第206話 戻ってきた声
列車の外は、思っていたより冷えていた。
鬼太郎はホームへ下り、後ろから来るキーノへ場所を空けた。籠を抱えた彼女が足元を確かめる間にも、生徒たちは次々に歩き出していく。
ハグリッドが、頭一つ高い所から新入生を呼んでいた。
小さな影が、その灯りへ集まっていく。ジニーの赤い髪も見えた。キーノが手を上げると、彼女は一度こちらを向き、それから一年生の列についていった。
「今年は、あっちじゃないのね」
ハーマイオニーが言った。
上級生たちの進む方には、馬車が並んでいた。
鬼太郎は乗り込む前に、その前方へ目を留めた。黒い生き物が、頭を低くして立っている。骨の形が分かるほど痩せた胴へ、薄い皮膚が張りついていた。
翼がある。
折り畳まれた膜の端が、肩のそばで少し動いた。
「鬼太郎、乗れるぞ」
キーノの声に、鬼太郎は足を進めた。
中へ収まると、ハーマイオニーが向かいへ座った。キーノは籠を膝に載せ、揺れないよう片手を添えている。
馬車が動き出した。
鬼太郎は前の方を見た。細い脚が、迷わず道を踏んでいく。背の骨が浮いているのに、車輪を引く歩調は乱れなかった。
「不思議な生き物ですね」
「何が?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「これを引いているものです。ずいぶん痩せているのに、よく歩きます。翼も、邪魔にはならないようで」
彼女は鬼太郎と同じ方へ顔を向けた。
しばらく見てから、また戻す。
「あなたには、見えるの?」
「ええ。黒い身体で、頭は馬とも少し違いますね。骨ばっていて、目は白く見えますが」
「それなら、セストラルだと思うわ」
鬼太郎は、彼女へ顔を戻した。
「ご存じなのですか」
「『ホグワーツの歴史』に載っていたの。学校の馬車を引いているけれど、誰にでも見えるわけではないって」
「あなたには、見えませんか」
「ええ。私には、何もいないように見えるわ」
ハーマイオニーは、もう一度前を見た。
「死を目撃して、その意味を理解した人にだけ見えるそうよ」
鬼太郎は、見世物小屋の床に落ちた血と、その前にも見送った幾つもの死を思い浮かべた。死んだ人間が二度と同じ声で答えないことを、もう知っている。だが、いま馬車を引くものが見える理由を、そのどれか一つへ決めるつもりはなかった。
車輪が石を踏み、座席が少し揺れた。
鬼太郎は膝へ置いた手を動かさず、黒い背へ目を戻した。
こちらに見えているものが、向かいの彼女には見えていない。それでも、何が引いているかを知って、この馬車へ乗っている。
「なるほど。それで、先ほどは何を見ているのかと」
「見たことがないから、今の説明で分かったの。本に書いてあった姿と、よく似ていたわ」
ハーマイオニーは、誰の死を見たのかとは聞かなかった。
鬼太郎も、自分から話し始めはしない。
キーノの膝で、モカが一度羽を動かした。彼女が籠を押さえ直すと、その向こうの木々が途切れた。
城の窓に、灯りが並んでいた。
「見えてきたぞ」
キーノが言った。
鬼太郎は顔を上げた。
前を行くセストラルの翼越しに、見慣れた塔が近づいていた。
◆
大広間へ入る前に、三人はマクゴナガルを見つけた。
新入生を迎える支度の途中だったらしく、教授は戸のそばで足を止めた。
「どうしました」
「ポッターさんとウィーズリーさんに、列車で会えませんでした」
鬼太郎が言うと、ハーマイオニーも続けた。
「車内を探したんです。お兄さんたちも見ていなくて。でも、駅までは一緒だったそうです」
マクゴナガルの目が、二人の顔を順に見た。
「ほかに、何か聞いていますか」
「夏に、ハリーが学校へ帰るのを止めようとした屋敷しもべ妖精がいたんです。今度も関係があるかもしれないと思って」
「その話は、本人から?」
