第218話 盾の外側
教室の石床に、木片が二つ並んでいた。
鬼太郎は片方を見て、もう片方へ視線を移した。幅は、靴一足分ほど。どちらも昨日までの練習で使っていた、ただの目印だった。
「近づくと、足をどこへ置くか迷いますね」
「見てから決めようとするからじゃないか?」
キーノが言った。
放課後、二人は呪文学の教室を借りていた。少し前からフリットウィックと約束していた、授業以外の短い指導の日だ。机は壁際へ寄せられ、向こうには木人と厚い布が立ててある。
鬼太郎は木片を踏まずに横へ出て、右手の黒檀を木人へ向け直した。
構えが戻るまでに、足がもう半歩動いた。
「いま、余分に出ました」
「そうですね。踏んだ場所が悪いのか、踏んでから杖を戻そうとするのか。先に分けて見ましょう」
フリットウィックは床へ下り、二人の足元を確かめた。
先日、武装解除の練習で教わったのは、避けるたびに肩ごと杖を振り回さないことだった。歩きながらなら、鬼太郎も少しずつ同じ動きを出せる。走り終えるところでは、まだ狙いが揺れる。とりわけ盾を出した後は、次の動作を急いでしまう。
「今日は、そちらを?」
「はい。プロテゴが一度受け止められるようになったので、その次を考えたいと思いまして」
「一度、ですね」
小柄な先生は、そこを確かめるように繰り返した。
「今の君の盾は、何発も受け続けられるものではありません。それを承知の上で、次に何をするかを考えるのであれば、よい練習になります」
鬼太郎は頷いた。
盾を張ったまま、相手が諦めるのを待つ。そう出来るほど、術はまだ安定していない。ウッドとフリントを相手にした時も、受けた一度の後には自分で解いている。
「今は、正面だけを考えると動きが狭くなりますね」
フリットウィックは、木人の前へ丸い板を立てた。鬼太郎が教わった盾より少し大きく、支柱に固定されたものだ。
「この板が、正面から来るものを防ぐとしてみましょう。君ならどうしますか」
「横へ回り込みます」
「相手がそれを待っていたら?」
「杖を向けられますね」
「ええ。なら、相手が見ている方向を変える方法も考えてみましょう」
鬼太郎は板の脇へ目を向けた。
「物を動かすのなら、アクシオでも?」
「何を引き寄せますか」
問い返され、鬼太郎はしばらく考えた。
「相手の後ろにあるものを……いえ、こちらへ来るまでには、板へぶつかるかもしれません」
「そうです。呼ぶ呪文は、物を君の方へ引き寄せます。相手の横から当てるつもりで、いつも都合のよい道を通ってくれるとは限りません。後ろに危険なものがあれば、なおさらです」
キーノは板と鬼太郎の間を見比べた。
「じゃあ、板の横に最初から物があれば?」
「よいところに気づきましたね」
フリットウィックは笑い、板の右側へ小さな木箱を置いた。
「手は二つあります。もちろん、杖は一つでしょう。そこで、以前から知っている呪文を使う方法と、これから一つ覚える方法を、比べてみませんか」
◆
最初に先生が指したのは、板の下まで続く石床だった。
「スポンジファイを、覚えていますね」
「はい」
鬼太郎は黒檀を上げた。
以前、柔らかくした面へ物を落とし、衝撃を和らげる練習をしたことがある。床そのものに穴を開けるのではない。石の表面を、一時的に弾力のある足場へ変える呪文だ。
「盾を使っている相手の、足元ですか」
「その通り。盾そのものを破ろうとせず、相手が踏んでいる床を変えるのです」
鬼太郎は板の向こうを見た。板の正面に立つ人を想像すると、その人の靴の下には石床がある。守っているのは相手の身体であって、足場まで石から切り離せるわけではない。
「でも、真正面から床を狙っても、盾に当たりませんか」
「ええ。相手の盾が遮っている方向へ呪文を飛ばせば、床まで届くとは限りません。狙いを変えるには、君自身の位置も変える必要があります」
フリットウィックは板を脇へ寄せ、床の小さな四角を杖で示した。四角の縁には薄い線が走り、その外側には転んでもぶつからないよう厚い布が敷かれている。
「今度は私が立ちましょう。危なくない範囲で、盾を構えた相手の足場を狙ってみてください」
