殺した?」
鬼太郎は英語で答えた。
「数えていません」
壁際の男たちが、また笑った。
「英語は話せるらしいな」
「少しだけです」
「なら、話は早い」
買い手は椅子の背へ身体を預けた。
「ここにいるなら、食事と寝床は与える。その分は働け」
「報酬は?」
「食事と寝床だ」
「それ以外には?」
「仕事ができると分かれば考える」
条件とは呼べない答えだった。
仕事の内容も、支払われる金額も決まっていない。
ブルガリアの買い手なら、依頼を受ける前に少なくとも条件は示した。
目の前の男は、鬼太郎がそれを求めるとは考えていない。
「子供にできる簡単な仕事からだ」
「どのような仕事です?」
「明日、教える。今日は下で寝ろ」
買い手が壁際の男へ目を向けた。
「空いている物置へ連れていけ。食い物も何かやれ」
男が鬼太郎の背中を押した。
鬼太郎は歩き出す。
寝床。
食事。
英国の裏社会につながる仕事。
この男には、まだ利用価値がある。
自分を何だと思っているかは、どうでもよい。
約束を守るか。
仕事に見合う対価を払うか。
使い続けるかどうかは、それを確かめてから決めればよい。
鬼太郎は扉の前で足を止めた。
買い手を振り返る。
「明日の仕事ですが」
「何だ」
「始める前に、条件をお聞かせください」
買い手は呆れたように笑った。
「分かった。条件くらいは聞かせてやる」
「ありがとうございます」
鬼太郎は丁寧に頭を下げた。
壁際の男が物置へ続く扉を開ける。
鬼太郎が扉の向こうへ入っても、買い手たちの笑い声は続いていた。