神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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引いた波にも、言葉は残る

第187話 引いた波にも、言葉は残る

 

 女は、水を持ち上げなかった。

 

 鬼太郎はその指と、氷の縁へ寄せる波を見た。沖で持ち上がりかけた水も、今は静まっている。女は細い流れを浅瀬へ入れるだけで、肩を包む膜を作り直そうとはしなかった。

 

 黒檀の先を、少し下げた。

 

 握りは緩めなかった。

 

「これで、ご相談を続けられますか」

 

「……よく言うよ」

 

 女は片手で、雷の当たった肩を押さえた。

 

「人の庭をこんなに冷やしちまって。ああ、嫌だねえ。近頃の子供は、手加減ってものを知らないのかい」

 

「先に手を出したのは、お前だろう」

 

 キーノが答えた。

 

 女の目がそちらを向く。

 

 何か言いかけた口が、閉じた。

 

 キーノも、もう煽らなかった。濡れた髪を肩の後ろへ払い、岸から女を見ている。

 

 鬼太郎は二人の間で、返事を待った。

 

「話すだけなら、話してやるよ。そこからでいいんだろう?」

 

「ええ。ですが、その前に一つ」

 

 女が顔をしかめた。

 

「まだあるのかい」

 

「キーノさんへ仰ったことを、撤回してください」

 

     ◆

 

 女の手が、肩から離れた。

 

 鬼太郎は左手を上げず、黒檀も下げたままにした。

 

「あんた、しつこいねえ。もう、やめるって言ったじゃないか」

 

「戦いのお話は終わりました。こちらは、まだお返事をいただいていません」

 

 女は鼻から息を吐いた。

 

「ほんの冗談に、いつまでも――」

 

「私は、笑えなかった」

 

 キーノが言った。

 

 鬼太郎は口を挟まなかった。

 

「お前に愛想を振りまくために来たんじゃない。それくらいは、覚えておけ」

 

 女の唇が歪む。

 

 だが、今度は笑い声を作らなかった。

 

 岸の石へ目が移る。酒の瓶も、銀の櫛もそこにある。

 

 女は、肩を一度回そうとして止めた。

 

「……分かったよ。さっきのは、取り消す」

 

 視線をキーノへ戻す。

 

「人形に負けるだの、口の利き方も知らないだの。言いすぎた。それでいいかい」

 

「ああ。聞いた」

 

 キーノが答えた。

 

 笑わず、礼も言わなかった。

 

 鬼太郎は頷いた。

 

「では、続きを伺いましょう」

 

     ◆

 

 女は、まず岸へ戻った。

 

 氷の薄い端を爪先で割り、足を置く場所を選ぶ。水で身体を運ぶ代わりに、自分の脚で浅瀬を歩いた。

 

 鬼太郎は二歩下がり、通る場所を空けた。

 

 最後に持ち上がった水は、それまでの触手より広かった。あれが来れば、同じ避け方では済まなかっただろう。

 

 やめると決めた相手へ、さらに試すような真似をするつもりはなかった。

 

 女は石へ腰を下ろした。瓶へ手を伸ばし、栓を捻る。

 

 指が滑った。

 

 もう一方の手で瓶を抱え、顔をしかめながら開け直す。甘い匂いが少し届いた。

 

「あんたたちは、飲まないんだろうね」

 

「お持ちした品ですから、どうぞ」

 

 女は一口飲んだ。

 

 瓶から口を離し、しばらく中身を見る。

 

「……これは、悪くないね」

 

 鬼太郎は乾いた地面を選んで鞄を下ろした。キーノが隣へ来る。

 

 どちらも、女の手が見える位置だった。

 

「同じ物が欲しければ、商人へ聞くことはできます。ただし、お渡しする品と引き換えです」

 

「あたしが、物を売るのかい」

 

「酒も銀細工も、町では代金が要りますからね」

 

「この湖を使わせてやるって言っただろう」

 

「僕たち二人に、少し魚を取らせてくださるお話でしたね。今回は、その必要がありません」

 

 鬼太郎は、白い紙を取り出した。

 

