第21話 黒鉄の箱
杖先の光が伸びた。
鬼太郎は右へ身体を倒した。頬のそばを通った光が煉瓦へ当たり、その表面が黒く崩れる。
足を踏み直し、〈シュライク〉を撃った。
「プロテゴ!」
ルークの前で空間が歪んだ。弾丸が弾かれ、隠し部屋の壁に火花が散る。
男は次の魔法を撃たなかった。外套を翻し、奥の細い扉へ飛び込む。
黒鉄の箱は、机に残った。
鬼太郎は隠し部屋の入口で足を止めた。
箱から伸びた黒い筋が床を這っている。その上を跨いで机へ近づくことはできる。だが、男を自由にしたまま、両手を使って箱を運ぶつもりはなかった。
ルークの逃げた扉を見る。
開いた先には、下へ続く短い階段があった。
鬼太郎はすぐ踏み込まず、鞄から硬貨を出した。一段目へ落とす。何も起こらない。次の段、その次へと投げた四枚目が石へ触れたとき、両側から鎖が飛び出した。
空の階段で、細い鎖が強く締まる。
足を置いていれば、倒されていた。
鬼太郎は鎖へ近づき、届かないところから先を見た。待ってもすぐには戻らない。階段の幅いっぱいに張ったものを踏まず、手すり側の隙間へ足を通した。
下の作業場で、靴音がした。
倒れた棚と染料桶が並び、天井から何本も鎖が垂れている。窓は高く、夕明かりはもう床まで届いていなかった。
足元に、紐が一本落ちていた。
自分が排水路で結んだものと似ている。だが、ここへ来た覚えはない。
鬼太郎は拾わなかった。
左で木が鳴った。
棚が倒れてくる。
前へ走ると、背後で重い音がした。振り返る前に右から瓶が飛び、鬼太郎は空いた桶の陰へ身を屈めた。
硝子が柱で砕けた。
破片が上着を叩き、布の端を裂く。
「子供が来るとは聞いていなかった」
向こうの桶から、ルークの顔が見えた。
「それで、仕掛けをお休みにしていただけますか?」
鬼太郎が銃を向けると、男は引っ込んだ。
撃たず、足元へ目をやる。木片や硬貨を投げて仕掛けを動かしても、その間に杖を向けられれば避ける場所がなくなる。
鬼太郎は柱の脇へ移った。
ルークの杖が追ってくる。
飛んできた赤い光を柱の裏へ避け、そこから硬貨を床へ投げた。
三本の鎖が跳ねた。
何もないところを締めつけ、しばらくして床の穴へ沈んでいく。
鬼太郎は息を数えた。
十二ほどで鎖が消えた。同じところへ木片を投げる。今度は何も起こらなかった。
一度動いた直後には、また使えないのかもしれない。
鬼太郎はその場所を通り、倒れた机の陰へ入った。
木の端が光に削られ、頬へ破片が飛んだ。薄い痛みが走ったが、拭わず顔を引く。
ルークがこちらを見ている。
その杖が動いたあと、棚や瓶が飛んできた。工場の中へ入っただけで働く呪いと、男が選んで動かすものがあるらしい。
こちらが足を止めると、ルークは次の仕掛けを使う。
鬼太郎は机の陰から天井を見た。
大きな染料桶が吊られていた。鎖は赤茶色に錆び、桶の底には穴がある。
ルークは真下には立っていない。桶がそのまま落ちても、男の頭へは届かないだろう。
だが、鎖は一本ではなかった。
鬼太郎は左手を机の横へ出した。
「アギ」
炎はルークを越え、桶の片側を支える鎖へ走った。錆びた継ぎ目が火に包まれ、やがて暗い赤へ変わる。
男が上を見た。
鬼太郎は立った。
ルークが反射的に杖を向ける。
「プロテゴ!」
盾が現れた。
鬼太郎は銃口を上げたまま、男ではなく赤くなった継ぎ目へ狙いを定めた。
二発目。
鎖が切れ、大きな桶が傾いた。
残る鎖に引かれた桶が、真下へ落ちず、ルークの方へ振れた。
男は杖をそちらへ向け直した。
桶が盾へぶつかる。
重い音とともに、ルークの足元の床板が割れた。肩が傾き、落ちた右手から杖が離れる。
鬼太郎は走った。
男の指が届く前に杖を靴で滑らせ、銃口を顔へ向ける。
