第219話 聞こえなかった声
大広間を出る頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
「デパルソって、もう使えるの?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「軽い木片なら押せます。でも、人や重い物には使わないよう、先生に止められています」
鬼太郎は鞄の中の羊皮紙を押さえた。狙いから逸れた線も、消さずに残してある。
「私は、盾の向こうの床が柔らかくなった方が気になったな」
キーノが言った。
「先生も、足を動かさなきゃならなかったんだろ」
「ええ。倒れはしませんでしたけれど」
「床に呪文をかけるの?」
ハーマイオニーは興味を示したが、鬼太郎が詳しく答えようとした時、前を行く生徒が階段の途中で立ち止まった。肖像画の老人が、通りすがりの誰かへ文句を言っている。
「今夜も騒がしいわね」
彼女は一度口を閉じ、道が空くのを待った。
鬼太郎は肖像画へ目を向けた。先日ピーブズに近道を教わりかけた時にも、壁の向こうから声を掛けられた。絵の中の人物は勝手に歩き回る。静かなはずの廊下で、予期しない方から話しかけられることもある。
鬼太郎は肖像画の老人に会釈してから、ハーマイオニーたちの後を追った。
◆
グリフィンドールの談話室では、暖炉に新しい薪がくべられていた。
鬼太郎が鞄を下ろすと、キーノは先に空いた椅子を二つ確保した。ハーマイオニーは卓に本を重ね、課題をどこまで進めたか確かめる。
「今日はもう、難しいのはやりたくない」
ロンがそう言って、向かいに腰を下ろした。
「銀のカップの次は、あの長い巻物だ。磨き粉よりはましだけどさ」
「罰則は終わったんじゃなかったの?」
「終わったよ。腕がまだ覚えてるだけ」
ロンは右手を開いて見せる。ハーマイオニーが笑い、彼は不満そうに指を閉じた。
ハリーはその隣へ座った。教科書を出したものの、開いたまま頁をめくらない。
鬼太郎は自分の羊皮紙を取り出し、今日の二本の線を見比べた。正面の盾を避けるために動いた半歩と、木片を押そうとして逸れた線。どちらも短いが、次に確かめたいことは違っていた。
「鬼太郎」
ハリーに呼ばれ、顔を上げる。
「少し、聞きたいことがあるんだ」
「はい。何でしょう」
ハリーは返事をする前に、近くの席を見た。
上級生が二人、暖炉のそばでチェスをしている。階段へ向かう者もいた。ここからなら普通に話せるが、声を張れば聞かれる距離だった。
「……変な話なんだけど、笑わないでくれる?」
「聞いてから、考えます」
鬼太郎が答えると、キーノがその言い方に小さく笑った。
「それじゃ、約束になってないぞ」
「笑うかどうかを、まだ知りませんので」
「ほら、そういうところ」
ハリーの口元も少し緩んだ。だが、すぐに戻る。
「ロックハートのところで罰則を受けた夜のことなんだ」
ロンが背もたれから起き上がった。
「僕はもう聞いたよ。ハリーが寝室で話してくれたんだ」
「じゃあ、私たちが知らない話なのね」
ハーマイオニーが本を閉じた。
ハリーは頷くと、少し声を落とした。
◆
「宛名を写してたんだ。先生がファンレターに返事を書いて、僕が封筒に住所を書く。ヴァルキリーも、隣で手紙を分けてた」
「ずっと三人で?」
キーノが確かめる。
「うん。何度か紙を運んでたけど、声がした時は、二人とも部屋にいた」
ハリーは、そこで羽根ペンを持つように指を動かした。
「書いてる途中で、急に聞こえたんだ。低くて、細い声が。すぐ耳のそばにいるみたいで……でも、誰もそんな所にはいなかった」
「何と言っていたんですか」
鬼太郎が聞いた。
「『出てこい』って。それから、『裂いてやる』『殺してやる』って」