先生は印の上へ両足を揃え、杖を持ち上げた。
「プロテゴ」
半透明の盾が、先生の前へ現れた。
鬼太郎は正面から、先生の靴の下へ杖先を向けてみた。だが、その線は盾に重なる。杖先を下げるほど、足元の石床を正しく見るのが難しくなった。
「今の場所では通りにくいですね」
「そこで、どうしますか」
鬼太郎は半歩、左へ移った。盾の正面からわずかに外れると、先生の右靴と、それが載っている石の一部が見えた。
「そこなら。スポンジファイ」
狙ったのは靴でも先生でもない。靴が踏みつけている四角の石床だった。
石の見た目はほとんど変わらなかった。ただ、先生の右の踵が、ほんの少し沈んだ。床が押されて戻るより早く、足首の角度が変わる。先生は膝を緩め、盾を保ったまま反対の足へ重心を移した。
「あ」
キーノが声を上げる。
先生は印の外へ一歩出てから盾を解き、床を元へ戻した。
「感じましたか。今ので私が倒れたわけではありません。それでも、立ち方を変える必要は生まれました」
「盾は消さずに済みましたね」
「私は、君が足元を狙うと知っていましたからね。何も知らずに踏ん張ったなら、もっと大きく体勢を崩したかもしれません。逆に、私が盾の向きを変えるか、先に位置をずらしていれば、届かなかったでしょう」
鬼太郎は、先生の靴が載っていた石床を見た。
「正面の盾を抜けなくても、足の下は狙える。ただし、側面から届く位置を取れた場合だけですね」
「ええ。床の材質や、相手の靴の置き方にも左右されます。柔らかくしただけで必ず倒せる、と考えてはいけませんよ」
キーノは印を覗き込んだ。
「踏み込む先じゃなくて、今、踏ん張ってる場所なんだな」
「ええ。プロテゴを張ったまま動かずにいる相手には、そちらの方が効くかもしれません」
鬼太郎は答えたが、言い切った後に一つ付け加えた。
「相手が僕に足元を見せてくれるなら、だけど」
先生は満足そうに頷いた。
「なら、次は盾を防いだ直後、相手の足場へ杖を向け直す動きを試しましょう。ただし、ここからは私を狙わず、床の印を相手の立ち位置に見立てます」
鬼太郎は元の位置へ戻った。
「プロテゴ」
半透明の円が現れた。
自分で解き、斜め左へ半歩出て、床の印を狙う。今度は足が先に動いて杖が遅れ、印の外へ杖先が流れた。
「いま、足を出した時に腕が置いていかれました」
「そうですね。盾を使う、位置を変える、床を狙う。三つを一息にやろうとすると、いずれかが雑になります。今は最後の呪文を唱えなくて結構です」
二度目は、先に狙う場所を決めてから盾を出した。自分で解き、左へ移り、杖先を床へ戻す。最初より短い動作で印を捉えられた。
だが、先生が途中で印の位置をずらすと、杖は古い場所へ向かいかけた。
「相手が動けば、狙う床も変わりますね」
「その通り。だから今は、立っている相手の足場を正確に見つける練習まで。実戦で使えるかどうかは、その先の話です」
鬼太郎は紙に、盾の位置と、先生の靴が踏んでいた四角、それに自分が横へ動いた半歩の線を描き込んだ。
盾の正面に光をぶつけるより、ずっと面白い。だが、相手に気づかれない角度から足場を変えるのは、考えたほど簡単でもなかった。
◆
「では、もう一つです」
フリットウィックは板の横へ置いた木箱へ目を向けた。
「デパルソ。物を向こうへ押しやる呪文です。呼び寄せるアクシオとは、力の向きが逆になります」
鬼太郎は木箱を見た。
「横に置いてある箱を押して、盾の外から当てるのですね」
「狙う場所と箱の位置が合っていれば、そういう使い方も考えられます。ただし、相手の背後の物が何でも都合よく動くわけではありません。何を押し、どちらへ飛ばすか、そして危険な人がいないかを、先に確かめる必要があります」
キーノは木箱の奥の布を見た。
「速く動かすほど、外した時に危ないな」
「その通り。だから最初は、人へ向けません」
フリットウィックは、先ほどの木箱を片づけ、代わりに軽い木片を床の印へ置いた。押した先には厚い布があり、その後ろには誰もいない。
「デパルソは、今年の通常授業ではまだ扱いません。二人とも今の学年で習った基本術は使えていますから、今日はその先の応用として学びましょう。ただし、今から覚える術だけは、最初に向きと強さを確かめます。鬼太郎、まずは軽い木片で」
