第20話 忘れさせる工場
乗り物を二度替え、最後の道を歩くころには、通りの店へ灯りが入り始めていた。
鬼太郎は地図をしまい、運河へ沿って進んだ。
水面には油のようなものが浮き、岸へ寄せられた木片の間で揺れている。湿った臭いに、古い煉瓦と泥の匂いが混ざっていた。水辺の倉庫は鎧戸を閉じ、道端には荷を下ろしたまま使われなくなった木の台が残っている。
教えられた染色工場は、その先にあった。
煉瓦造りの建物が二棟。煙突は上の方が欠け、正門には鎖が巻かれている。窓のいくつかは板で塞がれ、看板の文字も半分以上が剥がれていた。
鬼太郎は、向かいの倉庫の陰へ入った。
ここまで、同じ顔を続けて見ることはなかった。橋で立ち止まったときも、後ろから来た男はそのまま先へ行った。少なくとも、あの両替所の者がすぐ後ろについている様子はない。
正門の中を見る。
鎖の下に伸びた草は長かったが、建物の扉に近いところだけ倒れている。窓に人影はない。煙突からも煙は出ていなかった。
誰もいないと決めるには、踏まれた草が新しかった。
鬼太郎は見取り図を出した。
正面の入口に一つ。運河と反対側の窓にも印がある。先に入った三人の残る一人は、裏の搬入口を使っていた。
三つの印を順に見て、図を畳む。
どの場所でも、待つ側には見当がつく。
工場へは寄らず、周囲の道を変えながら別の角度を探した。近くの建物で誰かが扉を閉める音がしたときは、荷札の残った木箱のそばで立ち止まり、通り過ぎるのを待った。
裏の搬入口へは荷車の轍が続いていた。
乾いた泥に草が伸びている。最近使われた道には見えない。
だが、その手前から水際へ下りる細い石段があった。段の脇には、潰れた草と泥のついた靴跡が残っていた。
鬼太郎は近づきすぎず、腰を屈めた。
同じ形の靴底が、草と石の間を何度も往復している。端の崩れた古い跡もあれば、溝がはっきり残ったものもあった。
石段の下に、瓶が一本落ちていた。
その横には、パンを包んでいたらしい紙が押し込まれている。水に浸かった部分は破れていたが、石に挟まれた上の方は、まだ形を保っていた。
鬼太郎は工場の壁を見上げた。
水面より高いところに、排水路の口がある。
前を塞ぐ鉄格子は錆びていた。だが、下の留め具は外され、片側を壁へ預けるようにして置かれている。
見取り図にも、建物の中を走る細い線はあった。
外までつながっているとは書かれていない。
工場が使われていたころの排水路なら、染料を流すためのものだろう。人が通れる幅があるとは、紙を見ただけでは分からなかった。
鬼太郎は石段を半ばまで下り、工場の窓をもう一度見た。
動く影はない。
ここがルークの出入口なら、こちらにも仕掛けがあるかもしれない。それでも、三人が使ったと知られている扉よりは、確かめる余地があった。
鬼太郎は鞄の紐を短くした。
手袋をつけ、拾った小石を格子の向こうへ投げる。
石が奥へ転がった。
光も、音も起きない。
次に、岸へ落ちていた長い木片で、鉄格子の端と留め具を押した。錆が落ち、格子が壁へ当たる。
それだけだった。
鬼太郎はしばらく待った。
工場の窓にも、裏の扉にも変化はない。木片の先を引き寄せたが、変色したところや、新しく焦げたところは見つからなかった。
何もない証拠にはならない。
ただ、今確かめられるところまでは見た。
鬼太郎は手袋越しに格子を押し、身体を通せるだけの隙間を作った。鞄を先へ入れ、続いて肩を滑り込ませる。
中で〈シュライク〉を抜いた。
引き金から指を離し、銃口を足の向かない方へ下げる。ウォードの杖は鞄へ移しておいた。狭いところで引っかける必要はなく、今は使うつもりもなかった。
帰りにすぐ開けられるよう、格子は隙間を残したままにする。
鬼太郎は身を屈め、排水路の奥へ入った。
◆
中は、思っていたほど暗くなかった。
外の光が背後から差し込み、奥の天井にも細い割れ目があった。壁の下には黒い筋が幾重にも重なり、靴の裏で乾いた砂が鳴る。