キーノの手が止まった。
暖炉の薪が音を立てた。向こうのチェス盤から、駒が抗議する声が聞こえる。それらが遠ざかったように思えたのは、鬼太郎もハリーの次の言葉を待っていたからだろう。
「ロックハート先生は?」
ハーマイオニーが訊く。
「聞こえなかったって。ヴァルキリーにも、どこから聞こえたのかって聞かれた。でも、僕には分からなかった。先生は、疲れて聞き間違えたんじゃないかって」
「彼女も聞かなかったのか」
キーノが眉を寄せる。
「うん。あの人も、そんな声は聞いてないって言った」
ハリーは両手を膝の上へ置いた。
「二人とも落ち着いてた。先生は、ヴァルキリーがいるから危険な人が入って来たなら分かるはずだって。僕だって、彼女がピクシーを止めたところは見たよ。でも、だから聞こえなかったことにはならないだろ?」
「そうですね」
鬼太郎は答えた。
「僕らに聞こえなかったことと、ハリーさんに聞こえたことは、別です」
ハリーがこちらを見る。
「信じてくれる?」
「聞いたという話は、信じます。何の声だったかは、まだ分かりません」
「……うん。それでいい」
ハーマイオニーは、指で本の角を押さえた。
「疲れていたのは、確かよね。一晩中、同じような文字を書いていたんでしょう?」
「一晩中じゃないよ。でも、長かった」
「なら、聞き間違いも候補にはなるわ。ただ、言葉を三つも覚えているのは気になる」
「僕も、そこなんだ」
ロンが言った。
「寝室で聞いた時も、ハリーは同じ言葉を言った。さっき思い出したんじゃない」
ハーマイオニーはロンに頷き、それからハリーへ向き直った。
「ほかに音は? 足音とか、扉が開く音とか」
「なかったと思う。少なくとも、誰かが入ってきた音はしなかった。扉も窓も閉まってた」
「一回だけですか」
鬼太郎は尋ねた。
「うん。続けて聞こえたけど、あの時だけ。先生たちに話した後は、もう聞こえなかった」
「声は動きました? 右から左へ、とか」
ハリーは考えた。
「それが分からないんだ。耳元みたいなのに、振り返っても誰もいなかった。どっちを向いてたかも、はっきりしない」
鬼太郎は、そこまでを頭の中で並べた。宛名を書いていた。部屋には三人。声を聞いたのは一人。戸と窓は閉まっていた。言葉は覚えているが、位置を示せない。
今あるのは、ハリーが覚えている範囲の話だけだった。
◆
「壁の絵が喋ったんじゃないか?」
ロンが言った。
「ロックハートの部屋、写真だらけだろ。あの先生の写真なら、本人と同じくらい喋ってそうだ」
「それは、あるかもしれませんね」
鬼太郎は頷いた。
ハーマイオニーが顔を上げる。
「でも、肖像画なら、普通は口を動かすわ。それに写真の人が、そんなことを言うかしら」
「肖像画をずっと見ていたわけじゃないだろ」
ロンが返す。
「そうだね。宛名を見てた」
ハリーは思い出すように目を細めた。
「だけど、先生の写真はあちこちで笑ってた。何か喋ってたら、先生が気づきそうな気もする」
「幽霊、という可能性もありますね」
鬼太郎が言うと、キーノは先ほどの廊下を思い出したらしかった。
「幽霊なら、壁の向こうにもいられるんだな」
「ええ。でも、幽霊なら必ず他の人にも聞こえる、とはまだ確かめていません。そもそも、近くにいらしたのかも分かりませんが」
「ピーブズなら、わざと怖いことを言いそうだな」
ロンが身を乗り出す。
「いや、あいつなら、笑いながら姿を見せると思う」
キーノが答えた。
「私たち、ついこの前、桶の水をかけられそうになったんだ。黙って脅すだけなんて、あいつらしくない」
「桶?」
ハリーが目を丸くする。
「近道をご案内くださったんですよ。濡れる方へ」
鬼太郎が言うと、ロンは思わず吹き出した。