「酒や銀細工そのものを納めさせるより、こちらで集められる物を売るのはどうでしょう」

 

 女が瓶の首を撫でた。

 

「何を集めるって?」

 

「住む方から、羽根や伸びた爪、髪などを、税として納めていただくのです。抜けた羽根や脱いだ皮でも、品によっては売れるでしょう。何度も採れるもので、出せる量を決めれば、毎回町へ品を買いに行かせずに済みます」

 

「あんたが、買い取るのかい」

 

「いいえ。ボリスという商人へ、扱えるか聞きます。僕が住む方全員の代金を払い続けるお話ではありませんよ」

 

「そこだけは、隙がないねえ」

 

 鬼太郎は紙へ、羽根、爪、髪と書いた。

 

「ただし、羽根のない方へ羽根を求めても仕方がありません。何を、どれくらい、いつ納めるかは、本人と先に決めてください。伸びた分を切るのと、指ごと取るのでは違いますからね」

 

「一度で使い物にならなくしちまったら、次がないだろう。あたしだって、それくらい分かるよ」

 

「ええ。だから、続けて取れるものを、と申し上げています」

 

 女は紙の文字を見た。

 

「納めた物が安かったら、どうするんだい」

 

「まず、値を聞きましょう。何でも高く売れるとは、僕も約束できません」

 

     ◆

 

 西へ来たい者がいるなら、まずどんな者か知らせる。

 

 水の中で暮らすのか、岸に住むのか。何を食べ、どれくらいの人数なのか。繰り返し出せる品があるかも、その時に聞く。

 

「魚を根こそぎ持っていくようなのは、ご免だよ。卵を産む所を踏み荒らされるのも困る」

 

「そういう場所と、取ってよい量を、先に決めていただけますか」

 

 女は葦の奥を指した。

 

「あそこの向こうは、勝手に入らせないよ。魚も水辺も、あたしが見てることに変わりはない。どれだけ食べられるかも知らない連中に、好き放題されちゃ困るからねえ」

 

「その範囲を守っている間は、後から取り上げたり、気分でやめさせたりはしない。それなら、お伝えできます」

 

「……あたしが、ここまでいいと言った分は取らせるよ。いちいち口は挟まない。それでいいんだろう?」

 

「はい。量を減らす必要が出た時も、取ってから叱るのではなく、先に知らせてください」

 

 女は瓶を膝へ置いた。

 

「卵の時期だの、魚の減り方だのは、あたしが見て決めるよ」

 

「ええ。そのための管理でしょうから」

 

 鬼太郎は、指された葦と、相手の言葉を書き留めた。

 

 キーノが紙を覗く。

 

「何を納めるかも、勝手に増やさないんだな」

 

「決めた分を持ってくるならね。家族が増えたのに、ずっと同じとはいかないよ」

 

「人数が変わった時は、改めて相談しましょう。こちらからも、先にお知らせします」

 

 鬼太郎が答えると、女は頷いた。

 

 住む場所も、本人に見せてから決める。女が面会を認めた者だけを、人数と来訪日を先に知らせて連れてくる。

 

 条件が合わなければ、帰ってよい。

 

「帰りたい奴を、いちいち引き留めやしないよ」

 

 女がそう答えたところで、鬼太郎は一度、書いた内容を読み上げた。

 

 納める物と採取の限度を先に決め、互いに守る。その形で住む相談を進めることは、まとまった。

 

 ただし、まだ一人分の住居も決めてはいない。品を見て、場所を見て、暮らせるか本人が考える必要があった。

 

     ◆

 

「それで、集めた物がお酒になるんだろうね?」

 

 女が瓶を持ち上げた。

 

「売れた代金で買います。運ぶ分や商人の取り分も、先に確かめておきましょう」

 

「そいつに、好き勝手に値をつけられちゃ困るよ」

 

「売る前に値を聞き、買う品の値段も見せてもらいます。ご納得できなければ、その時は見送ればよいのです」

 

「酒と、銀細工だよ。がらくたを並べられても、あたしは買わないからね」

 

「好みを伝えて、毎回、何品か見繕ってもらうのはどうでしょう。同じ品を頼み続けるだけでなく、現物を見て、ご自分で選べます」

 