六歳の身体でも、腰を伸ばして歩けない。
鞄が壁へ擦れそうになるたび、鬼太郎は肩を斜めにした。脇腹の痣が引かれ、少し痛む。それでも腕だけで這うよりは楽だった。
最初の角で、銃を収めた。
鞄から細い紐を出し、壁から突き出た金具へ結ぶ。残りをしまってから再び銃を抜き、角の先を見た。
左に細い分かれ道がある。
そちらは低すぎた。底に泥が溜まり、人が通った跡も見えない。鬼太郎は右を選び、曲がり角へ傷をつけた硬貨を置いた。
戻るとき、来た方向を確かめるためのものだった。
前の世界の力も、杖の魔法も使っていない。
仲介人は、工場の中で杖を使えばルークに居場所を知られると言っていた。その話が本当だとして、アギやプリンパなら見つからないかどうかは分からない。
今、確かめる理由はなかった。
天井が少し高くなる。
上に朽ちた木の蓋があった。鬼太郎は銃を収め、蓋へ耳を近づけた。
水が落ちる音がする。
人の声や足音はない。
両手を縁へ掛け、少し押し上げた。
木が擦れる。
鬼太郎は動きを止めた。上から誰も近づかないことを確かめ、もう少し隙間を広げる。
見えたのは、床を支える太い梁と、錆びた配管だった。
蓋の上も、まだ床下らしい。
肘を掛け、身体を引き上げた。鞄を引き寄せて蓋を戻し、梁の間から上を覗く。
床板が一部抜け、その先に横倒しの桶が見えた。
向こうの壁に、細長い窓がある。薄い夕明かりが割れた硝子を通り、床の埃を照らしていた。
鬼太郎は穴の縁を押した。
木は軋んだが、崩れなかった。
鞄を上へ載せ、片膝を床板の残るところへ掛ける。上がってから周囲を見渡し、〈シュライク〉を抜き直した。
見取り図では、一階の洗浄室に当たる。
壁際に古い配管が並び、倒れた桶の底には、乾いた染料が厚く固まっていた。床へ書かれた線や、扉に垂れた糸は見当たらない。
だが、図にある隣の作業場が見えなかった。
その方角には扉が一枚あり、開いた先から細い廊下が奥へ伸びている。
鬼太郎はすぐには進まず、図と窓の位置を見比べた。
入口を間違えたのか。それとも、工場が使われなくなってから壁を増やしたのか。
紙には分からないところを、確かめに来たのだった。
鬼太郎は図をしまい、扉の脇から廊下を見た。
何も動いていない。
床を踏む場所を選び、ゆっくり進んだ。
◆
十二歩進み、右へ曲がった。
次の角までは九歩。
左を向いたところで、鬼太郎は足を止めた。
桶があった。
側面がへこみ、底の端が大きく欠けている。床下から見上げた桶と同じだった。
正面の窓も、梁の陰へ落ちた埃の塊も、見覚えがある。
鬼太郎は後ろを見た。
廊下が真っ直ぐ続いている。
曲がったはずの角がなかった。
靴の向きを変えず、首だけを戻す。
桶は動いていない。
「……なるほど」
鬼太郎は硬貨を一枚、壁際へ置いた。
傷のある面を上にする。
同じ道をもう一度歩いた。今度は右手側の壁から離れず、十歩進んで角を曲がり、その先へ行く。
足元で小さく金属が鳴った。
靴先が、硬貨の縁を押していた。
傷は上を向いたまま、さっき置いた場所にある。
鬼太郎は屈まず、銃口だけを下げた。
何かを見落としている。
壁が動いたなら音がするはずだ、とは限らない。魔法なら、音を出さずに建物を変えることもできるのかもしれない。
だが、通った場所が変わっているのに、置いた物だけが同じところに残る。
変えられたのは、自分の進む方向ではないか。
靴音が聞こえた。
廊下の奥から二つ。
鬼太郎が銃を向けると、今度は背後で鳴った。
振り返った先には、横倒しの桶がある。
右の壁の向こうで、誰かが息を吐いた。
近い。
鬼太郎は横へ退いた。壁の端から撃たれる距離だった。
その動きで脇腹が痛んだ。
さっきまでの鈍い痛みとは違う。骨の内側を強く掴まれたように、息が止まった。
左手首も熱を持ち始めた。
布の下で、火傷が広がっている。
鬼太郎は視線を落とした。袖は燃えていない。煙も出ていないのに、熱だけが肘へ上ってきた。
廊下の奥で、子供が笑った。
