第185話 穏やかな水にも、波は立つ
西へ向かったのは、アラクネが砦へ来た翌朝だった。
酒の瓶は布で包み、櫛の箱とは離して鞄へ収めた。キーノが留め具を引いて確かめる間に、鬼太郎は黒檀を右手へ持ち替えた。
森へ入ると、先を行く脚が枝の間で止まった。
「こっちは、昨日の道より低い」
アラクネが木々の先を示す。
「雨が降った後は、水が出る。今日は通れる」
「帰る時も、同じ道で大丈夫ですか」
「湖のそばで降らなければ」
鬼太郎は空を見上げた。葉の隙間には、薄い雲がある。
足元を選んで進むうち、土の匂いへ、水を含んだ草の匂いが混じり始めた。木の根の間に黒い水が溜まり、そこを避けると、靴底へ柔らかい泥がついた。
アラクネは倒木の脇で立ち止まった。
「私が行くのは、ここまでだ」
先には、背の高い草の間を抜ける細い道がある。その向こうが明るかった。
「右の草へ入るな。下に土がない所がある。戻る時は、この幹を探せ」
倒木の割れた端が、白く乾いていた。
鬼太郎は、来た道の方からもその形を見直した。
「分かりました。ありがとうございます」
「あれが呼んでも、水へ入るなよ」
キーノが顔を向けた。
「呼ぶのか?」
「そう言うことはある。こちらで話せばいい」
鬼太郎は頷いた。
「では、岸からお願いしましょう」
アラクネはまだ何か言いかけ、二人の荷と足元を順に見た。
「帰りに分からなくなったら、動き回るな」
「はい。無理に近道もしませんよ」
彼女が木の間へ退くのを見届けてから、鬼太郎は草の間へ足を向けた。
◆
湖面は、木々の間から見えた時より広かった。
向こう岸の近くに濃い緑が重なり、手前では葦の細い葉が水に映っている。岸へ出る道は、小石の混じった土の上で終わっていた。
鬼太郎は靴の先で地面を確かめ、水際から離れて止まった。左手の鞄を下ろす。
「初めまして。南の砦に住んでおります、墓場鬼太郎と申します」
水の方へ声を掛けた。
「こちらにお住まいの方へ、ご挨拶に伺いました。お話しするお時間をいただけますか」
葦が揺れた。
風とは違う向きに水面が動き、少し離れた石のそばで、黒いものが浮かぶ。
「あら、まあ。そんなにかしこまらなくたって、聞こえてるよ。可愛いお客さんじゃないか」
低く、よく通る女の声だった。最後の一言だけ、子供をあやすように甘くなる。
濡れた髪の下から顔が現れ、続いて、ふくよかな肩が水を離れた。人間なら三十か四十ほどに見える。黒い髪には緑が差し、耳の後ろから首筋にかけて、小さな青緑の鱗が光っていた。
女は岸近くの平たい石へ腕を置いた。指の間に薄い膜があり、爪は黒く硬そうだった。
黄緑の目が鬼太郎を見て、それからキーノへ移る。
「南の砦ねえ。どんな男が住みついたのかと思ったら……おやおや、まだ坊やじゃないか」
「お話が届いていたようですね」
「それで? 大人はどこへ置いてきたんだい。まさか、二人だけで相談事をしに来たんじゃないだろうね?」
「今日は、僕たちでお話を伺います。こちらはキーノさんです」
キーノが短く名乗った。
女は口を丸く開けて笑った。それから、指先を胸元へ当て、大変な役目を引き受けたというように息をつく。手首の銀飾りが鳴った。
「いいとも。あたしに話してごらん。さあ、もっとこっちへ。そんな所じゃ、お互い顔もよく見えないだろう?」
「荷を広げたいので、こちらで失礼します」
鬼太郎は鞄を開け、瓶を包んだ布を解いた。
女の目が、そちらへ動いた。
◆
瓶と櫛の箱を見せると、女は自分から岸へ上がってきた。
濃い色の衣が身体へ貼りつき、裾から水が落ちる。鬼太郎が差し出すより先に、太い指が瓶の首へ掛かった。
「あらあ……! 挨拶の仕方は、ちゃんと教わってきたんだねえ」
「ご挨拶の品です。お好みに合えばよいのですが」
女は栓を確かめ、櫛の箱も開いた。
銀の歯を光へかざし、髪へ一度通す。女は顔を左右へ傾け、鬼太郎を見た。
「どうだい。よく似合うだろう?」
「ええ。銀の飾りもお使いのようでしたので」
「見る目があるじゃないか」
女は喉の奥で笑い、水滴のついた櫛を箱へ戻した。ただし、蓋は閉じず、自分からよく見える向きへ置いてある。
「こんな物を用意できるなら、町に知り合いもいるんだろう? 品を持ってくる商売人も、あんたの言うことを聞いてくれるのかい」
