第193話 白い翼の向こうに、新しい教壇
「ただ、こちらでは少々、手狭かもしれません」
ロックハートは指輪をはめた手を下ろし、校長室を見回した。
「彼女は、騎乗した姿で現れますので。できれば、広い場所をお借りしたいですね」
「それなら、中庭へ出るとしよう」
ダンブルドアが立ち上がった。
ミネルバも書類を机へ置き、二人に続いた。
夏休みの廊下に、三人分の靴音が響く。
ロックハートは途中で窓へ目を向け、変わらない景色を懐かしんだ。ミネルバが短く応じると、学生時代の小さな失敗を、笑い話にして語った。
以前なら、人に聞かせたがらなかったかもしれない話だった。
それを今は、彼自身が笑っている。
ミネルバは隣を歩く教え子の横顔を見た。
「あのときは、後片付けも大変でしたね」
「ええ。今でも、よく覚えています」
ロックハートは肩を竦めた。
「生徒に注意する側になれば、思い出すことが増えそうです」
◆
中庭には、明るい日差しが落ちていた。
ロックハートは回廊と、その先へ続く通路を見渡した。人影がないことを確かめ、二人から幾らか離れた場所で足を止める。
「この辺りで、よろしいでしょうか」
「うむ。わしたちは、ここで見ておる」
ダンブルドアの返事を受け、彼は左手を掲げた。
指輪の宝玉が光を返した。
「ヴァルキリー」
呼びかけに応じ、指輪から光が溢れた。
空いていた石畳に、馬の脚が形を得る。
赤金のたてがみが揺れ、続いて鎧に覆われた胴と、背に跨る人影が現れた。
白い翼が、大きく広がる。
ミネルバは思わず、その先まで目で追った。
翼の上で日差しが砕ける。赤から橙、金へと色を移す長いたてがみが、馬の首に沿って流れていた。
騎乗した女は、人間より幾らか背が高いように見えた。
暗い銀色の鱗状の鎧。顔の両側を覆う、翼を思わせる兜飾り。高く結い上げた金色の髪は、先が大きく反っている。
肩から流れる白い外套が、風を受けて裏の暗い色を覗かせた。
美しい、とミネルバは思った。
しかし、ただ眺めていられるだけの姿でもなかった。
馬上で揺るがない身体と、静かに周囲を見る眼差し。武器を持つ手にも、飾って見せるための気負いはない。
戦乙女。
紙の上で読んだ言葉が、ようやく目の前の姿と結びついた。
ダンブルドアは、眼鏡越しに彼女を見上げていた。
ロックハートが、二人へ顔を向ける。
「いかがでしょう」
口元には、隠しきれない満足があった。
自分の名が書店に並ぶときとも、読者に囲まれるときとも違う。今は、かつて自分を教えた二人が、言葉を止めている。
彼は指輪を掲げたまま、僅かに顎を上げた。
◆
「馬から降りて、こちらへ来てくれるかな」
ロックハートが声をかけた。
ヴァルキリーは頷き、滑らかに下馬した。
天馬は翼を畳み、その場に留まる。
彼女はロックハートの傍らへ進んだ。鎧の触れる音が止まると、中庭はまた静かになった。
「初めまして。ミネルバ・マクゴナガルです」
ミネルバは、彼女自身へ挨拶した。
「この学校で、教頭を務めています」
「ヴァルキリーだ」
声は落ち着いていた。
ロックハートが口を挟まなくても、問いかけは通じるらしい。
「学校には、まだ幼い子供も大勢います。あなたを見て、驚く生徒もいるでしょう」
「用もなく武器を向けることはない」
ヴァルキリーは答えた。
「近づかせぬ方がよいときは、そう伝える」
「授業で呼ぶ際には、私からも先に説明します」
ロックハートが言葉を添えた。
「突然、廊下の角から現れては、騒ぎになってしまいますからね。場所と目的は決めておきましょう」
「ええ。それは、お願いしなければなりません」
ミネルバは頷いた。
ダンブルドアが、一歩進んだ。
「差し支えなければ、少し、技を見せてもらえるかね」
彼は中庭の奥へ目を向けた。
「人を相手にする必要はない。標的を用意しよう」
「構いませんよ」
ロックハートは、ヴァルキリーを見た。
「頼めるかな。標的を一つ、それだけでいい」
「承知した」
ダンブルドアが杖を動かした。
離れた場所へ置いた木片が形を変え、太い木の標的になる。背後にも左右にも、人の通る口はない。
ヴァルキリーは距離を確かめた。
それから、手にした二振りの剣のうち、一振りを構えた。
ミネルバがその刃を見たときには、彼女はもう踏み込んでいた。
短い音が響く。
