第204話 棚に残す栞
丸めた布を棚へ置くと、戸口で靴音がした。
「そいつは、何をした」
鬼太郎が振り返ると、サーシェスが立っていた。肩から荷を下ろしながら、布と、その向こうのキーノを見ている。
「僕に当たりました」
「私が当てたんだ」
キーノが訂正した。
「ほう。何度だ」
「途中から数えてない」
サーシェスは笑い、荷を壁際へ寄せた。
鬼太郎は器を片づけ、席を空けた。サーシェスは上着の前を開き、腰を下ろす。こちらへ伸ばされた手に、水を渡した。
「お帰りなさい。出発前にお会い出来てよかったです」
「また、何か頼む気か」
「相談もありますが、その前に、お伝えしておきたいことが」
鬼太郎も座った。
「英国で、悪魔と戦いました」
サーシェスの器が、口の手前で止まった。
「買い物に行ったんじゃなかったのか」
「買い物の後です。書店で黒檀が反応しまして。その出所は分かりませんでしたが、普段の暮らしにも紛れ込んでいるのなら、話を集めておこうと思いました」
鬼太郎は、以前の買い手を訪ねたところから話した。
黎明の輪が現れ始めた頃から、各地へ寄せられるようになった目撃と被害。
山道で護衛を殺し、倒されると霧のように消えたもの。別の取引では、売り手の後ろに控え、その命令を聞いていた角のある人型。
「使えてる奴も、いるわけか」
「話のとおりなら。そちらの売り手を探してもらっていますが、まだ、お話は出来ていません」
サーシェスは水を飲み、器を置いた。
「で、お前が相手をしたのは?」
鬼太郎は本を盗んで逃げた男と、廃ビルの中の話へ移った。
入るまで分からなかった空間の広がり。氷、風、家具を使ってこちらを殺そうとした悪魔たち。そして奥にいた、人間の姿を一部に残す男。
「そいつも、呼んだものを使ってたのか」
「周りには、いました。ただ、一緒に指図して襲わせるところは見ていません。その人自身が、杖なしでアギを使いました」
サーシェスは顔を上げた。
「お前の火をか」
「ええ。こちらが撃つ前に狙われるのは、なかなか面白かったですよ」
「それで、布に当てられてたのか」
鬼太郎は少し笑った。
「止まらずに次を用意する方は、まだ、こちらで練習が要りそうです」
「火を作ってる時は当たる。ちゃんと避けると、今度は火が止まるんだ」
キーノが、自分の杖を収めながら言った。
サーシェスは棚の布を見てから、鬼太郎へ目を戻した。
「相手は、布じゃ済まなかったんだろう」
「砕いた柱の破片でしたね。広がって飛んできました」
話を聞く目が、少し細くなった。
鬼太郎は盾が破れたことも、傷を治しながら戦ったことも隠さなかった。サーシェスはそこで話を止めず、どこから投げた、何を挟んで避けた、と尋ねた。
鬼太郎は卓へ指を置き、柱と壁の位置を示す。
「最後は、ここへ腕が抜けなくなりまして」
「自分で突っ込ませたか」
「ええ。その間に、顔を止めました」
サーシェスの口元が上がった。
「次に離れたら、また石が来るからな」
「はい。こちらも、長くお付き合い出来るほどは残っていませんでしたので」
鬼太郎は指を離した。
「倒した後で、中にいた悪魔も、変わっていた部屋も消え始めました。本は残り、外で待っていた者が回収しています」
「本には触ったのか」
「触れていません。開くなとも言われました。何をしていた本なのか、確かめられてはいませんが、召喚に関わるものかもしれません」
サーシェスは少し黙った。
「学校で出た一冊だけじゃない、ってことだな」
「ええ。誰が持っているかも、分かりません。依頼で会う相手が普通の人間に見えても、それだけとは限りませんので」
「杖を持ってねえからって、手を空けさせたままにするな、と」
「後ろに何が控えているかも、ですね」
サーシェスは椅子の背へ身体を預けた。
「分かった。知らずに踏み込むより、ましだ。……こっちでも話が回ってねえか、耳には入れとく」
「ただし、俺の聞いた噂が、そのまま敵の数になるとは思うな。顔を見た奴と、誰かの話を聞いた奴じゃ値打ちが違う」
「ええ。聞けた方と、確かめられた方を分けて記録します」
「俺も、そうする。危なそうなら先に知らせる。お前に全部集めさせるつもりはねえからな」
「お願いします」
鬼太郎は礼を言い、隣に置いていた帳面へ手を伸ばした。
「そこで、もう一つなのですが」
「今度が、相談か」
◆
帳面を開くと、サーシェスの目が頁へ落ちた。
前には、まだ選べるかどうかも分からなかった。呼ばれた側の言うままに、何を取られるか分からない本を使うつもりはないと、この男も話していた。
「校長先生と作る本の、手順がまとまりました。材料は、まだ探していただいているところですが」
