第202話 話を聞く約束
漏れ鍋へ戻った時には、窓から差す光が低くなっていた。
鬼太郎は暖炉のそばへ寄り、鞄から粉を出した。指で摘むだけのことが、いつもより遅い。
緑の炎へ入る前に、破れた上着の端を引いた。
「木陰の家」
行き先を告げると、見慣れた店の床が消えた。
回る景色の中で鞄を身体へ寄せ、足元が定まるのを待つ。玄関の暖炉から踏み出した時、片足が少し遅れた。
壁へ手をつき、止まる。
「鬼太郎?」
声がした。
キーノが、こちらへ歩いてきていた。昼に別れた時と同じ顔だったが、肩から鞄は下りている。
「お帰り。遅かったな。ロンの――」
そこで言葉が止まった。
鬼太郎は壁から手を離す。
「ただいま戻りました」
キーノの視線が、肩へ落ちた。
上着の裂け目から、乾いた血が見えている。脇腹へ重ねていた布も、暖炉を抜ける時にずれていた。
笑みが消えた。
こちらを見る目が据わる。
「……気をつけるって、言ったよな」
鬼太郎は、キーノが先ほど口にしかけたロンの名を思い返した。彼女は今日、自分で選んだ友人の家へ行き、帰ってきた。その一日を、帰宅した自分の血で塗り潰すつもりはなかった。
だが、傷を隠してから入っても、彼女が気づかないとは思えなかった。
「ええ」
「その服は」
「傷は、もう治しています」
キーノは歩みを止めなかった。鬼太郎の前へ来ると、上着の肩へ手を伸ばす。
「治したかどうかは、その後だ。見せろ」
鬼太郎は鞄を下ろした。
肩紐が離れると、腕が軽くなる。キーノは布を引っ張らず、破れた端だけを持ち上げた。皮膚の閉じた所を見てから、脇腹の方へ顔を向ける。
「そこもか」
「はい。どちらも塞いでいます」
「痛む?」
「動かすのには、困りません」
「困らないって言い方が、もう困る」
キーノは服の裂けたところを見たが、無理に腕を引っ張りはしなかった。代わりに自分の手を握り、開いた。鬼太郎が歩けていることと、無事に帰ったことを、まだ同じ意味には出来ないらしかった。
キーノの目が、また顔へ戻った。
「何があった」
鬼太郎は玄関の奥へ目をやった。
「少し、座ってもよろしいですか」
キーノは一度口を閉じ、道を空けた。
◆
椅子へ腰を下ろすと、脚を伸ばしたくなった。
鬼太郎はそうせず、鞄を隣へ置いた。黒檀も取り出し、そのそばへ横たえる。キーノは水を持ってきて、手の届く所へ置く。
自分も椅子を寄せ、こちらへ向いた。
「まず、書店でのことなのですが」
鬼太郎が言うと、キーノは眉を寄せた。
「ロックハートのいた店か?」
「ええ。あの時、黒檀が反応しました」
鬼太郎は鞄のそばに置いた杖へ目を向けた。
「コボルトや、森で倒した悪魔の時のように、何かを取り込んだわけではありません。一度、微かに動いただけです」
「何に?」
「それが、分かりませんでした」
キーノは黙って、続きを待った。
「人は大勢いましたし、誰かが何かをしているところも、見ていません。ただ、あの杖が反応するものが、普通の買い物の中にいたのかもしれない」
鬼太郎は水へ手を伸ばした。
「悪魔が、もう日常へ紛れ込んでいるとしたら。見かけないからいない、とも言っていられませんからね」
「それで、別件か」
「以前、仕事の話を聞いた相手を訪ねました。表に出ない噂なら、あちらの方が早いと思いまして」
キーノは目を逸らさなかった。
鬼太郎は、黎明の輪という派閥の話をしてから、買い手が語った二つの目撃例を分けて伝えた。山道では、翼のある骸骨頭の異形が人を殺し、倒されると姿を残さなかった。別の取引では、角を持つ人型が売り手の指示で動いた。目撃した本人から聞いた話と、さらに誰かを経て届いた話では、確かさが違う。
「どちらも、同じところから来たんですか」
