近道の案内人
第217話 近道の案内人
日曜の朝食には、時間割を確かめる紙の音が少なかった。
鬼太郎は卵を皿へ取り、隣のキーノへ塩を渡した。向かいではハーマイオニーが、食事の間だけ本を閉じている。
「今日は、午前中でいいか?」
キーノが尋ねると、彼女は頷いた。
「ええ。昨日見つけた本も、返す前に確かめたいから」
「なら、食べたら持ってくる」
鬼太郎はパンをちぎった。
「僕は、先に残った課題を片付けておきます。午後、少し練習しませんか」
「布の方か?」
「はい。先生に見ていただいた戻し方を、僕も相手にしてみたいので」
「私も試したい。昼飯の時に、場所を決めよう」
キーノが答えたところで、ハリーとロンが来た。
ロンは椅子へ座ると、右腕を卓へ載せた。水差しへ伸ばしかけ、途中で反対の手に替える。
「まだ、痛むんですか」
「持てないわけじゃないんだ。でも、また磨けって言われたら、左でやる」
ハリーが水差しを取って、彼の杯へ注いだ。
「もう、しばらく銀のカップは見たくないよ」
「朝は、こちらでよかったですね」
鬼太郎が金の杯を示すと、ロンはそれを見て顔をしかめた。
「同じ形なんだから、思い出すだろ」
キーノが笑い、パンの籠を二人へ回した。
ハリーは一つ取ったが、すぐには食べなかった。ロンが袖を捲って腕を見ている間、教員卓の方へ顔を向けていた。
「そちらも、遅かったのですか」
尋ねると、彼は鬼太郎へ目を戻した。
「うん。返事を書く相手が、まだまだいるんだって。昨日の分でも、全部じゃなかったみたいだ」
「先生も、一日では終わらないんですね」
「話す方を少し減らせば、もっと進んだと思うけど」
ロンが何か言いかけた。ハリーの顔を見ると、代わりに自分の皿へソーセージを取る。
ハーマイオニーは、二人が食べ始めてから、残っている課題の話をした。ロンが鞄を持ってくればよかったとこぼすと、彼女はここで全部広げるつもりだったのかと聞き返した。
鬼太郎も食事へ戻った。
今日は、鐘に追い立てられて席を立つ必要がなかった。
◆
ハッフルパフの卓に、セドリックがいた。
鬼太郎が顔を向けた時には、隣の生徒の話を聞いていた。こちらへ気づくと片手を上げ、口を動かした。
後で、と言ったようだった。
鬼太郎も頷き、彼が食べ終えるまで、自分の席にいた。
ハーマイオニーとキーノが先に立った後、鬼太郎も空になった皿から離れた。入口へ向かうと、セドリックが友人たちへ断って、こちらへ歩いてくる。
「おはよう。昨日は随分、賑やかだったみたいだね」
「おはようございます。皆さん、よくご存じですね」
「同じ話を、違う人から三回聞いたよ。最後には、二人がかりで君に負けたことになってた」
「それは、訂正していただけると助かります」
「しておいた。先生が立ち会ったんだろう? 二人がかりなら、先にそっちの説明があるはずだから」
彼は笑い、廊下を通る生徒へ少し場所を空けた。
鬼太郎も壁際へ寄る。大広間の中から、まだ朝食を続ける声が聞こえていた。
「今学期も、フリットウィック先生にお願いしているのですか」
「うん。時間の相談はしてる。君も、もう行った?」
「はい。杖を戻す動きと、盾を見ていただきました」
「じゃあ、今度は僕との分も相談しないとね」
鬼太郎は顔を上げた。
「僕も、そちらをお願いしたかったんです」
「忘れてないよ。帰る日に負けたまま、夏休みに入ったんだから」
セドリックはそう言い、ローブの袖を直した。
「最後、避けた後に間に合わなかったところ。あれは何度も考えた」
「こちらも、あの一発を防がれていたら、近すぎました。昨日も、似たところへ入ってしまいまして」
「君は、また近づくんだね」
「近くからなら、先に届くと思ってしまいますので」
「そのつもりで来てくれるなら、僕も考えやすいな」
鬼太郎は相手の顔を見た。
