第二十一話 名指しの理由
鬼太郎が英国へ着いてから、およそ一か月が過ぎていた。
最初は聞き取れなかった通りの名前も、今は街路図の文字と結びつく。
短い指示なら、一度で理解できることが増えた。
それでも、早口で話されれば途中から分からなくなる。
知らない言葉も多い。
買い手が持ってきた紙にも、読めない単語が並んでいた。
「依頼人が、明日の昼に来る」
「こちらへ?」
「お前が本当にいるのか、自分の目で確かめたいそうだ」
買い手は紙を机へ置いた。
「炎と小さな銃を使う子供を名指しした。お前の噂も、少しは金になるようになったらしい」
「依頼の内容は?」
「本人から聞け」
鬼太郎は紙に書かれた時刻だけを読み取り、頷いた。
◆
翌日、依頼人は約束した時刻に現れた。
黒い外套を着た女だった。
年齢は買い手より少し若く見える。
後ろには、体格のよい男が二人ついている。
「エレノア・グレイよ」
女は鬼太郎の前で足を止めた。
目線を合わせるために屈むことはしない。
頭へ手を伸ばすこともなかった。
「あなたが、噂の子供?」
「噂の内容によります」
「火を使う。小さな拳銃を持っている。大人を何人も殺した」
「それなら、僕のことでしょうね」
エレノアは笑わなかった。
「仕事の話を理解できる?」
「ゆっくりお話しいただければ。ただし、内容を伺う前に決めることがあります」
鬼太郎は買い手へ顔を向けた。
「仲介料はいくらです?」
「依頼料の五分の一だ」
「グレイさんがお支払いになる総額と、僕が受け取る額を教えてください」
エレノアが金額を告げる。
買い手が紙へ数字を書いた。
総額。
その五分の一。
残りの額。
鬼太郎は自分でも計算し、同じになることを確かめた。
「今回はこちらを通していただいた仕事です。仲介料はお支払いします」
「今回だけか?」
買い手が尋ねる。
「次の仕事も、あなたが仲介するなら」
買い手は何も言わず、椅子へ座り直した。
「では、内容をお聞きします」
◆
エレノアは、三軒の賭け屋と二軒の酒場へ金を出していた。
店へ運ぶ酒と、店から回収する金は、同じ道を使う。
最近、その道へ別の一団が入り込んだ。
エレノアの使者は二度襲われている。
一人は腕を折られた。
もう一人は金を奪われた。
今夜、双方の責任者が会い、使う道と支払う金を決める。
「場所は、閉めたビリヤード場。相手は六人の予定よ」
「武器は?」
「拳銃とナイフ。持っていないふりはするでしょうけど」
「僕の仕事は?」
「私を守ること。交渉の書面へ署名して、車へ戻るまで」
「生きて戻ればよいのですか?」
「傷も負いたくないわ」
「では、その分を報酬へ加えてください」
エレノアは鬼太郎を見た。
「子供が、随分はっきり言うのね」
「傷を許す仕事より、難しくなりますから」
買い手が口元だけで笑う。
エレノアは少し考え、金額を上乗せした。
追加分を含めた総額と、買い手が取る五分の一も書き直される。
「こちらから攻撃してはいけない。それも条件よ」
「相手が銃を抜いた場合は?」
「撃っていい」
「あなたが先に攻撃した場合は?」
「そんなことはしないわ」
「答えになっていません」
エレノアの後ろにいた男が眉を寄せた。
彼女自身は、しばらく黙っている。
「私が先に攻撃したら、追加で払う。それでいい?」
「ええ。予定と違う場所へ移された場合も、別の仕事として扱います」
「分かったわ」
条件が紙へ書かれた。
買い手が一つずつ読み上げる。
鬼太郎は分からない言葉を止め、意味を確かめた。
三人がそれぞれ署名する。
エレノアは依頼料を買い手へ預けた。
◆
夜、車は看板の外された店の前で止まった。
窓には内側から板が打ちつけられている。
エレノアが先に降りる。
鬼太郎が続き、彼女の部下二人が最後に車を離れた。
店内には、緑色の台が六つ並んでいた。
そのうち一つだけ、上に灯りがある。
相手側の六人が、台の向こうで待っていた。
中央に座る男が、エレノアを見る。
次に鬼太郎へ目を向けた。
「子守りが必要になったのか?」
「護衛よ」