「動かないでください」
ルークは床についた手を止めた。
鬼太郎は左手で杖を拾い、上着へ差す。男は、倒れた桶と裂けた床を見た。
「撃てばいい」
「まだ、教えていただくことがあります」
鬼太郎は隠し部屋の方へ顎を向けた。
「箱の運び方です。立てますね?」
◆
ルークを先に歩かせ、罠の場所を言わせた。
男は一度だけ口を閉じた。鬼太郎が銃口を右脚へ下げると、次の石板を踏むなと言った。
隠し部屋まで戻っても、箱から伸びた筋は消えていなかった。
「あれも、あなたの仕掛けですか?」
「俺なら、あんなものを寝床へ置くか」
「ご自分で、お持ちになったのでしょう」
ルークは鬼太郎を睨んだ。
「箱から漏れてる。俺の呪いじゃない」
鬼太郎は机に近づかず、黒い筋を見た。箱を工場の呪いと一緒に考えてはいけないらしい。
「中身は?」
「知らん」
「開けてはいないのですか」
「開ける前に見つかった。ここへ運んでからも、継ぎ目に触れた道具が腐り始めた。試したいなら勝手にしろ」
「開けない約束で来ていますので」
鬼太郎は男から目を離さず、部屋の中を見た。
箱をここまで持ってきた者がいる。
手首を切り落とさず運べたなら、道具も残っているかもしれなかった。
「何を使いました?」
ルークは戸棚を示した。
中には長い真鍮の挟み具が二本と、厚い灰色の布があった。下の段には木枠と、折り畳まれた小さな手押し車が入っている。
「布で、呪いを止めるのですね」
「止まるなら、苦労はしない」
男は唇を歪めた。
「移るまでの時間が延びるだけだ。包んでも、ずっと抱えていれば持ってかれる」
鬼太郎は木枠を見た。
箱を置く内側と、持ち上げる外側が離れている。直に持たず運ぶためのものだった。
「では、見せてください」
「自分でやれ」
「聞いたばかりの子供へ任せるより、ご存じの方がなさる方が安全でしょう」
ルークは答えず、右手を握った。
鬼太郎は、左手で拾った杖を上着の上から確かめた。男の目がその場所へ動く。
「説明と違うことが起きたら、最初に困るのはあなたです。できれば、間違えないでください」
男は銃口を見て、戸棚へ向かった。
挟み具を両手へ持ち、灰色の布を机へ広げる。
先だけで布をつまみ、箱へ被せた。
黒い筋が太くなった。
机を這っていたものが持ち上がり、布の表面へ伸びていく。ルークの動きが止まった。
鬼太郎も、半歩下がった。
「止めれば、戻りますか?」
「……動かしたせいだ」
「続けるのと、どちらがよいのです?」
ルークは歯を噛み締め、布の端を折った。
鬼太郎には、それが正しい判断か分からない。だからこそ近づかなかった。箱が包まれるまで、男の腕と机の縁を交互に見る。
筋は布へ張りついたまま、動きを止めた。
挟み具で包みを持ち上げると、壁や床へ伸びたものが引き延ばされた。細くなり、一本ずつ切れ、布の下へ戻っていく。
木枠へ下ろす。
ルークは金具を閉じ、枠の外側を両手で持ち上げた。
手に変化はなかった。
鬼太郎はまだ近づかず、そのまま待った。男の額へ汗が浮き、腕が重さで震え始める。
「運べるだろう」
「ええ。手押し車へお願いします」
箱が車へ載せられた。
その重さで、小さな車輪が床を軋ませる。
ルークは手を放し、掌を見た。黒い痣がないことを、本人も確かめていた。
鬼太郎は戸棚へ残った手帳を出させた。略された文字と、床や扉らしい図が並んでいる。読めないところが多かったが、工場を出るまでには使えるかもしれない。
「裏の搬入口まで、あなたが押してください」
排水路へは戻れない。
箱を載せたままでは、あの穴を通らなかった。
◆
ルークは途中の仕掛けを一つずつ止めた。
