第200話 笑う部屋
背後の物音が、壁を隔てて遠くなった。
鬼太郎は足を緩めた。走って抜けた場所へ顔を戻し、何も追ってきていないことを確かめる。まだ声はするが、こちらの足音へ重なるものはなかった。
右手の黒檀を下げず、通路の先へ向く。
灰色の明かりは、ここにもあった。天井近くが薄く明るいだけで、開いた部屋の奥までは見えない。戸口の前を横切るたび、鬼太郎はそちらへ先に目を向けた。
そのうちの一つから、木の擦れる音がした。
鬼太郎は足を止めた。
椅子が、戸口へ出てきた。
誰も押していない。脚の一本が敷居へ掛かって止まり、背だけがゆっくりこちらへ向いた。
鬼太郎は壁から離れた。
椅子の脚が浮いた。
次の瞬間には、胸の高さへ飛んできた。
横へ動くと、脚の先が上着を掠めた。椅子は背後の壁へぶつかり、座面と脚をばらばらに散らす。
鬼太郎は、割れた方を見なかった。
部屋の中から、笑い声がした。
戸口を斜めに見通せる所まで足を運ぶ。倒れた棚と、重なった椅子の背。その上に、小さな顔が浮いていた。
床へ足をつけていない。
身体の下の方は、机の縁へ重なると薄くなった。顔だけがこちらへ向き、口が大きく歪む。
ポルターガイスト。
また、姿と名が結びついた。
鬼太郎は左手を開いたまま、杖先を相手へ向ける。
「通していただきたいのですが」
笑い声が高くなった。
顔の下で、小さな手が動く。
今度は、机が浮いた。
天板が戸口を塞げば、相手の姿も見えなくなる。鬼太郎は一度入口側へ足を引き、次に横へ動く場所を見た。椅子の割れた背が壁際へ落ちている。その上へ下がれば、脚を取られる。
鬼太郎は空いている床へ身体を向け直した。
引き出しの抜けた机だった。
天板の片側が傾き、残っていた中身を床へ落とす。紙が舞い終わるより先に、脚がこちらを向いた。
鬼太郎は杖を振った。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
机が、戸口の前で揺れた。
こちらへ進む勢いは、すぐには消えない。鬼太郎は横へ下がりながら杖先を追わせ、迫る天板を身体の正面から外した。
片脚が床を擦った。
木の軋む音がして、机の向きが変わる。鬼太郎はそれを持ち上げ直そうとはせず、脚が床から離れる分だけ浮かせた。
その向こうで、ポルターガイストが目を細めた。
鬼太郎は杖先を部屋の奥へ動かした。
机が、押し戻される。
相手は逃げなかった。
脚がその顔へ重なる。天板が胸のあった所を通り、机は何の引っ掛かりもなく向こうへ抜けた。
鬼太郎は呪文の操作を解いた。
机が床へ落ち、奥の棚へぶつかった。板が折れる音の前で、ポルターガイストは宙に浮いたまま笑っていた。
鬼太郎は眉を僅かに動かした。
自分で避けたのではなかった。机が通る間も、顔の位置は変わっていない。
ただ、すり抜けた。
机は、壊れた。ぶつかれば人間の身体を傷つけるだけの勢いは残っていた。それでも、相手の顔にも、手にも、触れた反応がない。
鬼太郎は、棚の前へ浮いた身体を見た。薄い輪郭の真ん中へ、狙いを置ける。そこへ届く前に、何かが防いだようにも見えなかった。
戸口の向こうで、次の椅子が動いた。
鬼太郎は黒檀を左手へ渡し、空いた右手を腰へ下ろした。ケストレルを抜き、椅子より先に本体へ銃口を向ける。
一発。
銃声が狭い通路へ響いた。
ポルターガイストの背後で、板が弾けた。
胸には、何も残っていない。
相手の笑い声さえ、途切れなかった。
鬼太郎はすぐに銃口を下げた。飛んできた椅子を避け、右のケストレルをホルスターへ戻す。黒檀を右手へ受け直し、また左手を空けた。
机だけではない。弾丸も通った。
狙いを変えて何発も試す必要はなかった。
ポルターガイストは、棚の上から戸口へ漂ってきた。口の端を引き上げ、こちらの杖と、銃を収めた腰を交互に見る。
小さな手が、通路の奥を示した。
行けと言うのかと思った時、鬼太郎の背後で何かが擦れた。
先ほど壊れた椅子の背が浮いている。
鬼太郎は横へ退いた。
木片が肩の横を抜け、部屋の壁へ突き立った。相手はそれを追うように移動し、今度は戸口の上からこちらを見下ろした。
鬼太郎は部屋へ踏み込まず、壁際を離れた。
左掌を、すぐ相手へ向けることはしなかった。
机も、銃も効かなかった。
その二つを見せた後で、自分へ近づいてきている。
「楽しそうですね」
ポルターガイストは、また笑った。