こちらへ来いと言っている気がした。
意味の分かる言葉は聞いていない。それなのに、呼ばれたことだけが分かる。
鬼太郎は返事をしなかった。
右手に、敵がいる。
そう思った瞬間、銃を持つ腕が他人のものに見えた。
自分の袖から出ているのに、知らない男の手だった。手袋の皺も、指の太さも違う。
銃口が、こちらへ回ってくる。
鬼太郎は左手で右の手首を掴んだ。
火傷が擦れた。
痛むはずのないところまで、焼けるように痛い。
それでも腕を押し下げ、引き金から指を大きく離した。膝をつき、銃口を床へ向けたまま両手を止める。
見えているからといって、撃ってはいけない。
あれが他人の手なら、なぜ自分はその指を開けるのか。
答えを考えようとすると、耳元で誰かが笑った。
背後の靴音が増えている。
一人ではない。
左右からも近づいてくる。
鬼太郎は呼吸を数え始めた。
一つ吸って、吐く。
二つ。
目の前の壁が迫った。
息を吐くたびに廊下が狭くなる。床は傾き、膝の下から滑り落ちそうだった。
だが、身体はその場に残っている。
ずれている。
目も、耳も、痛みも、身体のある場所と合っていない。
忘れた男は、ここで何を見たのだろう。
工場へ来たことも、自分の名前もなくなるまで、何に答え続けたのか。
鬼太郎は歯を噛み締めた。
思考の端まで、知らないものが入り込んでくる。右手を押さえる理由さえ、次の瞬間には間違いだったと思いそうになった。
この感覚を、知っていた。
今の身体で受けるのは、初めてのはずだった。
だが、自分の考えに触れたものを、初めてだとは思えなかった。
◆
顔も、場所も浮かばなかった。
ただ、動けなくなった身体がある。
目を開けているのに眠りへ引かれ、敵ではない者を敵だと思ったことがある。怒りも、怯えも、自分のものなのか、外から押し込まれたものなのか分からなくなった。
そのままでは戦えなかった。
何度も受けた。
そして、取り除いていた。
鬼太郎は、床へ押しつけた右手を見た。
知らない男の手は、そこにある。
それを撃つのではない。腕ごと切り離す必要もない。
自分へ入り込んでいるものを、外せばよい。
そのために使っていた名が、もう少しで届くところにあった。
鬼太郎は呼吸を止めなかった。
壁が胸へ迫り、足音がすぐ後ろで止まる。見上げれば、何かに顔を覗き込まれる気がした。
見なかった。
アギを放つとき、自分の内側から力を引き出す。プリンパでは、その力を相手の意識へ触れさせた。
今度は、その向きを自分へ戻す。
熱くするのでも、何かを押し込むのでもない。
こびりついたものの下に、元の感覚がある。それを探り当てたとき、名前が戻った。
「……パトラ」
声は掠れていた。
身体の内側で、張りつめていたものが緩んだ。
囁きが途切れる。
迫った壁が離れたのではない。初めから離れたところにあった壁を、ようやく正しい距離で見ていた。
右手は、自分の手だった。
手袋の縫い目が見える。引き金から離している人差し指も、自分で曲げれば曲がった。
鬼太郎は、そのまま動かなかった。
息を吸い、吐く。
足音はしない。
遠くの配管で、水が落ちた。
膝の下には平らな床があった。壁も桶も変わっていない。左手首には、布を押しつけた分のひりつきだけが残っていた。
右の手首を離す。
火傷の布に血は滲んでいない。脇腹へ触れても、ウォードとの戦いで残った痣の痛み以上には痛まなかった。
怪我が治ったのではない。
ありもしない熱と、痛みの増した感覚がなくなっている。
鬼太郎は口の中で、戻った名をもう一度確かめた。
パトラ。
誰から覚えたのか、どこで使ったのかは戻らなかった。それでも、まったく知らない言葉を偶然口にしたとは思えない。
前の自分は、こうしたものを何度も受けていた。
なければ困るほどに、この力を使っていたのだろう。
鬼太郎はゆっくり顔を上げた。
壁の向こうへ伸びていたはずの廊下はなく、洗浄室の入口が見えた。扉の向こうには、古い配管の並ぶ通路が続いている。
