第200話 休む朝にも、知りたいことはある
目が覚めても、鬼太郎はすぐには起き上がらなかった。
窓から入る光が、寝床の端に掛かっている。外では、誰かが何かを引きずっていた。途中で音が止まり、短い呼び掛けの後、今度は少し軽い音になって遠ざかる。
鬼太郎は布の下で脚を伸ばした。
昨日より、楽ではある。
だが、身を起こして床へ足を下ろすと、腿の奥に重さが残っていた。立つ前に両足の位置を直し、ゆっくり体重を移す。
これで森へ出れば、歩いているうちに動きもよくなるだろう。相手を前にすれば、気にならなくなるかもしれない。
そこまで考え、鬼太郎は寝床を振り返った。
気にならなくなっただけでは、また同じことになる。
今日は、朝食を食べに行けばよかった。
顔を洗い、身支度を済ませる。持っていく本を選ぶのに少し迷って、昨日まで読んでいた一冊を取った。
廊下へ出ても、いつものように足を速めはしなかった。
食堂には、もうキーノがいた。
卓の端へ帳面を寄せ、朝食を口へ運んでいる。鬼太郎に気づくと、向かいの空いた場所へ目をやった。
「今、起きたのか」
「少し前です。今日は、よく眠れました」
「私もだ。昨日は、書いているうちに眠くなった」
鬼太郎は食事を用意してから、向かいへ腰を下ろした。本は食器から離れたところへ置く。
キーノの帳面は、昨夜の頁が開かれていた。ただし、今朝書き足したらしい言葉には、細い線が引いてある。
「何か、分かりましたか」
「逆だ。ここに書いた言葉が、よく分かってなかった」
彼女は飲み込んでから答えた。
「説明を聞いていたときは、分かった気がしたんだがな。自分で読み直すと、何を書きたかったのか曖昧になる」
「見せていただいても?」
「食べてからでいい。そこへ置くと、汚す」
鬼太郎が卓へ目を落とすと、手前に小さなパン屑が散っていた。
確かに、今こちらへ帳面を引き寄せるのは、よくなさそうだった。
「では、後で」
そう答えて、食事を続けた。
窓の外を通った者が、中へ声を掛けていく。食堂にいた別の者が返事をし、入口の方へ立った。扉が閉じた後も、鬼太郎は残りをゆっくり食べた。
朝から、急ぐ用がない。
それだけで、いつもより皿の減りが遅いように思えた。
食器を片づけ、卓を拭いてから、キーノが帳面を回した。
「ここだ」
鬼太郎は示された箇所を読む。
昨日、校長が話していたことではあった。だが、短く書き留めた言葉だけでは、その前に何を尋ねたときの答えだったかが分かりにくい。
「この前に、キーノさんが質問していましたね」
「ああ。それも書いた方がいいか」
「僕でしたら、書いておきます。何を聞きたかったかが分かれば、もう一度お尋ねするときにも、伝えやすいでしょう」
キーノは帳面を戻し、余白へ書き足した。
途中でペン先を止め、鬼太郎を見る。
「お前は、今の言葉だけで分かるのか」
「昨日のお話を覚えていますから。何日も経ってから、そこだけ読んだら、僕も迷うかもしれません」
「なら、今書いておいた方がいいな」
彼女は続きを記した。
鬼太郎は横から口を挟まず、持ってきた本を開いた。昨日、読みかけにしていた箇所へ指を置く。
数行進んだところで、キーノが顔を上げた。
「今日は、それを読むのか」
「はい。途中でしたので」
「昨日教わった本は?」
「あちらも、後で読みたいですね」
プロテゴの説明を読めば、以前とは違うところが気になるだろう。老人の杖がどう動いたかを覚えている間に、確かめたい箇所もあった。
鬼太郎は開いた本へ目を戻した。
こちらにも、まだ読んでいない頁が残っている。
「……選ぶのが、難しいですね」
「二冊とも読めばいいだろう。今日、出掛けるわけでもない」
「そうですね」
言われてみれば、そのとおりだった。
鬼太郎が笑うと、キーノは少し怪訝な顔をした。
「何だ」
「いえ。森へ出ないと決めたら、随分、時間があると思ったのですが。読みたいものを考えていると、それほど長くもなさそうです」
「全部、今日やるつもりか」
「まさか。読んだだけでは、できるようになりませんから」
昨夜、教わった動きを帳面へ書くときにも、そう感じていた。