 女の指が、瓶の首で止まった。

 

「毎回、違う物を?」

 

「商人の扱える範囲ですが。髪飾りや櫛、腕に着ける物。酒も、別の銘柄があるかもしれませんね」

 

 女は箱を引き寄せ、銀の櫛を取り上げた。

 

「……見ないことには、似合うか分からないからねえ」

 

 濡れた髪の横へかざす。

 

「これに合う物を持ってくるように、言っておきな。安っぽい石を、大きいだけで喜ぶと思われちゃ困るよ」

 

「そのご希望も伝えます。全部買う必要はありませんし、気に入らなければ、代金を次へ残しておけばよいでしょう」

 

「次はもっといい物を持ってこいって、言えるわけだ」

 

「はい。買うかどうかは、あなたがお決めください」

 

 女は櫛を髪へ通した。

 

 今度は、銀の歯より、その先を見ているようだった。

 

「いいじゃないか。そいつが何を選んでくるか、見てやろう」

 

「では、まずボリスへ相談します。値をつけられる品と、運ぶ方法を確かめてからですね」

 

 彼に話す前から、ここへ毎回通う約束を取りつけたことにはできない。鬼太郎は、その点も伝えた。

 

 女は、今度は話の途中で遮らなかった。

 

「話がついたら知らせな。何を出せるかは、こっちでも考えておくよ」

 

 鬼太郎は頷き、紙へ書き足した。

 

 女は櫛を箱へ戻し、酒の栓を指で弄んだ。

 

「坊や。次に来る時は、そんなに水を冷やすんじゃないよ」

 

「お話だけで済めば、僕も助かります」

 

 鬼太郎が答えると、女は口元だけで笑った。

 

 そこへ、キーノが言った。

 

「こっちへ水を投げなければいい」

 

 櫛が、途中で止まった。

 

 女は何か言う代わりに、髪を肩の後ろへ払った。

 

     ◆

 

 鬼太郎は紙を畳み、鞄へしまった。

 

 次の訪問日は、まだ決めなかった。

 

 住民ごとの納める品も、商人の返事も、これからだった。移住を考えている者へは、今日決めた相談の進め方を持ち帰る。

 

「それでは、失礼します」

 

 女は石に座ったまま、手を振った。

 

「道で転ぶんじゃないよ。せっかく、無事に帰してやるんだから」

 

 鬼太郎は返事をせず、小さく会釈した。

 

 キーノと並んで、来た道へ戻る。

 

 背後で、瓶の栓が閉まる音がした。

 

 草の間へ入ってからも、しばらく水音を聞いていた。追ってくるものはなかった。

 

 白く割れた倒木の端が見えたところで、鬼太郎は歩調を落とした。

 

「どこか、痛めませんでしたか」

 

「ない。濡れたけどな。お前は?」

 

「僕も、怪我はありません」

 

 キーノが、鬼太郎の左手を見る。

 

「帰ったら、休めよ」

 

「ええ。今日は、もう十分使いました」

 

 鬼太郎は左手を握り、開いた。

 

 疲れは残っている。手応えを確かめるために、今からもう一度何かを放つ必要はなかった。

 

 キーノが、倒木を越えた。

 

「……私も、言い返せたぞ」

 

「はい。そうでしょうね」

 

 鬼太郎が答えると、彼女は振り向いた。

 

「分かってて、先に言ったのか」

 

「あれを、そのまま次のお話へ持ち越したくありませんでしたので」

 

 キーノは少し黙り、また前を向いた。

 

「次は、私が先に言うかもしれないからな」

 

「ええ」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

「それと、先ほどは助かりました。こちらを見られずに、冷気を重ねられましたから」

 

「ずっと水ばかり狙っていたからな。何かする気なんだろうとは思った」

 

「よく、見ていてくださいましたね」

 

「隣にいるんだ。見てるさ」

 

 キーノはそう言い、枝を避けた。

 

 鬼太郎も、同じ枝の下を通る。

 

 砦へ戻ったら、濡れた服を替えよう。

 

 紙を広げるのは、それからでよかった。

 

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