壁の金具を外し、床へ埋めた留め具を押す。扉の脇の細い板をずらすと、天井裏で重いものが動いた。
すべてを杖で動かしているわけではないらしい。
鬼太郎は手帳を開かせ、実際に触った場所と図を見比べた。意味の分からない文字は読まず、通り道に印だけをつけてもらう。
男の言葉だけを信じて歩くよりはよかった。
搬入口の手前で、ルークが壁を見た。
腰ほどの高さに、一つだけ色の違う煉瓦がある。
鬼太郎は視線を追わず、銃を持ち直した。
「扉を開けてください」
男が手押し車から離れる。
右手で閂へ触れ、左手を壁へ伸ばした。
煉瓦が抜けた。
奥に短い杖があった。
ルークの左手が、それを握る。
鬼太郎は撃った。
三発目が左肩へ入り、男の身体が壁へぶつかった。杖が落ちる。
鬼太郎は手押し車の脇を抜け、杖を靴で遠ざけた。
「まだ、お持ちだったのですね」
ルークは肩を押さえ、床へ膝をついた。
「殺せ……」
「先ほども伺いましたよ」
鬼太郎は男の外套を裂かせ、傷を押さえる布を作らせた。銃口を外さず、近くの柱へ座らせる。
手押し車にあった荷縛りの縄を使い、男の右手首と胴を柱へ留めた。負傷した左腕は胸の前へ置かせ、布で押さえる。
銃を収めたのは、男の手が動かないと確かめてからだった。
上着へ差した杖も抜き、予備の一本と一緒に作業場の反対側へ置く。持ち帰るつもりはなかった。
戻ってきた者が見れば、この男が杖を使えない場所で縛られていることは分かる。
鬼太郎は戸棚にあった硬貨と、残りの灰色の布、挟み具と手帳を鞄へ入れた。箱以外の物は取ってよいと、先に決めてある。
ルークが荒い息の合間に笑った。
「誰が信じる。こんな餓鬼に……」
鬼太郎は搬入口の閂を外した。
「あなたは、ご存じでしょう?」
扉を押す。
夜の空気が、熱のこもった作業場へ入ってきた。
「話す相手くらいは、お任せしますよ」
箱を覆う布の外へ古い麻布を重ね、手押し車を動かした。木枠のどこを掴むか、ルークが持った場所をもう一度確かめる。
車輪が敷居へつかえた。
鬼太郎は無理に引かず、端へ木片を置いた。少し押しては止め、箱が枠の中でずれないことを確かめながら、外へ出した。
◆
帰り道は、来たときより長かった。
手押し車を抱えて乗り物へ入ることはできない。人通りの少ない道を選び、工場からロンドンへ戻った。
取っ手を握る手は、しばらくすると重くなった。片側だけで押せば車が傾く。立ち止まって指を開き、肩を休ませてから、また両手で握る。
箱には触れない。
麻布の下を挟み具で確かめても、黒い筋は外へ伸びていなかった。だが、布を取ってよいとは思わなかった。
運び方を知る者の言葉だけで、手袋の上から箱へ触った男がいる。
鬼太郎は両手を、木の取っ手に置いたまま歩いた。
漏れ鍋へ着いたころ、空が白み始めていた。
店主は手押し車へ目を落とし、それから鬼太郎の頬と上着を見た。
「昨日の坊やか」
「通していただけますか」
「奥へ行くのかい」
「ええ」
説明を待たず、鬼太郎は車を押した。中庭で止め、ウォードの杖を出す。
開いた壁を抜けた先には、まだ店の戸を開けている者が少なかった。掃き掃除の男が車を避け、その上にある荷を覗き込む。
鬼太郎は足を止めなかった。
両替所の扉は閉まっていた。
三度叩くと、昨日とは違う用心棒が顔を出した。
「昨日の仕事です。箱をお渡しに来ました」
男の視線が車へ下がる。
奥で椅子を引く音がした。
「入れろ」
仲介人の声だった。
机の向こうで待っていた男は、麻布を持ち上げたとき、身体を少し引いた。
灰色の布と木枠を見ただけで、何を運んできたか分かったらしい。
「開けていません。壊してもいません」
「ルークは?」
「生きています。裏の搬入口に近い柱です。迎えをお出しになるなら、そちらからどうぞ」
