第二十話 触れた者の代価
部屋を借りた日の夜、鬼太郎は扉を閉めてから短い糸を取り出した。
扉と枠の間へ挟む。
外から扉を開けば、糸は床へ落ちる。
寝台の下に置いた弾薬は、包みの角を壁と平行に揃えた。
机の引き出しには、縁へ小さな傷をつけた硬貨を一枚だけ入れる。
買い手は合鍵を持っている。
部屋を貸すと言った人間が、本当に中へ入らないとは限らない。
この部屋そのものに、特別な価値はなかった。
使えなくなれば、別の寝床を探せばよい。
だが、父の書類や弾薬の隠し場所を知られれば、次の寝床を探すだけでは済まない。
誰が、いつ、何へ触れたのか。
それを知る必要があった。
◆
四日後、鬼太郎は夕方に部屋へ戻った。
その日は、倉庫へ運び込まれた木箱の印を確認する仕事だった。
扉の鍵を開ける。
足元を見る。
短い糸が、床へ落ちている。
鬼太郎は部屋へ入り、扉を閉めた。
本と辞書の位置は変わっていない。
寝台の下に手を伸ばす。
弾薬の包みが、壁に対して斜めになっていた。
中身を数える。
減ってはいない。
机の引き出しを開く。
傷をつけた硬貨だけが消えている。
最後に床板を外した。
油紙に包んだ父の書類は、同じ場所にある。
床板の上からでは、気づかなかったらしい。
鬼太郎は書類を取り出し、上着の内側へ入れた。
〈シュライク〉も、いつもどおり専用ホルスターにある。
盗まれたのは硬貨一枚だけだった。
金額は小さい。
問題は、この部屋へ入れる者が、鬼太郎の所持品を調べていることだった。
◆
買い手は事務所で帳面を読んでいた。
「今日、僕の部屋へ入りましたか?」
鬼太郎が尋ねると、買い手は顔を上げた。
「入っていない」
「誰かへ、中を調べるよう頼みましたか?」
「頼んでいない。何かなくなったのか」
「硬貨が一枚」
買い手の眉が動いた。
「それだけか?」
「今のところは」
「部下に聞くか」
「いいえ」
鬼太郎は首を横へ振った。
「盗んだ方が、自分から名乗るとは思えません」
買い手が嘘をついている可能性もある。
部下の誰かが、勝手に入った可能性もある。
どちらであっても、今ここで問い詰めるだけでは確かめられない。
「僕の方で確認します」
鬼太郎はそれだけ告げ、事務所を出た。
◆
翌日、鬼太郎は弾薬を鞄へ移した。
父の書類も身につける。
部屋には、失って困るものを残さない。
机の引き出しへ、小さな布袋を置いた。
中には紙幣と硬貨が入っている。
どれにも、端や縁へ小さな印をつけた。
扉へ糸を挟み、いつもの時間に建物を出る。
通りを一周した。
日が傾き、階下が荷物の出入りで騒がしくなるころ、建物へ戻った。
階段を上がる者は、鬼太郎へ目を向けなかった。
自分の部屋へ入り、扉の陰へ座る。
灯りはつけない。
外が暗くなるまで、辞書を膝へ置いて待った。
足音が近づいた。
一度、扉の前で止まる。
金属が触れ合う。
鍵が差し込まれた。
扉が内側へ開く。
鬼太郎の身体は、開いた扉の陰に隠れた。
入ってきた男は、買い手の部下だった。
男は扉を閉める。
机へ向かい、引き出しを開けた。
布袋を見つける。
中の金を確かめ、そのまま上着の内側へ入れた。
「見つけましたね」
男の肩が跳ねた。
鬼太郎は立ち上がった。
右手には、〈シュライク〉がある。
「そのまま、手を見えるところへ出してください」
「待て。違う」
男が早口で何かを続けた。
半分も聞き取れない。
「ゆっくり話してください」
「俺は、部屋を見ただけだ」
「お金を上着へ入れました」
