明日もいると言った
第1話 明日もいると言った
ブルガリアの町外れに、小さな家があった。
町へ続く道に面して門があり、裏には古い柵が巡らされている。朝になれば台所からパンを焼く匂いが漂い、二階で眠る子供を起こす声がした。
六歳の墓場鬼太郎は、父と母と、その家で暮らしていた。
その朝、鬼太郎は扉の向こうで床が鳴る音を聞いて、目を開けた。母が階段を上ってきたのだろう。枕元へ伏せた本を横へずらし、布団から身体を起こす。
「鬼太郎、朝ですよ」
「起きています。すぐに行きますね」
「はい。顔を洗っていらっしゃい」
足音が遠ざかると、鬼太郎は寝台から下りた。
鏡の中では、前髪の一房が跳ねていた。黒く見える髪も、朝日が当たるところだけ濃い青に変わる。濡れた指で押さえたが、顔を拭く間にまた戻っていた。
母に見つかれば、今日も何か言われるだろう。
鬼太郎は髪から手を離し、部屋へ戻って本を棚へ収めた。自分で置いた順番が変わっていないことを確かめ、扉を閉める。
父と母は、鬼太郎のものを勝手に捨てたり、誰かへ渡したりしなかった。触る前に尋ね、貸したくないと答えれば、それ以上は言わない。そういうところも、二人を気に入っている理由だった。
一階では、父が新聞を広げていた。
「おはようございます」
鬼太郎の声に顔を上げ、父は新聞を少し下げた。
「おはよう、鬼太郎」
台所には母がいて、食卓には三人分の皿が並んでいる。
席の背もたれは、鬼太郎には少し高い。足も床へ届かないが、自分で上がれないほどではなかった。椅子を引いて座ると、台所から母が皿を運んできた。焼いたパンの香りに、卵の匂いが混じる。
「あら。今日も元気そうね」
母は鬼太郎の顔より、頭の上を見ていた。
「髪を見て健康を判断しないでください」
母は笑って、跳ねた前髪へ手を伸ばした。濡らして押さえても戻ったところを、指先で整えていく。
他人に顔や髪を触られるのは好きではない。けれど、母の手はそのままにさせた。父に頭を撫でられるのも、不快ではなかった。
「今日もずいぶん丁寧だな」
新聞を置いた父が言った。
「挨拶は丁寧にするものなのでしょう?」
「そう教えたのは私だけどね」
言葉を覚えたころから、鬼太郎はこんな調子で話していた。母はときどき、もっと甘えてもいいのだと言う。だが、欲しいものがあれば頼んでいるし、できないことがあれば手も借りる。それ以上、何を変えればよいのか分からなかった。
母が隣へ座ると、食卓の三つの席が埋まった。鬼太郎はパンをちぎり、父と母の話を聞いた。
今日は裏の柵を直すらしい。父がそう言うと、母は、この前の椅子を忘れたのかと尋ねた。
「あれは最初から壊れていた」
「座れる椅子を、座れない椅子にしたでしょう?」
父が鬼太郎を見た。助けを求められているらしい。
「まだ物置にありますよ。座れないままで」
「味方がいないな」
母が声を立てて笑う。父も苦笑して、飲み物へ手を伸ばした。
鬼太郎は自分のパンをちぎった。焼きたての端はまだ熱く、指先を離すと、父が小皿を寄せてくれた。
「急がなくていい。誰も取らないよ」
「分かっています」
「昨夜は本を読んでいたんだって?」
鬼太郎は母を見た。
「明かりが見えたのよ。廊下から」
「途中でやめると、続きが気になるでしょう?」
「朝になってから読めばいいじゃない」
「朝になっても、やはり続きは気になりますよ」
父が笑った。
「読み終わったら、何の話だったか教えてくれ」
「貸しましょうか?」
「いいのかい?」
「戻してくだされば」
「もちろん。勝手に持っていったりしないさ」
