第十八話 言葉の外側
物置の扉が、二度叩かれた。
返事を待ってから開く。
昨日の朝にはなかった変化だった。
「上へ来い。話がある」
買い手の部下が言った。
鬼太郎の腕を掴まない。
背中も押さなかった。
「分かりました」
鬼太郎は立ち上がった。
机の上には、皿と金属のカップが置かれている。
パンは相変わらず固い。
飲み物も薄い。
床に置かれなくなっただけだった。
鬼太郎は食事を終え、上着の下を確かめた。
〈シュライク〉は専用ホルスターに収まっている。
左腕へ痛みはない。
それでも、今は右手だけで扱う。
◆
買い手の机には、三枚の紙が並べられていた。
紙には、それぞれ別の男の特徴が書かれている。
鬼太郎には読めない単語が多かった。
買い手が、紙を一枚ずつ指で叩く。
「俺の荷物が、二度奪われた」
前回より、話す速度が遅い。
「どちらも、運ぶ道を変えた直後だ」
「経路を知っていた人がいるのですね」
「三人いる」
買い手は紙を鬼太郎の方へ向けた。
「この三人だ。一人ずつ調べろ。誰が話を売っているのか、名前を持ち帰れ」
「証拠は必要ですか?」
「取れるなら取れ」
「殺しても?」
「殺すな」
買い手は即座に答えた。
「裏切り者が誰か分からないまま死なれれば、残り二人も使えなくなる。尾行にも気づかれるな」
「三人の確認と、可能なら証拠の回収。殺害はせず、尾行にも気づかれない」
鬼太郎は指を折りながら並べた。
「それで完了ですね?」
「それでいい」
「報酬は?」
買い手は壁際の部下を見た。
今度は、誰も笑わなかった。
買い手が金額を告げる。
前回より高い。
三人を数日追う仕事としては、まだ安かった。
だが、仕事の内容と報酬は、始める前に決められた。
「承知しました」
鬼太郎は三枚の紙を取った。
「英語をすべて読めるのか?」
「いいえ」
「なら、どうする」
「分からないところは、今お聞きします」
鬼太郎は最初の紙へ指を置いた。
「この単語は、何です?」
◆
一人目の男は、仕事を終えると酒場へ入った。
夕方から日が沈むまで飲む。
店を出るときには、歩き方が変わっていた。
そのまま賭け事を扱う店へ寄る。
金を使い、負けて出てくる。
翌日も同じだった。
金遣いは荒い。
だが、荷物の経路を買うような相手とは会っていない。
鬼太郎は酒場の前で、靴紐を直すふりをした。
店から出てきた一人目が、鬼太郎の横を通り過ぎる。
目も向けなかった。
◆
二人目は、仕事のあとに遠回りをした。
同じ道を二度通り、後ろを確認する。
古い集合住宅へ入った。
鬼太郎は通りの反対側へ座り込んだ。
しばらくすると、窓に灯りがつく。
二人目の男が、女と幼い子供とともに食卓へ座る姿が見えた。
紙に書かれていない家族だった。
翌日も同じ建物へ入る。
持っていた袋には食料が入っていた。
買い手には隠している。
だが、荷物を奪った相手と会っているわけではない。
鬼太郎は建物の位置だけを覚え、追跡を終えた。
◆
三人目は、仕事を終えてから同じ道を使わなかった。
初日は橋を渡った。
二日目は市場を抜けた。
三日目には乗合の車へ乗り、二つ先の停留所で降りた。
歩く速度も変わる。
店の窓へ顔を向け、背後を映している。
鬼太郎は男の後ろを歩かなかった。
先の通りへ回り、男が来るのを待つ。
見失いそうになれば、道端で遊ぶ子供へ場所を尋ねた。
聞き取れない言葉が返ってくることもある。
その場合は、指を差した方向だけを見る。
言葉が分からなくても、靴跡は変わらない。
目を向けた場所も、立ち止まった時間も消えない。
三人目の男は、市場の一角で足を止めた。
新聞を持っている。
空いた長椅子へ座った。
数分後に立ち上がる。
新聞は置いたままだった。
鬼太郎は果物を並べる店の前にいた。
店主が何かを尋ねる。
言葉の半分しか分からない。
「叔母を待っています」
覚えている英語で答えた。
