第186話 伸びる腕にも、届かないものがある
泥が落ちる前に、次の水が来た。
今度は、上から覆う塊ではなかった。
水面から太い筋が伸び、先を曲げながら鬼太郎の左腕へ迫る。タコが獲物へ腕を伸ばすような動きだった。
鬼太郎は左手を向けた。
「ザン」
集めた風を、横から当てる。
水の腕が途中で裂けた。先端がまとまりを失い、靴の近くへ落ちる。
鬼太郎はそこを踏まず、後ろへ足を運んだ。
「あら、器用じゃないか」
女の指が曲がった。
切れた水の先が膨らみ、また細長く伸びてくる。
鬼太郎は、今度は風を使わなかった。横へ抜け、通り過ぎた先端がこちらへ曲がるのを見て、さらに距離を取る。
切っても、そのまま終わるわけではない。
女は腰まで水へ沈め、丸く持ち上がった膜の中から二人を眺めていた。濡れた髪は肩に掛かり、その外側を水が流れている。
「ほら、おいで。逃げ回るから、余計に疲れるんだよ」
別の腕が、キーノへ伸びた。
彼女は迫る先端を見てから、土の固い側へ跳んだ。水が足首を追って曲がる。着地した足で地を蹴り、掴もうと閉じる輪の外へ抜けた。
「捕まってほしければ、もう少し遅くしてくれ」
「ああ、口だけはよく回る娘だねえ!」
女の手が上がった。
キーノはその場へ留まらなかった。背後の土へ水塊が落ち、低い草を押し倒した。
◆
鬼太郎は、女へ黒檀を向けた。
「エクスペリアームス」
光が水面を越える。
女の左側に伸びていた触手が、内側へ折れた。
呪文を受けた部分が弾け、水が顔の前へ散る。膜の内側の女は、少し顎を引いただけだった。
「おやおや。あたしに当てたかったのかい?」
散った水の下で、別の触手が持ち上がる。
鬼太郎は返事をせず、迫る水へ左手を向けた。
「ザン」
先を切り離す。
落ちた水を越えて、次の一本が来る。
今度は腰へ回り込もうとしていた。鬼太郎は左足を引き、身体を捻る。上着の裾へ水が触れ、重く引いた。
足を止めず、布が抜ける方へ動く。
右手の杖は、女から大きく外さなかった。
捕まえて、岸へ転がすつもりなのだろう。
水塊も、二人の身体を潰すように何度も重ねてはこない。それでも、まともに受ければ骨を傷めるくらいの力はありそうだった。
怒っている相手が、最後まで加減を保つ保証もない。
鬼太郎は、左手を開いた。
水を何本切れるか、競う必要はなかった。
◆
女の周りは、浅かった。
先ほど岸へ上がってきた辺りから、数歩も離れていない。膨らんだ膜の下では、裾の端が砂利を擦っていた。
鬼太郎は触手を避けた後、その脇の水へ掌を向けた。
「ブフ」
冷気が低く走った。
女の右側で、水面に白い筋ができる。
薄氷が、小さな波へ押されて軋んだ。
「あらまあ。今度は、どこを狙ってるんだい?」
女が笑った。
身体を左へ滑らせ、凍った場所から離れる。その動きに合わせて、二本の触手が鬼太郎へ向いた。
鬼太郎は一方を避け、もう一方の先へザンを当てた。
飛沫を肩へ浴びる。
その向こうへ、キーノの声が通った。
「そんなに腕があって、まだ一人も捕まえられないのか」
女の顔が横を向く。
「お前から先に、引っくり返してやろうか!」
「できるなら、さっきやっていただろう」
キーノはもう動いていた。
足を取られそうな泥を避け、小石の混じる場所へ移る。追う触手が長く伸び、先端を曲げた。
鬼太郎は、女が移った先の水際へ冷気を送った。
「ブフ」
今度は、岸から薄く張った水と、その上を通る膜の裾が白く曇る。
女の身体がわずかに揺れた。
彼女は下を一瞥し、またキーノを睨んだ。
◆
キーノは、白くなった水を見た。
最初の氷は女の右にある。
