第195話 重ねる傷にも、笑みがある
グロブニクが身を低くした。
鬼太郎は右手の黒檀を持ち直し、左足を半歩引いた。
次の瞬間、大きな身体が迫った。
「アギ」
左手から火を放つ。
グロブニクは頭を振り、炎の脇へ抜けた。避けた先で足が沈むより早く、鬼太郎は次の火を作っていた。
「アギ」
今度は、前脚の着く場所へ。
黒い身体が捻れる。
鬼太郎は、その間に横へ動いた。
爪が、さっきまで立っていた土を掻いた。
間に合った。
火を続けて放った後も、狼を見失わずに動けている。
鬼太郎は笑った。
グロブニクが地面を蹴った。
◆
狼は、二つ目の火を避けた場所に留まらなかった。
鬼太郎が横へ回るのを追い、身体ごと進む向きを変える。
牙が近づく。
右手の杖を振った。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
足元の石が浮いた。
狼の顔へ向かわせる。
グロブニクは、前脚で石を弾いた。
鬼太郎は既に下がっていた。左掌を低く向け、内側から冷気を通す。
「ブフ」
地面を薄く凍らせる。
狼の足が、その縁を踏んだ。
滑ったのは僅かだった。爪が土へ食い込み、大きな身体が持ち直す。
だが、正面からの勢いは落ちた。
鬼太郎は、左手の先へ火を集めた。
赤い炎の中心を、強く保つ。
まだだ。
グロブニクが氷を蹴り、横へ抜ける。
鬼太郎は、掌だけをその先へ向けた。
狼の口が開いた。
「アギラオ」
明るい芯を持つ火球が飛んだ。
咆哮が響く。
鬼太郎は身を低くした。衝撃が肩を打ち、足が土の上をずれた。
火球は、もう手元を離れていた。
グロブニクが身体を捻る。
火は胸の正面を外れ、肩の外側へ当たった。
赤橙の炎がほどけ、黒い毛を包んだ。
狼が地面を転がる。
踏み砕いた氷のそばで火を擦り落とし、すぐに四肢を立て直した。
鬼太郎は、息を吐いた。
肩の一部が焼けている。
毛先を焦がしただけではない。皮膚にも傷が残り、脚を動かす際に、僅かに庇う動きが出ていた。
それでも、狼は立っていた。
赤い右目が、こちらを見た。
「それか」
「はい」
鬼太郎は左手を開き直した。
一度で、アギを三度ほど放った分の力が減っている。
その重さは、標的へ使ったときと同じだった。
だが、目の前の相手は、当たった場所を気にしながらも、まだ次の攻め方を選んでいる。
「もう、ただ受けてはいられませんね」
グロブニクの唇が上がった。
牙が見える。
「受けねばよい」
狼が踏み込んだ。
◆
鬼太郎は杖を向けた。
しかし、グロブニクは正面へ来なかった。
焼けた肩をこちらから遠ざけ、横へ回り込む。
鬼太郎が手を向け直す間に、低い位置から前脚が伸びた。
跳んで下がる。
爪の先が、左腕を掠めた。
熱い痛みが走る。
鬼太郎は腕を引き、空いた距離へ風を放った。
「ザン」
土が巻き上がる。
グロブニクが目を細めた間に、さらに下がった。
左腕から、血が落ちる。
傷は深く入りすぎてはいない。だが、次も同じように逃げられると思えば、今度は腕を持っていかれる。
鬼太郎は足を止めず、狼を見た。
「今日は、ここまでで」
前へ出かけていた狼が止まった。
鬼太郎も杖を下げる。
互いに立っている。
まだやりたいという気持ちもあった。
だが、治す分まで使ってから終えるつもりはなかった。
グロブニクが、長く息を吐いた。
「火を作る間、足が止まった」
「ええ。もう少し、間を作ったつもりでしたが」
鬼太郎は、咆哮を受けた肩を動かした。
芯を保つことへ意識を寄せた分、狼の口を見るのが遅れた。
撃てたことと、無事に撃ち終えられたことは、同じではなかった。
「次は、避けてから来ていただけると助かりますね」
「我に頼むな」
「はい」
鬼太郎は笑い、黒檀を手の届く場所へ置いた。
◆
右手で、左腕の傷へ触れた。
内側の力を、傷んだ場所へ通す。
「ディア」
血が止まり、裂けた皮膚が閉じていく。
ただ塞ぐところで終えず、腕を曲げたときに痛みの残る場所を確かめた。
もう一度、流す力を整える。
鬼太郎は掌を離し、指を動かした。
腕を伸ばす。
傷のあった場所に、鈍い痛みは残らなかった。
それでも、立ち上がる際には脚が重い。
肩にも、咆哮を受け止めた疲れがあった。
鬼太郎は近くへ置いた鞄から水の容器を出し、少し飲んだ。それから狼のそばへ行き、焼けた肩を見た。
「こちらも、治しましょう」
グロブニクは身体を伏せた。
鬼太郎は傷んだ場所へ手を当てた。
「ディア」
焼けたところへ力を通す。
火を受けた範囲は広すぎなかったが、表面だけを治して済む傷でもなかった。鬼太郎は途中で手を止めず、狼が脚を動かすのを見ながら、傷を確かめた。
