第16話 扉を使わない客
最初の家で、鬼太郎は扉を閉められた。
似顔絵を見せると、出てきた女はすぐに首を振った。半年ほど前に越してきたが、その男を見たことはないという。
「前に住んでいた方は、ご存じですか?」
「知らないよ。家主に聞いておくれ」
家主のいる場所を尋ねると、今度は通りの先を指された。
鬼太郎は礼を言って離れた。角を曲がる前に振り返ると、二階の窓に幼い子供がいた。こちらを見て、すぐ奥へ引っ込む。
新しい住人が嘘をついているとは限らない。ベケットが持っていたのは、ウォードの現在地ではなく、以前使った住所だった。
家主も、前の借り手が出ていった先までは知らなかった。
二つ目は空き家だった。
玄関の隙間に紙屑がたまり、窓の留め具は内側から錆びている。中を見せてもらったが、家具はなく、床に埃が積もっていた。
鬼太郎は、壁際から部屋を見た。
窓と扉を見張っても、中で消えた者がいる。入口に足跡がないというだけで、誰も来ていないとは言えなかった。
それでも、床の埃が動いた跡はない。火を使った様子も、最近物を置いた場所もなかった。
鬼太郎は古い住所の一つへ線を引いた。建物があったことは確かめられたが、待ち続ける理由は見つからない。
三つ目は、閉店した製本所だった。
看板は外されていたが、壁には文字の形に日焼けの跡が残っている。表の窓から、広い作業場と重い机が見えた。
鬼太郎が戸を叩くと、一階の奥から家主が出てきた。
似顔絵を見せた途端、男は声を落とした。
「二階を借りてる奴だ」
「今も、こちらに?」
「家賃は届く」
「お会いになったのですか?」
家主は首を振った。
「階段を上がるのは見ていない。だが、夜になると灯りがつくことがある。上へ行けば消えているんだ。裏に勝手な階段でも作ったんだろう」
鬼太郎は、作業場の奥へ続く階段を見た。家主の住む部屋は、その脇にある。
「二階を見せていただけますか?」
「あんたは、何をしに来た」
「この方を捜しています。買い手から、お話は届いていませんか?」
鬼太郎が仲介人の名を出すと、家主の顔つきが変わった。しばらく迷ってから、壁の釘に掛けた鍵を取る。
「物を壊すなよ」
「壊さずに調べられる間は、そうします」
家主は嫌そうな顔をしたが、階段を上がり始めた。
◆
二階の部屋には、寝台と小さな机があった。
暖炉の灰はすっかり冷えている。だが、古い灰の上へ黒い燃えかすが落ち、机にも、まだ埃を被っていない蝋の跡があった。
鬼太郎は窓へ近づいた。
下は煉瓦壁に挟まれた狭い場所で、外階段はない。窓枠へ縄を掛けた傷も見つからなかった。
壁を叩き、床の高さを確かめる。棚を動かすと、家主が後ろから手を出した。
「傷をつけるなと言っただろう」
「では、そちらを持っていただけますか?」
「人使いの荒いガキだ」
それでも家主は反対側を持った。壁から離してみても、人が通るほどの穴はない。
鬼太郎は一階も調べた。机の下へ潜り、外の地面と床の位置を比べる。窓から聞こえる家主の足音が、行ったり来たりしていた。
通路は見つからなかった。
だが、部屋を使った跡はある。
鬼太郎は立ち上がり、服についた埃を払った。壁に穴がないから、まだ探し足りない。それを繰り返していては、ベケットの部下と同じところへ戻る。
「この方が出入りしている店を、ご存じですか?」
家主は二階を見上げた。
「前に、本を抱えて帰ってきたことがある。古本屋の包みだった」
「店の名前は?」
「覚えていないよ。あの男、本のことなら、いつまでも話していたがな」
鬼太郎は街路図を出した。家主に近くの古書店を教えてもらい、場所へ印をつける。
今度は、壁の中を探すのをやめた。
◆
古書店では、入口に立って似顔絵だけ見せても、長い話にはならなかった。
一軒目は知らないと答え、二軒目の店主は、客のことを外国の子供へ教えるつもりはないと言った。
鬼太郎は棚の本へ目を向けた。
「では、本を捜していただくことはできますか?」
「題が分かればな」
「この方が、捜していた本です」
店主の顔がさらに険しくなったので、それ以上は続けず店を出た。
三軒目では、似顔絵を渡す前に、情報料を帳場へ置いた。
店主は硬貨を数え、紙を引き寄せる。
「名は知らん。だが、この顔なら覚えている」
鬼太郎は鞄から鉛筆を出した。
「何をお探しでしたか?」
「古い本だ。刷った場所も年もはっきりしない。題の一部しか読めないものを、ずいぶん熱心に捜していた」
「どんな本か、お聞きになったのですか?」
店主は幾つかの特徴を挙げたが、鬼太郎には知らない言葉が混じっていた。一つ聞き直すと、後ろの棚を示される。
そこには擦れた革の本が並んでいた。どれも外見が似ている。
「見つかれば金は出すと言った。だが、うちにはなかった」
