朝は、三度のノックで終わる
第一話
「鬼太郎、朝ですよ」
扉越しに聞こえた母の声で、墓場鬼太郎は目を覚ました。
知らない天井ではない。
白い漆喰に走った細い亀裂も、窓辺で揺れる薄いカーテンも、枕元に並べた三冊の本も、昨日と何一つ変わっていなかった。
「起きています。すぐに行きますね」
「はい。顔を洗っていらっしゃい」
遠ざかっていく足音を聞きながら、鬼太郎は身体を起こした。
六歳の小さな身体には、まだ朝の眠気が残っている。けれど、もう一度布団へ潜ろうとは思わなかった。母は二度目には部屋へ入ってくる。そして勝手にカーテンを開け、布団を剝ぎ取るのだ。
それ自体は嫌ではない。
ただ、自分で起きられるのに起こされるのは、少し面白くなかった。
寝間着を脱いで畳み、椅子の背に掛ける。服を着替え、床にそろえておいた靴へ足を入れる。洗面台の鏡には、寝癖でさらに広がった髪が映っていた。
黒に見える髪は、朝日を浴びたところだけ濃い青色を帯びている。
鬼太郎は濡らした手で髪を押さえた。
一度。
二度。
髪はすぐ元の形へ戻った。
「……言うことを聞きませんね」
しばらく鏡越しに睨み合い、諦めた。
一階へ下りると、焼いたパンの香りが漂っていた。
母は台所に立ち、父は食卓で新聞を広げている。どちらも、いつもと同じ場所にいた。
「おはようございます」
「おはよう、鬼太郎」
父は新聞から顔を上げ、わずかに笑った。
「今日もずいぶん丁寧だな」
「挨拶は丁寧にするものなのでしょう?」
「そう教えたのは私だけどね」
母が皿を運びながら、鬼太郎の髪を見た。
「あら。今日も元気そうね」
「髪を見て健康を判断しないでください」
「だって、鬼太郎の髪は具合が悪くても元気でしょう?」
「それでは判断材料になりませんよ」
母の指が、鬼太郎の前髪を軽く整えた。
鬼太郎は動かなかった。
他人に髪や顔を触られるのは好まない。けれど、母が触ることは許している。父が頭を撫でることも、不快ではなかった。
二人は、ほかの人間とは違う。
自分の家にいて、自分の名を呼び、自分のために食事を作る。具合が悪ければ心配し、眠れば毛布を掛ける。
父と母が自分を大切にするのと同じように、鬼太郎も二人を大切にしていた。
それが世間でいう家族への愛情と同じものなのかは、六歳の鬼太郎には分からない。
ただ、この家も、この食卓も、目の前にいる二人も、自分のものだという感覚だけははっきりしていた。
「どうした?」
父に尋ねられ、鬼太郎は視線を上げた。
「いいえ。二人とも、今日もここにいると思っただけです」
「昨日もいたし、明日もいるさ」
「そうですか。それなら結構です」
鬼太郎は自分の席に座った。
母が置いた皿には、焼いたパンと卵が載っている。牛乳の入ったカップは、いつもと同じ位置に置かれていた。
満足してパンへ手を伸ばす。
父は再び新聞を広げたが、記事を読んではいなかった。
窓の外を見る。
新聞へ目を戻す。
しばらくすると、また外を見る。
「お父さん」
「なんだい?」
「先ほどから、窓ばかり見ていますね」
父の手が止まった。
「そうだったかな」
「三回見ました」
「よく数えているな」
「気になりましたので。誰か来るのですか?」
「いや。誰も来ないよ」
答えるまでに、ほんのわずかな間があった。
鬼太郎は父の顔を見つめた。
「そうですか」
嘘をついている。
そう思ったが、追及はしなかった。
父が話したくないのであれば、今は聞く必要がない。必要になれば、そのとき聞けばよい。
母が空いた椅子へ座る。
「今日はどうするの?」
「裏の柵を直すつもりだよ。一本、腐りかけているから」
「また自分でやるの? この前は椅子を余計に壊したでしょう」
「あれは最初から壊れていた」
「座れる椅子を、座れない椅子にした人の言葉とは思えないわね」
父が困った顔で鬼太郎を見る。
「鬼太郎。お母さんは最近、少し私に厳しいと思わないか?」
「お母さんの言っていることが正しいと思います」
「即答か」
「壊れた椅子は、まだ物置にありますから」
母が声を立てて笑った。
父は味方がいないと嘆きながら、冷めかけた飲み物へ口をつけた。
鬼太郎も小さく笑った。
悪くない朝だった。
毎朝、同じで構わないと思える程度には。
食事を終えた鬼太郎は、自分の皿を台所へ運んだ。
窓の向こうには、ブルガリアの町外れに続く細い道が見える。朝の空気は冷たく、道を行き交う者はまだ少なかった。
ふと、家の前の土に残された跡が目に入った。
靴跡だった。
一つではない。
二人分の足跡が、門の前まで続いている。そこでしばらく留まり、また道の方へ戻っていた。
昨夜、客が来た記憶はない。
「お母さん」
「なあに?」
「昨日、誰か来ましたか?」
「いいえ。どうして?」
「門の前に、二人分の足跡があります」
食器を拭いていた母の手が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
「近所の人じゃないかしら」
「家の前で立ち止まっていたようです」
「道に迷ったのかもしれないわね」
母も嘘をついていた。
父ほど分かりやすくはなかったが、鬼太郎には分かった。
鬼太郎は両親を交互に見た。
二人とも、もう笑っていない。
「鬼太郎」
父が新聞を畳んだ。
「今日は外へ出ないようにしなさい」
「柵を直すのでは?」
「それは、また今度にする」
「分かりました」
理由を尋ねずに答えると、父は少し驚いたようだった。
「聞かないのか?」
「話したいのであれば、お父さんから話すでしょう?」
父は何かを言いかけ、結局、口を閉じた。
鬼太郎は窓の外へ視線を戻した。
道の先に、人影があった。
黒い外套を着た男が、こちらへ背を向けて立っている。
顔は見えない。
けれど男は道を歩くでもなく、誰かを待つでもなく、ただ墓場家のある方角を見張っているようだった。
鬼太郎が目を細める。
その隣へ、もう一人の男が現れた。
どこかから歩いてきたのではない。
先ほどまで誰もいなかった場所に、音もなく立っていた。
「お父さん」
鬼太郎が呼ぶより早く、父が窓辺へ駆け寄った。
二人の男を見た瞬間、その顔から血の気が引いた。
「カーテンを閉めろ」
低い声だった。
母がすぐに窓を覆う。
朝日を遮られ、室内が薄暗くなった。
「二人とも、どうしたのですか?」
「鬼太郎。お母さんと一緒に二階へ行きなさい」
「嫌です」
鬼太郎は穏やかに答えた。
父が息をのむ。
「これはお願いじゃない。早く行くんだ」
「理由を教えてください」
「あとで必ず話す。だから今は――」
玄関の扉が、三度叩かれた。
父の身体が震えた。
母は鬼太郎の肩を抱き、自分の背後へ隠そうとする。
扉の向こうから、男の声がした。
「おはようございます。少々、お尋ねしたいことがあるのですが」
柔らかく、礼儀正しい声だった。
鬼太郎は母の腕の隙間から、玄関を見つめた。
扉の下から伸びる二人分の影。
そのうち一つが、ゆっくりと腕を上げる。
細長い棒のようなものが、扉へ向けられた。
そして、扉の鍵がひとりでに回り始めた。