標的の上部が傾き、石畳へ落ちた。
続く一撃はなかった。
ヴァルキリーは刃を引き、残った標的を一度見てから、ロックハートのもとへ戻った。
ミネルバは、切り離された木と彼女を見比べた。
勢い任せに叩き割った跡ではない。
ダンブルドアが標的へ近づき、断面を見た。
「見事じゃな」
「私も、頼りにしています」
ロックハートは晴れやかに答えた。
◆
「生徒たちには、まず、無事に離れることを覚えてもらいたいですね」
ロックハートは、二人へ向き直った。
「今のような相手に出会って、杖を構えることばかり考えては困ります。呪文を思い出す間、相手が待ってくれるとは限りませんから」
ミネルバの視線が、木の標的から戻った。
「実物を見れば、分かることもあるでしょうね」
「ええ。遠くから安全に見て、覚えて帰る。それで済むなら、その方がいい」
ロックハートは、傍らの戦乙女を見上げた。
彼女がここにいる限り、自分が前へ出る必要はない。
その確かさが、彼の声を落ち着かせていた。
「もちろん、何でも彼女に任せられるわけではありません。助けが来ない場所で、どう自分を守るかも教えたいと思っています」
「それは大切なことじゃ」
ダンブルドアは頷いた。
目の前の戦乙女が、どのような場所で、どのように彼と出会ったのか。
今日見たことだけで、その全てが分かるわけではない。
それでも、指輪も、呼び出された彼女も実在した。ロックハートの言葉を聞き、望んだとおりに動いている。
昔の少年の姿とうまく重ならないからといって、それを退けることはできなかった。
「見せてもらって、ありがとう」
ダンブルドアはヴァルキリーにも礼を述べた。
彼女は短く頷いた。
◆
校長室へ戻ってから、ロックハートには少し待ってもらった。
ダンブルドアとミネルバは、隣室で言葉を交わした。
「私は、お迎えしてよいと思います」
ミネルバが言った。
「授業についての考えも伺えました。使い魔の件は、場所や生徒との距離に注意していただく必要がありますが、ご本人も承知されています」
「うむ」
「実際に教壇へ立ってから、調整することもあるでしょう。その点は、私どもからもお伝えできます」
ダンブルドアは、白い髭へ指を添えた。
あの違和感を説明する言葉は、今も見つからない。
一方で、今日確かめられたものはあった。
問いに答える態度。生徒を危険から遠ざけようとする考え。傍らに従う戦乙女。
書類に並んだ経歴に加えて、それらを見た上で決めるべきだった。
「そうじゃな。彼に、頼むとしよう」
ミネルバの顔に、笑みが浮かんだ。
◆
ロックハートは、戻ってきた二人を見て立ち上がった。
「お待たせしたの」
ダンブルドアは机の前へ進んだ。
「来学期の闇の魔術に対する防衛術を、君に任せたい」
ロックハートの笑顔が、一層明るくなった。
「光栄です。ご期待に応えられるよう、努めます」
「教科書の候補と、赴任までの準備については、私から改めてお知らせします」
ミネルバが言った。
「それから、授業中はヴァルキリーにも、補佐として一緒にいてもらいたいのですが」
ロックハートが申し出た。
「私が説明している間も、生徒たちへ目を配ってもらえます。実演の際にも、助けになるでしょう」
ミネルバはダンブルドアと目を合わせた。
「よいじゃろう。授業中は、君の補佐として同席してもらおう」
ダンブルドアが答えた。
「ただし、武器を用いる実演などは、前もって相談してください。生徒たちにも、補佐として同席することを、初めに説明していただきます」
ミネルバが付け加えた。
「ええ。分かりました」
ロックハートは快く頷いた。
ミネルバは書類を手に取り、それからもう一度、彼へ顔を向けた。
「今度は、教壇に立つあなたをお迎えすることになりますね」
声には、面談中とは違う温かさがあった。
「生徒たちを、よろしくお願いします」
「お任せください、先生」
返事の後で、ロックハートは小さく笑った。
「こうしてお願いされると、不思議な気持ちになりますね」
「慣れていただかなければ困ります。もう、教える側なのですから」
ミネルバも、僅かに口元を緩めた。
ダンブルドアは二人を見てから、机の紙へ目を落とした。
新学期を迎える教師たちの名が、並んでいる。
彼は羽根ペンを取り、空いていた一行へ、新しい名前を書き入れた。