神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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死者たちの宴

第221話 死者たちの宴

 

 図書館の窓を打つ雨は、三日続いていた。

 

 朝は白く霞んでいた湖も、午後になると黒い水面を波立たせる。冷えた石壁には湿気が残り、生徒たちの靴が廊下へ持ち込んだ泥を、フィルチが何度も拭き取っていた。

 

 鬼太郎は窓際の机に本を三冊重ね、開いた一冊の端へ羊皮紙を寄せた。

 

 授業の課題は、もう鞄の中だ。

 

 今読んでいるのは、幽霊についての古い記録だった。

 

 死者がどうして城へ残るのか。どのような場所に姿を現すのか。生きている者に何を見せ、何を伝えられるのか。

 

 同じ題目でも、本によって書き方が違う。体験談ばかりを集めたものもあれば、幽霊の存在を何とか分類しようとする著者もいた。

 

 ただ、鬼太郎が知りたいことについては、どちらも歯切れが悪かった。

 

『生前の姿を保つ例が多い』

 

 そう書いてある本を閉じ、別の本を開く。

 

 幽霊が古い傷を持って現れたという記録はある。首の切れた騎士についても、遠い時代の目撃談が載っていた。

 

 首を外せる幽霊と、ニックのように首がわずかにつながっている幽霊。見た目の違いは分かる。では、その違いがどうして死後も残るのか。

 

 そもそも、幽霊は自分の姿を変えられるのだろうか。

 

 鬼太郎は羽根ペンを動かしかけ、先ほど書いた問いと似ていることに気づいて止めた。

 

「同じところを読んでないか?」

 

 向かいで本を返却用の山へ積んでいたキーノが尋ねた。

 

「違う本です。答えが似ているだけですよ」

 

「それ、答えなのか?」

 

「いいえ。分からないことが増えています」

 

 キーノは肩をすくめ、山から一冊抜いた。

 

「だったら、ニック本人に聞いた方が早いんじゃないか。三十一日には大勢来るんだろ」

 

「ええ。そのつもりです。ただ、何を聞けばいいのかは考えておきたくて」

 

「首のこと、って聞けばいいだろ」

 

「それも伺います。でも、最初から皆さんの首だけ見て回るわけにはいきませんからね」

 

「……そりゃそうだな」

 

 キーノは真顔で頷いたあと、小さく笑った。

 

「幽霊だって、いきなり自分の死に方を聞かれたら嫌かもしれないし」

 

「ニックさんも、お嫌な方には無理に聞かないようにとおっしゃっていました」

 

 鬼太郎は羊皮紙の上へ短く書き足した。

 

 ――身体のことは、本人が話してもよい場合だけ。

 

 その下には、もっと普通の質問が並んでいる。城の外ではどんな場所へ行くのか。生きていた頃と、今の暮らしで変わったことは何か。ほかの幽霊と会う時には、どうやって場所を決めるのか。

 

「ずいぶん楽しそうね」

 

 隣の棚から、ハーマイオニーが顔を出した。

 

 腕には授業で使う本を二冊抱えている。

 

「ニックのパーティーの準備?」

 

「はい。せっかくですから、初めてお会いする方のお話も聞いてみようかと」

 

「それなら、幽霊についての歴史書も見た方がいいわ。そういう記録は、出来事のあった時代によって呼び方が変わることがあるの」

 

 ハーマイオニーは棚を指した。

 

 鬼太郎が礼を言うと、彼女は机に並んだ本の背表紙を見比べた。

 

「……でも、姿を変える方法を探しているなら、期待しすぎない方がいいと思うわ。私も授業で調べた時、はっきりした記述は見つからなかったもの」

 

「そうですね。できると決まったわけではありませんから」

 

「ニックには、何て言うの?」

 

「まだ分かりません、と」

 

 鬼太郎は本を閉じた。

 

「その代わり、知らないことは聞いてきます」

 

 ハーマイオニーは少し考え、それから頷いた。

 

「それなら、私も聞いてみたいことを考えておくわ」

 