「こちらで好まれる品を伺って、商人へお願いしました。扱っている物でしたら、取り寄せてもらえますよ」
「そうかい、そうかい。それは結構。あたし、気の利く子は好きだよ」
鬼太郎は、空いた左手を鞄のそばへ下ろした。
「今日は、この辺りへ移り住むことを考えている方のお話で参りました。水辺で暮らせる場所や、魚を取る際の条件を伺えますか」
「おや、住む場所に困ってるのかい? それは気の毒にねえ。もっと早く、あたしを頼ればよかったのに」
女は櫛の箱を自分の脇へ置いた。
「勝手に押しかけられちゃ困るけど、あんたが間に入るなら、話くらいは聞いてあげようじゃないか。ほら、そんな顔をすることはないんだよ」
「では、どの辺りを使えるのでしょう」
「まあ、慌てないこと。どんな連中か、この目で確かめなきゃねえ。誰でも彼でも、あたしの湖に入れてやるわけにはいかないだろう?」
「ええ。ですから、希望する方に伝えられるよう、先に伺いたいのです」
「お待ちよ、坊や。あたしが親切に話してるんだから、最後まで聞くものだよ」
瓶を抱え直し、女は湖の方へ顎を向けた。
「もちろん、お礼はしてもらうよ。場所も水も魚も、みんなあたしが面倒を見てるんだからねえ。このお酒は悪くなさそうだし……次は、腕に着ける物もいいね。ああ、細い鎖みたいな安物はいらないよ。あたしに似合う物を選んでおくれ」
鬼太郎は紙を出す前に尋ねた。
「どれくらいの間隔で、どの程度の品をお望みですか」
「暮らすのは一日や二日じゃないんだろう? 人数が増えりゃ、それなりに。世話になる相手を喜ばせようって気持ちがあれば、そう難しい話じゃないさ」
「それに対して、魚はどれくらい取れるのでしょう」
「必要な分は、取らせてあげるよ。欲張らなけりゃね」
「取りすぎかどうかは、何を目安に?」
「あたしが駄目と言ったら、そこまで。それだけ覚えておけばいいんだよ。何十年もここで暮らしてるあたしより、来たばかりの連中が詳しいとでも?」
キーノが湖を見た。
「食べる分が取れるかも、来てからでないと分からないのか」
「まあ、何て心配性な娘だろうねえ。魚が駄目なら、ほかの物を食べればいいじゃないか。そこまで、あたしが世話を焼かなきゃいけないのかい?」
女は片手を頬へ添えた。困った子供たちだとでも言いたげに、首を振る。
「あたしはね、頼ってくる連中には、よくしてやるんだよ。お礼を忘れず、言いつけを守る。それだけでいいんだから、ありがたい話だろう?」
鬼太郎は、出しかけた紙を鞄へ戻した。
◆
「そういう条件でしたら、ご希望の方へお勧めするのは難しいですね」
女が、瓶から顔を上げた。
「何だって?」
「住む場所も食べ物も、その時になるまで分からないのでは、皆さんも決められないでしょう。今日は、ご挨拶までにさせていただきます」
鬼太郎が鞄を持ち上げると、女は櫛の箱へ手を重ねた。
鬼太郎はそちらへ手を伸ばさず、キーノを見た。
「戻りましょうか」
「ああ」
「お待ち!」
女が一歩、こちらへ出た。
「……やれやれ。そんなに気を悪くすることはないだろう? あたしだって、意地悪で言ってるんじゃないんだよ」
鬼太郎は足を止めた。
「ほかに、条件がおありですか」
「あんたが、よその連中のために一生懸命なのは分かったよ。偉いじゃないか。その年で商人と話をつけて、わざわざここまで来たんだろう? 手ぶらで帰すなんて、あたしにはできないねえ」
瓶の底が石に触れた。女は櫛の箱もその隣へ寄せると、道の方へ出した足を、そのままこちらへ向け直した。
女は両手を空けると、二人へ笑い掛けた。口元に、細い尖った歯が見える。
「そうだねえ……あんたたち二人には、特別に魚を取らせてあげよう。毎度お伺いを立てることはないよ。少しばかりなら、目をつぶってあげる。どうだい? あたしと仲良くしておいて、損はないだろう?」
「僕たちの食べ物をいただきに来たのではありません」
「分かってるとも。だから、まずはあんたたちから。ほかの連中の話は、お互いをよく知ってからでも遅くないじゃないか」
「では、ほかの方については、何をお伝えすればよいですか」
笑っていた口元が、少し歪んだ。
女はキーノへ目を向けた。