「ありがとうございます」
「初日から戦いで使おうとはしないことですよ」
「はい。まずは、押す方ですね」
先生が木片へ杖を向け、デパルソを唱えた。
木片が床を滑り、布の手前で止まった。
動きは真っ直ぐだった。キーノの浮遊術のように、途中で止まって折り返すことはない。
「力の向きは変わらないのか?」
「放った後に好きな方向へ操るものではありません。押す方向を決めるのは、術をかける時です」
鬼太郎は先生の足元と木片の位置を見直した。
「それなら、盾の横を狙うには、先に箱が横へある必要がありますね」
「そうです。使い方を決めるのは、呪文の名前だけではありません」
鬼太郎は同じ印へ立った。
「デパルソ」
木片が少し動いた。
だが、押すつもりだった布の方ではなく、斜めへ滑って止まった。
鬼太郎は黒檀の先を見た。
「右へ流れました」
「まず、杖先を真っ直ぐ合わせてください。出した後に直すのではなく、出す前にです」
先生が木片を戻す。
二度目は、滑り出す方向が揃った。今度は短く進み、布には届かなかった。
「弱いですね」
「初めてでそこまで分かれば十分です。力だけ足しても、狙った方向へ進むとは限りませんよ」
鬼太郎は頷き、黒檀を握り直さないようにして、もう一度構えた。
次は発音が先へ出た。杖先が揃う前に唱え始めてしまい、木片はわずかに揺れただけだった。
先生が笑った。
「急ぎましたね」
「ええ。早く押せるか試したくなりまして」
「実戦で役立てたいのなら、なおさら急いで見せかける練習はしない方がよいですよ」
鬼太郎は黒檀を下ろした。
木片は、繰り返し動いた。ただ、狙った布まで届くかは別だ。強く弾けばその分だけ、外した時の危険も増える。鬼太郎は木片の先に広がる床を見て、次に試す位置を考えた。
「この続きは、また見ていただけますか」
「もちろん。その前に、今日の記録を仕上げてください。君が狙った線と、実際に滑った線を、両方ですよ」
「はい」
鬼太郎は差し出された紙を受け取った。
◆
次に前へ出たのは、キーノだった。
「私も、今日は見てほしいことがある」
布を取り出し、机の脇に置く。
「この前、鬼太郎へ速く送れたんだ」
「相手は、動いていましたか?」
先生が尋ねた。
「動いた。でも、送ってから向きを変えたわけじゃない。先に場所を決めて、真っ直ぐ送った」
「それは、前より速く出来たのですね。では、同じことをここでも試しましょう」
フリットウィックは机の上の木片を一つ、広く空けた所へ置いた。
「最初は動かさず、位置を決めて。次は動く目印ですが、速度を上げる前に何が変わるか見ます」
キーノは松の杖を上げた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
布は迷いなく浮き、肩の高さで留まった。先生に見てほしいのはこの基礎ではなく、速く動く相手に布を見せたあと、別の術へ切り替える判断だった。彼女が目標を見てから杖を前へ送ると、布は先日の低速練習より勢いよく進んだ。
木片に触れ、軽い音がした。
「当たったぞ」
「ええ。今のは狙いも揃いましたね」
キーノの口元が上がる。
ただし、次にフリットウィックが木片を動かすと、様子は変わった。
先生が布の進む前に木片を右へずらした。キーノは杖先を振りかけ、途中で止める。布はそのまま進んでしまい、目印の脇を抜けた。
「見えたんだけどな」
「方向を変えようとした時、布の方はもう動いていましたね」
「ああ。速くした分、途中で考える時間がなくなった」
「では、いったん速度を落として、手前で止めてみましょう」
キーノは布を自分の側へ寄せ直した。
今度はゆっくり送る。木片が動くと、布を手前で止め、行き先を変えてから進めた。木片は、先生が動かし終えた後でようやく触れられた。
「こっちなら出来る。でも、鬼太郎なら待ってないな」
鬼太郎は頷いた。
「ええ。避けるだけでしたら、もう少し離れています」
キーノは木片を見ながら考えた。
「今度は、相手が布を避けたら追うのをやめて、武装解除へ切り替えたい。そっちも前に教わっただろ」