「俺にも使えるようにする、あれだな」
「はい。出来上がったら、あなたに使ってみていただけませんか」
サーシェスは、すぐには頁へ手を出さなかった。
「使えるかも分からねえ物を持って、仕事へ行けと?」
「最初の確認は、僕と先生も一緒に。試す前に止め方を確かめ、その後で、持ち歩いて使った時に気づいたことを教えていただきたいのです」
「止め方が怪しかったら?」
「そこで中止です。危ない本が増えるだけなら、作った意味がありません」
「だったら、その手順を最初に見せろ。仕事で使うかどうかは、それを見てから俺が決める」
サーシェスは帳面の端を指で押さえ、まだ書き足されていない余白を見た。
鬼太郎は、契約を終える前のところを指した。
「僕たちは学校に戻ります。呼べたかどうかだけでなく、必要な時に扱えるか、その後も一緒に働けるかまでは、学校の中で好きに試せませんから」
サーシェスの視線が、頁の先へ進んだ。
「相手も、俺が選ぶのか」
「誰が来るかを、初めから好きに決められるわけではありません。ただ、来た相手の条件を聞いて、受けるか断るかを選べるようにしています。あちらにも、断るところがあります」
「気に食わなきゃ、帰す」
「ええ。契約するのは、あなたですから」
サーシェスはそこで、初めて指を伸ばした。鬼太郎が示した所を、自分でも押さえる。
「後になって、聞いてねえ物まで持っていかれるのは、ごめんだぞ」
「そのための確認です。元の本を、そのまま使っていただくお話ではありませんよ」
「なら、いい。俺が呼んで、俺が話す。横から勝手に、これで決まったなんて言うなよ」
鬼太郎はサーシェスの顔を見た。
「言いません。ですが、使って何かおかしいと思った時には、こちらにも教えてください」
「ああ。腹の立つ使い勝手なら、そのまま言ってやる」
「それが、いちばん助かります」
サーシェスは笑った。
帳面を返す時にも、少しだけ頁へ目を残している。
「いつだ」
「続きを進めるのは、次の長い休みになると思います。先生にも、今日のお話と合わせて相談します」
「出来たら知らせろ。こっちも、予定を空けるかどうか決める」
「ええ。お仕事を止めていただくわけにはいきませんからね」
「当たり前だ。俺の時間にも値段はついてる」
「ええ」
鬼太郎は帳面を閉じた。
渡せる本は、まだない。だが、出来た後に使う相手の望みは、以前より具体的に聞けた。
サーシェスは立ち上がり、壁際の荷を持った。
「その頃までに、手から火を出す奴が増えてなきゃいいがな」
「増えていたとしても、知らないままではいたくありませんね」
鬼太郎が答えると、男は鼻で笑って、荷を置きに行った。
◆
出発前日は、荷物を閉じるだけでは済まなかった。
食堂の隣を通ると、ミラが地図を広げていた。頁の端を押さえる石を動かし、鬼太郎たちへ顔を上げる。
「明日か」
「ええ。朝、出るつもりです」
学校へ戻る話は、ここで会う者たちにも伝えてあった。ミラはキーノへも目を向け、それから低い棚を示した。
「本は、ここで使っていいのか」
「はい。持っていくのは、学校のものと、僕たちが使う分だけです」
「地図の場所は、また変えるかもしれないぞ」
キーノが言った。
「私がいなくても、取りにくければ動かしてくれ。どこへ置いたかは、帰った時に教えてくれればいい」
ミラは棚と卓の間を見た。
「そこの端なら、広げたままでも通れる」
「なら、使ってみればいい。端は、ちゃんと押さえろよ」
キーノが石を指すと、ミラは地図の上へ戻した。
その脇に、細い紙があった。本の途中へ挟んでいたものらしい。ミラは鬼太郎の視線に気づき、開きかけの本を手元へ寄せる。
「道が分かれているところを、まだ見ている」
「帰った時には、先のお話も聞けそうですね」
「読めたところまでは、話せる」
「私にも、聞かせてくれ」
キーノが言った。
ミラは頷き、紙を頁の間へ挟んだ。
廊下では、ボグダンが戸の金具を確かめていた。
鬼太郎たちへ目を向けたが、すぐには手を離さない。戸を二度動かしてから、持っていた道具を収めた。
「持っていく物と、残す物は分けたか」
「ええ。留守の間に届いたものは、これまでどおり、確かめておいていただけますか」
「決めてある分はな。知らねえ品を、勝手に受け取ったことにはしねえぞ」
「はい。そこは、戻ってから伺います」
ボグダンは頷いた。これまでの仕事を、最初から決め直そうとはしなかった。
キーノは戸へ目を向けた。
「そこ、引っ掛かってたのか」
「緩んでた。今はいい」
促されて動かすと、戸は途中で止まらず閉まった。キーノが礼を言う間に、ボグダンはもう次の用事へ向かっていた。