「引っ掛からなかったのか?」
「キーノさんが先に糸を見つけてくれました。僕は桶の方が、少し気になりましたが」
「何で?」
「ピーブズは壁を通りますのに、桶はちゃんと持っていらっしゃったので」
「そんなこと気にしてたのかよ」
キーノが呆れた声を出した。
短い笑いが起こった。ハリーも笑ったが、ふと目を落とす。笑い終えてから、聞こえた言葉はまだ消えていないらしい。
鬼太郎は別の可能性を考え、ハリーの顔を見た。
「ハリーさん。もう一つ、伺ってもいいですか」
「うん」
「その声が聞こえた時、額の傷は疼きませんでしたか」
ハリーの指が、前髪の上へ動いた。
その問いを予想していなかったのか、彼は少し驚いた顔をした。鬼太郎は答えを急かさず待った。
「……いや、痛まなかったと思う。あの時、気になったのは声だけだった」
「去年、クィレル先生の時とは違いますね」
「うん。あの時は、傷が痛んだ。今回は、何も」
言いながら、ハリーは額から手を離した。
ロンが真顔になる。
「ちょっと待てよ。まさか、あの人と関係があるって言うんじゃないだろうな」
「分からないから聞いたんです」
鬼太郎は首を振った。
「ハリーさんにだけ起きたことなら、去年と同じ何かかもしれないと思いました。ただ、傷は痛まなかった。少なくとも、あの時と同じ様子ではありませんね」
「じゃあ、違うのかしら」
ハーマイオニーが小さく言った。
「そう決めるには、材料が足りません。でも、傷が痛んでいないのに、去年と同じだと決める理由もありません」
鬼太郎は卓へ目を落とした。
声の主が外にいたのか、ハリーにだけ届いたのか。それとも別の理由で、他の二人には聞こえなかったのか。聞かなかった側の事情までは、今の話だけでは分からない。
「私は、まず先生に聞いてみた方がいいと思う」
ハーマイオニーが言った。
「ロックハート先生には、もう話してるんでしょう。でも、例えばフリットウィック先生なら、音を伝える魔法をご存じかもしれないわ」
「その声が魔法だって分かってからじゃないの?」
ハリーが尋ねる。
「魔法かもしれないから、聞くのよ。分からないことを分からないままにするよりいいでしょう」
鬼太郎は頷いた。
「お話するのでしたら、聞こえた言葉と、聞こえなかった方が誰だったかを、そのまま伝えた方がよいと思います」
キーノはハリーの顔を見た。
「でも、先生が疲れてるだけだって言ったら、また同じだろ。今度聞こえたら、近くの誰かにすぐ言ってみればいい。私は、その方が確かめられると思う」
「私も、それには賛成」
ハーマイオニーが答えた。
ロンは椅子を引き寄せた。
「今度は、僕が近くにいればいいんだけどな」
「また聞こえるとは限らないよ」
ハリーが言った。
「聞こえないなら、それに越したことはないさ」
ロンはそう返したが、すぐに言い添えた。
「でも、もしあんなことを本当に言う奴がいるなら、放っとけないだろ」
◆
ハーマイオニーが羊皮紙を一枚、卓の真ん中へ置いた。
「一度、ちゃんと書いておきましょう。日付は、罰則のあった夜ね。八時に始まったんでしょう?」
「うん。でも、声がしたのが何時かは分からない。もうかなり遅かった」
「そこは、曖昧なままでいいわ。確かめていない時間を、決めて書く方がおかしいもの」
彼女は羽根ペンを動かした。二人の目撃者ではなく、二人の同席者。聞こえた人と、聞こえなかった人を分け、言葉はハリーの言った通りに記す。
「ヴァルキリーが、どこから聞こえたか聞いたんだったね」
キーノが言った。
「うん。それから、また聞こえたら知らせてって」
「先生だけじゃなく、あの人にも話しておいた方がよさそうだな」
鬼太郎は頷いた。
