第201話 記憶を訳す
階段を上りきってから、鬼太郎は一度、足元を見た。
数日前には、一段上がるごとに腿の奥へ重さが残っていた。今朝は、途中で足を緩めずに上がれた。息を整えるために立ち止まる必要もない。
廊下の窓まで歩き、踵を上げる。ゆっくり下ろしてから、もう一度。
床へ足を着けたときの感触を確かめ、鬼太郎は部屋へ戻った。
休んでいる間にも、外の物音は毎日聞こえていた。以前なら自分もそこを通って森へ向かった頃に、本の続きを読んでいた日もある。退屈するかと思っていたが、読みかけの一冊を終えた後にも、次に手を伸ばすものはあった。
課題にも手を入れた。
そして、今朝、卓へ置いたのは、自分の帳面だった。
前に校長室で書いた頁を探す。
魔導書から写した図と、その日に分かったこと。その脇には、読み切れなかった箇所へ戻るための記録が残っている。
鬼太郎はそこを読み直し、まだ何も書いていない頁を開いた。
夏休みの後半には、ダンブルドアが毎日、解説のために来る。
まとまった時間を使えるのだから、自分が知っていることを、そのたびに記憶から拾って話すだけでは惜しかった。前世の機械については、校長より自分の方が知っている。その自分が曖昧な説明をすれば、老人は、曖昧なものを相手に考えなければならない。
まずは、思い出していることを全部、書いてみよう。
鬼太郎はペンを取った。
最初に記したのは、COMPという名だった。
自分の手に収まっていた機械。操作を行い、悪魔を呼んでいたこと。同じ目的の端末は一つではなく、形の違うものもあったこと。
そこで一度、手が止まる。
思い出している手つきは、今の自分のものより大きい。だが、その手の持ち主が着ていた服の細部まで、全て浮かぶわけではなかった。
鬼太郎は、機械の外形を細かく描くのをやめた。
代わりに、自分が行っていた操作を、覚えている順に書き始める。
次に、操作を受けて中で進む処理へ移った。
こちらは、手が進んだ。
何を確かめて、次へ進むか。どこが繋がっていて、その先に何が続くか。頭の中では一続きになっているものを、紙の上へ順番に置いていく。
書き切る前に、余白が足りなくなった。
「……これは、狭かったですね」
鬼太郎は小さく呟き、頁をめくった。
最初から詰め込みすぎれば、後で何か書き足したくなったときに困る。少し間を空け、先ほどの続きを記した。
機械が行っていたことを、今の魔法で行うなら、どうすればよいか。
考えかけて、ペンを止めた。
それを確かめるために、校長と調べるのだった。
前世で動いていた仕組みは書ける。そこへ、この世界でもこうすれば動くはずだと書き混ぜてしまえば、後で読み返した自分まで迷う。
浮かんだ疑問は、別の余白へ残した。
廊下で足音が止まり、扉が叩かれた。
「入ってもいいか」
「ええ。どうぞ」
キーノが顔を出した。
鬼太郎の前へ広がる帳面を見て、入口で少し足を緩める。
「何を書いてる」
「前に思い出したことを、まとめています。校長先生へ説明するときに、あった方がよいと思いまして」
「機械の話か」
「はい。使い方と、中でどう動いていたかです」
キーノは近くまで来たが、すぐには覗き込まなかった。
「途中なら、後にする。私も、聞きたい言葉があったんだが」
「少し休もうと思っていたところです。何でしょう」
彼女は持っていた本を開いた。
鬼太郎はペンを置き、示された一文を読む。前後を読んでから言葉の意味を話すと、キーノは自分でもう一度、そこを辿った。
「なら、こっちも同じ意味で使ってるのか」
「そちらでは、少し違いますね。この前の文章から読むと――」
鬼太郎が指した行へ、彼女の目が戻る。
暫くして、キーノは納得したように本を閉じた。
「分かった。ありがとう」
「どういたしまして」
鬼太郎は椅子の上で肩を動かした。
思ったより長く、同じ姿勢で書いていたらしい。窓へ目を向けると、卓に掛かる光の位置も変わっていた。
「そっちは、終わりそうか」
「まだですね。書いていると、これも必要だったと思うことが出てきます」
「見てもいいか」
鬼太郎は頷き、帳面の向きを変えた。
キーノは最初の頁から読んだ。途中で眉を寄せ、その先へ目を進めてから、また前へ戻る。
「……ここで、分からない」
「どちらですか」
「この、プログラムだ。機械の中に入っていると言うが、中に何があるんだ」
鬼太郎は、彼女が指を置いたところを見た。
校長にも、一度、処理を順に行わせるものだと説明している。自分にはそれで何を意味するか分かるので、その先の仕組みへすぐ進んでいた。
「機械が何をするかを決めるためのものです。ただ、部品が一つ入っているという意味ではありません」
