第213話 小屋に届く便り
約束の放課後、呪文学の教室には、広い空間が出来ていた。
机が壁際へ寄せられ、奥に木人が一体立っている。右手には短い棒を握っていた。後ろの壁には厚い布が掛かり、床にも折り畳んだものが敷かれている。
鬼太郎は鞄から羊皮紙を出した。
フリットウィックが、描かれた二つの図を覗き込む。
「こちらが、足を動かさなかった時ですね」
「はい。横へ出た後は、こちらです」
鬼太郎は、下へ膨らんだ線を指した。
「一度ここまで下げてから、向け直していました」
「では、今日も同じになるか、見せてもらいましょう。最初は唱えずに」
鬼太郎は紙を机へ置き、黒檀を右手へ持った。
キーノは少し離れた横へ立つ。鬼太郎の足元と、杖先を両方見られる場所だった。
木人へ向き、右へ一歩出る。
上体を返したところで、黒檀の先が低くなった。そこから持ち上げ、木人の胸へ合わせる。
「図にした所と、同じでした」
鬼太郎が言うと、キーノも口を開いた。
「足が着いた時には、もう下を向いてたぞ」
「ええ。上げる方だけ気にしても、その前からですね」
鬼太郎はもう一度、足を出した。
今度は杖を下げまいとして、肘を張った。肩が窮屈になる。
「そこで止めてください」
先生が近づいてきた。
「動かさないようにすると、今度は腕全体を固めてしまいますね。足を出す間も、いつもの構えへ戻れる余裕を残しましょう」
鬼太郎は肘を緩めた。
身体が動けば、右手の位置も変わる。杖を教室の同じ一点へ置いておこうとすれば、腕だけが残ってしまう。
足を置き直し、正面へ向いた時の握りを確かめた。
「狙う所へ戻すまでに、余分に下を通らないように、ですね」
「そうです。次は、武装解除で確かめましょう」
◆
木人の棒へ、黒檀を向けた。
「エクスペリアームス」
棒が手を離れ、後ろの布へ落ちた。
フリットウィックが杖を動かすと、床の棒が浮き上がり、木人の手へ戻っていく。
「今の動きを覚えておいてください。次は、一歩出てから」
鬼太郎は横へ出た。
木人を見失わず、黒檀を向け直して唱える。棒は再び飛んだ。ただ、先ほどより身体の外側を通って杖を戻していた。
「当たりましたが、少し遠回りでしたね」
「はい。下へ行かないようにした分、横へ」
先生は鬼太郎の隣へ立ち、木人を見る向きを確かめた。
「急いで向ける前に、足を置く所も少し変えてみましょう。その向きでは、胸を戻すために大きく捻らなければなりません」
鬼太郎は床へ目を落とした。
避けるつもりで横へ出た足が、外を向きすぎていた。元の場所へ戻り、今度は木人へ向き直れる位置へ足を置く。
黒檀の先が、さっきより短い道を通った。
「エクスペリアームス」
棒が布へ落ちる。
鬼太郎はすぐに構えを解かず、右手の位置を見た。肘を高く上げなくても、木人へ向いている。
「今のは、下がってなかった」
キーノが言った。
「握ってる手も、さっきより近かったぞ」
「僕からは、こちらの方が楽でした」
鬼太郎は胸の前へ左手を添え、黒檀を戻した道を確かめた。
フリットウィックは、床の少し離れた場所を示した。
「では、そこから短く走ってきましょう。まずは、走り終えてから。間に合うかどうかを競う必要はありません」
鬼太郎は指定された場所へ移った。
三歩進み、踏み止まる。
横へ一歩出た時より、上体が前へ残った。杖を向けたまま、唱えるのを待つ。
足で身体を支え直してから、武装解除を放った。
棒は落とせたが、止まってすぐには続けられなかった。
「今、待ったのは?」
「このままだと、腕を伸ばして届かせようとしました。杖先を合わせる前に、身体が前へ行っていましたので」
「気づけましたね。では、走り終える時の足を見ましょう」
次は、最後の一歩を小さくした。
