第198話 望む道を、隠さずに
窓の向こうで、本を閉じる音がした。
鬼太郎は壁に背を預けたまま、脚の位置を変えた。座っていれば、腿の重さはさほど気にならない。中庭を横切る者たちも、こちらに用がなければ、そのまま通り過ぎていった。
「鬼太郎」
隣から呼ばれ、顔を向ける。
「君は、この先、ここをどのような場所にしたいと思っておるのかね」
ダンブルドアは、本の部屋へ目を向けていた。
「畑や、商売のことですか」
「それもある。だが、もっと先の話じゃ。食べるものが増え、皆が自分たちで取引をするようになった。その後、君は何をしたい」
鬼太郎は膝の上で組んでいた手をほどいた。
道具ができれば、それを使ってみたい者が出てくる。売れるものが増えれば、今とは違う品を欲しがる者もいるだろう。全部がうまくいくとは思わないが、どこまで進むかは見てみたかった。
「戻ってきたときに、知らないものが増えていれば面白いでしょうね。僕が考えもしなかったことを、始めている方がいても」
「君の思いどおりでなくとも?」
「困ることであれば、お話ししますよ。ですが、何でも僕に決めてほしいわけではありません」
老人の指が、膝の上で揃えられた。
「そうして、暮らしが落ち着けば、君も満足できるかね」
「それだけでは、足りませんね」
答えるまでに、時間は要らなかった。
ダンブルドアの視線が、ゆっくり戻る。
「やはり、戦う相手か」
「ええ。まだ知らない力も、僕より強い方も、沢山いらっしゃるでしょう。そうした方と戦えるようになりたいと思っています」
「以前の君ほど、強くなった後も?」
鬼太郎は微笑んだ。
「そこで、やめる理由がありますか」
老人は笑わなかった。
鬼太郎も、冗談のつもりではなかった。
「以前できたことが、またできる。それは嬉しいでしょうね。ですが、この世界で覚えたものもあります。それを一緒に使えば、以前より先へ行けるかもしれません」
授業で習った呪文。セドリックと杖を交えて分かったこと。大きな狼に踏み込まれ、次には同じ場所で待たないと覚えたこと。
取り戻すだけで済ませるには、惜しいものが増えていた。
「その先にも、戦い続けたいと」
「はい」
鬼太郎は中庭へ目を戻した。
「誰かが一番強くなって、それで何もかも決まってしまうのは、つまらないと思います。その方を超えようとする者が現れて、超えたら、また次の誰かが上へ行こうとする。僕自身も、その中にいたい」
隣で、衣の擦れる音がした。
「そうした争いが、続く世界を望んでおるのかね」
「ええ。飽きずに済みそうです」
言えば、この老人がどう思うか。
分からずに口にしたのではなかった。
学校で学べる時間を、鬼太郎は気に入っている。目の前の老人にも、教わりたいことは多い。それでも、尋ねられた望みを、相手が喜びそうなものへ変える気にはならなかった。
ダンブルドアは暫く黙っていた。
扉の向こうから、棚の上段を空けるかという声が聞こえた。キーノが何か答え、別の声が続く。
「戦うことを望まぬ者も、その世界にはおる」
老人が言った。
「強い者が争うたび、暮らしを失う者もな。君は、その者たちをどう考える」
「戦う以外の方法で、生きればよいと思います」
「どのように?」
「逃げても、隠れても。強い方に守っていただけるよう、頼んでもよいでしょうね」
鬼太郎は食堂の入口へ目をやった。
住民が一人、抱えた品を持って中へ入っていく。こちらの話に気づく様子はなかった。
「ここにいる方たちも、皆さんが強いわけではありません。だからといって、僕がどうするかを黙って待っているばかりでもない」
「交渉をしておる、ということか」
「はい。自分たちの場所を荒らされたくない。侵入者に脅かされたくない。そのために何を渡せるか考えて、僕へ話しに来ます。こちらの条件が気に入らなければ、そう言いますしね」
声を上げることも、相手によっては勇気が要る。
それでも、自分たちのために口を開く者がいる。
「物を作れる方も、道を知っている方もいます。誰へ話せばよいかを考え、助けを借りるのも、その方が持っている力でしょう」
「だから、気に掛けておるのじゃな」
「少しは」
鬼太郎は答えた。
「僕の周りにいるというだけで、誰でも気になるわけではありませんよ。ですが、ご自分で何かしようとする方は、見ていて面白いです。できなかったことが、できるようになれば、続きも気になります」
ダンブルドアは、鬼太郎の顔を見ていた。
「弱くとも、足掻く者には価値があると」
「ええ」
「では、足掻けぬ者はどうなる。恐怖に竦み、何をすればよいかも分からなくなった者は」
「誰かの傘下に入ることも、できます。自分では分からないと、知っている方へ言ってもよいでしょう」
「その声を出すことさえ、できぬ者もおるのじゃよ」
老人の声は低かった。
「ひどい目に遭い、逃げることも、助けを求めることも諦めてしまう。生きたくないから、動かぬとは限らん」
鬼太郎は、膝へ置いた自分の手を見た。
指を曲げ、また伸ばす。
「それでも、何もしないのでしたら、そこまでだと思います」
ダンブルドアは動かなかった。
「怖くても、絶望していても、這いつくばってでも生きようとする方はいるでしょう。僕は、そちらに価値を感じます」
「動けぬ者には、生きる意思がないと?」