前学期にも、退く先を狭められた。杖を戻し切る前に次が来て、こちらから大きく離れなければならなかった場面を覚えている。
また同じ場所へ追い込むつもりなのか。それとも、今の返事まで聞かせた上で、違う手を使うのか。
「夏も、練習なさったんですね」
「もちろん。次は勝ちたいからね」
「何を練習されたか、伺っても?」
セドリックは、そこで少し笑った。
「それを先に話したら、君、試合までずっと考えるだろう」
「ええ。考えますね」
「じゃあ、会ってからのお楽しみだ」
鬼太郎も笑った。
袖の下へ目を凝らしても、答えが出るわけではない。どんな動きを持ってきてくれるのか、杖を交えるまでは分からなかった。
「楽しみにしています」
「僕も。昨日の二人と違って、今度は場所を使うためじゃないからね。勝つ方でお願いするよ」
「はい。こちらも、そのつもりです」
通路の先から、セドリックを呼ぶ声がした。
彼は振り返って手を上げ、鬼太郎へ向き直った。
「先生に会ったら、君とやりたいと伝えておく。日が決まったら話そう」
「お願いします。僕も、次に伺った時に」
挨拶をして別れる。
セドリックは友人たちへ追いつき、何を話していたのかと尋ねられていた。返事までは聞こえなかったが、こちらを一度見て、片手を上げる。
鬼太郎も返し、寮へ続く階段へ足を向けた。
◆
談話室へ戻ると、窓際の卓が空いていた。
鬼太郎は教科書から羊皮紙を抜き、胸元の紋章と並べた。前に描いたものは、脚の一本が尾へ繋がっている。
今日は、細い毛の線を足す前に、外側の形だけを描いた。
前脚が胸から離れる所で、ペンを止める。紋章を見直し、胴の線をそのまま脚へ延ばさず、少し内へ折った。
先ほどより、持ち上げた脚に見える。
尾は後ろ脚から離して描いた。小さなボタンへ入れるなら、この隙間も潰れるのだろうか。
鬼太郎は余白に、今度は小さく同じ形を描きかけた。大きな方では開いていた場所が、すぐ黒く重なる。
ペンを浮かせ、もう一度、大きい絵へ目を戻した。
「こっちは、獅子に見えるね」
声を掛けたのは、課題を持ってきたハリーだった。
「こちらだけ、少しよくなりました」
「じゃあ、次はボタンにも?」
「その前に、この大きさで描けるようにしてみます。今は、また脚がなくなってしまいましたので」
ハリーは二つの絵を見比べた。
「こんなに小さいと、描く方も難しそうだ」
隣へ座り、自分の羊皮紙を広げる。ロンは少し遅れて来ると、羽根ペンを右手で持ち、短く息を吐いた。
「磨くよりは、ましだ」
言ってから、まだ終えていない行を数える。
鬼太郎は自分の課題を脇へ置かず、ペンの先を拭いた。小さく描いた時、どこで線が重なったかを、大きな絵の方へ印で残す。
ハリーが教科書をめくり、ロンがその頁を自分の本でも探した。
窓の外へ目を向けた時には、朝より日が高くなっていた。
◆
午後の中庭には、腰を下ろして話す生徒が幾組かいた。
鬼太郎とキーノは通り道を外れ、低い石の縁を挟んだ一角に立った。地面へ置いたのは、二人の上着よりずっと軽い丸めたハンカチだった。向こうには、人が入ればすぐ気づけるだけの空間がある。
「今日は、布を当てるだけで終わりにしないぞ」
キーノは丸めた布をつまみ、地面に置いた二つの目印を確かめた。
「ええ。先生に見てもらった切り替えも試しましょう。僕は、避けたあとの構えを見直します」
鬼太郎は黒檀を右手に持った。実際に人へ呪文を放つつもりはない。キーノの浮かせた布を避け、杖を次へ向けられる位置へ残す。キーノは相手がどう動くかを見て、布を追わせるか、そこで術を終えるかを選ぶ。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
布が胸の高さへ浮く。以前から何度も扱った軽い布だから、上げることも高さを保つことも迷いがない。