「分かりません。黎明の輪が動き始めた頃と重なっているそうですが、その程度で決めつけたくはありませんね」
山道で商人を襲った、翼のある骸骨の頭。
護衛が倒すと、霧のように消えたこと。
別の取引では、売り手の後ろに角のある人型が控え、その命令に従っていたこと。
「同じ姿じゃないんだな」
「ええ。こちらへ来ているのは、一種類だけではなさそうです」
「書店にいたのも、そのどちらかか?」
「そこまでは分かりません。反応したものの姿も、居場所も、確かめられていませんので」
キーノは腕を組みかけ、やめた。膝へ手を置き、鬼太郎の服を見る。
「調べに行った理由は分かった。それで、どうしてその服になった」
「詳しい話を聞く代わりに、一つ、依頼を受けました」
鬼太郎は、本を盗んで逃げた男の話をした。
居場所は分かっている。だが、取り戻そうと入った者は返り討ちに遭っていた。
「そこへ、一人で行ったのか」
「はい。本には触れず、回収する人が入れる状態にする仕事でした」
「私に話す前に」
「その日のうちに片づけるよう、強く催促されていたそうです。受けるなら、すぐに向かう必要がありました」
キーノが何か言う前に、鬼太郎は続けた。
「あなたはもう、ロンさんのお宅へ出発した後でした。相談して戻ってくる時間までは、取れませんでした」
キーノはしばらく黙っていた。
「……私も、いつ帰るか決めてなかったな」
「ええ」
「分かった。そこを、ずっと言っても仕方ない」
声は低いままだった。
「何と戦った」
鬼太郎は、少しだけ背を起こした。
◆
冷気で床を覆った、小さな悪魔。
言葉を返しながら不意を狙い、避けると風を続けて放ってきた相手。
家具も弾丸もすり抜け、こちらが何も出来ないと思って近づいてきたもの。
鬼太郎が話す間、キーノは時々、杖と鬼太郎の手へ目を動かした。
「話せるからって、聞いてくれるわけじゃなかったんだな」
「ええ。話しながら、こちらをどう殺すか考えていましたよ」
「お前も、見てたんだろう」
「もちろんです」
鬼太郎は左掌を開いた。
「それぞれ、動きも、術の効き方も違いました。銃が通らなければ呪文を試す。雷がよく効く相手もいれば、風で思ったより深く傷つく相手もいる」
「それを、入ってから確かめたのか」
「見てから名前が戻ったものもいましたので。全部を覚えていたわけではありません」
鬼太郎は、最後の広間の話へ移った。
コンクリートの中に生えた木々と、身体の片側が異様に大きくなっていた男。
まだ言葉が通じ、本を自分のものだと言い張っていたこと。
「その人が、ヴェインか」
「はい。銃は当たっても、浅く傷つくだけでした。ですが、それ以上に面白かったのは――」
鬼太郎はそこで、キーノの目に気づいた。
さっきより、据わっている。
「……面白かったのは?」
続きを求める声は、静かだった。
鬼太郎は、笑みを隠さなかった。
「僕と同じ魔法を使ったのです。杖を持たずに、手からアギを」
キーノの目が動いた。
「同じって、いつもお前が使ってる、あの火か」
「ええ。火を放って、僕を避けさせてから、大きな腕で殴ってきました。こちらが次の火を作ろうとすると、その前に撃ってくる」
鬼太郎は、椅子の上で少し手を動かした。
相手の腕が伸びる方と、自分が抜けた側。その間を、指先だけで示す。
「同じ術を使う人間と、ああして向き合ったのは初めてでした。こちらの手も見ているのですよ。待ってはくれませんでしたが、それが――」
「楽しかったんだな」
「はい」
キーノは息を吐いた。
だが、すぐには叱る言葉を重ねなかった。
「そいつも、お前と同じなのか」
「同じ?」
「前の世界の人間だったのか。お前と同じ魔法を使うなら」