何度も歩いたつもりの場所を、正しく見てさえいなかった。
膝をつくのがもう少し遅ければ、自分の銃がどこを向いたかも分からない。
鬼太郎は右手の力を緩め、立ち上がった。
恐ろしかった。
何をされているか分からない間より、終わった今の方が、少しだけ怖かった。
その一方で、知らなかった使い方が一つ戻っている。
掌へ視線を落とした鬼太郎は、息を吐いた。
「随分と、厄介なところで暮らしていたのですね」
誰に言うでもない声は、静かな部屋で自分の耳へ届いた。
◆
すぐ正しい道へ進むのは、やめた。
ルークがどこにいるか分からない。工場へ入った者が今どこで何をしているか、知る手段を持っているかもしれなかった。
仲介人は、杖を使えば位置を知られると言った。
今の力を使ったことまで、知られたかどうかは分からない。それでも、迷っている子供に見える間は、そのまま見せておきたかった。
鬼太郎は壁へ左手を伸ばした。
指先で煉瓦の隙間を探り、二歩進んで立ち止まる。右手の銃は下げたまま、誰かの声を聞くように顔を横へ向けた。
「……どちらですか?」
返事はない。
自分の声が短く反響した。
先ほどの子供の笑い声とは違う。近くの壁へ当たって戻る音だった。
鬼太郎は、もう二歩だけ進んだ。
手袋を煉瓦へ擦り、足を止める。
配管で水が落ちた。
外を通る荷車の音が、窓から細く入ってくる。
その間に、一度だけ木が軋んだ。
右の壁の奥だった。
鬼太郎はそちらを見なかった。
分からないまま歩き続ける子供のように、壁へ触れた手を少し先へ動かす。
また音がした。
床板を踏む者が、足を置き直したような短い軋みだった。
こちらの立つ床は、石と、残った木の床板が混ざっている。壁の向こうにも同じものがあるなら、人が立てる場所が残っている。
鬼太郎はそこで止まった。
音がしただけで、ルークだとは決まらない。
別の者がいるのかもしれず、先ほどの声がまだ残っている可能性もあった。
それでも、今の音は足を止めても別の方角へ移らなかった。自分の右手が他人へ変わることもない。
鬼太郎は身体を壁と正面に向けず、横へずらした。
〈シュライク〉を持ち上げる。
「そこにいらっしゃいますね」
声をかけても、返事はなかった。
鬼太郎は銃口を、音のしたところから動かさない。
「出てきていただけますか」
まだ、何もない。
聞いていない相手へ話しかけているだけなら、ここで銃を構えても意味はない。だが、本当に隠れているなら、こちらがどこまで分かったかは見えないはずだった。
「壁越しでは、細かく狙えません。できれば、撃つ前にお話をしたいのですが」
鬼太郎は右腕を構え直した。
煉瓦の下に、細い線が生まれた。
目地がずれたのではない。壁に見えていた面の一部が、内側へ開いていた。
隠し部屋の奥に、男が立っている。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、長い外套を着ていた。痩せた顔は、人相書きのものとよく似ている。
右手には黒い杖があった。
その先が、鬼太郎へ向いている。
「何をした」
低い声だった。
「ここへ来たばかりの子供に、外せるものじゃない」
鬼太郎は答える前に、男の背後を見た。
低い机の上に、箱がある。
黒い鉄と、角を覆う真鍮。蓋へ刻まれた三本の線。取っ手は見えない。
絵と同じだった。
ただ、机から壁へ、黒い筋が伸びている。
床の隙間へ垂れ、根のように分かれていた。何本かは、箱の底から続いているように見える。
鬼太郎は近づかなかった。
「エドウィン・ルークさんですね?」
「先に答えろ。何を使った」
男の杖が少し上がった。
鬼太郎はその手を見たまま、銃口を胸へ定めた。
「あなたの仕掛けに、思い出させていただきました」
ルークの眉が寄った。
鬼太郎の口元が、僅かに緩む。
「感謝はしていますよ。ですが、同じものをもう一度いただくつもりはありません」
黒い杖の先へ、淡い光が集まり始めた。