それなら問題なかった。鬼太郎は冷めたパンを口へ運ぶ。母は食事を終えてからにしなさいと言い、まだ本を取りに行こうともしていない鬼太郎へ、卵の皿を寄せた。
鬼太郎は、この時間を気に入っていた。
食事を作り、名を呼び、眠れば毛布を掛けてくれる二人。二人が座る食卓も、この家も、自分のものだった。誰かへ譲るつもりはなかったし、明日もここにあって当然だと思っていた。
「どうした?」
父に尋ねられ、顔を上げる。
「二人とも、今日もここにいると思っただけです」
「昨日もいたし、明日もいるさ」
「それなら結構です」
父は笑った。
そのあと、新聞を手に取り、窓の方へ顔を向けた。鬼太郎は気にせず、残った卵を食べた。母がパンを勧め、父が首を振る。
新聞へ目を戻したはずの父が、また道を見る。
三度目に同じことをしたとき、鬼太郎は食べる手を止めた。父の前の新聞は、一度もめくられていなかった。
「誰か来るのですか?」
父の指が、新聞の端を強くつまんだ。
「いや。誰も来ないよ」
「そうですか」
答えるまでに、少し間があった。父は窓へ背を向けるように座り直したが、今度は母が外を見た。
鬼太郎は、二人の顔を順番に見た。食事がまずいわけではないらしい。母はいつもと同じものを食べているし、父も先ほどまでは笑っていた。
誰も来ないのであれば、何を見ているのだろう。
食事を終えて皿を運ぶとき、鬼太郎も外へ目を向けた。
朝の道は、まだ人通りが少なかった。門の前の柔らかい土に、二人分の靴跡が残っていた。
道から門へ近づき、そこで止まって戻っている。
「昨日、誰か来ましたか?」
母の手が、布巾を持ったまま止まった。
「いいえ。どうして?」
「門の前に足跡があります。二人いたようですが」
「近所の人じゃないかしら」
鬼太郎は母を見た。母は道から目を離し、父の方を向いた。二人のどちらも、近所の誰の足跡なのかを確かめようとはしなかった。
「鬼太郎。今日は外へ出ないようにしなさい」
父が新聞を畳んだ。
「柵を直すのでは?」
「また今度にする」
「分かりました」
理由は話したくないのだろう。鬼太郎は皿を置き、もう一度、門の向こうを見た。
黒い外套を着た男が立っていた。
道を進むでもなく、こちらを向いている。フードの陰で顔は見えなかった。その隣に、もう一人が現れた。
歩いてきたのではない。何もなかった場所に、突然、人間が立った。
「お父さん」
呼ぶより早く、父が窓辺へ駆け寄った。男たちを見た瞬間、その顔から血の気が引く。
「カーテンを閉めろ」
母が窓を覆った。朝日が遮られ、台所が薄暗くなる。
「お母さんと二階へ行きなさい」
「なぜです?」
「あとで話す。早く」
玄関の扉が、三度叩かれた。
父の肩が震えた。母は鬼太郎を引き寄せ、自分の背後へ隠そうとする。
「おはようございます。少々、お尋ねしたいことがあるのですが」
扉の向こうから、礼儀正しい声がした。
玄関脇の曇りガラスに、人影が二つ映っている。一人が腕を上げ、細い棒のようなものを扉へ向けた。
鍵が、ひとりでに回り始めた。
父が取っ手を押さえた。
「裏口へ行け!」
母の手が鬼太郎の肩をつかむ。その瞬間、扉が内側へ弾けた。
父の身体が食卓へ叩きつけられ、皿が砕けた。母が息をのむ。壊れた玄関から、外套の男たちが入ってきた。
「こんなところで、随分と慎ましく暮らしていたものだ」
先頭の男が、倒れた父を見下ろした。
父は食卓に手をつき、立ち上がった。
「戦争は終わった。あの人も消えた。もう、私たちを追う理由はない」
「追う?」
二人の男が顔を見合わせ、一人が笑った。
「自分が追われるほど大した人間だと思っているのか?」
