第19話 客を選ぶ店
茶色い外套の男は、二つ目の角を曲がってから、また後ろを見た。
鬼太郎は数歩離れたところを歩いていた。追いつこうとも、遅れようともしない。男はついてきていることを確かめると、曇った窓のある店の前で止まった。
「ここだ」
看板はなかった。
窓には欠けた天秤と罅の入った水晶、持ち手のない大鍋が並んでいる。どれにも値札がない。鬼太郎が立つ場所からでは、それらの向こうにあるはずの店内が見えなかった。
男が扉を押す。
机に座っていた者が顔を上げた。整えた髪に、汚れのない濃い上着。鬼太郎を案内した男より、身なりがよい。
その奥で、靴が床を擦った。
扉の脇に一人。反対側にも、外套を着た男がいる。
「どうした。入れよ」
「ええ」
鬼太郎は敷居を越えた。
背後で扉が閉まり、鍵が回った。
「座りなさい」
机の男は帳面を閉じ、向かいの椅子を示した。
鬼太郎は座らず、机から少し離れたところで止まった。棚にある瓶や銀器、小箱には、それぞれ番号がついている。帳面を閉じる前、同じ番号が並んでいるのも見えた。
ただ古道具を並べた店ではないらしい。
「マグルの金を替えたいそうだね」
「はい。手数料も安いと伺いました」
鬼太郎は背後の男へ顔を向けずに答えた。
「幾ら持っている?」
「先に、幾らになるのか教えてください」
「金を見なければ分からん」
「同じ紙幣でも、持っている枚数によって値段が変わるのですか?」
男は椅子の背へ身体を預けた。
「子供が余計なことを考えなくていい」
「本を買うつもりなのです。足りるかどうか、気になりますから」
机の上にある硬貨へ目をやる。金色が二枚、銀色と銅色がその脇にある。
男は硬貨を寄せもせず、入口の方を見た。
「鞄を置け」
背後から、先ほどとは違う声がした。
振り返ると、茶色い外套の男が扉を背に立っていた。通してくれそうな隙間はない。
「交換するお金だけで、よいのでは?」
「上着もだ。中にある物も、全部置いていけ」
奥の二人が杖を抜いた。
机の男は止めなかった。右側の用心棒が鬼太郎へ杖先を向けると、指を組み、待つ姿勢になる。
「大人しくすれば、怪我はしない」
用心棒が言った。
鬼太郎は、杖を握る手と男の顔を見た。ウォードは最初に銃を弾いた。この男も、鬼太郎の上着へ目を向けている。
「ここでは、声を出しても無駄だよ」
机の向こうから、落ち着いた声が続いた。
「音は外へ出ない。叫んでも、誰も来ない」
「そうなのですか」
鬼太郎は右手を上着へ入れた。
用心棒の杖先が持ち上がる。口が開いた。
言葉が終わる前に、鬼太郎は〈シュライク〉を抜いて撃った。
右腕へ弾丸を受けた男が悲鳴を上げる。杖が床へ落ち、鬼太郎はすぐに横へ動いた。
背後から伸びた腕が、肩のすぐ後ろを通る。
身体を沈め、振り向きざまにもう一発撃った。
茶色い外套の男が右脚を折り、扉へぶつかった。鍵のついた戸が激しく鳴ったが、外から誰かが確かめに来る気配はない。
残る用心棒が杖を振った。
「プロテゴ!」
男の前で空間が歪む。
鬼太郎は撃たなかった。机の脇へ身を寄せると、すぐ後ろの棚へ赤い光が当たった。瓶の破片が頭上を越え、壁にぶつかって砕ける。
頬へ腕を寄せて庇い、鬼太郎はしゃがんだまま机の縁を回った。
肩と脇腹が痛んだ。倒れ込むような動きは、まだ避けたかった。
左手を開く。手首の布が袖へ引かれたが、男の足元ではなく、その左側の床へ掌を向けた。
「アギ」
乾いた床板へ炎が走った。
用心棒は火を避け、机から離れる方へ動いた。その先へ鬼太郎は右腕を伸ばし、銃口を向ける。
「次は、あなたの腕です」
男の足が止まった。
盾の歪みは、もう見えなかった。
「杖を床へ置いてください」
用心棒は主人を見た。