走る勢いを残したまま杖だけ戻すより、身体の向きを変えやすい。木人へ目を向け、黒檀を振る。
唱えた声に重なって、棒が手を離れた。
鬼太郎は、前の一度より早く構え直せたことに気づいた。今の足運びを忘れないうちに、呪文を使わず、もう一度辿る。
次は、走る速さを落とし、完全に止まる前にも杖を向けた。
最後の足を置く間に唱えると、棒は木人の手を離れた。だが、鬼太郎の右腕も少し外へ流れる。
「今は、止まる前にも当たりましたね。続けて走ろうとせず、まずは今の歩幅で揃えてみましょう」
先生の言葉に頷き、鬼太郎は出発した場所へ戻った。もう一度試すと、今度は杖先を上げすぎた。走る方を速めなくても、まだ同じようには振れない。
最後に当たった時の足の位置を確かめてから、練習を変えた。
「今度は、左へ避けてからです」
先生は空中へ、小さな布の球を浮かべた。
「肩の高さを、ゆっくり通します。道は同じにしておきますから、避けた後の方を見てください」
球が進んできた。
鬼太郎は横へ身体を移し、木人へ黒檀を返す。
狙いは間に合った。だが、唱える直前に先端が揺れ、呪文は木人の腕の脇を通り抜けた。後ろの布が僅かに動く。
棒は残っていた。
「顔が、布を追ってたぞ」
キーノの声がした。
鬼太郎は球へ向いていた目を、木人へ戻した。
「避けた後も、見ていましたね」
「横へ通ったのは、もう分かってたんじゃないか?」
「ええ。ですが、近くを動くので」
自分で言いながら、先ほどの動きを思い返した。
顔を戻してから狙いを決めた。その遅れを埋めるように、最後に手を急がせていた。
もう一度、同じ場所へ立つ。
球の進む道を確かめ、身体を横へ移す。通り過ぎた球を追わず、木人の手へ目を戻した。
「エクスペリアームス」
今度は棒が飛んだ。
鬼太郎は口元を緩めた。続けて、反対側からでも試したくなる。
「先生、右へ避ける方も――」
「出来ますよ。ただ、その前に今の二度を残しておきましょう。どちらも同じ布を避けたのに、何が変わったか」
差し出された羊皮紙を受け取り、鬼太郎は黒檀を収めた。
キーノが紙の端を押さえる。
「目を戻すのが、早かった」
「それと、最後だけ急いで振らずに済みました。足の方は、どうでしたか」
「そっちは、二度とも同じくらいだったと思う」
鬼太郎は、足の図を一つ描き、その脇へ二本の線を分けた。
当たった方へ丸を付けるだけでなく、目を戻した時のことも書いておく。
この球を避けられたからといって、相手の杖も同じ道を通るとは限らない。それでも、先ほどより余計に振らずに済んだ手応えはあった。
◆
盾の練習では、木人から離れた。
鬼太郎は何もない空間へ向き、黒檀を構える。
「プロテゴ」
半透明の円が現れた。
縁を見渡す。右上も、最初は他の場所と同じように見えた。
薄くなり始める前に、鬼太郎は術を解いた。
「今の指は、どうでしたか」
「握り直していません」
「ええ。今度は、もう少しだけ。薄くなった時、手で押し戻そうとするかも見てみましょう」
次の円は、ほどなく右上が淡くなった。
直そうとして、親指へ力が入る。鬼太郎はその感触に気づき、杖先を上げる前に術を解いた。
「出した時から、ずっと薄いわけではありませんね」
先生が言った。
「はい。今は、直したくなる方が先に分かりました」
手を開き、指を緩める。
次は、短い間だけ形を揃え、自分で消せた。長く保とうとした時には、やはり同じ場所が薄れる。そこまでを確かめ、鬼太郎は一度杖を置いた。
キーノが、丸めたハンカチを出す。
「私も、戻す所を見てもらっていいですか」
「もちろん。今日は、目印をこちらへ置きましょう」
フリットウィックは机へ小さな木片を載せた。
キーノの杖先から浮いた布が、そちらへ向かう。
木片が横へ動いた。布は追いかけかけ、途中で止まる。
キーノはそれを自分の側へ引き戻した。