次は、岸との間だった。
鬼太郎が外した場所を、その女は避けている。避けた先へも、冷気が届いていた。
キーノは湖へ踏み込まず、横へ走った。
自分の前を塞ごうとする触手の曲がり方を見る。
近づいてから急に折れる先端を、身体を低くしてかわした。
「どうした。人形を捕まえるだけだぞ」
水が、頭の上を抜けた。
耳へ入った飛沫を、首を振って払う。
「飾っておくより、こっちの方が難しいか?」
女が唇を吊り上げた。
「その口を塞いだら、少しは見られる娘になるだろうよ!」
両手が別々に動いた。
一本がキーノの足元へ低く走り、もう一本は逃げる先へ回る。
キーノは前へ進む足を止め、来た方へ跳び戻った。水が交差した場所で、草が潰れる。
女の笑い声がした。
「おや、逃げるのは上手だねえ!」
「お前が、同じ所ばかり狙うからだ」
女が指を曲げ直した。
その視線がこちらへ留まる間に、鬼太郎が位置を変えた。
◆
三度目の冷気は、女の後ろへ送った。
遠い沖を凍らせるつもりはなかった。
膜と湖面が繋がる辺りへ、左掌から冷気を通す。水が白く濁り、薄い氷が膜の縁へ掛かった。
女が、今度はすぐに振り返った。
「……さっきから、何をしてるんだい」
鬼太郎は杖を上げた。
「エクスペリアームス」
光を受けに来た触手が弾ける。
その後ろで、女が身体を動かした。
さっきまでのようには滑らなかった。
膜の下へ流れ込んでいた水が、張り出した氷へ遮られていた。女が腕を引くと、その縁で細い流れが渦を巻く。
女は足元を見た。
「あんた……!」
膜が大きく波打った。
鬼太郎へ向かって、太い触手が横から振られる。
彼は後ろへ退き、頭を下げた。空を切った水が、背後の草へ叩きつけられる。
「ブフ」
退いた位置から、もう一度冷気を放つ。
女の周囲の浅瀬と、膜へ水が入る辺りへ重ねた。
白い筋が繋がった。
膜の裾へ流れていた水が細くなった。
女が肩を捻り、片足を踏み替える。身体は動いたが、それを運んでいた水は、すぐにはついてこなかった。
触手の先が、一度低く落ちた。
女は指を振り、氷の縁を回った水を引き寄せる。水の腕はまた太くなった。ただ、さっきまでのように、切れたそばから伸びてはこない。
鬼太郎は左手を下げ、息を吐いた。
繰り返し冷気を通した分、内側の力は減っている。
水が足りないまま、あの触手を何本も動かさせる。鬼太郎は、女が水を引き直す手を見た。
◆
「ちょっと、水を凍らせたくらいで!」
女が両腕を振った。
水の触手は、まだ動いた。
一本が鬼太郎の肩を狙い、もう一本は地面を這うように迫る。
鬼太郎は片方の先へ風を当てた。
「ザン」
水が裂ける。
足元へ来た方は、横へ踏み越えた。
濡れた靴底が少し滑る。膝を曲げて重さを受け、右手を女へ向ける。
「エクスペリアームス」
正面の触手が、盾になるように丸まった。
呪文が当たり、太い水が外へ弾かれる。
鬼太郎は、一歩横へ動いた。
女が目で追う。
「エクスペリアームス」
次の一本も、彼女の胸の前で光を受けた。
飛沫が膜へぶつかる。
女は腕を引き、崩れた水を戻そうとした。
だが、散った分を補う水が、氷の縁で細く途切れる。触手は、まだ胸の前へ戻りきっていなかった。
鬼太郎は右腕を戻し、もう一度杖先を定めた。
「エクスペリアームス」
戻りかけた触手を、外へ押し退ける。
女の正面で、水が大きく波立った。触手を出し入れしていた膜の上側も裂け、肩から胸の前へ隙間が開く。
そこへ、鬼太郎は左手を向けていた。
倒れるまで雷を浴びせるつもりはなかった。
狙ったのは、持ち上がる腕と、その付け根だった。
「ジオ」