店主はそれ以上聞かなかった。
三人目が市場から出ていく。
すぐには追わない。
別の男が長椅子へ近づいた。
置かれた新聞を取り、広げる。
一枚の紙へ目を通した。
男は周囲を見てから、紙を新聞へ戻した。
懐から小さな封筒を出す。
それも新聞の間へ挟んだ。
新聞を畳み、長椅子へ戻して立ち去る。
受け渡しは、まだ終わっていない。
三人目が、金を取りに戻ってくる。
その前に確かめる必要があった。
◆
市場は、人で混み合っていた。
鬼太郎は長椅子へ向かった。
走らない。
新聞を手に取り、近くの店へ移る。
店先の陰で新聞を開いた。
中には、折り畳まれた紙と封筒がある。
最初に紙を見る。
英語の文章は、ほとんど読めなかった。
それでも、数字は分かる。
地名も、買い手の机で見せられた経路図と同じものだった。
日付。
時刻。
通る道。
次に運ばれる荷物の経路が書かれている。
封筒には紙幣が入っていた。
鬼太郎は紙と封筒を鞄へ入れた。
新聞だけを元の長椅子へ戻す。
人混みへ入った。
少し遅れて、三人目の男が市場へ戻ってきた。
長椅子の新聞を取る。
開く。
紙も封筒もない。
男の顔色が変わった。
周囲を見回す。
鬼太郎は露店の前に立ち、並べられた菓子を見ていた。
男の視線が、一度だけ鬼太郎を通り過ぎる。
外国人の子供が一人いる。
それ以上の意味を見つけられない。
三人目は受取人が金を持ち逃げしたと考えたのか、新聞を掴んで市場を出ていった。
鬼太郎は反対側の出口へ向かった。
◆
経路の書かれた紙と、金の入った封筒が買い手の机へ置かれた。
買い手は紙を広げた。
日付を見る。
地名を見る。
顔から表情が消えた。
「この経路は、まだ三人にしか教えていない」
「新聞を置いたのは、三枚目の紙に書かれていた方です」
「受け取ったのは?」
「知らない男でした。顔は覚えています」
鬼太郎は、男の背丈、髪、上着、歩き方を説明した。
買い手の部下が横で聞いている。
該当する人物に心当たりがあるらしく、買い手へ短く何かを告げた。
早口で、鬼太郎には聞き取れなかった。
「三人目は、まだ生きているな?」
「ええ」
「なぜ、その場で殺さなかった」
「殺さないことが、今回の条件でしたから」
買い手は鬼太郎を見た。
「前の仕事では二人殺した」
「前の方々は、僕へ銃を向けました」
「今回は向けられなかったから殺さなかったのか」
「いいえ」
鬼太郎は微笑んだ。
「殺さないよう、頼まれていましたから」
買い手はしばらく何も言わなかった。
それから、机の引き出しを開ける。
紙幣を取り出した。
最初から、約束した額が置かれる。
「数えろ」
「確認は必要ですね」
鬼太郎は一枚ずつ数えた。
不足はない。
封筒に入っていた金は、買い手が証拠品として回収した。
「裏切った者は、どうするのです?」
「お前には関係ない」
「ええ。僕の仕事ではありませんから」
鬼太郎は報酬を鞄へ入れた。
◆
その日の午後、鬼太郎は一人で街へ出た。
買い手へ行き先は告げてある。
仕事ではない。
初めて、自分のために英国の店へ入る。
棚には本が並んでいた。
難しい本は読めない。
子供向けの薄い読み物を一冊選ぶ。
絵の脇に、短い文章が書かれている。
次に、小さな辞書。
街路図。
弾薬を衣服と分けて入れられる、丈夫な鞄。
店員の言葉をすべては聞き取れなかった。
値札の数字を見て、必要な金を出す。
残った金で、温かい食事を買った。
物置へ戻る。
薄い毛布の上へ、買ったものを並べた。
この場所は家ではない。
英国で仕事と情報を得る間だけ使う、仮の寝床だった。
鬼太郎は街路図を広げた。
辞書を開く。
英国へ着いた日に、窓の外で見た看板と同じ単語を探す。
一文字ずつ辿る。
意味を見つける。
街路図の端へ、その単語を書き写した。
この国で動くために必要なものは、力だけではない。
知らないものは、覚えればよい。