第199話 眠るには早い
扉の下に、細かい屑が溜まっていた。
鬼太郎はその手前で足を止めた。引っ掻く音は、扉のすぐ向こうではない。少し離れた所で途切れ、また始まる。
右手の黒檀を下げたまま、左手で扉の縁を押した。
向こうには、通路が続いていた。
片側の壁には幾つも戸口が並び、反対側には腰ほどの高さの仕切りがある。その先は広い吹き抜けになっているらしい。上にも下にも、先ほどの部屋にあった灰色の明かりが薄く差していた。
仕切りのない所からは、向こうへ落ちる。鬼太郎は近づかず、扉の陰から足元を確かめた。
床へ散っているのは、壁を削った屑だった。通路の奥に、細長い傷が重なっている。
その前に、一人いた。
袋を下げた小柄な姿が、壁へ片手を添えている。尖った帽子の下で顔が横を向き、指がゆっくり動いた。
ざり、と音がした。
鬼太郎は扉から左手を離した。
ザントマン。
相手の姿とともに浮かんだ名を、口には出さなかった。こちらへ向けられていない顔と、袋を提げた腕を見る。
人間ではない。それでも、言葉が通じる相手かもしれなかった。
「少し、お尋ねしてもよろしいですか」
指が止まった。
帽子の先が揺れ、顔だけがこちらを向く。ザントマンは鬼太郎を見ると、ゆっくり口を開いた。
「……子供か」
「ええ。人を探しています」
「こんな所で?」
ザントマンは壁から手を離した。
鬼太郎も扉の陰から出た。ただし、真ん中までは進まない。すぐ脇には、壁の一部が張り出している。そこから先にも戸口があり、足を引けば、今開けた扉へ戻れた。
「エリアス・ヴェインさん、という方です。ご存じでしょうか」
「知らんね」
「姿が変わっているかもしれません。腕や肩が大きくなった、人間の男です」
ザントマンは鬼太郎の顔を見た。
「それを見つけて、どうする」
「まずは、お話を。その方に用があります」
「話の好きな子だね。向こうも聞きたがるといいが」
「こちらのお話は、お嫌いですか?」
「まだ、帰れとは言っておらんよ」
返事の間も、ザントマンは道を空けなかった。また顔を壁へ戻しかけ、途中で鬼太郎の右手を見た。
「さっき、向こうで騒いでいたのは、お前か」
「聞こえましたか」
「声がした。火の臭いもする」
鬼太郎は凍って硬くなった上着の裾を思った。今度の相手は、それなりに周りを気にしている。
「通していただければ、こちらでは騒がずに済みますよ」
「通れんことはない」
ザントマンは壁から身体を離し、吹き抜け側へ半歩寄った。通路には、人一人が歩ける隙間が出来た。
鬼太郎は動かなかった。
相手のすぐ横を抜けるには、袋の提げられた側へ近づくことになる。袋の口も、その後ろに隠れた指も、ここからではよく見えなかった。
「そちらの先には、何があります?」
「自分で見ればいいだろう」
「では、見に行く間だけ、そこにいていただけますか」
帽子の下で、細い目がこちらを見た。
「注文の多い子供だね」
「初めて来ましたので」
鬼太郎は通路の先へ目を移した。ザントマンの向こうで、道は右へ曲がっている。その角までは、隠れる場所の少ない床が続いていた。
相手はまだ、自分から離れるつもりがない。
「一人で歩き回って、疲れんのか」
ザントマンが言った。
袋を提げた腕が下がる。もう片方の手も、だらりと身体の脇へ落ちた。話を続けながら、興味をなくしたように壁へ背を預ける。
「少し休んでいけばいい。先は長いぞ」
「まだ、眠るほどではありません」
「子供は、そう言うものさ」
声に張りはなかった。
肩も落ちている。鬼太郎の方を見てさえいなければ、今にも居眠りを始めそうに見えたかもしれない。
だが、袋を持った指は緩んでいなかった。
鬼太郎は左足を少し引いた。鞄を壁に擦らないだけの間を取り、右手を上げずに待つ。
「そこへ座れば――」
ザントマンの手が跳ねた。
「夢見針!」
鬼太郎は身体を横へ運んだ。
細いものが顔のあった所を抜け、後ろの扉へ突き立つ。乾いた音を聞く間にも、鬼太郎は足を止めなかった。
ザントマンは、もう片方の腕をこちらへ向けていた。
「ザン!」
空気が鳴った。
鬼太郎は腰を落とし、壁の張り出しへ飛び込んだ。すぐ横で、扉の縁が裂けた。細長い木片が通路へ飛び、開けてあった扉が壁へぶつかる。
顔を向けるより先に、もう一度声がした。
「ザン!」
壁の角が弾けた。