父の顔が強張る。
「鬼太郎、行くわよ」
母に引かれても、鬼太郎は父から目を離せなかった。男たちの前へ立ち、両腕を広げている。その手には、何もなかった。
「妻と子供は関係ない」
「それを決めるのは、お前ではない」
細い棒が父の胸へ向いた。
「走れ!」
「アバダ・ケダブラ」
緑の光が、父を捉えた。
父は声を上げずに倒れた。床へ打ちつけた頭も、投げ出された手も、それきり動かなかった。
「お父さん?」
開いた目は、鬼太郎を見ていなかった。
食卓から落ちた手が、床に横たわっている。鬼太郎は、その指が動くのを待った。立ち上がれなくても、こちらを向くくらいはできるはずだった。
先ほど扉ごと飛ばされたときには、立った。今は身体に傷も見えない。それなのに、息を吸う音すらしなかった。
「見ないで!」
母の腕が頭を抱え込み、父の姿が隠れた。そのまま台所を抜け、裏口へ引かれていく。
六歳の足では母についていけず、何度も床を踏み損ねた。背後では、ゆっくりと靴音が続いていた。
母が裏口の取っ手を回した。
朝、何度も通った場所だった。母が洗濯物を抱えて出るときには、鬼太郎が開けることもある。取っ手を回して押せば、それだけで外へ出られた。
開かない。何度引いても、扉は動かなかった。
「開くわけがないだろう」
廊下の向こうに、もう一人の男がいた。父を倒した男とは違う。その手にも、同じ棒が握られている。
母が膝をつき、鬼太郎の頬へ触れた。
「合図したら、二階へ逃げなさい。窓から出るの」
「高すぎます」
「大丈夫。あなたなら――」
「相談は終わったか?」
男が近づく。母は鬼太郎を背へ押しやり、両手を広げた。
「この子には何もありません。まだ六歳よ」
「だからどうした」
棒の先が、母の胸へ定められた。
鬼太郎は母の服をつかんだ。
父にも、あれが向けられた。緑の光を受けて倒れ、呼んでも答えなかった。
母をここから離さなければならない。だが、服を引いても、母は男の前から動かなかった。
「やめてください」
鬼太郎は母の脇から、男を見上げた。
「お母さんは、僕のものです。壊さないでいただけますか?」
男の眉が動いた。
「気味の悪い子供だ」
「聞こえませんでしたか?」
「聞こえたとも」
男が笑う。
「断る」
再び、緑の光が走った。
母の重さが鬼太郎へかかった。支えきれず、二人で床へ倒れる。頬に母の髪が触れた。
「お母さん」
腕の下から這い出して、顔を覗き込んだ。
返事がない。頬へ触れても、いつものように手を重ねてはくれなかった。
まだ温かいのに、鬼太郎を見ていない。
母の手を取った。指を開き、自分の頬へ当てる。朝と同じ感触がしたが、髪へ動いてくることはなかった。
鬼太郎が離すと、手は床へ落ちた。
落ちる前につかみ直し、母の身体のそばへ戻す。どうすれば元のように動くのか、知らなかった。
父も、母も、こうなった。
今朝、自分の髪へ触れた手だった。食卓で笑い、明日もいると父は言った。
この男たちが来るまでは、二人とも、確かに自分のものだった。
――奪われた。
頭の奥で、知らない銃声が響いた。
赤黒い空が見えた。崩れた建物の間を、何かが走っている。人ではない。咆哮が響き、血と鉄の臭いが鼻の奥へ満ちた。
そこで、自分は生きていた。
隣にいた者が倒れ、食料を奪われ、眠る場所を追われる。手放したくないと願っても、それだけでは何一つ残らない。
奪われたくなければ、奪う者より強くなるしかなかった。
鬼太郎は母の肩から手を離した。
六年の間、知らずにいた経験が戻ってくる。戦い、逃げ、生き延び、二十四歳で死ぬまでに積み重ねた判断が、小さな身体の中へ流れ込んだ。