「何もせず、それでも生きたいと思っている。それだけでは、生きる意思を捨てたのと、変わらないのではありませんか」
風が中庭へ入り、鬼太郎の髪を揺らした。
老人の目から、いつもの軽い笑みは消えていた。
「わしは、そうは思わん」
「でしょうね」
鬼太郎は静かに返した。
驚きはしなかった。
ダンブルドアはその返事を聞き、僅かに顎を引いた。
「分かっていて、話したのか」
「校長先生が、僕と同じことを望んでいるとは思っていませんので」
「わしが、君の望みには手を貸せぬと言うても?」
「それは、校長先生がお決めになることです」
鬼太郎は老人へ身体を向けた。
「お願いしたからといって、必ず引き受けていただけるとは思いません。お断りになったら、そのお願いは、そこまででしょう」
「君にとって、大事なことであっても」
「はい。別の方法を考えます」
ダンブルドアの眉が寄った。
鬼太郎は、その顔を眺めた。自分の考えを聞いて、喜ばなかった。おそらくは、今までより警戒もしている。
だが、これまで教わったことが、消えたわけではない。
「お考えが違ったからといって、校長先生を嫌いになるわけではありませんよ」
「……そうかね」
「ええ。教えていただきたいことも、まだ沢山あります」
鬼太郎は少し笑った。
「聞いていただくと、かえって困らせてしまうことも、ありそうですが」
「今、まさに困っておるところじゃ」
返事は早かった。
鬼太郎の笑みが深まる。
老人は笑わなかったが、席を立ちもしなかった。
◆
ダンブルドアは、目の前の少年から視線を外した。
窓の向こうに、キーノが見える。卓の上へ本を置き、ミラの指したところを覗き込んでいた。
先ほどまで見ていた砦の暮らしは、変わっていない。
住民が自分の考えで動き、鬼太郎はそれを好ましく見ていた。自分が留守でも続くようにと、本を置き、相談を受けている。
それも、今聞いた望みも、同じ少年の中にある。
片方を聞かなかったことにして、安心するわけにはいかなかった。
恐怖に立ち尽くし、助けを求める声も出せぬ者を、そこまでだったと見切る。その考えの先に、どれほどの命が零れるか。
鬼太郎は、零れるものがあると知らずに語ったのではない。
それでも、こちらの問いを面倒がって打ち切りはしなかった。考えの違う老人を、今すぐ遠ざけようともしない。
ダンブルドアは両手を重ね直した。
言葉だけで、この子の行く末を決めるには早い。
これから出会う相手も、学ぶことも、選べる道も、まだ数えきれぬほどある。今日ここで見たように、関わったものを気に掛けることもあるのだ。
それがどこへ繋がるか、見届けなければならなかった。
教えられることがあるなら、教える。問い掛ければ立ち止まる余地があるなら、問い掛ける。あの穏やかな口調に安堵せず、危うい言葉だけを見て全てを決めずに。
その末に、鬼太郎が他者の命を踏みにじる道を選び、自分の前へ立つのであれば。
そのときには、止めなければならない。
教えた相手だからと、手を鈍らせることはできない。
ダンブルドアは息を吐いた。
その覚悟を、今この子へ告げるつもりはなかった。まだ差し出せる手を、脅しのために引く必要もない。
「鬼太郎」
「はい」
「君の望みを聞いたうえで、わしにも言っておきたいことがある」
少年が顔を向ける。
「動けぬ者のそばへ行き、声を掛ける者もおる。そうして初めて、もう一度立とうとする者もな」
鬼太郎は、すぐには返事をしなかった。
「わしは、その機会を作ることを、無駄だとは思わん」
「……校長先生は、手を差し出すのですね」
「うむ」
ダンブルドアは答えた。
「その後に何を選ぶかも、見たいのでな」
鬼太郎は老人を見ていた。やがて、ゆっくり頷く。
「それも、校長先生がお選びになることですね」
同意を得たわけではなかった。
だが、返事を急がせる必要はない。
◆
扉が開き、キーノが顔を出した。
「棚は、あれで使える。重い本は下へ移した」
鬼太郎が礼を言う前に、彼女の目が二人の間を動いた。
「……何の話をしていた」
「僕が、この先どうしたいかというお話です」
「戦う話もか」
「はい。望んでいることも」
キーノの目が、鬼太郎の顔に留まった。
「……お前が、どんな世界にしたいか。そこまで話したんだな」
「ええ」
彼女には、サーシェスと共に英国を出る前に伝えてある。今も、何を望むのかと聞き直すことはなかった。
キーノは口を結び、ダンブルドアへ顔を向けた。
校長は眼鏡の奥から彼女を見返し、それから髭へ手をやった。
「随分と、難しい話になったよ」
「そうだろうな」
キーノは鬼太郎の隣まで来たが、座らなかった。
「校長先生。中に戻るか。こいつは、まだ立たせなくてもいい」
「僕も、戻れますよ」
「戻れるかどうかは聞いてない。休んでるところだろう」
鬼太郎は壁から背を離しかけ、また預け直した。
ダンブルドアが、その様子を見て口元を緩める。
「では、もう少し、ここにいようかの」
キーノは頷き、扉の方へ向き直った。
「茶を持ってくる」
「僕も、いただけますか」
「二人分だ」
返事を残し、彼女は食堂へ歩いていった。
鬼太郎はその背を見送り、隣へ目を向けた。
ダンブルドアは膝の上の手をほどき、座る位置を少し変えていた。
立ち去るためではなかった。
鬼太郎も脚を楽な位置へ置き直し、二人分の茶が来るのを待った。