 キーノが彼女へ視線を向けた。

 

「ハーマイオニーも、そこまで楽しみにしてるのか?」

 

「五百回目の絶命日よ。そんな催しに招かれる機会、そう何度もないでしょう?」

 

「私は、ご馳走の方がいいな」

 

 キーノは即答した。

 

 羊皮紙を巻き取る鬼太郎の横で、二人は小さな声で言い合い始めた。ハーマイオニーは珍しい経験の価値を説き、キーノは腐った魚の匂いを思い出しただけで顔をしかめる。

 

 鬼太郎はその間に返却する本を分け、借りる一冊だけを残した。あとの問いは、宴で会う相手に聞いてみよう。

 

     ◆

 

 十月三十一日が近づくと、城の中まで秋の匂いが濃くなった。

 

 温室から戻る生徒は湿った土をまとい、医務室から出てくる生徒の耳からは、時折、細い湯気が立っている。ポンフリー先生の風邪薬がよく効くらしい。

 

 ある日の昼食では、ジニーが赤い髪の間から白い蒸気を上げていた。

 

「だから言っただろう。早めに飲んでおけばよかったんだ」

 

 パーシーが得意げに言う。

 

「もう分かったってば」

 

 ジニーは不機嫌そうにパンをちぎった。ロンが口元を押さえ、笑いをこらえている。

 

 その様子を見ていたキーノが、鬼太郎の方へ身を寄せた。

 

「あれ、寝る時も湯気が出るのかな」

 

「薬が効いている間は、そうかもしれませんね」

 

「枕が湿りそうだ」

 

 鬼太郎は答えに迷った。そこまでは、まだ調べていなかった。

 

 グリフィンドールの談話室でも、ハロウィーンの話が絶えない。

 

 上級生は大広間のご馳走について去年の記憶を競い合い、一年生は、初めて見る巨大なカボチャの飾りを想像していた。

 

 その騒ぎの真ん中で、フレッドとジョージが何かを囲んでいた。

 

「ねえ、もう少し離した方がよくない?」

 

 誰かがそう言った時には、遅かった。

 

 卓の上にいた小さな火トカゲが、口から橙色の火花を吐いた。次の瞬間、火花は細い線になって天井へ昇り、ぱん、と弾ける。

 

「おお、成功だ!」

 

「いや、今のはまだ前座だろう」

 

 双子が顔を見合わせた。

 

 再び火トカゲが火花を吐く。今度は光が三つに分かれ、談話室の梁の下をぐるりと回った。

 

 歓声が上がる。椅子を引いて逃げる生徒もいた。

 

「フレッド! ジョージ!」

 

 パーシーの声が飛ぶ。

 

「生き物を使って何をしているんだ! 今すぐやめなさい!」

 

「落ち着けよ、パーシー」

 

「ちゃんと火を吐くトカゲだ。少しくらい平気さ」

 

「少しくらいの問題じゃない!」

 

 パーシーが卓へ近づく前に、火トカゲは勢いよく跳ね上がった。

 

 小さな身体の後ろから、橙色の星が散る。火トカゲは驚いたように身をひねり、暖炉の方へ飛び込んだ。

 

「あっ、逃げた」

 

「もともと火が好きだからな」

 

 双子の言葉に、パーシーは何かを言い返そうとした。だが、暖炉の中からまた一つ、間の抜けた音とともに火花が噴き、周囲が笑い声に包まれる。

 

 キーノは半ば呆れた顔で笑った。

 

「何でも遊びにするんだな、あの二人」

 

「火トカゲの方は、びっくりしたでしょうね」

 

 鬼太郎は暖炉を見た。

 

 火の奥で小さな影が動いている。少なくとも、元気に這い回っているようだった。

 

「お前、捕まえに行くなよ」

 

「行きませんよ」

 

「さっき、ちょっと興味ありそうだったから」

 

「火花の出方は、少し気になりました」

 

「ほらな」

 

 キーノは笑い、課題の頁をめくった。

 

     ◆

 