グロブニクが、前脚を伸ばした。
地面を押し、肩へ体重を掛ける。
「動く」
「痛みは、いかがですか」
狼は肩を揺らし、首を回した。
「残っておらぬ」
鬼太郎は頷いた。
以前なら、傷口が閉じても動かすと鈍く痛んだ。
今は、そこまで治せている。
狼の肩を治し終える頃には、その日に使える力も、ほとんど残っていなかった。
治療の途中で尽きないように勝負を切り上げても、治し終えれば、余力を使い切るところまで来る。
消費した力は戻らず、腰を上げると身体も重かった。それでも、前の手合わせの後とは違っていた。
「では、またお願いできますか」
グロブニクが顔を上げた。
「今度は、あの火ごと潰す」
「それは、困りますね」
鬼太郎は、少しも困った顔をしていなかった。
◆
翌朝、鬼太郎はまた同じ場所へ来た。
傷のあった腕は動く。
一晩休み、食事も取った。前日の疲れがすっかり消えたとは言えなかったが、戦えないほどではない。
グロブニクも、こちらを見ると起き上がった。
「来たか」
「はい。昨日の続きを、考えてきました」
狼は、それ以上の説明を待たなかった。
鬼太郎が左手へ火を集めようとすると、今度は距離を詰める。
普通のアギであっても、構えた手を狙ってくる。
アギラオを恐れて退くのではない。
撃たせないつもりだった。
鬼太郎は火を放ちながら後ろへ跳び、杖を振った。
狼の進路に石を置く。
弾かれる前に位置を変え、次の攻撃へ移った。
こちらが変われば、相手も変わる。
用意したとおりに動かなくなるほど、鬼太郎には面白かった。
◆
三日目には、グロブニクの進み方を見るだけで、左手を狙っているかどうか、少し分かるようになった。
分かったからといって、必ず避けられるわけではない。
腕を庇えば、脚へ来る。
足元を見れば、頭が迫る。
鬼太郎の側も、アギラオを作る仕草を一度見せた後、慣れた火へ変えて先に放った。
グロブニクがその火を避け、低く唸る。
「同じところばかり、狙ってはおられませんね」
「お前が、そこを空ける」
返事とともに、次の爪が来た。
鬼太郎は笑う余裕を失い、身体を捻った。
その日の夕方、砦へ顔を出したサーシェスは、鬼太郎の服を見て眉を上げた。
「また、やったのか」
「はい。少し、手応えが変わってきまして」
服の裂けた場所を、指で寄せる。
サーシェスは、その下の治った皮膚へ目を向けた。
「あの火は?」
「当たれば、効きます。ただ、作っている間に来られますので」
「そりゃ、来るだろうよ。見せたんだからな」
男は笑った。
「明日も行くのか、坊主」
「ええ。そのつもりです」
「なら、俺も見に行くか」
◆
四日目、離れた岩にサーシェスが座った。
鬼太郎が火を放ち、狼がその内側へ踏み込む。
避けるための火を、今度は避けずに越えてくる。
鬼太郎は杖を振り、地面を転がった。
起き上がる前に、狼の影が掛かる。
「足だ、坊主!」
サーシェスの声が飛んだ。
鬼太郎は立とうとしていた足を引き、もう一度横へ逃げた。
爪が土を抉る。
「今のは、惜しかったな」
その声は、どちらへ言ったのか分からなかった。
鬼太郎は体勢を戻した。
サーシェスの隣には、いつの間にか、森に住む者が座っていた。
火の当たる場所でも、狼が駆ける場所でもない。
離れたところから、こちらを見て笑っている。
鬼太郎が目を戻したとき、狼はもう動いていた。
◆
五日目には、見物する者が増えていた。
大きな声で狼へ呼びかける者がいる。
鬼太郎の火を見て、もう一度使えと言う者もいた。
サーシェスは岩へ腰を落ち着け、持ってきた酒を飲んだ。
そばの者が差し出した器へも、瓶を傾ける。
「昨日は、あそこで踏み込んだ方が取ったんだがな」
鬼太郎は聞こえた声を追わず、グロブニクを見た。
互いの癖が、分かってきている。
同じように手を向ければ、同じようには避けない。
火をまとめる間が一息長ければ、もう狼が近い。
アギラオが当たれば、狼も傷を負う。一発で倒れるほどではなくても、幾度も受ければ、立ち続けることはできない。
だから、受けずに詰めてくる。
鬼太郎も、ただ下がるだけでは、撃つ間を得られない。
足を置く場所を変え、杖へ意識を向けた。
使える力にも、変化があった。
火を作るとき、掌の先へ余分に散らしていた力が減っている。狙いを変えても、作りかけた火を崩し、最初からまとめ直すことが少なくなった。
同じ一発を、以前より少ない力で放てる。
それだけでもなかった。
毎日、戦いと治療で余力を使い切り、食べて眠る。その繰り返しの中で、身体の内に蓄えられる力そのものも増えていた。