キーノが真っ直ぐ送る。鬼太郎が右へ退くと、布は肩のあった場所を通り過ぎた。しかしキーノは追いかけず、手前で止めた。鬼太郎が黒檀を返す頃には、布は次の位置へ戻っている。
「そこで追ってこないんですね」
「お前が戻して撃つなら、私は別の場所を見る」
鬼太郎が右へ抜けるふりをして左へ動くと、キーノは布を右側の目印へ送りかけた。だが、すぐに送る方向を変えず、中央で止めて相手の手元を見る。
「今、布を動かしても間に合わないな」
「僕は、避け終えてから向き直れました」
「なら、そこは私の負けだ」
彼女はあっさり認めた。布を指先まで戻し、もう一度構え直す。
次は速い直進から始めた。鬼太郎が身を引くと、キーノは布を行き過ぎさせず、肩の少し前で止める。そのまま追わずに相手の黒檀へ視線を移した。
鬼太郎も杖を返した。だが先ほどより身体の外を通り、構えが遅れる。
「今のは、私が布を止めた方が早い」
「ええ。僕の方は、避ける足が大きすぎました」
二人は同じところから繰り返す代わりに、立つ向きを変えた。片方だけに避け道を用意すれば、どちらにも都合のいい結果になるからだ。
キーノが低い位置から布を滑り込ませると、鬼太郎は跳ぶのではなく半歩退き、黒檀を返した。初めの一度は杖先が外へ開いたが、次は手元へ寄せて戻せた。
「当てるだけなら、さっきの方が速かった」
「でも、僕が避けたあとに何をするかも見ていましたね」
「ああ。そこを見ていないと、布ばかり追って終わる」
鬼太郎は頷いた。互いに一つずつ成功している。それでも、今の速さで呪文まで切り替えて対人で撃てるかは、まだ確かめていない。安全な相手を用意して、先生の前で試すべきことだった。
帰り道を通る生徒が近づいたため、二人は杖を下ろした。すれ違う人影がいなくなってから、紙へ足の位置と術を終えた場所を書き込む。
「次は先生に、相手が盾を張った場合も見てもらいたいな」
「ええ。僕も、盾を受けてからの一歩が課題です」
キーノは布を畳んだ。もう一度同じ動作を試すより、次の練習で相手を変える方が面白そうだった。
中庭の向こうで、誰かが友人を呼んでいる。教室へ戻る鐘は鳴らない。
「まだ、夕食には早いな」
「ええ。少し歩きますか」
「西の方の廊下へ行きたい。窓から見えた絵が、途中で別の額へ行ってしまったんだ」
「戻っていらっしゃるでしょうか」
「いなければ、ほかの絵に聞く」
キーノは紙をしまい、立ち上がった。二人で一度寮へ戻り、練習道具の入った鞄を置いてから、城の西側へ向かった。
◆
西へ向かう途中、踊り場の絵の中で、犬が眠っていた。
その隣にいた男へキーノが尋ねると、銀色の帽子の女なら、今朝はもっと上にいたと教えてくれた。
「毎日同じ場所には、いないんですね」
「お前たちだって、ずっと寝室にはいないだろう」
男はそう答え、犬を起こさないように声を落とした。
礼を言って離れると、頭上から口笛が降ってきた。
「主将が二人、ころりんこ! 次は誰が転ぶかな!」
鬼太郎は足を止めた。
階段の手すりの上で、小柄な男が逆さになっている。大きく開いた口の下へ、帽子がずり落ちることはなかった。
ピーブズだった。
「こんにちは。お二人とも、転んではいませんでしたよ」
「なら、次は転ぶかも!」
彼は空中でひっくり返り、二人の前へ回った。
「ちびっこ選手は、どちらまで?」
「西の窓の方へ行く」
キーノが短く答えた。
「銀色の帽子の女の人がいる絵を、探していまして」
鬼太郎が付け足すと、ピーブズはにやりとした。
「知ってる、知ってる。こっちだよ!」
壁の方へ飛び、すぐ隣の角から顔を出す。
「ぐるりと回らず、近道だ!」
鬼太郎は、彼の後ろの通路を見た。
窓からの明かりは見えなかった。キーノが行こうとしていた廊下は、もう一つ階段を上がった方だったはずだ。
「ずいぶん、ご親切ですね」
「ひひっ。ご親切とも! 早くおいで、日が暮れる!」
角へ近づいた所で、鬼太郎は歩調を緩めた。
