神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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三章 最後の演目
見えない酒場


第18話 見えない酒場

 荷台が跳ねるたび、鬼太郎は背中を木箱から離した。

 

 サイラス・ウォードを引き渡して、五日になる。

 

 右手はもう、握っても痛まなかった。だが肩と背中の痣は残り、身体を捻ると脇腹の奥が鈍く疼く。左手首には、火傷を覆う布を巻いていた。

 

 この五日間、〈シュライク〉は一度も撃っていない。

 

 出発前に弾倉と薬室を確かめ、作動するところまで見て、上着の内側へ戻した。いざというとき握れればよい。治りかけた手を確かめるため、また痛める必要はなかった。

 

 車が大きく揺れた。

 

 鬼太郎は鞄を押さえ、膝へ広げていた地図を折り直した。隣の木箱には荷札が結ばれ、その先が振動に合わせて跳ねている。運転席の男は、何をしにロンドンへ行くのか尋ねなかった。買い手を通して受け取った同乗代で、聞くべきことは済んでいるのだろう。

 

 鞄には現金と予備の弾薬、街路図、それからウォードの説明で描いた煉瓦の図が入っていた。男の杖は取り出せるよう上着の内側へ収めてある。

 

 もう一本の杖と父の書類は、個室の床下へ残した。

 

 行った先に何があるか分からない。一度にすべて持ち出して、まとめて失うつもりはなかった。

 

 車は昼前に停まった。

 

「ここまでだ」

 

 運転手が荷台を叩く。

 

 鬼太郎は地図をしまい、箱を避けて端へ移った。地面へ飛び降りず、後ろ向きに足を下ろす。脇腹を庇っていると、男が待ちきれず荷を一つ引き出した。

 

「迎えは来るのか」

 

「ここからは歩きます」

 

「道は?」

 

 鬼太郎が鞄を示すと、男はそれ以上聞かず、箱の反対側へ手を掛けた。積み下ろしの邪魔にならないところへ退き、礼を言って通りへ出る。

 

 車輪の音と靴音が、いくつも重なっていた。建物の前には人が並び、その横を大きな袋を抱えた男がすり抜けていく。開いた店の扉から音楽が流れてきたが、別の車が通ると聞こえなくなった。

 

 鬼太郎は壁際で地図を開いた。

 

 通りの名を見つけ、曲がる場所へ指を置く。

 

 近くで話す二人の声は速かった。聞き覚えのある単語を一つ拾っても、次の言葉に追いつく前に会話が進んでしまう。地図へない店の名前を目印にされれば、尋ねた方が分からなくなるかもしれない。

 

 まずは書かれた道を辿ることにした。

 

 角を曲がる前に、店の窓へ映った後ろを見る。立ち止まると、通行人は鬼太郎を避けて先へ行った。二つ目の角でも、同じ顔は現れない。

 

 ウォードが話したとおりなら、目的の酒場は二軒の店の間にある。

 

 見える者にしか見えない店だという。

 

 そんな説明を聞かされても、何が起こるのかまでは想像できなかった。

 

 だが、その場所へ着いたとき、鬼太郎はすぐには通りを渡らなかった。

 

 酒場はあった。

 

 煤けた壁と、汚れた窓。入口の上には、文字の薄れた小さな看板が下がっている。両隣の明るい店に挟まれると、一軒だけ夜が残っているように暗かった。

 

 漏れ鍋。

 

 教わった名前も読み取れた。

 

 ところが、その前を歩く人間は、誰も店へ顔を向けなかった。

 

 女が足を止め、隣の店の窓を覗く。連れの男は反対側へ目をやった。二人の視線の間にある酒場だけが、会話にも視線にも入ってこない。

 

 荷物を抱えた男が扉の前で人を避けた。肩が木の戸へ触れそうになったのに、店を確かめもせず歩き去る。

 

 鬼太郎は、通りの反対側からその様子を見ていた。

 

 店そのものが消えているわけではない。少なくとも、自分には壁も窓も見える。

 

 では、この人々には何が見えているのだろう。

 

 道に迷ったふりをして尋ねれば、少しは分かるかもしれない。だが、酒場を指しても見えない相手に、こちらの方を不審がられるのは面倒だった。

 

 父の血によるものか。自分の炎と関わりがあるのか。

 

 確かめたいことが、着くなり増えた。

 

 鬼太郎は地図を畳み、通りを渡った。

 

     ◆

 

 扉を押すと、酒と煙、煮込んだ肉の匂いが流れてきた。

 

 外から見たとおり、店の中は暗い。壁際の灯りと窓の光だけでは、奥の卓にいる者の顔までよく見えなかった。

 

 新聞を広げた老人が、紙面の上から目を上げる。

 

 入口に近い女も振り返った。

 