無駄が減った分と、満ちる量が増えた分。
五日目には、アギだけなら十五回ほど放てる手応えがあった。
その全てを攻撃へ使うわけではない。アギラオ一度には、今もアギ三度ほどの力が要る。傷を治す分も、そこから使う。
それでも、初日に比べれば、次の攻防へ残せるものは明らかに増えていた。
疲れは、あった。
踏み出すとき、脚の奥が重い。
力を多く蓄えられるようになったからといって、連日動かした身体まで軽くなるわけではない。
それでも、昨日できなかった動きへ、今日は届きそうだった。
◆
勝負を終えた後、鬼太郎は地面へ座っていた。
腿の裂傷へ、左手を当てる。
「ディア」
皮膚が閉じていく。
グロブニクも少し離れて伏せ、息を整えていた。
その間に、サーシェスたちは、今の攻防について話している。
鬼太郎が手を離したところで、聞き慣れた声がした。
「また、ここにいたのか」
キーノが立っていた。
鬼太郎は顔を上げた。
「はい。今、終わったところです」
「昨日も、聞いた」
キーノの視線が、鬼太郎の服と、その下の脚へ移る。
「その前もだ。今日で何日目だ」
「……五日目ですね」
返事をすると、キーノの口元から表情が消えた。
鬼太郎は、腿を軽く曲げた。
「傷は、もう治しました」
「それで?」
キーノが一歩近づいた。
「治せば、毎日やってもいいのか」
「以前より、痛みを残さずに――」
「疲れは?」
鬼太郎は言葉を止めた。
キーノは、その顔を見た。
「なくなったのか」
「いえ。そちらは、残ります」
「なら、休め」
声が強くなった。
「昨日より動けるか試したいなら、まず休んでからにしろ。疲れたまま、また傷を増やして、何を確かめてる」
鬼太郎は、治った脚へ目を落とした。
言われていることは、分かる。
疲れたときに遅れる足も、この五日で何度も見た。
だが、それでも確かめられたことはあった。
思い出すと、口元が緩んだ。
「ですが、おかげで随分と鍛えられました」
「そこで、嬉しそうにするな!」
キーノの声が、木々の間へ響いた。
◆
グロブニクが頭を上げた。
その目が鬼太郎へ向いたのを見て、キーノが振り返る。
「お前もだ」
狼の耳が動いた。
「毎日、相手をするな。こいつが来れば、何度でもやるつもりか」
赤い右目が、キーノを捉えた。
グロブニクは、すぐには答えなかった。
人間の小娘が、鬼太郎を叱る。
そこまでは見ていた。
自分へまで同じ顔を向けるとは、思わなかったらしい。
僅かに持ち上がった頭が、そのまま止まっていた。
「我が、望んだ勝負だ」
「見れば分かる。だから、そっちにも言ってる」
キーノは目を逸らさなかった。
「二人とも乗り気なら、休む日くらい先に決めろ」
グロブニクが、鼻から息を吐いた。
鬼太郎は狼と目を合わせた。
今の返事には、自分も何か言おうとしていたはずだった。
キーノが、すぐにこちらを向いた。
「お前は、もう分かったな」
「はい。明日は休みます」
「明日だけで済むか、身体を見てから決めろ」
鬼太郎は、今度は頷くだけにした。
◆
少し離れたところで、サーシェスが笑った。
キーノの顔が、そちらへ向く。
「あんたもだ」
酒の器が止まった。
「俺もかよ」
「何で、一緒になって見てる」
「俺が来たのは、昨日からだぜ」
「何日やってるかは、聞いただろう」
サーシェスは鬼太郎を見た。
鬼太郎は黙っていた。
「……聞いたな」
「それで酒まで持ってきたのか」
「いい見物ではあったからな」
言い終えた男へ、キーノが目を細めた。
サーシェスは器を下ろした。
「分かったよ。今日は、もうお開きだ」
「周りもだ。まだやれと煽るな」
キーノが見物人たちを見渡した。
不満そうに声を漏らした者もいたが、もう鬼太郎も狼も立ち上がろうとはしていない。
サーシェスが瓶へ栓をし、岩から下りた。
鬼太郎は置いていた黒檀を拾い、腰を上げた。
腿に、痛みはない。
しかし、一歩を出すと、脚が重かった。
キーノは、そこを見逃さなかった。
「ゆっくり歩け。急ぐ用事はないだろう」
「ええ」
鬼太郎は鞄と銃を取り、ホルスターを腰へ戻した。
グロブニクは、まだその場へ伏せていた。
帰る前に一度、目が合う。
次に試したいことは、もうあった。
鬼太郎はそれを口にはせず、会釈した。
キーノが、隣から見上げていた。
「今、何を考えた」
「明日は、座ってできることを片づけようかと」
「先に寝ろ。片づける話は、その後だ」
「はい」
鬼太郎は答えた。
歩く脚は重い。
それでも、五日前には届かなかった間合いを思い出すと、満足は消えなかった。