短く、雷を放った。
◆
女の肩が跳ねた。
開きかけた口から、詰まった声が漏れる。
指が強張り、伸ばしていた腕が途中で落ちた。
水の触手が、先から崩れた。
鬼太郎の足元へ迫っていた水も、輪を作る前に地面へ落ちる。膜の上側がほどけ、女の肩へ重く降り掛かった。
キーノは飛沫を避け、足を止めた。
女は浅瀬の石へ手をつきかけた。
腕が震え、身体を支えきれない。
「あ……っ、何を……!」
鬼太郎は、次の雷を作らなかった。
左手を空けたまま、黒檀を女へ向ける。息を整えながら、落ちた水と彼女の指を見ていた。
女は足を踏み替え、よろめいた身体を支えた。
水を引き寄せようとした指の先で、小さな波だけが氷へ当たる。
腕を動かそうとすると、肩がまた震えた。
鬼太郎は近づかず、杖先だけをその動きへ合わせた。
◆
女が顔を上げた。
少年は、こちらを見ている。
娘も、駆け寄ってはこなかった。岸の別の位置で足を止め、水が持ち上がればまた動けるようにしている。
二人とも、捕まらないように逃げていた。
だが、逃げるだけではなかった。
女は氷を見下ろした。
狙いを外した冷気ではなかったのだ。
水を守りへ回したところへ、少年は同じ呪文を重ねた。弾かれた水が戻る前に、杖を持たない方の手から雷が来た。
今も、その手は空いている。
もう一度、できるのだろう。
女は、震える指を開いた。
こんなつもりではなかった。
少し捕まえて、岸へ転がして、誰に口を利いているのか教えてやる。それで済むはずだった。
酒を運び、銀細工を選んで持ってこられる子供だ。怖がらせておけば、次はもっと素直になる。
それが、どうだ。
近くの水だけで触手を戻そうとしたのが、まずかった。
もっと沖の水を引けばいい。この薄い氷ごと、大きな流れで押せばいい。子供の腕や脚を狙って、一本ずつ水を伸ばしてやる必要もなくなる。
本気なら、森の巨狼グロブニクとも渡り合える。その力まで、失ったわけではなかった。
女が息を吸うと、氷の向こうで水面が広く膨らんだ。
少年の足が動く。娘も、そちらを見て位置を変えた。
肩には、まだ雷の痛みがある。目の前の杖も、下がってはいなかった。
少年は、何かを言えと迫ってもこなかった。
ただ、こちらがまだ戦うか見ている。
女は唇を舐めた。
あれがもっと強い雷を放っていたら。
その後に、別の魔法を重ねていたら。
このまま続けるなら、もう仕置きでは済まない。
こちらが力を広げれば、あの少年も今の一発で止めてはおかないだろう。勝てるつもりで始めても、傷一つ負わずに終えられる相手ではない。
欲しかったのは、次の酒と銀細工だ。
そのために本気で戦い、子供を壊し、自分まで深手を負うのか。
女は、持ち上げかけた水へ目をやった。
水遊びのつもりで続けて、少し火傷をするだけでは終わらない。
「……ああ、もう!」
女が声を上げた。
「やめだ、やめだ! こんな割に合わない遊び、付き合ってられないよ!」
鬼太郎は、杖を下ろさなかった。
女の脇で、水が小さく盛り上がる。
彼が杖先をそちらへ動かすと、女は苛立たしげに指を開いた。浅瀬の水と、その向こうで膨らんでいた流れが、ともに下がる。
「やめるって言ってるだろう! 聞こえなかったのかい!」
「聞こえています」
鬼太郎が答えた。
「では、そのまま手を止めていてください」
女は何か言おうとし、歯を噛み合わせた。
新しい触手は伸びなかった。
鬼太郎は湖面を確かめ、キーノへ目を向けた。
彼女も、こちらを見て頷く。
女は氷に囲まれた浅瀬で、不機嫌な顔のまま両手を下ろしていた。
もう一度水を持ち上げようとは、しなかった。