その先で、ヴェリナと行き会った。こちらも何かの話を済ませた帰りらしく、戸口の向こうへ短く返事をしてから、鬼太郎へ向き直る。
「出る前に、話しておきたかった」
「留守の間のことですか」
「ああ。ここで決められることは、今までどおり本人同士で話す。お前に聞かなければ進まないものは、分けておく」
「お願いします。急ぐものまで、僕が戻るのを待っていただく必要はありませんので」
「待てないものは、待たない。ただ、お前が必要になることもある」
鬼太郎は頷いた。
「知らせは、これまでの伝言先を使ってください。僕も、学校へ着いたら、連絡を受け取れるようにしておきます」
誰かが城へ入ってきて報告するわけではない。森の者たちは自分たちの判断で仕事を回し、届けるべきことだけを届ける。鬼太郎は、その仕組みが自分の不在でも続くのを確かめていた。
後ろから来たサーシェスが、その声を聞いて足を止めた。
「俺がいりゃ、繋いでやる。だが、こっちにも仕事があるぞ」
「分かっている。お前がいる時しか、話が進まないようにはしない」
ヴェリナは答えた。
「誰が何を見たのかは、分かるようにしておく。噂だけで、皆を動かすつもりはない」
「ええ。それでお願いします」
鬼太郎が返すと、彼女は今度はキーノへ顔を向けた。
「学校へ持っていくものを、忘れるなよ」
「今、確かめてる。鬼太郎は、これから北へ行くそうだ」
「なら、暗くなる前に」
ヴェリナは道を空けた。
廊下の先では、誰かが本の置き場所を尋ねていた。ミラの声が返る。鬼太郎はその方へ一度顔を向けてから、外へ出た。
◆
白い石の手前で、鬼太郎は足を止めた。
谷へ続く方から、大きな黒い影が動いた。木々の間を抜けてきたグロブニクが、少し離れて立つ。
赤い右目が、鬼太郎の両手へ落ちた。
「今日は、何をしに来た」
「ご挨拶です。明日、学校へ戻りますので」
鬼太郎は杖を抜かずに答えた。
「お入りしても、よろしいですか」
「来い」
石を越え、近づく。
鬼太郎が根を避けて足を置くと、グロブニクの頭が僅かに動いた。顔よりも下を見ている。
「また、戦ったか」
鬼太郎は足を止めた。
「分かりますか」
「前より、こちらを見ながら歩く」
大きな鼻先が、鬼太郎の手へ向いた。
「何を隠している」
「今日は、何も用意していませんよ」
鬼太郎は左掌を見せた。
「ですが、戦ってはきました。こちらを見て、次の手を止めようとする相手でしたので」
「止められたのか」
「何度か。最後には、こちらが止めました」
グロブニクは動かなかった。
鬼太郎も、火を作らなかった。
先に来る腕を避けた時の距離を思い出す。あの男へ使えた手が、そのまま、この大きな相手へ通じるわけではない。前脚の届く所も、顔の高さも違う。
黒い毛の下で、肩が動いた。
「次にお会いする時が、楽しみですね」
鬼太郎が言うと、低い声が返った。
「我も、以前のままではない」
鬼太郎は口元を上げた。
「それは、困りました」
「そうは見えぬ」
「ええ。楽しみが増えました」
グロブニクは短く鼻を鳴らした。
谷の奥で枝が揺れる。鬼太郎は音へ顔を向けず、目の前の相手を見ていた。
「今日は、帰るのだろう」
「はい。荷物も、まだ閉じていませんから」
「ならば、帰れ」
鬼太郎は一礼した。
「では、また。次は、歩いて帰る方も考えて来ますよ」
「考えても、足が動かなければ同じだ」
「ええ。そちらも、練習しておきます」
グロブニクが身体を横へ向けた。
鬼太郎は石の方へ戻った。背後に爪の音は続かなかったが、谷を出るまでは、見られている気がした。
◆
戻ると、キーノが荷物の前へ座っていた。
モカの籠は、その隣にある。鳥は止まり木へ片足を引き、こちらを見ていた。
「戦ってないだろうな」
「お話だけですよ」
「なら、いい。こっちを確かめろ」
鬼太郎は自分の荷物へ膝をついた。
教科書と帳面を分け、筆記具を収める。報告することを書いた頁は、学校で取り出しやすい所へ挟んだ。
キーノはモカの餌を確かめていた。籠の戸を動かし、留まったことを指で確かめる。
「明日は、こいつも一緒なんだな」
「ええ。学校にも、連れていけますから」
「分かってる。置いていくつもりはないぞ」
彼女が顔を寄せると、モカは少し首を傾げた。
鬼太郎は荷物へ手を戻した。
棚に置いた布は、ここへ残す。持っていく本を抜いた隙間の向こうに、細い紙の挟まった本が見えた。
そちらは、明日も誰かが開く。
「閉めていいか」
キーノが尋ねた。
「はい。僕も、出来ました」
留め具の音が、二つ続いた。
鬼太郎は壁際へ荷物を寄せ、玄関の暖炉を見た。粉は取り出せる場所にある。今夜は使わない。
背後で、キーノがモカへ小さく声を掛けていた。