「連絡する方法は?」
店主は帳場の下から、紙束を出した。その間を探し、小さな紙片を抜き取る。
別の名前と、私書箱の番号が書かれていた。
「これへ知らせろと」
鬼太郎はその文字を書き写した。
私書箱へ手紙を出しても、ウォード本人が受け取るとは限らない。誰かに取りにいかせるかもしれず、何日置いたままにするかも分からなかった。
だが、居場所を知らなくても、見てほしい話を届けることはできる。
「その本が持ち込まれたとしたら、確かめに来るでしょうか」
店主は鬼太郎ではなく、帳場へ置かれた硬貨を見た。
「何度も訊きに来た。気にはするだろうな」
鬼太郎は、手紙を一通出してもらう場合の代金を尋ねた。
◆
買い手が用意した古書は、外側だけなら十分古く見えた。
革の角は擦れ、頁の端も茶色く変わっている。鬼太郎が開くと、細かな字が詰まっていた。探している本と同じかどうかは、ウォードならすぐ分かるだろう。
鬼太郎は閉じ、布へ包んだ。
「本で呼ぶのか」
買い手が尋ねた。
「見つけるのを待つより、来ていただく方が早そうです」
「来なければ?」
「別の方法を考えます」
手紙には、国外から古い本が持ち込まれた、捜しているものかもしれないので確かめてほしい、と書いた。
鬼太郎が短い文を作り、買い手に意味を確かめさせる。知らない言い回しを付け加えられると、そこは読み直してもらった。
受け渡しは三日後の夜。場所は、閉めた製本所にした。
「そいつが借りていたところだろう」
「今も使っているようです。慣れた場所なら、知らない倉庫より来やすいでしょう」
来たときの音も、部屋へ入る方法も、まだ自分では見ていない。扉を使わず二階へ入れるなら、一階にも同じように現れるかもしれなかった。
買い手は手紙を読み終えると、宛先を書いた。
「本を見ずに金を払うほど、間抜けじゃないだろう」
「お金を払っていただく必要はありません。来て、本を見るところまでです」
鬼太郎は包みへ手を置いた。
「開けば、偽物と分かる」
「その前に、お話をします」
買い手は紙から顔を上げた。
「聞かせた奴らは、近づく前に飛ばされたんだろう」
「ええ。ですから、捕まえるために触ろうとは思いません」
鬼太郎は布の端を直した。人を飛ばした男が、同じ手で何をできるかは分からない。細い棒を取り上げれば止まるとも、まだ決まっていなかった。
それでも、逃げたあとに壁を調べるよりは、本人の手が見えるところにいたかった。
その手紙は古書店の店主から送ってもらった。返事は求めず、鬼太郎は約束の日まで待った。
待つ間に、製本所へ何度か足を運んだ。
作業場には机と棚が残り、壁際に木箱が積まれている。戸口から机へ歩き、そこから窓と階段を見る。天井は高く、灯りの届かないところも多かった。
大人の目から隠れられる場所はある。だが、自分が隠れれば、相手が現れた瞬間も見えなくなる。
鬼太郎は、部屋全体の見える壁際を選んだ。
手紙を送ってからも、二階の部屋へ来た者は見つからなかった。見張り続けてはいないので、いつ入ったかは分からない。鬼太郎は机の蝋の跡をもう一度確かめ、それ以上は物を動かさずに下りた。
依頼を受けてから、二週間ほどになっていた。待つ時間にも金はかかるが、ここで別の回収仕事を挟めば、約束した晩に戻れないかもしれない。
鬼太郎は買い手に、その日までのほかの依頼は断るよう伝えた。
家主には、約束の晩だけ別の場所で寝てもらうよう金を払った。男は理由を聞き、聞き終える前に、火は使うなと言った。
「使わずに済めば、そうします」
「さっきから、そればかりだな」
「お約束できないことは、申し上げない方がよいでしょう?」
家主は鬼太郎を見てから、差し出された金を取った。
鬼太郎は砂と厚い布も、作業場の端へ運んだ。自分で出した火でも、勝手に消えるわけではなかった。
◆
約束の晩、鬼太郎は机の上へ本を置いた。
正面の扉を内側から閉め、裏口と窓も確かめる。縄は使えるよう壁際へ置き、鞄は足元から離した。
後で引き渡せる状態なら、買い手の部下が決めた時刻に来る。外で待つよう頼んであった。何も知らずに入ってきて、ウォードの目を逸らす役になれるとは思わなかった。
時刻を過ぎても、扉は動かなかった。
通りを車が過ぎると、窓の向こうが一度明るくなる。車輪の音が遠ざかるたび、作業場の静けさが戻った。
鬼太郎は、外からの足音ばかり聞かないようにした。
誰も見ていない場所から来るなら、音を待っている間に背後へ立たれるかもしれない。机の向こう、棚と棚の間、階段口へ順に目を向ける。
まだ何もない。
手紙が届かなかったのか、本の話を疑われたのかもしれない。今夜来ないなら、それだけのことだった。
そう思ったとき、乾いた破裂音がした。