 鬼太郎は戸口を塞がないよう脇へ寄り、店内を見た。十数人いる。奇妙な形の帽子を被った者や、床に届きそうな外套を着た者もいたが、通りですれ違った人間と変わらない服の客もいる。

 

 違いが分かりやすかったのは、卓に置かれた杖だった。

 

 二本、見える。

 

 袖へ手を入れたまま話している男もいた。あちらの外套の内側も、細長く膨らんでいる。

 

 一人が何をできるかさえ、ウォードと向き合うまで知らなかった。同じ道具を持つ者が何人もいる場所へ、今度は自分から入ってきた。

 

「坊や」

 

 店の奥から呼ばれた。

 

 禿げた年配の男が、磨いていた器を置いている。続けて何か言ったが、後ろの卓の笑い声に重なり、聞き取れなかった。

 

「すみません。もう少し、ゆっくりお願いします」

 

 男は鬼太郎の顔を見直した。

 

「連れは、いるのか?」

 

「人を待っています」

 

「ここでかい?」

 

「はい」

 

 男の視線が、扉へ動いた。

 

 それから鞄を見て、また鬼太郎の顔へ戻る。

 

「そこで待つのか?」

 

 戸口の近くにいたままだった。鬼太郎は壁際の空いた席を見つけ、そちらを示した。

 

「あの椅子を、お借りしても?」

 

「構わんよ」

 

 座ると、机が少し高かった。左手首を縁へ当てないよう膝へ置き、鞄を足元へ寄せる。

 

 男はすぐ別の客に呼ばれた。鬼太郎について何か尋ねたらしい老人へ、片手を振っている。

 

 この年頃の子供が一人で来るのは、やはり珍しいらしい。

 

 隣の卓では、二人の男が紙を挟んで話していた。一人が書かれた数字を指で叩く。相手は首を振り、袋から硬貨を何枚か出した。

 

 ウォードは、銃弾を弾き、重い棚を動かし、扉を開けず部屋へ現れた。

 

 その力を持つ者たちも、ここでは代金を数えている。食事を待つ者は遅いと文句を言い、新聞を読む老人は、近くで声が大きくなるたび眉を寄せた。

 

 鬼太郎は壁に掛かった古い絵へ目を移し、それから奥の扉を見た。

 

 木箱を二つ抱えた男が出てきたところだった。

 

 男は店主と短く話し、箱の一つを卓へ下ろす。残る一つを抱え直すと、表の扉ではなく、今出てきた方へ戻っていった。

 

 鬼太郎は椅子から降りた。

 

「もう行くのか?」

 

 店主の声に足を止める。

 

「待つ場所を間違えたようです」

 

「奥にいるのかい」

 

「確かめてきます」

 

 男は今度こそ何か聞きたそうだったが、鬼太郎は先に奥の扉を押した。

 

 小さな中庭へ出た。

 

 古いごみ箱と煉瓦の壁がある。その前へ木箱を下ろした男が、外套から杖を抜いた。

 

 鬼太郎は扉を完全には閉じず、脇から見ていた。

 

 杖先が煉瓦へ触れる。

 

 位置を変え、もう一度。

 

 ウォードが図を訂正した場所だった。

 

 最初は小さく震えただけに見えた。次に煉瓦の一個が奥へ引っ込み、隣が横へ退く。石が擦れる音とともに、動きは壁全体へ広がっていった。

 

 鬼太郎は思わず半歩近づいた。

 

 煉瓦は落ちない。一つずつ順にずれ、重なり、さっきまで行き止まりだった場所にアーチを作っている。

 

 男は杖をしまい、木箱を抱えて向こうへ入った。

 

 開いた壁の縁を、鬼太郎は見上げた。

 

 蝶番も、扉を引くための取っ手もない。動いた煉瓦には、割れたところも見当たらなかった。

 

 自分の手で叩けば開くのか。それとも、杖が必要なのか。

 

 その場で試そうとはしなかった。壁が戻り始める音を聞き、先にアーチをくぐる。

 

 石畳の通りが、その向こうへ続いていた。

 

     ◆

 

 最初に目を引かれたのは、店の窓へ吊られた箒だった。

 

 柄の長さを揃えて並べられ、一本ずつ値札がついている。掃除道具なら、これほど大きな硝子窓を占めるだろうか。

 

 客の男が店員を呼び止め、真ん中の一本を指した。

 

 店員が窓の内側から取り外すと、男は柄を握り、床へ置かずに手を離した。

 

 箒は落ちなかった。

 

 腰ほどの高さへ留まり、わずかに揺れている。

 

 鬼太郎の歩みが止まった。

 

 客の男は柄を撫で、何か気に入らないことを言っている。店員が別の一本を持ってきたところで、後ろから肩へ荷物が当たった。

 