鬼太郎の手が止まった。
キーノは、顔を見ていた。
何となく口にした問いではない。自分が聞いたことと、今の話を結びつけて、答えを待っている。
「……分かりません」
鬼太郎は、正直に答えた。
「そういう話は、していません。僕の前の世界について知っていると分かる言葉も、聞きませんでした」
「でも、同じ火を使った」
「悪魔も、僕と同じ系統の術を使います。今日も、冷気や風を使われました。それが使えるというだけで、僕と同じ来歴だとは決められません」
キーノは一度、杖へ目を落とした。
「本を盗む前から使えたのか?」
「それも、確かめられていません。身体が変わったことと、本が関係しているようには思えますが」
「そいつは、何か言わなかったのか」
「僕の火を見て、お前も持っているのか、と」
「本を?」
「かもしれません。何を、と聞き返しましたが、答えはありませんでした」
鬼太郎は掌を膝へ戻した。
「同じ火を見た時には、こちらも驚きました。けれど、あの人が何を知っていて、何を手に入れたのかまでは、聞けていません」
キーノは唇を結んだ。
「そうか」
それから、まだ血の残る肩へ目を向けた。
「それで、怪我をしたのは?」
鬼太郎は、砕いた柱の破片を投げられたことを話した。
広がって飛んでくるものを走って避けきれず、練習していた盾を出した。最初の破片は受けたが、続けて当たると保てなかった。
「先生が見せてくれた、あれか」
「はい。まだ、足りませんでしたね」
キーノは水の入った器を、鬼太郎の方へ押した。
鬼太郎は受け取り、一口飲んだ。
「傷を治している間にも、来ましたよ。その後は、腕を壁へ食い込ませて、顔へ呪文とジオを当てて。その間に、火を作りました」
「アギラオか」
「ええ。あれを撃つ時間は、自分で作らなければなりませんでした」
声へ、また少し楽しさが戻った。
違う種類の悪魔と戦った。
自分と同じ火を使う人間が、こちらの術を止めようとしてきた。
傷を負い、治し、その先でようやく、狙った火を放てた。
鬼太郎は、目の前のキーノを見た。
「楽しかったのは、本当です」
「分かってる。聞いていれば、分かる」
「ですが、勝てないと分かれば逃げますよ。死んでしまえば、その先がありませんから」
キーノは、すぐには返さなかった。
「負けそうになっても、もう少し見たいと思うだろう」
鬼太郎は僅かに口元を上げた。
「思うかもしれませんね」
「そこだ」
キーノが言った。
「逃げるつもりがあるのは分かった。逃げられるうちに決めろよ」
鬼太郎は彼女を見返し、それから頷いた。
「ええ。帰る道まで失うつもりはありません」
キーノはまだ何か言いたそうだったが、そこで一度、息を吐いた。
◆
「本は、持ってきてないんだな」
「回収する人へ任せました。あの男が死んだ後、木も、変わっていた部屋も戻り始めています。中にいた悪魔も消えました」
「全部、そいつが呼んでいたのか」
「支えていたのかもしれません。少なくとも、倒した後で変わり始めたのは見ました」
鬼太郎は、本は残り、外で待っていた者たちが確認して回収したことを伝えた。報酬を受け取ったことと、別の悪魔を従えた売り手への連絡を頼んだことも。
キーノは、鞄へ手を出さなかった。
「先生には言うのか」
「学校へ行った時に、校長先生へお話しするつもりです」
鬼太郎は答えた。
「調べていた本とは別に、悪魔がいた場所から、また本が出てきました。同じものとは限りませんが、あちらの研究にも関わるかもしれません」
「書店のことも?」
「ええ。何が反応したのか分からないことも、そのままお伝えします」
キーノは少しだけ肩を下げた。
「いつだ」
「もうすぐ新学期ですから。学校で直接、お話しします。今日は、もう出かけません」