「じゃあ、これを書いて、中へ入れるのか」
キーノは帳面を指した。
「このままでは、機械へ渡せませんね。今は、僕が順番を説明するために書いています」
「お前が読むためのものと、機械に使わせるものは違うのか」
「ええ」
答えてから、鬼太郎は自分の文章へ目を戻した。
ここにも、それは書いていなかった。
中で何が行われているかを説明するつもりが、そもそも何を説明しているか分からない相手を、置いてきてしまっている。
「その辺りから、書いた方がよさそうですね」
「私には、そうしてくれた方が分かる。校長先生は、もう知ってるのかもしれないが」
「以前、お話ししたことはあります。ただ、それで全部伝わったかは、確かめていませんでした」
鬼太郎は帳面を戻し、最初の頁の余白へ印を付けた。
キーノは続きの頁へ目をやった。
「これだけ覚えてたなら、思い出したときも大変だっただろうな」
「校長先生には、ご心配をお掛けしました」
「呼ばれても、返事をしなかったんだろう」
「ええ。そのときは、こちらの声が分かりませんでした」
今は、ペンを持つ自分の手が見える。
目の前の少女が何を尋ねているかも聞こえていた。戻った記憶を辿っていても、あのときのように、周囲が分からなくなることはない。
鬼太郎は頁の端へ指を置いた。
「書けるうちに、書いておきたいですね。校長先生に聞かれてから、抜けていたことに気づくかもしれませんが」
「私は、後ろの方は、まだ読めそうにない」
キーノが言った。
「知らない言葉が多すぎる。全部聞いてたら、それだけで終わる」
「今、全部読んでいただかなくても構いませんよ。先ほどのように、分からないところを教えていただけるだけで助かります」
「なら、最初のところを直したら、また見せてくれ」
彼女は自分の本を抱え直した。
鬼太郎が礼を言うと、片手を上げて部屋を出ていった。
扉が閉まってから、鬼太郎は書きかけの文章を読み直した。
先へ急ぐより、入口へ戻った方がよさそうだった。
◆
帳面に書く作業は、その後も続いた。
操作と、それを受けて機械が行うこと。自分が知っている仕組みと、魔導書を読んで分かったこと。似たものを同じものとして書いていないか、頁を戻って確かめる。
悪魔について書くところでは、ペンが少し遅くなった。
呼び出すまでの手順を書いて、その後も、同じ調子では続けられなかった。
そこから先には、相手がいる。
呼ばれたものが何を望むか。こちらの話を聞くかどうか。機械へ正しく操作を行ったところで、相手の返事まで決まるわけではない。
鬼太郎は、そのことを書き添えた。
思い出せる処理を全て記しても、仲魔との関わりまで、手順だけで伝えることはできそうになかった。
それでも、機械が行うところと、自分が相手へ向き合うところを混ぜずにおけば、校長にも尋ねてもらいやすいだろう。
書いたものを読み返し、足りない説明を加える。今の知識では魔法へどう置き換えるか分からないところには、問いを残す。
以前から戻っていた記憶だけでも、紙へ出せば、随分な量になった。
◆
約束の朝、鬼太郎は帳面を閉じて立ち上がった。
椅子を戻しても、脚にあの重さはない。廊下へ出る足も、階段を下りる足も、もう庇う必要はなかった。
門へ向かうと、キーノもついてきた。
「今日は、どこまで話すんだ」
「校長先生に、読んでいただいてからですね。僕の説明が、最初から通じないかもしれません」
「あれから、前の方は分かるようになったぞ」
「ありがとうございます。後ろの方も、そうできるとよいのですが」
道の向こうに、長い髭が見えた。
鬼太郎が手を上げると、ダンブルドアも気づいた。二人の前まで来た老人は、まず鬼太郎の立ち姿へ目を留めた。
「もう、脚を気にせず歩けるようじゃな」
「はい。よく休ませていただきました」
「それは何よりじゃ」
老人の視線が、脇に抱えた帳面へ移る。
「随分、書いたようじゃの」
「思い出していることを、まとめてみました。仕組みのお話をする前に、説明しておくべきこともありそうです」
「では、わしの分からぬところから聞くとしよう」
鬼太郎は老人を中へ案内した。
話をするための卓へ着くと、持っていた帳面を置く。筆記具を脇へ並べ、ダンブルドアが向かいへ座るのを待った。
「後半は毎日、お時間をいただくことになりますね」
「一日で聞き終えようとして、分かったふりをするよりはよかろう」
ダンブルドアが、卓へ置かれた帳面を見た。
「君も、わしの説明が分からねば、そう言いなさい」
「はい。遠慮なく」
鬼太郎は最初の頁を開き、老人の方へ向けた。