通路へ出てきても、鬼太郎から離れない。こちらが足を動かすと、その前へ回り込む。
奥へ行かせるつもりはないらしい。
鬼太郎が来た方へ足を引くと、相手はさらに通路へ出てきた。その背後では、さっきまで隠れていた棚と机が離れていく。
今は、何も間に挟まずに狙える。
鬼太郎は相手を見上げ、次に飛んでくるものへ先に目を向けた。まだ逃げ続けるように見えれば、相手も壁の中へ戻ろうとはしないだろう。
鬼太郎は、杖先を低く置いた。
割れた座面が、顔へ飛んだ。
鬼太郎は顎を引き、斜めに下がった。通路の片側へ積もった破片を踏まず、戸口と壁の間へ足を置く。
その先へ、小さな顔が回ってくる。
笑いながら、鬼太郎の逃げる場所を覗いていた。
家具は向こうの手が触れなくても動く。壁へ寄れば、すぐ横の戸口から別のものが飛ぶ。鬼太郎は背を預けず、前へ出られるだけの間を残した。
ポルターガイストの顔が、壁へ半分沈んだ。
次には、横へ離れた所から出てくる。
鬼太郎は、顔より先に自分の足を動かした。破片の少ない方へ移る。その動きを追い、相手も身体を出す。
手を伸ばせば届きそうな高さだった。
鬼太郎の頬へ向け、椅子の脚が浮く。
相手の目が、そちらへ動いた。
鬼太郎は、その顔へ黒檀を向けた。
「ペトリフィカス・トタルス」
呪文が届いた。
笑っていた顔が、動きを止めた。
身体は石には変わらない。机が透けて見えた輪郭も、そのままだった。ただ、こちらへ伸びかけた手と、壁の中へ戻ろうとした身体が、途中で止まっている。
椅子の脚が落ちた。
鬼太郎はそれを避けて横へ出た。
ポルターガイストの目だけが、こちらを追った。
口元には、まだ先ほどの笑いの形が残っている。
鬼太郎は、すぐ左掌を向けた。
あの森の悪魔は、呪文を見て避けた。もう一度狙った時には、後ろの術者が届く前に逸らした。
今の相手は、そうしなかった。
それでも、いつまでも止まっているとは限らない。
「ザン」
風が、本体へ届いた。
机や弾丸のようには抜けなかった。
身体の真ん中が裂け、細い輪郭が外へ捲れる。小さな顔が歪み、目が大きく開かれた。
鬼太郎は、左手を向けたまま足を止めた。
今の一撃で、そこまで裂けるのか。
普段と同じように放った風だった。大きく力を集めたわけでも、時間を掛けたわけでもない。
ポルターガイストの指が、僅かに動いた。
鬼太郎は、その先を待たなかった。
別の破片が動き始めるより早く、左掌を裂けた場所へ向け直す。一度目で開いた所は、まだ閉じていない。相手が輪郭を戻そうとする、その中心を狙った。
「ザン」
二度目の風が、裂けた身体をさらに刻んだ。
顔と手の位置がずれ、輪郭が保てなくなる。
鬼太郎は掌を下げ、近くの戸口へ半歩寄った。まだ動くものがないか、相手だけでなく床も確かめる。
椅子の脚は、落ちた所にあった。
棚の陰からも、何も浮いてこない。
宙の輪郭は、もうこちらへ戻らなかった。
ポルターガイストの顔が薄れ、裂けた所から粒が広がる。笑い声は、消えていた。
◆
黒檀が、その粒を引いた。
鬼太郎は右手を握り直した。
散っていくものの一部が、杖先へ細く寄る。森でラクシャーサを倒した後にも、これを感じた。
その時には、記憶の奥から声が戻った。
何を寄越す、と聞いてきた相手。命令を待つのではなく、こちらの差し出すものを見ていた相手。
今、戻ってきたのは別の光景だった。
炎が、異形の肌でほどける。
傷になるはずだった所が傷つかず、放ったものがこちらへ戻る。自分はそれを知っていて、手を止めようとしていた。
そこで、像が崩れた。
どんな姿だったか。誰と一緒だったか。
追おうとした先は、まだ暗かった。
けれど、今見たものの意味は分かった。
効かないものがある。
跳ね返ってくるものもある。
鬼太郎は左掌を見た。
悪魔にも、こちらの術が通じやすいものと、通じないものがいた。
さっきのザントマンは、雷を受けて動けなくなった。今の相手には、風が思ったより深く入った。
どちらも、自分が急に強くなったからではない。
グロブニクへ放った同じ風は、あの身体をこんなふうには裂かなかった。鍛錬を重ね、狙った所へ力を届かせるようにはなった。それだけでは、この違いを説明出来ない。
もともと、弱い所があった。
名前を思い出しても、その全部が一緒に戻ってくるわけではないらしい。ザントマンを見た時、自分は最初から雷を選ぼうとはしていなかった。
今回も、風を当てる前に、その効き方まで分かってはいなかった。