鬼太郎は頭を引き、左腕を顔の前へ上げた。細かい屑が袖を打つ。さっきまで自分の肩が見えていた場所を、風が削っていった。
壁の向こうで、ザントマンが笑った。
「座れと言ったのに」
「ずいぶんと、寝心地を悪くするのですね」
鬼太郎が返すと、また風が来た。
今度は口を閉じ、壁へ背を寄せる。胸の前を、粉になった壁材が流れていった。
◆
続けて、二度。
同じ高さばかりではなかった。頭を出しそうな所へ一撃、その下へもう一撃。鬼太郎が隠れた場所を、外から少しずつ削っている。
右の黒檀は握ったままだった。左の掌も空いている。
だが、相手の姿が見えなければ、火も雷も壁へ放つだけになる。こちらが出る方を、ザントマンは見ていた。
耳の近くで、壁の中が砕ける音がした。
鬼太郎は振り返った。
表面を剥がされた角から、白い粉が落ちている。最初にあった縁より、壁が奥へ引っ込んでいた。次に顔を出せば、隠れるつもりの場所まで、すでに狙われているかもしれない。
ここには、長くいられない。
来た扉へ戻る道も、ザントマンの正面を横切る。飛び込んできた時のように、そのまま反対へ走れば、背へ風を受けるだろう。
鬼太郎は膝を曲げたまま、壁から鞄を離した。
入口から、ザントマンまでは遠すぎない。相手がいたのは、傷のついた壁の前。あれから、ほとんど場所を変えていない。
ザンの声が止んだ時にも、向こうの足音は聞こえない。歩いて追い詰める必要はないと思っているのだろう。鬼太郎は床へ積もった白い屑を見た。顔を出す場所が狭くなるほど、あちらは狙いやすくなる。
壁のすぐそばへ残っていては、次も同じだった。出たら、相手が腕を向けている所から離れる。その間だけ、目で追わせなければいい。
鬼太郎は黒檀の先を見た。
向こうが、これを見ようとするなら。
次のザンが、角の上を削った。
頭上で破片が鳴る。その音に重ね、鬼太郎は壁の低い所から、右手を外へ出した。
杖先を、ザントマンの顔へ向ける。
「ルーモス」
白い光が灯った。
鬼太郎は、相手が顔を背けるのを見た。
次の声は、すぐに来た。
「ザン!」
鬼太郎は杖を引き、低く踏み出した。
風が、さっき光を出した所を裂いた。壁の屑が右肩の後ろを飛ぶ。鬼太郎は戻らず、吹き抜け側へ斜めに走った。
ザントマンの腕が追ってくる。
鬼太郎はその先へ留まらなかった。腕を向け直す動きに合わせ、さらに横へ足を運ぶ。低い仕切りまでは行かず、その内側を通った。
背後の壁へ、風が当たる。鬼太郎はその音を聞きながら、鞄が振られるのを左肘で押さえた。脚を交差させず、進む方へ爪先を向ける。吹き抜けの縁へ追いやられる前に、ザントマンへ近づく必要があった。
光は、まだ黒檀の先にあった。
相手がこちらを見ようとすれば、目に入る。鬼太郎自身は杖の後ろにいて、光の中心を覗かずに済んだ。
ザントマンが、空いた手を顔の前へ上げた。
さっきまで壁へ預けていた背が離れ、踵が奥へ動く。
逃げる間を与えないよう、鬼太郎は踏み込んだ。
もう、扉の隙間を狙う距離ではない。
相手の身体が左掌の先に収まる。こちらへ向き直ろうとする胸元へ、空けていた手を向けた。
「ジオ」
雷が、ザントマンを打った。
肩が跳ねた。
細い悲鳴が通路へ響き、こちらへ向きかけていた腕が止まる。指は開き切らず、不自然に曲がったまま震えていた。
鬼太郎は足を止めた。
よく効いた。
ほんの一瞬、動きを鈍らせただけではない。足も、首も、相手が動かそうとする方へついていかない。
鬼太郎の左手は、もう腰へ下りていた。
上着の下からケストレルを抜く。右手の黒檀は相手へ向けたまま、銃口を持ち上げた。
ザントマンの目が、その動きを追った。
頭を引こうとしたが、身体はまだ震えている。
鬼太郎は、帽子の下へ狙いを合わせた。
一発。
銃声が、壁と吹き抜けの間へ跳ね返った。
ザントマンの頭が揺れた。膝が折れ、袋を持った方の腕も下がる。
鬼太郎は銃を向けたまま、一歩だけ退いた。
床へ落ちる途中で、相手の輪郭が薄くなった。
帽子も袋も、その身体とともに崩れていく。床へ散るはずだったものが、淡い粒へ変わり、灰色の明かりの中へ漂った。
右の黒檀が、また微かに動いた。
鬼太郎は抵抗せず、先を少し下げた。光の灯った先へ、消えた相手の残したものが細く流れる。
