第十九話 借り物の鍵
二週間で、物置の中に読める言葉が増えた。
扉。
危険。
出口。
鬼太郎は街で見た単語を紙へ書き、夜になると小さな辞書を引いた。
短い看板なら、意味を確かめられるようになった。値札の数字や通りの名前も読める。
人が続けて話す言葉は、まだ途中から音の塊になる。知らない言い回しも多かった。
分からないものを、分かったふりはしない。
買い手の仕事をする間にも、分からない言葉を一つずつ覚えた。
手紙を一通運ぶ。
通りの角に立ち、出入りする人間を数える。
倉庫へ届いた木箱の数と、紙に書かれた数が同じか確かめる。
どれも大きな仕事ではなかった。
報酬は先に決められ、終われば決めた額が支払われた。
買い手は、もう食事と寝床だけを報酬とは言わない。
部下たちは、鬼太郎が通ると道を空けた。
◆
昼前、鬼太郎は買い手の机へ呼ばれた。
机の上に、茶色い紙で包まれた小包がある。
大人の両手には収まる。鬼太郎が持てば、腹の前を半分ほど隠す大きさだった。
「これを届けろ」
買い手が街路図の一点を指した。
鬼太郎は、自分の地図にも同じ場所を記す。
「中身は?」
「金と取引の記録だ。茶色い紙の中に、封をした包みがある。中の封は切るな」
「届ける相手は?」
買い手は名前と、扉の前で告げる短い言葉を教えた。
鬼太郎は聞き取った音を繰り返す。
発音を一度直された。
もう一度繰り返すと、買い手が頷いた。
「日が沈む前に渡せ。道は好きに選べ」
「危険はありますか?」
「前に運ばせた男が、一人消えた。荷物も戻っていない。俺の建物から出る人間を見張っている奴がいるかもしれん」
買い手は、予想される人数と武器についても話した。
確かな情報ではない。
それでも、知らないふりをしていた前の仕事とは違う。
「襲われた場合は?」
「荷物が届けば、好きにしろ」
「報酬を決めましょう」
買い手が金額を告げた。
それから、机の端へ一本の鍵を置く。
「これもつける。上に空いている部屋がある。今の物置よりはましだ」
鬼太郎は鍵を手に取らなかった。
「僕へくださるのですか?」
「貸すだけだ。ここで仕事をする間は使わせる」
「では、部屋を使う権利も今回の報酬ですね」
「そう考えたければ、そうしろ」
「承知しました」
鬼太郎は鍵を取り、小包を抱えた。
◆
買い手の建物を出て、最初の角を右へ曲がる。
街路図で調べた最短の道ではない。
鬼太郎は市場を通り、橋の手前で引き返した。
一人の男が、橋のたもとに立っていた。
帽子を深く被り、煙草を吸っている。
鬼太郎が市場へ戻っても、男は追ってこなかった。
代わりに、荷車の近くにいた別の男が歩き始めた。
曲がり角を二つ越える。
二人目も止まった。
通りの先で、上着の襟を立てた三人目が顔を上げる。
同じ人間が後ろを歩いているのではない。
道を分け、それぞれの場所で見ている。
鬼太郎の顔を知っている必要はなかった。
買い手の建物から荷物を持って出た者を、次の見張りへ渡している。
鬼太郎は小包を抱えたまま、古本や新聞を積んだ露店へ寄った。
昨日の日付が入った新聞と、細い紐を買う。
店の脇にある狭い隙間へ入り、街路図を確かめるふりをした。
茶色い紙を破らないよう開く。
中には、油を弾く布で包まれた一回り小さな荷物があった。
結び目には赤い封がついている。
封には触れない。
本物を上着の内側へ入れ、買った紐で身体へ固定する。
茶色い紙には、折った新聞を詰めた。
形を整え、元と同じように紐をかける。
持ち上げれば、少し軽い。
遠くから見ただけでは分からない。
鬼太郎は偽物の小包を抱え、再び歩き始めた。
◆
目的地へ近づくには、最後に細い通りを抜けなければならなかった。
左右には高い煉瓦壁がある。
積まれた空の木箱と、蓋の外れたごみ箱。
先に二人。
後ろから一人。
鬼太郎が足を止めると、前にいた男が笑った。
「それを渡せ」
ゆっくりとした英語だった。
子供にも分かるように話している。
「これは、僕のものではありません」
「だから寄越せと言ってる」
男の一人が近づいてくる。
鬼太郎は小包を胸の前から下ろした。