「はい。手紙も隠されていたと聞きました」
教授は一度、大広間の方へ目をやった。
「こちらで確認します。三人とも、中へ入りなさい。何か分かっても、自分たちで探しに出たりしないように」
鬼太郎は頷いた。
「よろしくお願いします」
教授が離れるのを見てから、三人は卓へ向かった。
灯った蝋燭の下で、知っている顔が幾つもこちらを向く。休み中はどうだった、と声を掛けられ、返事をしながら腰を下ろした。
教員卓には、ロックハートがいた。
書店で見た時とは違う色のローブを着て、近くの教師と話している。こちらの卓へ顔を向けると、何人もの生徒が手を振った。
ハーマイオニーもそちらを見た。
鬼太郎は、授業で聞いてみたいことを思った。危険なものへ気づいた後、どう動くか。先に退く場所を決めていても、それが使えなくなった時にはどうするか。
ただ、今は教師の姿を数える方へ、目が戻った。
スネイプの席は空いていた。
やがて新入生が入ってくると、話し声が小さくなった。
ジニーは列の中にいた。大広間を見回した後、前の子が動くと、自分も少し進む。去年のキーノも、あの辺りに並んでいた。
鬼太郎は隣へ顔を向けた。
キーノは、帽子の置かれた椅子を見ている。
名前が呼ばれるたびに、別の卓から拍手が上がった。
ジニーの番が来た時には、赤い髪の兄たちが揃って前を向いた。帽子が寮の名を告げると、グリフィンドールの卓が一段と騒がしくなる。
キーノが隣の席を空けた。
「こっちだ」
近づいてきたジニーが、ほっとしたように笑った。
座る前に、一度卓の先まで目を走らせる。
「ロンは?」
キーノの手が止まった。
「まだ、会ってない。先生には話した」
「ハリーも?」
「ああ」
ジニーは椅子へ腰を下ろしたが、すぐには前を向かなかった。
キーノは何もなかったように話を変えず、隣に座ったままでいた。
◆
食事が始まってからも、戸の開く音がすると顔を上げた。
入ってきた教師が、そのまま教員卓へ向かう。別の戸から誰かが出ていく。皿の上へ料理を取っても、何を話しているのかは聞こえなかった。
「車で来た奴がいるんだって」
卓の向こうから、そんな声が来た。
キーノが顔を上げる。
「車?」
「空を飛んで来たって。外で見たって奴がいたらしいよ」
「誰が見たんだ」
聞き返すと、話していた少年は隣を見た。そちらも、その隣から聞いたのだと言う。
別の所では、ポッターとウィーズリーが退学になったらしい、という声まで上がっていた。
ハーマイオニーが眉を寄せた。
「本人たちは、まだここへ来ていないのよ」
鬼太郎は教員卓へ目を戻した。
噂が広がるより先に、教師が動いている。自分たちが聞いていないことを、知っている者がいるのだろう。
食事の途中で、マクゴナガルが卓の近くへ来た。
三人が顔を上げると、教授は短く言った。
「二人とも、学校へ到着しています。今は事情を聞いているところです」
「怪我は?」
ハーマイオニーの問いは、すぐだった。
「話の出来る状態です。あなたたちは、食事を続けなさい」
「二人ともですか」
「ええ、ポッターもウィーズリーも。事情は教師が聞いています」
それ以上は、まだ分からないのだろう。噂の中にあった大怪我や退学の言葉を、鬼太郎は確かな話から外した。
詳しいことは、それ以上話さなかった。
それでも、鬼太郎は戸から目を離せた。
キーノも席へ座り直した。ジニーへ、先生も二人に会っているそうだ、と伝える声が聞こえた。
料理は、まだ温かかった。
◆
宴が終わると、新入生たちが監督生の周りへ集まり始めた。
鬼太郎はキーノとハーマイオニーへ声を掛け、教員卓の方へ歩いた。
ダンブルドアは立ち上がりかけたところだった。鬼太郎を見ると、一度足を止める。
「戻ったようじゃな」
「はい。校長先生、お時間のある時に、お話ししたいことがあります」