灯りを受けた粒子の間から、向こうの壁が見えてきた。あの手も袋も、もう残っていない。鬼太郎は銃口をわずかに動かし、床の端まで確かめた。
だが、今度はその流れが消えるのを、ゆっくり眺めてはいられなかった。
遠くで、何かが鳴いた。
◆
鬼太郎は吹き抜けへ顔を向けた。
低い仕切りの向こうは、まだ暗い。けれど、離れた場所で影が動いた。
一つではない。
向かいの縁を、小さなものが走った。すぐ後に、別の声が下から響く。今いる高さまで、どこかを登ってくるような、硬い音もした。
銃声の余韻は、とっくに消えている。
その後へ、あちらこちらから返事が来ていた。
「……聞こえましたよね」
鬼太郎は小さく言った。
黒檀へ向かう流れが途切れたところで、杖を身体の方へ戻す。
「ノックス」
白い光が消えた。
灰色の明かりに目を慣らしながら、来た方を見た。壁の陰へ逃げ込む前にはなかった傷が、扉にも、床にも残っている。
ザントマンの手から放たれた風は、隠れた相手にも届こうとしていた。こちらが出てくるのを、ただ待っていたわけではない。
話をしていた時から、鬼太郎をあの壁のそばへ留めておくつもりだったのだろうか。
そこまでは分からない。
だが、不意を突けなかったからといって、攻め手を失う相手ではなかった。
鬼太郎は削られた角を見て、少し口元を上げた。
会話が出来るからといって、話をしているだけだとは限らない。こちらも、そのつもりで声を掛けた。相手も、自分の都合で答えていた。
また、足音がした。
今度は、来た扉の向こうだった。
鬼太郎は笑みを収めた。銃口を下げず、開いた戸口を見る。まだ姿はない。ただ、柱の広間を何かが動いている。
この場にいれば、前と後ろから来られる。
左のケストレルをホルスターへ戻した。上着を銃へ引っ掛けず、留め具を確かめる。指を離して、また掌を空けた。
火を二度と、雷を一度。
まだ、先へ進む力は残っている。ここで寄ってくるものを迎え撃てば、どれだけ使うことになるか分からなかった。
鬼太郎は通路の奥へ向かった。
ザントマンのいた壁へは近づかず、真ん中より少し内側を歩く。吹き抜けへ身体を晒しすぎず、横の戸口からも手が届かない間を取った。
壁の傷は、先へも続いていた。
ただし、それを道案内にはしない。ここを歩いたのがザントマンだけだとは、まだ分からなかった。
鬼太郎は曲がり角の手前で、足を緩めた。
背後で、低い仕切りを何かが叩いた。
振り向くと、離れた縁から細い影がせり上がっていた。身体が出切る前に、鬼太郎は角を曲がった。
その先にも、通路があった。
背後で、硬いものが床へ落ちる音がした。縁を越えたのだろう。鬼太郎は後ろを覗く代わりに、次の扉までの間を確かめた。足を取られる物はない。鞄を身体へ寄せ、向こうから見える場所を早く抜けた。
こちらは吹き抜けに面していない。両側に壁があり、幾つかの扉が開いている。奥は緩く曲がっていて、端まで見通せなかった。
鬼太郎は足元へ目を落とした。
埃の上に、深く擦れた線があった。壁際から斜めに出て、開いた戸口の前を横切っている。何か大きなものを引きずったらしいが、どちらへ運んだのかまでは分からない。
近くには、靴の跡も残っていた。
それを見ても、鬼太郎は追う足を速めなかった。外の者たちも、ここへ入っている。探している男のものとは限らない。
今欲しいのは、囲まれずに進める道だった。
最初の戸口を横から覗く。
倒れた棚が見えた。奥の暗がりまでは分からない。鬼太郎は中へ入らず、その前を通り過ぎた。
次の扉は、途中までしか開いていない。内側に何かが挟まっているらしく、隙間の下へ折れた脚が出ていた。
背後から、短い声がした。
さっきまでいた場所だ。
別の声が重なり、壁を叩くような音がする。あそこへ来たもの同士で何か始まったのか、こちらを探しているのか。鬼太郎は立ち止まって聞き分けようとはしなかった。
開いた扉の隙間を離れ、曲がった通路の先へ進む。
その途中で、上着の袖を軽く払った。壁の粉が落ちる。布に細い擦れはあるが、腕を動かして痛む所はなかった。
今は、それで十分だった。
黒檀を持つ右手を上げ、次の角へ近づく。
後ろの足音が、少し遠くなった。
それでも、歩幅は戻さなかった。
探している男へ辿り着くまでに、ここにいるもの全部と付き合う必要はない。鬼太郎は前の暗がりを見据えたまま、通路の奥へ姿を消した。