キーノも壁から少し離れ、廊下の奥より先に床を見ていた。
「足元だ」
小さな声がした。
鬼太郎は踏み出す前に目を落とす。細い糸が、通路を横切っていた。低い位置で柱の陰へ伸び、そこから上へ続いている。
見上げると、扉の枠に桶が載っていた。
片側が縁から出ている。糸を引けば、傾くのだろう。
「銀の帽子は、そちらに入っているんですか」
鬼太郎が尋ねると、ピーブズは桶の横へ浮かんだ。
「覗いてごらん、見せてやる!」
彼の指が、取っ手を掴んだ。
入学した夜にも、あの手は歩行用の杖を何本も抱えていた。それを放り出してから、壁へ消えた。
今も、桶だけが手から抜け落ちることはない。
持ち上がった縁の内側で、水が揺れた。
「行くぞ」
キーノが肩を引いた。
鬼太郎も後ろへ退いた。ピーブズの両手が桶を傾け、通路へ水が飛ぶ。
元の廊下へ戻る角を曲がった時、靴の後ろへ冷たい飛沫が当たった。
床へ落ちた水の音に、甲高い笑い声が重なる。
「逃げた、逃げた! 主将よりも、お水が怖い!」
キーノは濡れた靴を一度見て、角の向こうを睨んだ。
鬼太郎は、そこから覗いた桶へ目を留めた。
「ニックさんとは、違いますね」
「何が?」
「物を持つところです。あの方は、お皿も通り抜けていらっしゃいましたから」
桶を抱えたピーブズが、壁から半身を出した。
取っ手は指に掛かり、底はもう片方の手に支えられている。身体の半分を壁へ残したまま、桶をこちらへ突き出してきた。
「持っている時は、どうして手を抜けないのでしょうね」
「頭で試すか、ちびっこ坊や?」
ピーブズが桶を振り上げた。
鬼太郎は桶の真下へ入らず、さらに角から離れた。離れていれば届かないのだから、ここで杖を向ける必要はなかった。
「どんな物でも、持てるんですか」
「お前、返事を待ってたら、もう一回かけられるぞ」
キーノが袖を引く。
鬼太郎は彼女と歩き出した。後ろから、空になった桶を叩く音がついてくる。
廃ビルの中にいた、物を投げつけてくる相手を思い出した。
あちらは机も弾もすり抜けた。だからといって、今、桶を抱えて笑っている相手へ、同じものが同じように通るとは限らない。
そもそも、ここで退けるための力を使いたいわけでもなかった。
あの手が物を持つ時と、壁を抜ける時。こちらが何かを返した時には、どう動くのか。
「後ろを見すぎだぞ」
キーノに言われ、鬼太郎は顔を戻した。
「またちょっかいを出されたら、少し、お相手してみたいと思いまして」
「面白がられると思うぞ」
「ええ。それは、こちらも同じかもしれませんね」
キーノはこちらを見て、呆れたように息を吐いた。
「だったら、私が本を持ってる時はやめてくれ。今日は鞄を置いてきて、よかった」
「覚えておきます」
後ろで桶の音が止んだ。
階段の下へ現れた生徒たちに、ピーブズが何か叫んでいる。二人を追うより、そちらの方が面白そうに見えたらしい。
鬼太郎は振り返らず、キーノと次の階段を上った。
窓の多い廊下へ出ると、西日が床を照らしていた。
銀色の帽子の女は、暖炉の描かれた絵の端にいた。キーノが声を掛けると、隣の額縁へ出掛けるところだったと言い、長い帽子を揺らした。
「間に合ったな」
「ええ。近道は、使えませんでしたが」
「あっちへ行ってたら、今頃ずぶ濡れだ」
鬼太郎は少し湿った踵を床へ置き直した。
絵の女は、二人の靴へ目を落とし、何があったのか尋ねた。キーノが桶の話をすると、あの悪戯者は、と顔をしかめる。
鬼太郎は隣で、窓から差す光を見た。
セドリックとの再戦は、先生と日を決めてからだ。ピーブズとは、約束などしなくても、また城のどこかで出くわすだろう。
あの桶を支えていた手の動きを、次はもう少し確かめてみたい。もちろん、水を浴びるつもりはなかった。
キーノが絵の女へ別れを告げると、鬼太郎も会釈した。今度は教わった通路を確かめながら、二人で夕食へ向かった。