老人の視線が、鬼太郎の顔へ落ちた。
「休みの終わりに、何かあったのかね」
「ええ。こちらで調べていたものにも、関わるかもしれません。見たことを、まとめてあります」
ダンブルドアは、すぐには次の問いを足さなかった。
背後を、新入生の列が通っていく。
「分かった。明日、こちらから時間を知らせよう。帳面も持っておいで」
「確認できたことと、僕の推測は分けてあります」
「それは助かる。じゃが、今夜ここで話を聞いてしまえば、君の休む時間を奪ってしまう。詳しい話は、明日にしよう」
鬼太郎は頷いた。校長がまだ何も聞いていないことを、こちらも忘れてはいけない。
「ありがとうございます」
「今夜は、寮へ戻りなさい。長い旅じゃったろう」
鬼太郎は礼をして、二人の所へ戻った。
キーノは、こちらの顔を見てから歩き始めた。
「話せたか」
「明日、呼んでいただけることになりました」
「なら、帳面を出せるようにしておけよ」
「ええ」
ハーマイオニーは先の角へ目をやっていた。
「二人は、もう戻っているかしら」
鬼太郎もそちらへ顔を向けた。
階段を上がる間に、後ろの話し声が少しずつ遠くなった。
◆
太った婦人の肖像画の前に、二人の少年がいた。
鬼太郎たちが角を曲がると、ハリーが顔を上げた。
ロンも隣にいる。
「そこにいたのね!」
ハーマイオニーが先へ進んだ。
鬼太郎も歩みを速めた。服が汚れている。ロンの顔には擦った跡があり、ハリーもひどく疲れた顔をしていた。
だが、二人とも、自分の足で立っている。
「退学になったとか、車で落ちたとか、変な噂ばかり聞こえてきたのよ。大丈夫なの?」
「退学には、なってないよ」
ハリーが答えた。
「先生にも会った。二人とも、ここにいていいって」
「じゃあ、本当に車で来たの?」
ロンが、少し肩を上げた。
「先に、合言葉を教えてくれないか。ここで止まってたんだ」
ハーマイオニーは口を開きかけ、閉じた。
合言葉を告げると、肖像画が動く。
途端に、中から歓声が上がった。
談話室には、まだ大勢が残っていた。双子が前へ来て、ロンの肩を叩く。どこへ落ちた、どれくらい飛んだ、と声が重なり、ハリーも入口から引き入れられた。
鬼太郎は脇へ退き、二人が通れるようにした。
キーノはついていったが、皆と一緒に笑ってはいなかった。
ようやく暖炉から少し離れた所で、ハリーとロンが足を止める。
「一日、探したぞ」
キーノが言った。
ロンの笑みが、小さくなった。
「……ごめん。乗れなかったんだ。駅の壁が、通れなくなって」
「お母さんたちは?」
「先に入ったよ。僕たちだけ、向こうに残った」
ハリーが、台車ごとぶつかったことを話した。
列車が出るまで、押しても通れなかったこと。大人たちがこちら側にいて、自分たちにはマグルのお金もほとんどなかったこと。
そこから、車の話になった。
「どうして、フクロウで知らせなかったの?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「それ、先生にも言われたよ」
ロンは目を逸らした。
「あの時は、思いつかなかったんだ」
「私たちも、別の客室にいるんだと思っていた。でも、どこにもいなかった」
キーノは二人の顔を見ていた。
「どこかで無事に待ってるのかも、分からなかったぞ」
ハリーは、今度は彼女へ向き直った。
「ごめん。戻ったら会えると思って、そればかり考えてた」
鬼太郎はその声を聞いてから、尋ねた。
「壁が通れなかった理由は、分かったのですか」
「まだ。どうして急に、あんなことになったのか」
ハーマイオニーが鬼太郎を見た。
ドビーの名は、すぐには口にしなかった。本人が何を知っているかを聞く前に、こちらの考えで話を埋めたくはなかった。