今度は、木片より手前で待たせる。先生が木片を右へ動かすと、布を少し左へ寄せ、そこから斜めに進めた。
布の端が、木片へ触れた。
「……当たった」
彼女は小さく言い、布を浮かせたまま先生を見る。
「今は、先生の手も見えました」
「先ほどは、どちらを見ていました?」
「布です。戻しすぎると、こっちへ落としそうで」
キーノは杖を僅かに動かした。
布がこちらへ戻り、机の手前で止まる。
「でも、この辺なら、向こうと一緒に見えます」
鬼太郎は横から、その位置を確かめた。
キーノの顔から木片までの間に、布が収まっている。前に見た時のように、目印の奥へ行きすぎてはいなかった。
「戻してから、すぐ同じ道へ送りませんでしたね」
「ああ。そっちへ動くのを見てから、横へ出した」
「それなら、僕も前とは違う所へ避けないと」
「まだ、先生の目印だからな。お前はもっと動くだろう」
キーノは笑い、それから浮いた布へ目を戻した。
もう一度試すと、木片が動き終わる前に布を出し、横を抜けてしまった。彼女は無理に追わせず、手前へ戻す。
その次は、少し待ってから触れさせた。
鬼太郎は、彼女が戻した所を紙へ描いた。キーノも術を解いてから覗き込み、自分の立つ場所を確かめて線を足す。
先生は二人の記録を見た。
「次は、今日と同じ速さで出来るかを見てから、動く向きも変えていきましょう。武装解除の方も、一度に全部を速くしなくて結構です」
「はい。避ける方が変わると、また違いそうですので」
鬼太郎は、球の進んだ道を書き添えた。
キーノは布を畳み、鞄へ入れる。
「次にお前とやる時、戻したから終わりだと思うなよ」
「それなら、こちらも覚えておきます」
鬼太郎が返すと、フリットウィックが眼鏡の奥で笑った。
「その相談は、教室を出てからね。今日は、よく違いを見られました」
◆
廊下へ出ると、窓の向こうはまだ明るかった。
階段の近くで、ハリーとロン、ハーマイオニーに会った。ハリーが二人の鞄を見て、足を止める。
「練習、終わった?」
「はい。そちらは、お出掛けですか」
「ハグリッドが、今なら小屋にいるって。さっき外で会ったんだ。二人も終わってたら、誘おうと思って」
「週末まで待たなくても、よくなったんですね」
鬼太郎はキーノを見た。
「私は行けるぞ。夕食には、まだある」
「ハグリッドにも、長居はしないって言ってあるよ」
ハリーが答えた。
ロンは、手に持った小さな包みを上げた。
「それで、持っていく方は、これ」
「お菓子、あったんですか」
「少しだけね。ハグリッドのを食べない理由にするなよ」
「そこまで考えていませんでしたが」
鬼太郎が答えると、ハーマイオニーがロンへ目を向けた。
「自分が一番、気にしていたじゃない」
ロンは包みを持ち直し、先に歩き出した。
五人で城を出る。
坂を下るにつれ、教室で聞いていた足音の代わりに、草を踏む音が混じり始めた。鬼太郎は肩へ掛けた鞄を直し、右手を握って開いた。
キーノがそれを見る。
「疲れたか?」
「少し。思ったより、握っていたようです」
「次は、私が見てる時にも言う」
「お願いします。僕も、布が奥へ行ったら」
「そっちは、自分でも分かるようになりたい」
彼女は言ってから、小屋へ顔を向けた。
煙突から煙が上がっていた。戸の前にいたファングがこちらへ気づき、尻尾を振り始める。
◆
「来たな。入れ、入れ」
ハグリッドは、大きな身体を戸口から退けた。
中には茶の匂いがしていた。五人が椅子へ分かれる間に、ハグリッドは卓の上の紙を慌てて寄せる。
「すまんな。ちょうど、返事を書いてたところだ」
「チャーリーに?」
ロンが、封筒に目を留めた。
ハグリッドの顔が明るくなった。
「そうだ。ノーバートのことを、また教えてくれてな」