鬼太郎の目が作業場の中央へ動いた。
男が立っていた。
頬が痩せ、暗い外套を着ている。机の横には何もなかったはずなのに、今は靴が床へついていた。
扉も窓も開いていない。
鬼太郎は壁から肩を離した。男だけを見ていた。いなくなったときの仕組みは分からなくても、ここに来た顔は似顔絵と同じだった。
サイラス・ウォードが、周囲を見回した。
布の包みへ目を止め、それから鬼太郎を見る。
「店の者はどうした」
「来ませんよ」
「なら、お前は誰だ」
「墓場鬼太郎と申します。ベケットさんから、あなたを捜すよう頼まれました」
ウォードの肩から、僅かに力が抜けた。
鬼太郎はその変化を見た。警戒していたのは、古書店の使いではなく、待ち伏せている大人だったのかもしれない。
目の前にいるのは子供一人。それが分かると、男は机の包みへ顔を戻した。
「あの男は、とうとう子供まで使い始めたのか」
「黒い帳簿と宝石の袋をお返しください。あなたも、一緒に来ていただきます」
「本は、どこにある」
「お越しいただくために用意したものです。お探しの本ではありません」
ウォードが包みから視線を外した。
右手が袖口へ寄る。
鬼太郎の右手も上着の下へ入った。相手が何をするか見るために、これ以上待つつもりはなかった。
袖から細い棒が現れた。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜く。
男が棒を向け、短い言葉を発した。
右手を、横から強く打たれた。
何かが当たった姿は見えない。それなのに指が開き、銃が手を離れた。
床を滑る音がした。〈シュライク〉は木箱へぶつかり、壁際で止まる。
鬼太郎はすぐ左へ動いた。
男の棒が、その動きを追っている。
「怖がる必要はない」
落ち着いた声だった。
「私に会ったことを、少し忘れるだけだ」
鬼太郎は痛む右手を握り直した。
似顔絵を見ても分からなかった男がいた。追い始めたときには見たはずの顔を、思い出せなかった。
薬の臭いは、覚えていないと言った。
「それで、あの方は顔が分からなくなったのですか」
「心配するな。余計なことまで奪いはしない」
こちらが何を嫌がるか、尋ねるつもりもない声だった。
鬼太郎は左手を上げ、男の胸へ向けた。右手から銃が消えても、内側の力は残っている。
「アギ」
炎を放つと、ウォードの目が開いた。
身体が横へ跳ぶ。炎は空いた場所を通り、背後の作業台へぶつかった。
乾いた木が燃え始めた。
ウォードは重い机の陰へ伏せた。さっきまでの落ち着いた顔は、もう見えない。
「杖もなしに、魔法を使ったのか」
鬼太郎はその言葉を聞いた。
棒ではなく、杖。
「その力も、魔法と呼ぶのですか?」
「何?」
「僕の炎と、同じものだと?」
机の脇から杖の先が出た。
鬼太郎は返事を待たず、横へ走った。さっきまで背にしていた板壁が鳴り、表面が割れる。
銃声はしなかった。
この杖は、人の記憶だけを消すものでも、銃を奪うだけのものでもない。
鬼太郎は作業台の脇へ回った。
「どこの魔法使いだ。自分が何者かも知らないのか」
机の陰から、男の声がした。
「それを教えていただこうと思っています」
ウォードが動いた。鬼太郎は炎の向こうの影を追いながら、銃の落ちた場所へ近づく。
木箱までは、あと数歩だった。
男もそちらを見た。
鬼太郎は一度足を止めた。銃を拾うためだけに屈めば、今度は背中へ杖を向けられる。
だが、ウォードは撃たなかった。
部屋の中央へ顔を向け、足を揃える。杖を引き寄せ、身体を動かそうとした。
入ってきた扉を見ているのではない。
鬼太郎は左手を男へ向けた。
来たときは、一瞬だった。何もないところへ立っていた。あれが逆にもできるなら、出口を閉めたまま、今夜の仕事だけが終わる。
棒について聞ける相手が、ようやく目の前にいる。
鬼太郎はその意識へ触れる感覚を探った。相手が次に見ようとしているものへ、自分の力を混ぜる。
「プリンパ」
ウォードの身体が強張った。
足は動かない。だが、顔だけが別の方へ向き、炎と机の間を見比べる。どちらへ向こうとしたか、分からなくなったようだった。
破裂音はしなかった。
鬼太郎は木箱へ走った。
銃の握りへ右手を伸ばす。触れた瞬間、さっき打たれたところが痛んだ。指を掛け直し、持ち上げる。
その間に、ウォードもこちらを向いた。
長く続く力ではない。鬼太郎は頭の奥に残る鈍さを感じながら、右腕を上げた。
杖がこちらへ向く。
今度は、何をされるのか分からないまま、手元を見送るつもりはなかった。
鬼太郎は銃口を男の右腕へ定めた。
「魔法使い、ですか」
二人の間で、作業台の炎が揺れていた。
鬼太郎の口元に、笑みが浮かんだ。
「ようやく、あなた方の名前を知りました」