「その時のお話も、先生にしておいた方がよさそうですね」
「壁のことは、全部話したよ」
「ええ。夏の警告の方もです」
ハリーは少し黙り、それから頷いた。
ロンが腰を下ろすと、ローブの裾から細かい屑が落ちた。
手を動かした拍子に、折れかけた杖も見えた。先が、繋がった木の細い部分で傾いている。
「ロン、それ……」
ハーマイオニーの声に、ロンは杖を膝へ寄せた。
「ぶつかった時に、折れたんだ」
「そのまま使う前に、先生へ見せた方がいいわ」
「分かってるよ。今日は、もう使わない」
ロンは握り直そうとはせず、そっと収めた。
「何に、ぶつかったんだ」
キーノが聞いた。
「木だよ。よりによって、暴れ柳に」
「柳?」
鬼太郎は、落ちた屑から顔を上げた。
「車が落ちたら、枝で殴ってきたんだ。扉も屋根も、へこむくらいに。こっちは出ようとしてるのに、開けた所まで叩かれて」
ロンが話す横で、ハリーも頷いた。
「幹に近づいたから、動いたのですか?」
「ぶつかったんだよ。どれくらい離れれば止まるかなんて、見てる余裕はなかった」
鬼太郎は、その枝の届く範囲を思い描いた。
木なら、根を置く場所は動かないのだろうか。それとも、こちらが下がれば幹ごと寄るのか。枝が何本も違う方から来るなら、一本を避けた先にも――。
頬へ、指先が触れた。
「鍛錬に使うなよ」
鬼太郎は隣を見た。
キーノが、こちらの頬へ指を当てていた。
「……まだ、何も言っていませんよ」
「顔に出てるんだよ」
指が離れた。
鬼太郎は自分の口元へ触れた。笑っていたらしい。
向かいでロンが、呆れたようにこちらを見ていた。
「今、僕たちの話を聞いてたよね?」
「ええ。車がへこむほどでしたね」
「そこを聞いて、どうして試そうとするんだよ」
「見てみたいとは思いましたが」
「見るだけなら、枝の届かない所からだ」
キーノは言った。
鬼太郎は少し考え、それから掌を膝へ戻した。
「では、まずは、そこからにしておきましょう」
「まずは、じゃない」
ハリーが、小さく息を漏らした。
笑ったのだと気づいて、鬼太郎も顔を向ける。
「何です?」
「いや。二人とも、戻ってきたんだなって」
「それは、こちらの台詞ですよ」
鬼太郎が返すと、ロンも背もたれへ身体を預けた。
今度は、その肩から少し力が抜けた。
◆
話は、いつまでも続けられなかった。
パーシーが近づいてくると、ロンは疲れたと言って立ち上がった。ハリーも一緒に男子の階段へ向かう。
ハーマイオニーは二人の背を見送り、それからキーノへ顔を向けた。
「私たちも、行きましょうか」
「ああ」
キーノは鬼太郎を見た。
「明日、先生に呼ばれるんだろう。寝坊するなよ」
「時間は、これから教えていただくのですが」
「だからって、昼まで寝るな」
「ええ。おやすみなさい」
返事を聞いてから、彼女は女子の階段へ向かった。
鬼太郎も自分の寝室へ上がった。
運ばれていた荷物を開き、帳面を取り出す。書いた頁は、そのまま残っていた。窓の数が変わった部屋も、ヴェインの火も、明日には話せる。
帳面を、しまい直さず手近な所へ置いた。
向こうでは、ロンがまた車のことを尋ねられていた。ハリーも言葉を足し、別の誰かが笑う。
列車では聞けなかった声だった。
廃ビルの中で耳にした声は、意味が通じても、相手がいつ襲ってくるか分からなかった。いま聞こえるのは、明日の授業を嫌がるロンと、それをからかう誰かの声だ。どちらもまだ無事に戻ってきたのだから、今夜はそれでよかった。
しかし、机の上には報告用の帳面が残る。触れてはいけないと指定された本は、取り戻され、どこかへ運ばれた。誰の手にあるかも、何を起こすかも、まだ知らない。
鬼太郎は寝台へ腰を下ろした。今度は、本人たちがどこにいるか、確かめに行く必要はなかった。
第13章「横丁の裏側」完