「そちらの方に許可をいただくのですか?」
鬼太郎は引き金へ指を添えた。
「お返事より、僕の方が早いと思いますよ」
男は腰を屈めた。指を開くところまで見届け、杖から離れさせる。
入口の男が呻いた。
「あいつの上着に、一本ある」
机の男が低く言った。
用心棒は鬼太郎を窺った。
「拾って結構です。机へ置いてください。床のものも」
三本が机に並んだ。
その向こうで、主人の右肩が下がる。
鬼太郎は胸ではなく、机の縁へ隠れかけた手に照準を移した。
「そちらにも、お持ちなのですね」
手が止まった。
「左手で出してください。右手を使えば、その右手を撃ちます」
机の裏から外された杖が、四本目として並ぶ。
鬼太郎は、用心棒を机から遠ざけた。
「火を消していただけますか。そこの厚い布を使ってください」
炎はまだ小さかった。男が布を重ねて押さえると、縁から細い煙が上がる。鬼太郎は銃を向けたまま、机の男と、入口に倒れた男の手も交互に見た。
煙が収まってから、撃たれた二人へ傷を押さえさせた。
誰も、もう鞄を置けとは言わなかった。
◆
「両替の話を、続けましょうか」
鬼太郎は銃口を下げず、左手で帳面を引き寄せた。
「それへ触るな」
「僕の鞄には、触ろうとなさいましたね」
男の口が閉じた。
開いた頁には、日付と数字、品物の番号が並んでいた。文章は全部読めなかったが、英国の金を示す記号は分かる。その横には、受け渡した硬貨の枚数らしいものが記されている。
鬼太郎は数字を辿った。
「交換した記録ですね?」
「……そうだ」
「では、これを見ながら伺います。ゆっくりお願いします」
男は金色の硬貨を指した。
ガリオン。銀色はシックル、銅色はクヌート。
金貨一枚に銀貨十七枚、銀貨一枚に銅貨二十九枚だという。鬼太郎は聞き直し、帳面の数字と照らし合わせた。
紙幣を替える率は、過去の記録と大きくは違わない。手数料を引いた額をもう一度言わせてから、鞄の口を開いた。
右手の銃は向けたままにし、左手で紙幣の一部を出す。全部は渡さなかった。
男が並べた硬貨を、種類ごとに分ける。
数え終えると、鬼太郎は主人を見た。
「本を買う分を、追加してください」
「今説明した額は――」
「交換分は合っています。そちらからお誘いいただいた分が、まだです」
入口の男が、歯の間から荒い息を吐いた。
主人はその男を睨み、銀貨と銅貨を何枚か寄せた。鬼太郎が書店で聞いた額を伝えると、足りない分も加える。
「それで、出ていくんだな」
「ええ。ただ、こちらの帳面に気になるものがありました」
別の頁を開く。
回収、運搬、護衛。知っている単語の隣に、名前と金額が記されている。棚の品物と同じ番号もあった。
「仕事も扱っているのですね」
男は答えなかった。
「次は、お金を払っていただける話をお願いします」
「お前にか?」
「ほかにも、どなたかお探しですか?」
鬼太郎は奥の男へ顔を向けず、机の四本の杖を見た。
主人の視線もそこへ落ちた。撃たれた者が二人、立ったまま両手を見せている者が一人。主人自身も、もう机の下へ手を伸ばせない。
その顔から、幼い客を追い払うような苛立ちが薄れた。
「ここは、お前がいたマグルの路地とは違う」
「ええ。両替を頼んだら、四人で囲まれましたから」
「そういう意味ではない」
「でしたら、仕事の中身を教えてください。違いは、それを聞いてから考えます」
男は鬼太郎の右手を見て、しばらく黙った。
「誰も受けたがらないものなら、一つある」
◆
机へ出された紙には、黒い箱の絵があった。
四隅を真鍮で補強された鉄の箱。蓋に三本の横線があり、鍵穴も持ち手もない。
「開けず、壊さずに持ち帰れ。それだけだ」
「持っている方は?」