 ハロウィーン当日の朝、大広間にはいつもと違う匂いが漂っていた。

 

 焼いた菓子の甘い香りに混じって、切り開いたカボチャの青い匂いがする。

 

 ハグリッドが育てた巨大なカボチャには顔が彫られ、中から灯りが漏れていた。その一つなど、鬼太郎がしゃがめば中へ入れそうな大きさだ。

 

 朝食を終えた生徒たちが、その前で足を止めては見上げる。

 

 コリン・クリービーはカメラを構え、天井から垂れた飾りとカボチャを一緒に写そうとしていた。

 

「ねえ、ハリー! こっちに立ってくれたら――」

 

「今日はカボチャだけ撮ってくれないかな」

 

 ハリーは苦笑しながら、ロンの後ろへ回った。

 

「そう? じゃあ、あとでまた聞くね!」

 

 コリンは落ち込むでもなく、すぐ次の飾りへ向き直る。

 

「元気な子だな」

 

 ロンが言った。

 

「朝からずっと、あの調子だよ」

 

 ハリーは肩を落とす。

 

 鬼太郎がカボチャの方を見ると、コリンは写真の中へ入り込もうとした蝙蝠を追って、少しずつ後ろへ下がっていた。壁にぶつかる前に気づき、慌てて足を止める。

 

「写真の方も、随分増えたようですね」

 

「うん。今度、家に送るんだって」

 

 ハリーはそう答え、それから大広間の奥へ視線を移した。

 

 夕方になれば、そこに長い食卓が並ぶ。毎年のハロウィーンのご馳走は、ハリーも楽しみにしていた。

 

「……今夜、あそこにいられないんだよね」

 

「約束したんでしょう?」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「分かってるよ」

 

「僕だって分かってるさ。ただ、あのカボチャは食べられるんじゃないかなって思っただけだ」

 

 ロンが答える。

 

「飾りの方は、食べない方がいいと思いますよ」

 

 鬼太郎が言うと、ロンは眉をひそめた。

 

「それくらい分かるよ! 僕が言ってるのは、あれと同じくらい大きいパイが出るかもしれないってことだ」

 

「それは、食べ甲斐がありそうですね」

 

「そうだろ? だから惜しいんだよ」

 

 ハーマイオニーは二人を見比べて、呆れたように笑った。

 

「どうしてパーティーの前から食べ物の話になるのかしら」

 

「幽霊の方には、料理の話も大切なようですけれどね」

 

 鬼太郎が答えると、ロンは顔をしかめた。

 

「僕には、腐った魚の方は大切じゃないよ」

 

     ◆

 

 夕方、鬼太郎は談話室へ戻り、机に置いておいた羊皮紙を確かめた。

 

 それを鞄の内ポケットへしまうと、キーノが靴紐を結びながら声を掛けてきた。

 

「行くのか」

 

「ええ。七時からだそうです」

 

「私は先に大広間へ行く。料理がなくなる前にな」

 

「それがいいですね。ロンさんも、かなり惜しがっていました」

 

「だろうな」

 

 キーノは立ち上がった。

 

「そうだ。もし面白い話が聞けたら、あとで教えてくれ」

 

「首のお話ですか」

 

「それ以外もだ。五百年も前の人間が、今の学校をどう思ってるとかさ」

 

「ぜひ聞いてみます」

 

「だからって、帰りが遅くなりすぎるなよ」

 

「分かっています」

 

 キーノは少し疑わしそうに鬼太郎を見たが、追及はせずに先へ歩き出した。

 

 大広間の前で二人は別れた。

 

 扉が開くたび、温かな空気と楽しげな声が流れ出す。中には何百もの蝋燭が灯り、長い卓には料理が並び始めていた。

 

 キーノはそちらへ手を振り、グリフィンドールの席へ向かっていく。

 

 反対側から、ハリーたち三人が来た。

 

「本当に、こっちでいいんだよね?」

 

 ロンが地下へ続く階段を見下ろす。

 

「もう何度も確認したでしょう」

 

 ハーマイオニーが答えた。

 