「ねえ、お嬢ちゃん。あんたなら分かるだろう? こんな時は、ありがとうって笑えばいいんだよ。隣の坊やにも、教えておやり」
「こいつの話を聞いていただろう」
キーノが答えた。
「私たちだけ魚を貰っても、ほかの連中が住めるかは分からない」
女は二人を見比べた。
小さく、舌打ちが聞こえた。
「……ませたガキだねえ」
声音が変わった。
「いいだろう。回りくどい話は終わりだ。酒と銀細工。あんた、どれだけ持ってこられるんだい? あたしの湖を使いたいなら、先にそっちを聞かせてもらおうじゃないか」
「品だけではなく、量と間隔もご相談する必要がありますね」
「だから、あんたが払うんだろう? よその連中のために来たんだ。そこまでしてやるつもりがあるから、口を出したんじゃないのかい」
「ご希望を伺って、本人たちが出せるものと合うか確かめます。僕が全員の支払いを引き受けるお話ではありませんよ」
女は口を開き、それから唇を曲げた。
「ご立派なことを言う割に、財布の紐は固いんだねえ」
「僕の持ち物をどこまで使うかは、僕が決めます」
女の爪が、衣の脇を引っ掻いた。
キーノは腕を組むでもなく、鬼太郎の隣に立っていた。その顔を、女がじろじろと見る。
「それに、そっちのお嬢ちゃん。さっきから、何だい、その澄ました顔は」
キーノの目が細くなった。
「綺麗な顔をしてりゃ、口の利き方も知らなくていいって、誰かに教わったのかい? 笑いもしない、愛想もない。おやまあ、それじゃ、飾っておく人形にも負けちまうねえ」
「お前――」
「今の言葉を、撤回してください」
キーノが一歩出るより先に、鬼太郎が言った。
女が鬼太郎を見る。
鬼太郎は相手の目から視線を外さなかった。
◆
「……あたしに、何をしろって?」
「はい」
鞄の紐を、鬼太郎は左の肩へ掛けた。
「キーノさんを貶す理由はないでしょう」
「おや、傷ついちまったかい? 少しからかっただけだよ。これから世話になろうって相手に、そんな目を向けるんじゃないよ、坊や」
「でしたら、取り消していただければ結構です」
女は胸元へ手を当て、わざとらしく目を見開いた。
「まあ、たいした騎士様だこと。でもねえ、口があるなら、その娘が自分で言えるだろう? それとも、お喋りまであんたにしてもらわなきゃいけないのかい」
「僕が聞き流したくないので、お願いしています」
横から視線を感じた。
鬼太郎は振り向かず、女の返事を待った。
湖面で、小さな波が岸へ寄った。先ほどまで石の間に浮いていた葉が、泥の縁へ押し上げられる。
「親切に迎えて、おまけまでつけてやったら、今度はお説教かい。ああ、嫌だねえ。恩を知らない子供ってのは」
女が顎を上げた。
「よく見てごらん、坊や。ここはあたしの湖だ。あたしに向かって命令する場所じゃないんだよ」
「あなたの場所なら、訪ねた相手に何を言ってもよいのですか」
女の目が、横に細まった。
鬼太郎は黒檀の握りを確かめた。
瓶と櫛は、女の後ろの石にある。右には葦。左には、来た道へ繋がる小石交じりの土が続いている。
キーノの靴が、土を踏んだ。
鬼太郎へ寄る足音ではなかった。二人の間が開き、女が視線を動かさなければ、同時に見られなくなる。
「……いいだろう。その生意気な口、いつまで利けるか見てやるよ。少し痛い目を見なきゃ、何も覚えられないようだからね!」
女は踵を返し、湖へ足を入れた。
岸近くの水が腰の辺りまで身体を包む。さらに透けた水の膜が肩の外へ持ち上がり、丸く膨らんだ。顔はその内側で、歪まずにこちらを見ている。
女が指を動かすと、膜の横から細長い水が伸び、また戻った。
水に包まれた身体が、岸に沿って滑る。
そこで腰を落とし、右腕を引いた。
鬼太郎は、その指先だけを追わなかった。
岸の水が、不自然に退く。
濡れた小石が一列、光へ出た。
「キーノさん」
「分かってる」
腕が振られた。
葦の根元から水が持ち上がり、白い飛沫を散らして二人へ覆いかぶさる。
鬼太郎は左へ跳んだ。
キーノが反対へ地を蹴る姿が見えた次の瞬間、さっきまで立っていた場所へ、水の塊が叩きつけられた。
小石が跳ね、泥が頬へ飛んだ。
足を着いた鬼太郎は、滑る靴底を踏み直した。左手を鞄から離し、女へ黒檀を向ける。
水が引くのを待つつもりはなかった。