「エドウィン・ルーク。生きていても、死んでいても構わん。箱を盗んで、古い染色工場へ逃げ込んだ」
男は別の紙を重ねた。建物の見取り図らしい。
「それだけなら、受ける方はいそうですが」
「罠を作る男だ。建物にも、侵入を知らせる仕掛けがある。姿くらましでは中へ入れん」
「扉と窓は?」
「見張られている。工場の中で杖を使えば、どこにいるか知られるとも聞いた」
「聞いた相手は、工場へ入ったのですね?」
男の口元が強張った。
鬼太郎はそれを待った。入口の男は、布を巻いた脚を抱えている。立った用心棒も、主人の返事を聞こうとしていた。
「三人、送った」
「戻ったのは?」
「二人だ」
「その二人から、直接聞けますか?」
「一人は、もう話ができん」
男はそこで言葉を切った。
「自分の名前も、何をしに行ったかも覚えていない」
鬼太郎は男の目から、見取り図へ視線を下ろした。
ウォードは、自分に会ったことを忘れさせると言った。この工場では、それより多くのものを失った者がいる。
何をされたのか、同じ魔法なのかも分からない。だが、戻ってきた二人を一括りにして話す男の言葉だけでは、まだ足りなかった。
「もう一人は、どこまで覚えています?」
「箱を見つけた。手袋をした手で触ったところまではな」
「そのあとに、何が起きたのですか?」
「手へ黒い痣が出た。腕へ広がったので、仲間が手首から落とした」
鬼太郎は紙に描かれた箱を見直した。
取っ手がない。
持ち上げるなら、底へ両手を入れるか、左右から挟むしかない。
「開けずに運べば済む品では、なかったのですね」
「運び方も含めて仕事だ」
「その説明も、報酬を決める前の話に含めていただきたいものです」
男は椅子へ座り直した。
「怖くなったか」
「今の話で、最初のお値段のまま受けたくなる方がいるのですか?」
鬼太郎は微かに笑った。
「いらっしゃるのでしたら、その方へどうぞ。僕に頼む理由はなくなりますね」
主人は鬼太郎を見た。
立っている用心棒にも目をやったが、その男は顔を逸らした。誰も受けたがらないという言葉は、少なくとも嘘ではないらしい。
「幾らなら受ける」
男が言った。
鬼太郎は絵を机へ置いた。
「その前に、まだ話していない危険をお願いします」
◆
ルークは、物や建物へ呪いを掛け、侵入者を待つ仕事をしていた。
自分が運ぶより、他人が運べないようにする側だという。
ただし、今の工場に何を置いたかを、仲介人は知らない。見取り図の印は、先に送った三人が使った入口と、戻った者が覚えていた場所を示すだけだった。
鬼太郎は、絵の横にある印を指した。
「箱そのものの呪いも、この方が掛けたのでしょうか」
「知らん」
「箱の持ち主なら、ご存じでは?」
「依頼人の名は教えられない」
こちらは、いくら待っても答えが変わらなかった。
鬼太郎は尋ね方を変えた。
「では、受け取ったときの扱い方を確かめてください。こちらまで運んでから、置き場所を用意するのでは遅いですよ」
主人は用心棒へ目配せした。
男が動きかけ、机の銃口を見て止まる。
「そちらの杖は置いたままでお願いします」
鬼太郎が言うと、用心棒は両手を見せてから奥の扉へ消えた。
待つ間に報酬を交渉した。
危険が増えた分、最初の額では受けなかった。さらに準備金を先に払わせ、箱を引き渡したときに残額を受け取ることにする。
「前金を持って逃げたら?」
「僕の物を奪って逃げる話よりは、よい条件でしょう」
「信用しろと言うのか」
「払いたくないのでしたら、頼まなくても結構です」
鬼太郎は急かさなかった。
銃を持つ右腕は重くなり始めていた。机へ載せれば少しは楽だが、相手の手が届くところへ置くつもりはない。立つ足を入れ替え、右脇を締めて待った。
男はようやく硬貨を出した。