「前を空けてくれ」

 

 大鍋を運ぶ男だった。

 

 鬼太郎は道の端へ寄り、鍋を見送った。向かいの店先にも同じ形のものが積まれている。ただし色や厚みが違い、値段も違った。

 

 頭上で梟が鳴いた。

 

 羽音へ顔を上げると、店の前にいくつもの籠が並んでいる。小さな生き物を入れた檻もあった。近づいた子供が指を伸ばし、母親らしい女に手を叩かれて引っ込める。

 

 鬼太郎は、その檻の中を少し離れて覗いた。

 

 何を食べるのかも、どこに棲んでいるのかも知らない。名前さえ読めなかった。

 

 窓の中で銀色の器具が回り、薬草を吊った店から苦い匂いがする。羽根ペンが、誰の手にも握られず紙の上を走っていた。

 

 そちらへ近づき、今度は通行人の邪魔にならない位置で立ち止まる。

 

 ペン先が紙から上がった。

 

 すぐ脇にある瓶へ向かい、先を浸して戻ってくる。

 

「……便利ですね」

 

 思わず声が出た。

 

 何を書くかまで決めているのか、誰かが書いたとおりに写すのか。机へ置いたら勝手に好きなことを書き始めるのなら、少し困る。

 

 使い方を聞きたかったが、店の中は混んでいた。窓の上の看板を覚え、先へ進む。

 

 ウォード一人の使ったものが、この世界のすべてであるはずはなかった。

 

 それでも、入口を通るだけでこれほど増えるとは思っていなかった。

 

 鬼太郎は掌を見た。

 

 布を巻いた手首の先には、何も出ていない。アギなら炎を作れる。だが、煉瓦を元どおり並べ直したり、箒を浮かせたりしたことはなかった。

 

 別の力ならば、自分にも両方使えるのだろうか。

 

 同じものなら、なぜ使い方が違うのか。

 

 通りの先へ、白い大きな建物が見えた。グリンゴッツという名の下に、銀行を示す文字がある。

 

 入口へ向かう親子を見ていた鬼太郎は、女が袋から出した金色の硬貨へ目を留めた。

 

 近くの店でも、客が銀色と銅色の硬貨を並べている。

 

 値札を見直した。数字の後ろにつく単位は、持ってきた紙幣のものではなかった。

 

 鞄の中の金が、そのまま使えるとは限らないらしい。

 

 先に知ってよかった。

 

 そう思った直後、本を積んだ店が目に入った。

 

 鬼太郎は看板の長い名前を読み、足をそちらへ向けた。

 

 フローリシュ・アンド・ブロッツ。

 

 扉を開けると、紙と革の匂いがした。

 

 棚は頭上の高いところまで続いていた。棚札の文字を辿るだけでも時間がかかる。歴史、薬草、魔法薬。生き物についての本の隣には、道具の手入れを扱うものもあった。

 

 奥で、閉じた本が震えた。

 

 鬼太郎が見ていると、店員が上へ重い本を載せる。震えは止まったが、下の一冊の表紙が、時折持ち上がりかけていた。

 

 あれは、開いてもよい本なのだろうか。

 

 鬼太郎は手を伸ばさず、初歩の呪文を扱う棚へ移った。低い段から一冊抜き、開く。

 

 文章の間に、杖の動きを示した図がある。短い言葉と、その下には知らない単語を含む説明が続いていた。

 

 一行ずつ読み、分かったところまで戻る。

 

 ウォードは杖を向け、言葉を発していた。ただ棒を握れば、望んだことが起きるわけではない。

 

 上着の内側にある杖を意識した。

 

 使っていた本人から奪ったものだ。それでも、この本にあることを自分ができるかどうかは、まだ分からない。

 

 頁をめくろうとして、袖が引っかかった。手首の布を直し、本を閉じる。

 

 試す場所にしても、ここではなかった。

 

 もう一冊、この社会の仕組みを扱った薄い本を選んだ。魔法省という名が目次にある。捕まる決まりを知らないまま道具だけ使えるようになっても、役に立つとは限らない。

 

 二冊を抱え、会計台へ行った。

 

 店員が値段を言う。

 

 聞き直すと、金色の硬貨を指で示された。

 

「こちらは、使えますか?」

 

 鬼太郎は英国の紙幣を一枚だけ出した。

 

「マグルのお金かい」

 

「はい」

 

「それならグリンゴッツで替えないと。ここでは受け取れないよ」

 

「交換するとき、何が要るのでしょう?」

 

「窓口で聞けば教えてくれる。場所は……」

 

 店員は通りを指しかけ、鬼太郎の後ろを見た。

 

「一緒の大人は?」

 

「いません」

 

「一人で来たのか?」

 

 先ほどより大きな声だった。

 