相手が手を伸ばした瞬間、力を抜く。
偽物の小包が男の手へ渡った。
「聞き分けのいいガキだ」
男は紐を確かめ、そのまま後ろへ下がる。
残る一人が、鬼太郎の肩を掴もうとした。
鬼太郎は半歩退いた。
右手が上着の下へ入る。
「荷物は渡しましたよ」
「お前にも来てもらう」
「それは、頼まれていません」
男の手が、もう一度伸びた。
〈シュライク〉を抜く。
左腕は添えない。
右手だけで狙い、男の脚を撃った。
乾いた音が、煉瓦壁の間で跳ね返る。
男が崩れ、両手で脚を押さえた。
小包を持った男が上着へ手を入れる。
鬼太郎は〈シュライク〉の銃口を、そちらへ向けた。
男の手が止まる。
後ろの男だけが走り出した。
「アギ」
鬼太郎の左手から放たれた炎が、背後に積まれていた木箱へ当たる。
乾いた板が燃え上がり、後ろから来る男の道を塞いだ。
前では、〈シュライク〉を向けられた男が動けない。
鬼太郎は撃った男の脇を抜ける。
銃口を向けたまま進むと、小包を持つ男が道を空けた。
追ってはこない。
小包を持った男は、負傷した男の傍へしゃがみながら、奪った包みの紐を解いている。
残る一人は、燃える木箱の向こうで立ち止まっていた。
中身が新聞だと気づくまでには、まだ少し時間があった。
◆
教えられた建物には、看板がなかった。
鬼太郎が扉を二度叩く。
内側から、小さな覗き窓が開いた。
「何の用だ」
鬼太郎は教えられた言葉を告げた。
一語ずつ、間違えないように発音する。
覗き窓が閉まり、扉が開いた。
中にいた男は、鬼太郎を見て眉を寄せた。
「荷物は?」
鬼太郎は上着の内側から、油を弾く布の包みを取り出した。
男の目が、赤い封へ向く。
表と裏を確認する。
封は切れていない。
「一人で来たのか?」
「受け取った証拠をください」
質問には答えなかった。
男はしばらく鬼太郎を見たあと、机へ向かった。
小さな紙へ印を押し、短い署名を加える。
鬼太郎は紙を受け取った。
街路図に書き写した相手の名前と、署名の最初の文字が同じだと確かめる。
「確かに、お渡ししました」
日が沈むまでには、まだ時間があった。
◆
買い手は、受領の紙を二度見た。
「追っていた奴らは?」
「三人いました。一人の脚を撃ちました」
「残りは殺さなかったのか」
「荷物を届ける仕事でしたから」
鬼太郎は微笑んだ。
「追ってきた方々を全員殺す必要はありませんでした」
「奪われた包みはどうした」
「新聞が入っています。封をした本物は、こちらで預かっています」
買い手は椅子へ背を預けた。
「いつ入れ替えた?」
「見張りが一人ではないと分かったあとです」
買い手はそれ以上聞かなかった。
机の引き出しから、約束した紙幣を出す。
不足はない。
鬼太郎は報酬を鞄へ入れた。
「部屋も使っていい。鍵はさっき渡したな」
「合鍵はありますか?」
「俺が持っている」
「ほかには?」
「ない」
「僕が中にいるときは、入る前に扉を叩いてください」
「俺の建物だぞ」
「ええ。ですから、お願いしています」
買い手が鼻を鳴らした。
「火事でも起きていなければな」
「それで構いません」
◆
新しい部屋は、買い手の事務所と同じ建物の上階にあった。
窓が一つ。
小さな寝台。
机と椅子。
扉には、内側からも掛けられる鍵がある。
物置より広く、石炭と湿った木の匂いもしなかった。
鬼太郎は、窓が外から開けられないことを確かめた。
寝台の下。
机の裏。
床板の隙間。
人が物を隠せる場所と、誰かが先に何かを隠している場所を調べる。
何もない。
本と辞書は机へ置いた。
街路図は、すぐ開けるよう鞄の外側へ入れる。
弾薬は衣服や本とは分け、寝台の下へ置いた。
父の書類は油紙で包んだまま、緩んでいる床板の下へ隠した。
〈シュライク〉は、上着の下にある。
最後に、鬼太郎は扉を閉めた。
鍵を差し込み、回す。
金属が噛み合う音がした。
この部屋は家ではない。
建物も、部屋も、鍵も、買い手から借りているだけだった。
それでも、鬼太郎が使っている間は、勝手に触れさせるつもりはない。
鬼太郎は鍵を抜き、手の中へ収めた。