エレノアは答え、台の前へ座った。
鬼太郎は斜め後ろに立つ。
彼女の部下二人は、少し離れた壁際に残った。
相手側から笑い声が上がる。
一人だけ、笑わない男がいた。
その男は鬼太郎の顔を見てから、上着の下へ視線を落とした。
鬼太郎と目が合う。
男はすぐに目を逸らした。
◆
交渉は、使う道の境界から始まった。
エレノアは二本の通りを求める。
相手側は一本しか認めない。
代わりに支払う金の割合を減らすと言う。
言葉は速かった。
鬼太郎には、すべてを聞き取れない。
だが、護衛の仕事に交渉内容の理解は必要なかった。
誰が、どこへ手を置いているか。
視線が、誰へ向いているか。
座っている六人の肩と腕だけを見ていればよい。
端にいた男の右肩が下がった。
右手が台の下へ消える。
「手を出してください」
鬼太郎が言った。
話し声が止まる。
男は手を出さない。
「何だ、このガキ」
「右手を、見えるところへ」
男の肩が動く。
台の下から、拳銃の銃口が現れた。
鬼太郎は右手で〈シュライク〉を抜いた。
一発。
弾丸が男の前腕へ入る。
拳銃が緑色の台へ落ち、そのまま床へ滑った。
男が椅子ごと後ろへ倒れる。
残る五人の手が動いた。
「アギ」
鬼太郎は〈シュライク〉を向けたまま、左手を開く。
小さな炎が、掌の上に灯った。
「やめろ!」
笑わなかった男が叫んだ。
「そいつだ。荷物を奪おうとした連中を、銃と炎で退けたガキだ」
武器へ伸びていた手が止まる。
鬼太郎は倒れた男へ近づかなかった。
前腕を押さえ、床で呻いている。
銃は手から離れている。
隣の男が上着から布を出し、撃たれた前腕へ巻き始めた。
追撃する必要はない。
「先に銃を抜いたのは、そちらです」
鬼太郎は中央の男へ告げた。
中央の男は、倒れた部下を睨んだ。
「そいつの独断だ」
「なら、交渉を続けましょう」
エレノアが言った。
彼女は席を立っていない。
怪我もない。
鬼太郎は左手の炎を消した。
〈シュライク〉は下ろさない。
◆
話し合いは続いた。
エレノアは二本の通りのうち、時間を分けて一本を共同で使うことで譲った。
相手側は、奪った金の一部を返す。
今後、使者へ手を出した側が追加で支払う。
どちらか一方が勝った内容ではなかった。
紙が二枚作られ、双方の責任者が署名する。
一枚をエレノアが受け取った。
店を出るまで、相手側の男たちは武器へ触れなかった。
鬼太郎はエレノアの斜め後ろを歩く。
車の扉が閉まったところで、仕事は終わった。
「本当に、六歳なの?」
車の中でエレノアが尋ねた。
「そう聞いています」
「私の専属にならない? 今回より安い仕事はさせないわ」
「お断りします」
鬼太郎は即座に答えた。
「理由を聞いても?」
「仕事ごとに条件を聞いてから決めます。誰か一人に使われ続けるつもりはありません」
エレノアは息を吐き、窓の外を見た。
「なら、また指名するわ」
「条件が合えば、お受けします」
◆
買い手の事務所へ戻ると、預けられていた依頼料が机へ並べられた。
買い手が五分の一を取り分ける。
残りを鬼太郎の前へ置いた。
エレノアを無傷で戻した分の上乗せも入っている。
鬼太郎は一枚ずつ数えた。
事前に計算した額と同じだった。
「グレイがお前を気に入ったらしいな」
「専属にならないかと誘われました」
「受けたのか?」
「いいえ」
買い手は意外そうな顔をしなかった。
「俺のところへ来た仕事なら、俺の取り分がある」
「ええ。あなたが仲介した仕事なら、お支払いします」
「直接持ち込まれた仕事は違うと?」
「あなたが何もしていない仕事で、なぜお支払いするのです?」
買い手は鬼太郎を見た。
鬼太郎も微笑んだまま見返す。
しばらくして、買い手が鼻を鳴らした。
「好きにしろ。ただし、ここを連絡先に使うなら、その分は取る」
「それなら、先に金額を決めましょう」
鬼太郎は自分の報酬を鞄へ入れた。
買い手の部下ではない。
エレノアの護衛でもない。
条件を聞き、受ける仕事を自分で選ぶ。
英国へ渡って一か月。
ようやく、そのための名前が売れ始めていた。