鬼太郎は杖へ目を戻した。
流れを感じた身体の内側に、あの時と似た反応が残っている。だが、使った風の分まで力が戻った感触はない。
右手の重さも、左掌へ残る消耗も、そのままだった。
今、確かになったのは二つの効き方と、相手によって傷つき方が違うということだけだ。
思い出せない相手へ、知っているつもりで手を出せば、今の光景が自分へ返ってくるかもしれない。
「……何でも効いてくれるわけでは、ありませんでしたね」
鬼太郎は小さく言った。
杖先へ向かう流れが消えた。
戸口を塞いでいた破片を足で寄せ、通れる幅を作る。部屋の奥には、投げ返した机が傾いて止まっていた。
その向こうにも戸口がある。
鬼太郎は壁の上と、机の陰を順に見た。相手がいなくなったからといって、部屋全体が空になったとは限らない。
新しく動くものがないのを確かめてから、中へ入った。
折れた脚へ上着を引っ掛けないよう身体を寄せ、机の脇を抜ける。
向こうの戸口へ着く前に、後ろの通路で声がした。
鬼太郎は振り向かなかった。
また、こちらの音を聞いたものがいる。
扉のない枠を越え、その先の通路へ出た。
◆
ここからは、床の汚れが違っていた。
埃を踏み散らした跡の間へ、一段深い窪みが続いている。片側は靴の輪郭に近い。もう片方は広く、隣の壁には肩の高さから斜めに擦れた跡があった。
鬼太郎は、その手前で立ち止まった。
同じ向きへ続く跡が、幾つもある。
大きなものが、ここを歩いた。
それだけなら、ほかにもいるだろう。だが、外で聞いた腕と肩の変わり方を思えば、確かめずに別の道へ向かう理由もなかった。
黒檀を上げ、跡に沿って進む。
通路の幅が、少しずつ広くなる。両側の扉は減り、壁の傷だけが奥へ続いていた。
遠くから、人の声がした。
「……違う。まだだ」
鬼太郎は歩幅を縮めた。
返事はない。
何かを動かす音の後、同じ声が続いた。
「今度こそ……」
言葉の終わりは、喉の奥で濁った。
鬼太郎は足を止め、前を見る。
通路の端に、広い部屋があった。扉は片側だけ残り、もう片方は床へ倒れている。
鬼太郎は、敷居の手前で足を緩めた。
部屋の中に、木が生えている。
コンクリートの床を太い根が割り、その先から幹が立ち上がっていた。一本ではない。柱の間や壁際にも木々が生い茂り、葉のついた枝が、天井近くの灰色の明かりへ重なっている。
壁も、床も、ビルのものだった。その中へ幹と枝だけが入り込み、建物の内側に林が続いているように見える。土の地面や、外へ開いた空はなかった。
入口脇の壁へ寄り添うように生えた木の向こうに、男の背が見えた。
肩の高さが、左右で揃っていない。
片腕が大きく膨らみ、袖は肘より上で裂けていた。手は机へついている。曲げた指が、天板の端へ食い込んでいた。
鬼太郎は入口へ近づきすぎない所で止まった。
机の横には、棚が倒れている。向こう側にも床は続き、柱と木々の間に暗い空間があった。
少なくとも、今見えているだけの場所で、普通の事務室より広い。
鬼太郎は鞄の位置を脇へ寄せた。
「ヴェインさん」
指が、机から離れた。
男が振り返る。
片側の頬と目元には、人間の顔が残っていた。もう片側は張り出し、口の端が不自然に横へ伸びている。
外で聞いたとおりだった。
男の目が、鬼太郎の顔へ落ちる。その後、黒檀を握った手を見た。
「……また、寄越したのか」
「あなたへお話があるそうです」
「自分で来ればいい」
声は聞き取れた。言葉を選んで返すだけのものも、まだ残っている。
鬼太郎は男の背後へ一度目を向けた。
机の上に、本があった。
閉じられた表紙の端に、紙で見たものと似た金具がついている。ただ、ここから細部まで確かめられる距離ではない。
取りに近づくつもりもなかった。
入口から机までの床へ、大きな家具はない。露出した根を跨げば通れそうだった。ただし、男の腕が届く範囲は、人間を相手にした時のつもりでは測れそうになかった。鬼太郎は残った扉の位置を確かめ、片側へ逃げられる場所に立った。
男は、こちらが距離を詰めないことには構わなかった。本のそばから動かず、肩を上下させて息をしている。
「あちらの本を、返していただけますか」
ヴェインの顔が変わった。
大きくなった腕が、机との間へ入る。鬼太郎から本を隠すような動きだった。
「俺のだ」
男は言った。
「これは、もう俺のものだ。誰にも渡さん」
鬼太郎は、その腕から目を離さなかった。