だが、誰と戦ったのかは分からない。自分を殺した者の顔も、そこへ至るまでの道も、思い出せなかった。
昨日までの自分が消えたわけではなかった。母の声も、父と囲んだ食卓も覚えている。その六年の記憶へ、別の人生の断片が重なっていた。
なぜ二つあるのかを考えるより先に、男が立っている位置を見た。母を挟んで、数歩先。こちらへ向けた棒から、あの光が放たれる。
床に倒れたままでは、避けることもできない。
「おい。次はお前だ」
男の声で、廊下が戻ってきた。
鬼太郎は立ち上がった。父と母を倒した武器が、今度は自分へ向いている。
恐怖はあった。身体は小さく、逃げ道も塞がれている。
それでも、相手の手が動くのを待つ気にはならなかった。
鬼太郎は右手を上げた。
胸の奥にある力を、つかんだ。何をするのか考える前に、力は熱を帯び、伸ばした手の先へ集まっていた。
「アギ」
赤い火球が、男の胸へ直撃した。
外套が弾けるように燃え上がった。男は悲鳴を上げて廊下へ倒れ、両手で炎を叩いた。
「消せ! 消してくれ!」
燃える身体が床を転がる。母へ近づきかけたところで、鬼太郎は母の服を引いた。動かせたのは、わずかだった。
男は鬼太郎へ手を伸ばしたが、届かなかった。叫び声が掠れ、やがて動かなくなった。
鬼太郎は、その顔を見ていた。
母に武器を向けたとき、男は笑っていた。鬼太郎の言葉を聞き、意味も分かったうえで断った。その男が、今は自分を焼く火から逃げようとしていた。
火を消す方法は知らない。知っていたとしても、助けたいとは思わなかった。
焼けた臭いが廊下へ広がる。
鬼太郎は右手を見た。皮膚は焼けていない。掌を開き、指を曲げる。
「……アギ」
その響きを知っていた。
何度も、この手から炎を放ったことがある。誰へ向けたのかは思い出せなくても、赤い火球が飛ぶ光景には、確かな覚えがあった。
玄関の方で、靴音が止まった。
父を倒した男が、廊下の入口に立っていた。焼けた仲間と、鬼太郎の右手を交互に見ている。
「何をした……?」
先ほどまでの笑みは消えていた。
鬼太郎は、その男へ掌を向けた。
「さあ。僕にも、よく分かりません」
もう一度、炎を出せるだろうか。
力をつかんだ感覚は残っている。だが、同じようにできる保証はなかった。手の先には、まだ何も生まれていない。
「ですが、あなたにも試してみれば、何か思い出せるかもしれませんね」
男の喉が動いた。
一歩、後ろへ下がる。倒れた仲間を一度だけ見ると、棒を持ち上げた。
鬼太郎は身構えた。
乾いた破裂音がして、男の姿が消えた。
鬼太郎は手を下ろさず、廊下の入口を見ていた。外で走る音はしない。玄関の向こうへ出た様子もなかった。
突然現れ、突然消えた。
追う方法は知らない。男の名前も、父を見つけた理由も分からなかった。
しばらく待ってから、鬼太郎は右手を下ろした。
壊れた食卓のそばへ歩く。父の目を閉じ、廊下へ戻って母の目も閉じた。
朝の光が、破れた玄関から差し込んでいた。床に散った皿の欠片が、その光を返している。
鬼太郎は母の隣に膝をついた。
「明日もいると、おっしゃったでしょう」
声にしても、返事はなかった。
父が嘘をついたのではない。ここにいたくても、いられなくされたのだ。
鬼太郎は、自分の小さな手を見た。
母を支えられず、引いて動かすことさえ難しかった手。そこから出た炎だけが、男を倒した。
「なるほど。力がなければ、こうなるのですね」
廊下の入口へ目を向ける。
一人は、逃げた。
あの男が次に来るとき、自分まで同じように倒れてやるつもりはなかった。