彼は紙の下から、折り目の付いた手紙を一通抜き出した。開く手つきは、茶器を並べていた時よりずっと慎重だった。
「よく食べるんだと。前に書いてきた時より、翼もしっかりしてきたそうだ。こっちにいた頃から、大きく広げたがってたろう?」
「覚えてるよ」
ハリーが言った。
ハグリッドは戸口の方を見た。鬼太郎もそちらへ目をやる。
今はファングが、大きな身体を横たえていた。かつてノーバートが動くたび、皆で椅子を寄せた床には、何も積まれていない。
「向こうじゃ、十分に動けるんですね」
「ああ。世話してる連中も、よく見てくれてる。食い方がどうだとか、落ち着く場所がどうだとか、俺が聞くと、ちゃんと返してくれるんだ」
ハグリッドは手紙へ目を戻した。
「それを読んでると、また聞きたいことが出来ちまってな」
「兄さん、そんなに手紙を書いてるの?」
ロンが尋ねる。
「俺からも書くからな。返事が来たら、つい、次を出しちまう」
ハグリッドは少し照れたように、髭を撫でた。
「この夏も、何度もやり取りしてた。元気でやってるって分かると、嬉しくてな。お前さんたちにも、見せようと思ってたんだ」
彼は手紙を卓の中央へ置いた。
ハリーが身を寄せ、ハーマイオニーも横から読む。ロンは兄の字を見つけた途端、口元を緩めた。
「僕への手紙より、長いかもしれない」
「聞かれたことが多いからじゃないか?」
キーノが言うと、ハグリッドが大きく頷いた。
「そうなんだ。俺がいろいろ聞いちまうんでな」
鬼太郎は、書きかけの返事へ目を向けた。何行も続いた後に、まだ余白が残っている。インク壺の脇には、使い込まれた封筒が重ねてあった。
「今日も、届いたところなんですか」
「いや、これは何日か前だ。すぐ一度返したんだが、読み直してたら、もう一つ聞きたくなってな」
ロンがハリーを見た。
ハリーは笑いを堪えきれず、俯いた。
「何だ?」
「ううん。ノーバートの話なら、まだまだ聞きたいんだろうなって」
「そりゃあ、そうだ」
ハグリッドは否定もせず、茶を注ぎ始めた。
ロンの包みを受け取ると礼を言い、自分の皿も卓へ載せる。鬼太郎は岩のような菓子を一つ取り、先に茶へ浸した。
「お前さんたちは、先生に練習を見てもらってたんだってな」
ハグリッドが言うと、鬼太郎は頷いた。
「はい。走ったり、避けたりした時の武装解除を」
「走りながら、あれをやるの?」
ハリーが顔を向けた。
「今日は、短く走って、終わり際に。足を止めた時より、杖がぶれてしまいまして」
「でも、当たったのもあったぞ」
キーノが付け足した。
「私の布も、また当てる。今度は、外れても追いかけっぱなしにしないんだ」
「お前さんたちも、忙しいな」
ハグリッドは二人の茶器を見て、足りない方へ茶を継ぎ足した。
「飛ぶところも、見に行きたいですか」
キーノが尋ねた。
ハグリッドの手が止まった。
「ああ。いつか、向こうと話がつけばな」
声が少し柔らかくなる。
「その頃には、俺を見下ろすくらいになってるかもしれん」
「ハグリッドを?」
ハリーが見上げた。
「ドラゴンだぞ」
ハグリッドは嬉しそうに答えた。
鬼太郎も、卓の向こうの大きな身体を見た。ここにいた時のノーバートを思い出し、それがハグリッドより高く頭を上げるところを考える。
キーノが隣で、同じように上を見ていた。
「それは、見たいな」
「だろう?」
ハグリッドは、また手紙を手元へ引き寄せた。
「そうだ、ここも聞いてくれ。こいつがな――」
大きな指が、紙の途中を示す。
ハリーたちが茶を持ったまま顔を寄せ、鬼太郎も椅子を少し近づけた。手紙を読む声は、すぐに、卵から顔を出した時の話へ逸れた。
ハグリッドはそのたび紙へ戻ろうとして、また別のことを思い出す。
茶へ浸した菓子が柔らかくなるまで、今度は誰も、待つ時間を持て余さなかった。