期限は翌朝。箱を開けず、壊さず届ければよい。ルークの所持品は箱以外なら取って構わず、工場に他の者がいた場合の判断も任せるという。
鬼太郎は、期限まで別の回収役を送らないことと、こちらを尾けさせないことを加えた。
「こちらがいると分かって、誰かが勝手に杖を使えば、困るのはあなたも同じでしょう」
主人は了承した。
奥から戻った用心棒は、箱は用意された場所で受け取る、と伝えた。それ以上の扱い方は言わなかった。
鬼太郎も、受取人の知識を自分の安全の当てにはしないことにした。
工場までの地図、人相書き、見取り図と箱の絵を受け取る。
銃を構えたままでは全部を鞄へ入れにくかったので、主人に紙を重ねさせ、机の端へ寄せてもらった。近づくときも、四本の杖からは離れた側を使う。
「それは取らないのか」
主人が杖を見た。
「持っているだけで何でも使えるのなら、考えますが」
鬼太郎は鞄を肩へ掛け直した。
ここに四本を残しても、次にこの店へ来れば同じ手で囲まれるかもしれない。だが、持ち主も使い方も知らない杖を増やすより、次も仕事を買う者として扱われる方が役に立つ。
「僕が出るまで、手を伸ばさないでください」
用心棒に入口の鍵を開けさせた。
床の男から離れて扉を開き、先に路地を見せる。外に人がいないことを確かめてから、鬼太郎は後ろ向きに敷居を越えた。
扉が閉まって、ようやく〈シュライク〉を収める。
右の指を一本ずつ開くと、手の中へ残っていた力が抜けた。新しく痛む場所はない。左手首の布も焦げてはいなかった。
鬼太郎は路地の角から後ろを見た。
誰も出てこない。
表通りの人の声が聞こえ始めてから、歩調を緩めた。
◆
書店の会計台へ二冊を置くと、店員は鬼太郎の顔を覚えていた。
「替えられたのかい?」
「ええ。おかげさまで」
今度は銀貨と銅貨を出す。
店員が代金を数え、本を紙へ包んだ。どこで替えたのかまでは尋ねなかった。受け取った包みを鞄へ入れると、先ほど折り畳んだ工場の図が押し寄せてくる。
鬼太郎はそれを片側へ寄せ、本を収めた。
横丁の隅に空いた腰掛けを見つけ、買ったものを開く。
初歩書のほか、薄い社会の手引きには、物や建物へ魔法を掛けて守る話も少し載っていた。だが、分からない単語が多い。読めたところだけで、工場の仕掛けがすべて分かったとは思えなかった。
ルークは、侵入者が来るのを待っている。
自分より知識のある魔法使いが三人入り、誰も箱を持ち帰れなかった。
鬼太郎は図の扉を見た。
正面、窓、裏の搬入口。それぞれに印がある。同じところへ入って、彼らより上手く呪いを避けられると思う理由はなかった。
では、ルーク本人はどこから入ったのだろう。
箱を持ち込んだときは、罠を置く前だったかもしれない。だが、その後も水を飲み、何かを食べているはずだ。
外へ出るのか、誰かに運ばせるのか。
そこからなら、地図にない道が見つかるかもしれない。
鬼太郎は本を閉じた。
手袋と細い紐を用意し、目印に使う硬貨を別の袋へ分けることにした。知らないものを確かめるなら、先に触れさせる物も要る。
買い物を終えるころには、通りへ差す光が傾き始めていた。
漏れ鍋の裏へ戻り、ウォードの杖を抜く。
男が叩いた場所を思い出し、図と照らし合わせて煉瓦へ先を当てた。最初の石が震え、隣へ動く。
鬼太郎は杖先を少し下げた。
開いた。
この杖で入口を使えることは、確かめられた。それが自分の力なのか、煉瓦の仕掛けなのかは、また後で調べればよい。
通り抜け、杖を収める。
店の扉の向こうから、ロンドンの車の音がした。
鬼太郎は鞄の上から本の角を押さえ、街路図を取り出した。朝は知らなかった硬貨と、まだ読めない頁と、誰も運べなかった箱の絵が、同じ鞄に入っている。
工場へ向かう道を確かめ、歩き始めた。