「それまでに、話すことを忘れるなよ」
「ええ。見たことと、まだ分からないことを、分けておきます」
鬼太郎が答えると、キーノはようやく椅子を引いた。
「なら、まず着替えろ。その服のまま休むな」
「そうします」
鬼太郎も立とうとして、一度膝へ手を置いた。
キーノはそれを見ていたが、腕を掴んで引き上げようとはしなかった。椅子を脇へ寄せ、歩く場所を空ける。
鬼太郎は鞄を持ち上げかけ、また下ろした。
「それは後でいい」
「……ええ」
今度は、その言葉に従った。
◆
着替えて戻ると、キーノはまだ起きていた。
血と煤を落とした分、肌は軽くなった。だが、身体の内側は変わらない。鬼太郎は先ほどの椅子へ、ゆっくり腰を下ろした。
「もう寝るか」
「その前に、一つ」
キーノの目が、また細くなった。
「何だ」
「ロンさんのお宅は、どうでした?」
彼女は少し黙った。
鬼太郎は続けた。
「帰ったら、お聞きするとお話ししましたから。僕の話ばかりでは、申し訳ありません」
「……本当に、聞く気はあったんだな」
「ありましたよ。案内も、お願いしたはずです」
キーノは椅子へ座り直した。
「階段が、多かった」
「ロンさんのお部屋まで?」
「ああ。途中で、まだ上かと聞いた。あいつ、当然みたいな顔で頷くんだ」
鬼太郎は、家を上がっていく彼女を思った。
「先に着いたら、案内してもらうのでしたね」
「してもらった。扉の所で止まったら、後ろからハリーが来て、今度は下からジニーが呼ぶし。どっちへ避ければいいんだと思った」
言いながら、キーノの手が動いた。
狭い階段へ並んだ順番を、卓の上で示している。鬼太郎は、その指先を追った。
「それで、どうしたのです?」
「ロンを先へ押した。部屋を見せるなら、先に入れって」
「困っていましたか」
「笑ってたよ。ハリーも」
キーノの口元が、少し緩んだ。
「その後、何か飲むかって聞かれた。ロンのお母さんは、座る場所まで決めてくれるんだな。私がどこにいればいいか迷ってるうちに、こっちへおいでって」
鬼太郎は水の器を見た。
「居場所が、すぐ出来たのですね」
「そうだな」
彼女は少し考えてから、頷いた。
「帰る時も、漏れ鍋へ戻るまで見てくれた。お礼を言ったら、また来てねって」
「よかったですね」
「ああ。帰ってから、誰に先に話そうかと思ってた」
キーノはそこで一度、鬼太郎の肩へ目をやった。今は血の見えない服になっている。それを確かめるようにしてから、話を続けた。
「気を遣わなくていいって言われた。でも、それが、どうすればいいのか分からなくて」
「初めてですからね」
「ロンは、お前も次は来いって言ってたぞ。私が案内するって、勝手に決めてた」
「では、今日覚えた所を頼りにさせていただきましょうか」
「全部は覚えてない」
「それなら、ロンさんにもお願いしましょう」
キーノは鬼太郎を見て、少し笑った。
昼間、暖炉の前でも、そんな話をした。
鬼太郎は椅子の背へ身体を預けた。
キーノはまだ、家で聞いたことを幾つか思い出していた。話が前後すると、自分で順番を直す。鬼太郎が尋ねると、そこで見たものを説明しようとして、また手が動いた。
やがて、その手が止まった。
「眠いか」
「少し」
「なら、続きは明日だ」
鬼太郎は、返そうとした質問を飲み込んだ。
明日でも、聞ける。
「おやすみなさい。キーノさん」
「ああ。今度こそ、休めよ」
鬼太郎は立ち上がった。
今夜は、次に足を置く場所へ、何が飛んでくるか考えずに歩けた。
廊下の向こうでは、キーノがロンの家で聞いた歌を、小さく間違えながら口ずさんでいる。鬼太郎は足を止めず、その調子が途切れるまで耳を傾けた。自分の知らない今日が、彼女にもあった。