 棚の間にいた客が、こちらを振り返った。

 

「両親は、どこにいるんだい」

 

 鬼太郎は紙幣をしまった。

 

 答えれば、次の問いが来る。家族の事情を説明すれば済むのか、誰かを呼ばれるのかも分からない。

 

「先に、お金を替えてきます」

 

「待ちなさい。銀行までなら――」

 

「白い建物ですね。場所は分かります。ありがとうございます」

 

 本を台へ置き、扉へ向かった。

 

 店員が呼ぶ声を聞きながら外へ出る。通りを少し進み、別の店の窓の前で足を緩めた。

 

 追ってはこなかった。

 

     ◆

 

 グリンゴッツの入口には、書類を持った男と、硬貨の袋を抱えた女がいた。

 

 子供は大人と一緒に階段を上がっている。

 

 書店の店員についてきてもらえば、金を替えることはできるかもしれなかった。その代わり、名前と居場所、なぜ一人なのかを話すことになるだろう。

 

 鬼太郎は銀行へ向かわなかった。

 

 断られると決まったわけではない。だが、あの中で何を尋ねられ、答えをどう扱われるのか、まだ何も知らなかった。

 

 表の窓口以外にも、金を扱う者はいるはずだ。

 

 歩き始めて間もなく、曇った窓の向こうに一本の杖を見つけた。

 

 オリバンダー。

 

 看板には、ひどく昔から杖を作っていることが書かれている。

 

 鬼太郎は扉の前まで行った。

 

 ここなら、持っている杖を見せれば何か分かるかもしれない。材料も、作り方も、自分が使えるかどうかも。

 

 だが、持ち主について尋ねられたら、どう答えるべきだろう。

 

 撃って奪ったと話せば、あの魔法省へ知らせられるのか。そもそも、見てもらう代金さえ、今は払えない。

 

 鬼太郎は取っ手へ伸ばしかけた手を下ろした。

 

 また来ればよい。

 

 窓へ背を向けたとき、通りの反対側に茶色い外套が見えた。

 

 痩せた男だった。

 

 大鍋の店の前にもいた。書店で紙幣を出したとき、棚の端からこちらを見たのも、この男ではなかったか。

 

 鬼太郎は少し歩き、薬草店の窓を覗くふりをした。

 

 硝子に映った男が、通りの向こうで止まる。

 

 店には入らない。

 

 鬼太郎が再び歩くと、男も動いた。

 

 今度は、見失わない程度に距離を保っている。

 

 鬼太郎は、人通りの多い場所を抜け、店と店の間へ伸びる細い道へ入った。先が完全な行き止まりではないことを見てから、歩みを緩める。

 

「おい、坊や」

 

 声が追いついた。

 

 振り返ると、男は親しげに口元を緩めていた。近づきすぎず、逃げ道を塞ぎもしない。右手は見える位置へ出し、左手は外套の縁に触れている。

 

「本屋で困ってただろう」

 

 鬼太郎に合わせたのか、ゆっくりした話し方だった。

 

「見ていらしたのですか」

 

「ああ。マグルの金は、表の店じゃ使えねえからな」

 

「銀行で替えるように言われました」

 

「あそこは面倒だ。子供が一人で行けば、いろいろ聞かれる」

 

 男の視線が鞄へ落ちた。

 

 すぐ鬼太郎の顔へ戻ったが、その途中で上着の膨らみも見ていた。

 

「ほかに、替えてくれるところがある。手数料も安い」

 

「近くですか?」

 

「すぐそこだ。外からじゃ分かりにくいが、俺が案内してやる」

 

 男は、さらに細い路地を指した。

 

 書店からついてきて、表通りを離れてから声をかけた。銀行で質問されるのを嫌がった子供なら、他の大人へ助けを求めにくいとも思っているのだろう。

 

 鬼太郎は男の指の先を見た。

 

 看板のない扉が幾つかある。店なのか、誰かの家なのかも分からない。

 

 そこで金を替える者は、どんな品物を買い取り、誰へ仕事を渡しているのだろう。

 

「それは助かります」

 

 鬼太郎は答えた。

 

「ただ、お金を替えていただく前に、幾らになるのかは伺えますね?」

 

「もちろんだ。ちゃんと話を聞いてくれる」

 

 男の笑みが深くなった。

 

 鬼太郎も口元を緩め、右手で上着の裾を直した。内側にある〈シュライク〉へ、指が届く。

 

「では、案内をお願いします」

 

 男が先に歩き始めた。

 

 鬼太郎は数歩離れてその後を追った。窓に映る後ろを確かめ、曲がった角と、表通りから遠ざかる靴音を覚えていく。

 

 知らない街で最初に得た親切だった。

 

 どれほどの値段がつくのかは、これから聞けばよかった。

 

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