「もしまた聞こえたら、近くの人へすぐに声を掛ける。その場が分かるようにして、何かおかしいと感じたら、追い掛けるより先に先生へ知らせる。そうしていただけますか」
ハリーは、少し考えた。
「誰かが危ない目に遭ってる声だったら?」
それを尋ねる目は真剣だった。
鬼太郎は、すぐには答えなかった。
自分ならどうするかは分かる。だが、ハリーが聞いたのは助けを求める声ではない。誰かを殺すという、正体の知れない声だった。
「その時は、声の方へ一人で行く前に、僕らか先生を呼んでください。誰かが危ないのでしたら、なおさら人数がいた方がよいでしょう」
「……分かった。すぐ知らせるよ」
「僕も一緒に確かめたいです。ただ、何も知らないまま追うのは、避けたいですね」
「言ってることは分かるけど、お前がそれを言うと妙だな」
キーノが口を挟んだ。
鬼太郎は彼女へ向き直る。
「何がですか」
「危ない方へ行く前に考えろって、いつも私がお前に言ってるだろ」
「今回は、どこへ行けばよいかも分かりませんので」
「場所が分かってたら行くつもりだったのか?」
「状況次第ですね」
キーノは大きく息を吐いた。ロンが笑い、ハリーも肩の力を抜いた。
「それなら、もしまた聞こえたら、鬼太郎だけに知らせるのはやめておくよ」
「それがいい」
キーノは即座に頷いた。
鬼太郎は笑いながら、羊皮紙の最後へ一つ書き足した。
――聞こえた場所を確かめる。危険なら大人へ知らせる。
いつか調べに行くための、地図ではなかった。次に同じことが起きた時、何を確かめるかを忘れないための記録だ。
◆
やがて談話室の騒がしさが戻ってきた。
上級生がチェスの結果を言い争い、暖炉のそばでは誰かが翌朝の授業を嘆いている。ロンは自分の課題を開き、ハーマイオニーに先週の頁を尋ねた。
「ちゃんと聞いてたの?」
「聞いてたさ。ただ、覚えたところを確認したいんだ」
「それなら、まず自分のノートを見なさい」
ロンは鞄を探り、しわの寄った羊皮紙を引っ張り出した。
キーノはその横で、浮遊術の練習に使った布を畳み直していた。端を揃えて紐を掛け、鞄の小さな仕切りへ入れる。
「明日も練習するの?」
ハリーが尋ねた。
「今日は先生に見てもらったから、明日はノートを確かめる。速く送れたけど、相手に合わせて追うより、いつ術を終えて武装解除へ移るかを決めたいんだ」
「真っすぐなら、すごく速かったですよ」
鬼太郎が付け足す。
「相手が布を見てくれない時は、別の手が要るからな」
「それは、避ける方が有利だね」
「今はな。そのうち、追いついてやる」
キーノは笑って布をしまった。
話題が変わっても、ハリーの前には書き終えた羊皮紙が残っていた。彼は一度、その紙へ視線を落とす。
「……ありがと」
小さな声だった。
鬼太郎は顔を上げた。
「まだ、何も分かっていませんよ」
「うん。でも、聞こえなかったって言われるだけより、ずっといい」
鬼太郎は頷いた。
何の声かは分からない。それでも、聞こえた言葉をハリー自身が書き残せるようにはなった。
鬼太郎は羊皮紙をハリーの方へ押した。
「それなら、これはハリーさんが持っていてください。僕の方にも、聞いたことは覚えておきます」
ハリーは紙を二つに折り、教科書へ挟んだ。
何かを待つように、しばらく暖炉の火を見ていた。それからようやく、開きっぱなしの課題へ目を戻す。
薪が鳴る。
ロンの羽根ペンが卓を叩く。
肖像画の向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。
ハリーが一度だけ顔を上げたので、鬼太郎もそちらを見た。肖像画の人物が隣の額縁へ移り、知り合いと話しているだけだった。
ハリーは小さく息を吐き、また文字を書き始めた。
今夜は、それ以上の声はしなかった。