男は用心棒へ短く指示を出した。
それから箱を見直し、机の下から革袋を出す。
鬼太郎は、約束した残額と合うことを確かめてから、車の取っ手を相手へ向けた。
「布は取らず、木枠ごと扱ってください」
「触ったのか?」
「いいえ。ルークさんに運び方を見せていただきました」
「よく従ったな」
「最後まで、とはいきませんでしたが」
主人は鬼太郎の上着の膨らみを見た。
箱へ目を戻し、口を開きかけたところで、鬼太郎が先に尋ねる。
「手帳や道具は、箱以外の物ですね?」
「……そういう約束だ」
「では、いただいておきます」
男は手を伸ばさなかった。
帳面を開き、終えた仕事のところへ印をつける。その次の行へ視線が動いた。
「まだ受けるか」
「次は、一週間後に伺います」
主人が顔を上げた。
「選んでから休むんじゃないのか」
「今聞いても、眠っている間に期限が過ぎそうですので」
鬼太郎は、取っ手を放した右手を握り直した。
指には、まだ木を押しているような重さが残っていた。
「その間に、分かっている危険をまとめておいてください。今度は、最初からお願いします」
主人はすぐには返さなかった。
鬼太郎が扉へ向かったとき、背後で帳面が閉じた。
◆
個室へ戻ると、扉の錠と床下を確かめた。
父の書類も、襲撃者の杖も残っている。
鬼太郎は鞄を下ろし、頬へ濡らした布を当てた。乾いた血が剥がれ、小さな傷が現れる。工場で机の破片が掠めたところだった。
上着は裂けていたが、その下に新しい傷はない。
〈シュライク〉の弾倉を外し、薬室も空にする。
工場で撃ったのは三発。両替所では二発だった。残弾と作動部を確かめ、必要な手入れだけを済ませた。
箱を載せた手押し車は、もうここにはない。
それでも目を閉じると、木枠の内側に包まれたものが浮かんだ。
鬼太郎は机へ布を置き、寝台へ横になった。
次に起きたとき、窓の向こうは暗かった。
喉が渇き、右肩は重い。寝返りを打つと脇腹が疼き、左手首も布に擦れた。
鬼太郎は寝台の端へ座った。
工場で使った感覚は、まだ覚えている。
「パトラ」
内側から力を働かせた。
囁きも、迫る壁も、もともとここにはない。
肩の重さは変わらなかった。
頬へ指を当てると、傷が痛む。火傷の皮膚も、治りきっていない。
鬼太郎はもう一度使わず、水を飲んだ。
工場で消えたのは、外から押しつけられた異常だった。あのときも火傷や痣そのものは残っていた。
箱へ触れた者の腕に広がった黒い痣が、同じように外せるものかは分からない。
それを試すために、自分の手を差し出す気はなかった。
残っていた食べ物を口へ運ぶと、空になっていた腹がようやく動き始めた。食べ終え、布を替えてから、もう一度眠った。
翌日も銃は撃たなかった。
休み、食事を取り、起きられる時間には本を開いた。ルークの手帳は、初歩書よりさらに読みにくい。単語が途中で切られ、図の横にも同じ記号が繰り返されている。
扉と窓の周囲を囲む線。
床の一部へ描かれた印。
物へ手を伸ばす人間の絵。
見た仕掛けと似た頁へ紙を挟んだ。書かれたとおりに杖を振ることはしない。読めない部分を飛ばして真似ても、あの工場を寝床へ持ち込むことになるかもしれなかった。
三日目には、肩と脇腹の痛みが少し薄くなった。
眠気も、食事を取れば消える空腹も、パトラを使った直後には変わらない。休んだあとには、身体を動かせる時間が増えている。
鬼太郎は机へ向かい、手帳の一頁を初歩書の隣へ並べた。
分からない文字は、分からないまま残す。
だが、扉だけを見ていれば、そこを通らない者は見逃す。
それくらいなら、工場へ入る前よりよく分かる。
鬼太郎は扉を囲む図を指で辿り、次の頁を開いた。