頭の中で辿ることと、自分の手で行うことは違う。何も飛んでこないところで形にできても、相手を前にして同じように使えるかは、また別に確かめなければならない。
それは、杖の呪文だけの話でもなかった。
使い慣れた魔法にも、まだ変えられるところがある。今までと違う感触を得たものも、一度そう感じただけで、次に使えるとは限らない。
試してみたいことを思い浮かべると、自然に口元が緩んだ。
「休み明けに、やることが増えそうです」
「私は、まず昨日のだな」
キーノは帳面へ視線を戻した。
「腕を動かせるうちに防げなければ、意味がない。すぐできるとは思ってないが、覚えたい」
「ええ。練習を始めたら、僕も、どこで迷ったか書いておきます」
「見せ合うなら、失敗したところもな」
「そこを隠しても、仕方ありませんね」
鬼太郎は返して、本を少し手前へ寄せた。
キーノが最後の一行を書き終えるまで、今度は黙って読み進めた。
やがて、ペンが卓へ置かれた。
「そういえば」
キーノが言った。
「あの本は、どうするんだ」
鬼太郎は顔を上げた。
「校長先生が、お預かりになっている方ですか」
「ああ。休みに調べると言ってただろう」
魔導書の原本は、ここにはない。
以前、読めたことを書いた帳面なら、自分の手元にある。だが、休暇に入ってから、それを広げて続きを調べる時間は設けていなかった。
「身体が戻ったら、校長先生にご都合を伺おうと思っています」
「まだ、調べたいんだな」
「ええ。分からないところが、残っていますので」
鬼太郎は、開いていた本の間へ指を挟んだ。
「呼ぶ側が、何を差し出すかも選べないのでは、困ります。嫌なら断れるようにしたいですね」
「断れなければ、向こうの言うままだろう」
「はい。呼べたというだけでは、使いたいものにはなりません」
思い出した機械は、自分が扱っていたものだった。
目の前へ現れた相手が、何でも望みを聞くわけではない。話が合わないこともある。こちらが呼んだからといって、相手の意思がなくなるわけでもなかった。
それでも、何も選べないまま、一方的に奪われるためのものではなかったはずだ。
「どこを変えれば、そうできるかは?」
「まだ、分かりません。読めた部分だけで、全部を決めるわけにはいきませんから」
キーノは卓へ置いたペンを、指先で少し転がした。
「前に分かったことから、やり直すのか」
「確かめてから、先へ進みたいですね。校長先生にも、読めたことをお伝えしながら」
「時間が掛かりそうだな」
「掛かるでしょうね」
答えると、キーノの手が止まった。
鬼太郎は笑みを残したまま続ける。
「ですが、明日にも必要というわけではありません。分からないまま使ってしまうより、どうなっているか知りたいのです」
「待てるなら、いい」
「僕が、待てないと思いましたか」
「試したいことがあると、近くまで行って見たがるだろう。昨日も、手が動いてた」
鬼太郎は、本を押さえた自分の指を見た。
昨日のことを言われれば、否定はしにくい。
「あちらには、他にもお尋ねしたいことがありますから」
「それは、知ってる」
キーノは短く返し、帳面を閉じた。
「私も、一冊取ってくる。そこ、空けておいてくれ」
「どうぞ。僕は、まだこちらを読んでいます」
彼女は帳面を置いたまま立った。
鬼太郎は椅子へ座り直し、脚を少し楽な位置へずらした。長く同じ姿勢でいると、立ったときとは違う重さが残る。
魔導書の調査を始めるなら、校長にも時間を取ってもらう必要がある。読むだけで済むかどうかも、今は分からなかった。
今日、手元の帳面を持ち出して、急いで確かめる理由はない。
挟んでいた指を抜き、読みかけの行へ戻る。
廊下から、キーノの足音が近づいてきた。
「こっちを読むことにした」
持ってきた本を見せ、彼女が向かいへ座る。
鬼太郎は背表紙へ目をやってから、自分の本を少し横へ動かした。二人で開いても、卓には十分な空きがあった。
暫くは、頁をめくる音だけが続いた。
鬼太郎は、先ほどまで開いていた頁を読み終えた。次の頁へ進みかけて、分からない言葉のところへ戻る。
その横から、キーノの指が伸びた。
「お前、それを読み終わったら、こっちも聞いていいか」
「ええ。どこですか」
鬼太郎は自分の本へ栞を挟み、彼女が示す行を覗き込んだ。