「ええ。その二つはどちらも使えます。あとは、浮遊を終える時点と、相手の退路を読むことです。速く飛ばしたまま追い続けるより有効な場面もあるでしょう」
彼女は頷いた。
鬼太郎は、木片の横を通った時の布の位置を紙へ描いた。
「外れた時も、前より速かったですね」
「それで喜んでたら、当てる練習にならないだろう」
「では、次は動いている僕に、ですか」
「まだ、今日の速さじゃ無理だな。でも、いつかやる」
キーノは布を戻しながら、さっき外した木片を見た。真っ直ぐ速く送れた時の感触は残っている。その速さで相手に動かれると、次の判断が遅れることも。
次は、布を追わせるのか、そこで術を終えるのか。彼女は自分で試す順番を決めていた。
◆
最後に、鬼太郎がもう一度木人の前へ立った。
今日試したものを全部続けて使うわけではない。盾を出し、消して、横へ動く。それだけを、先生の弱い武装解除に合わせて行う。
「今度は、まず防いでください。次の術は唱えません。盾が消えた後に、どちらへ動けるかを見ましょう」
「はい」
鬼太郎は黒檀を構えた。
フリットウィックが合図し、杖が上がる。
「エクスペリアームス」
「プロテゴ」
円盾へ赤い光が当たった。手元へ軽い衝撃が伝わる。鬼太郎は盾を伸ばそうとせず、自分で解いた。
右へ足を出す。
黒檀を返し、木人へ向けた。
足と杖の間に、わずかな遅れがあった。それでも、先ほど床の線ばかり見ていた時より、相手へ視線を戻せた。
「今のは、どちらへ動くかを決めていましたね」
「はい。右へ出てから、先生の杖へ戻しました」
「では次に、右側を使えないと思ってみましょう」
先生は床へ別の木片を置いた。鬼太郎が今、出た所だった。
「そこを避けるなら?」
「左へ」
「正面を見たまま出来ますか」
鬼太郎は一度、足元へ目を落としてから頷いた。
二度目の武装解除を、また短く防ぐ。左へ動く。途中で黒檀を返しかけ、肘が外へ開いた。
構えは戻ったが、さっきより遅い。
「左へ出る時の方が、杖を遠くへ通してしまいます」
「そうですね。よく使う側は、練習すれば自然に近い道を通れるようになります。反対側は、まだ毎回確かめる必要があるのでしょう」
鬼太郎は木片を見た。
スポンジファイなら、先生の盾の外にある床を柔らかくできた。ただし、動く相手の足元を狙うには、次の一歩を読む必要がある。
新しく習ったデパルソで押せたのは、まだ軽い木片だけだ。どの角度へ弾けば盾を迂回できるかも、試していない。
短い盾を解いた後、回避から武装解除へ移ろうとすると、杖の戻しが遅れる。新しい手を増やす前に、そこも直さなければならなかった。
「二つとも、面白いですね」
「それは結構。でも、君が戦う相手もまた、考えて動くことを忘れないでください」
「ええ。セドリックさんも、次は何をされるか教えてくださいませんでした」
「ふふ。あの人なら、そうでしょうね」
先生は木人の棒を元へ戻し、二人の紙を見た。
「今日、増えたのは使える手の数だけではありません。使えない場面も、はっきりしたでしょう。次の手合わせまでに、一つずつ確かめましょう」
鬼太郎は新しく描いた二本の線を見た。
先生の靴の下へ向けた線と、箱を押すための線。前者には、盾の正面を外れる小さな折れ曲がりがあった。
「はい。次は、動く相手の前でどうなるかですね」
キーノが布を鞄へしまい、顔を上げる。
「私の布もな。今度は曲げてやる」
「その前に、今日は片づけですよ」
フリットウィックが言うと、二人は顔を見合わせた。
鬼太郎が木片を集め、キーノは布の端を揃えた。床に引いた線が消えるのを待ち、机を元の場所へ戻す。いつの間にか窓の外は薄暗く、廊下には夕食へ向かう足音が増えていた。
「次も、今日の位置からか?」
「ええ。ただ、同じように立っているとは限りませんよ」
「それは私の台詞だ」
キーノが笑った。
二人で教室を出ると、背後で戸が閉まった。鬼太郎は鞄の中の紙が折れていないか確かめる。新しい呪文の名前の横には、まだ小さな木片が横へ滑っただけの線がある。
それを消して、成功したことにするつもりはなかった。