「ここは親方の建物だ。お前のものじゃない」
「ええ。建物も部屋も、僕のものではありません」
鬼太郎は銃口を男の胸へ向けた。
「ですが、部屋を使う権利は、仕事の報酬として受け取りました。中の物まで、あなたへ貸した覚えはありません」
男の視線が、扉へ向く。
「逃げても構いませんよ」
鬼太郎は微笑んだ。
「その場合は、撃ちます」
男は動かなかった。
◆
鬼太郎は男を先に歩かせ、買い手の事務所へ入った。
買い手のそばには、別の部下が二人いる。
「こいつが入ったのか」
「ええ。僕の部屋の鍵を持っていました」
買い手が男を見る。
「鍵はどうした」
「少し借りただけです」
「誰に断った」
男は答えない。
買い手の机には、鍵を入れている浅い引き出しがあった。
買い手がそこを開く。
中は空だった。
「返すつもりだった」と男が言った。
「お金もですか?」
鬼太郎が尋ねる。
男は黙った。
「出してください」
鬼太郎が命じると、男は上着から布袋を出した。
机へ置く。
鬼太郎は中身を広げた。
紙幣の端。
硬貨の縁。
すべてに、つけておいた印がある。
「昨日なくなった硬貨も持っていますか?」
「知らない」
買い手が男へ手を差し出した。
「財布を出せ」
男は動かない。
左右にいた部下が、男の腕を掴んだ。
財布が机へ置かれる。
中から、縁に傷のある硬貨が見つかった。
買い手の顔から表情が消えた。
「俺が渡した部屋だ」
「でも、建物は親方の――」
「だから何だ」
買い手は低い声で遮った。
「俺が仕事の代わりに使わせると決めた。お前が勝手に入って金を取れば、俺が決めた報酬を横から減らしたのと同じだ」
男は口を閉じた。
買い手が鬼太郎へ向き直る。
「どうしたい」
鬼太郎は机の上の金を見た。
盗まれた硬貨。
囮として置いた金。
すべて戻っている。
男を殺せば、死体が残る。
買い手は部下を一人失う。
鬼太郎が得るものはない。
「盗んだ金を返していただきます」
「それはもう戻った」
「盗んだ金額と同じだけ、追加で支払ってください。それから、部屋の錠をこの方のお金で交換してください」
男が顔を上げた。
「ふざけるな」
「嫌なら、別の支払い方でも構いません」
鬼太郎は〈シュライク〉を机へ置かなかった。
男の顔から血の気が引いた。
買い手が短く笑う。
「金で払え。錠代もお前の取り分から引く」
男は歯を食いしばった。
「殺さなくていいのか?」
買い手が尋ねる。
「生きて働く方が、お金を払えますから」
鬼太郎は男を見る。
「次も同じなら、そのときに改めて比べます。生かしておく利益と、また盗まれる損失を」
男は何も答えなかった。
◆
翌日の昼、新しい錠が扉へ取りつけられた。
鍵は二本。
買い手は、その両方を鬼太郎へ渡した。
「火事なら扉を壊す。それ以外で入りはしない」
「承知しました」
鬼太郎は鍵を確かめた。
一本は身につける。
もう一本は、父の書類とは別の場所へ隠した。
書類を床板の下へ戻す。
弾薬も数を確かめ、寝台の下へ置いた。
これで安全になったとは考えない。
鍵がなくても、扉や窓を壊せば中へ入れる。
ただ、誰でも合鍵を持ち出せる状態よりはよい。
部屋を好きになったわけではない。
危険を一つ減らしただけだった。
扉が二度叩かれた。
「話がある」
買い手の声だった。
鬼太郎が扉を開けると、買い手は一通の紙を持っていた。
「お前を名指しした仕事が来た」
「僕を?」
「炎と小さな銃を使う子供に頼みたいそうだ」
鬼太郎は新しい鍵を上着へしまった。
「では、先に条件を聞きましょう」