「いや、聞いてるんじゃなくて、残念だって言ってるんだよ」

 

「気になるなら、少しだけ食べてから行けばよかったのに」

 

「それじゃ遅れるだろ」

 

 言いながら、ロンは歩き始める。

 

 鬼太郎は少しおかしくなった。ご馳走に未練を残していても、ニックとの約束を破るつもりはないらしい。

 

 四人で階段を下りる。

 

 大広間の騒がしさが遠のくにつれ、足音が石壁へはっきり返るようになった。

 

 曲がり角を一つ過ぎたところで、空気が変わった。

 

 長く細い黒い蝋燭が、壁沿いに並んでいた。芯には青い火が灯っている。風もないのに炎の先が揺れ、廊下を歩く四人の顔を青白く照らした。

 

「これ、明るくするために置いてあるのかな」

 

 ロンが呟く。

 

「道案内でしょうね」

 

 鬼太郎は答えた。

 

「それにしたって、暗く見えるよ」

 

 ハリーはローブの前を合わせた。

 

 階段を下りているだけなのに、息が白くなっていく。

 

 奥から、金属を細く擦り合わせるような音がした。音階らしいものはあるが、耳に残るのは震えた響きばかりだ。

 

「……あれ、音楽?」

 

「たぶん」

 

 ハリーが答えた。

 

「曲を知ってる?」

 

「全然」

 

 角を曲がると、黒い布の垂れた入口が見えた。

 

 その前に立っていたのは、襟元をきちんと整えたニックだった。

 

「ようこそ。皆さん、お越しくださって本当に嬉しい」

 

 彼は帽子を取り、丁寧に頭を下げた。

 

「五百回目の絶命日、おめでとうございます」

 

 鬼太郎が言う。

 

 ニックは少し目を丸くし、それから柔らかく笑った。

 

「ありがとう、鬼太郎君。生きた方からそう言っていただくのは、何とも不思議なものだね」

 

「誕生日とは違うから、何て言えばいいか迷ったんだ」

 

 ハリーが言った。

 

「来ていただけただけで十分だよ。さあ、どうぞ」

 

 ニックは黒い幕を片手で示し、四人を中へ招いた。

 

     ◆

 

 室内は、思っていたよりもずっと広かった。

 

 高い天井から吊られた燭台には、青い光が幾重にも並んでいる。黒い布で覆われた台の上では、細長い金属の鋸を手にした演奏者たちが身体を揺らしていた。

 

 冷たい音楽に合わせ、半透明の人影がゆっくり舞う。

 

 騎士の鎧を着た者。昔風の長い裾の服を着た女性。くたびれた帽子を被った老人。姿は様々だが、どの人影も向こう側が透けていた。

 

 鬼太郎が足を止めると、そのすぐ前を二人の幽霊が横切った。

 

 片方の袖が、鬼太郎の腕をすり抜ける。

 

 一瞬、井戸の底へ手を入れたような冷たさが走った。

 

「失礼」

 

 幽霊の一人が気づき、礼をした。

 

「こちらこそ」

 

 鬼太郎が答えると、相手は少し驚いたように笑い、また舞踏の輪へ戻っていった。

 

 ロンが腕をさすった。

 

「できれば、もう通り抜けられたくないな」

 

「端を歩きましょう」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

 四人は踊る人影を避けて進んだ。

 

 窓のない地下牢に、知らない時代の服が集まっている。足元を確かめて歩く鬼太郎の横を、鎖の音を立てる痩せた幽霊が通った。

 

 さらに奥には、銀色の血の染みをまとった血みどろ男爵もいる。周りの幽霊たちは、彼の近くを避けて歩いていた。

 

 その少し向こうには、太った修道士がいた。誰かの話に笑い、丸い腹を揺らしている。

 

「おや、グリフィンドールの子たちじゃないか」

 

 修道士がこちらに気づいた。

 

「ニコラスのお祝いへようこそ。暖かい飲み物でも出せたらいいんだけれどね」

 

「ありがとうございます」

 

 ハーマイオニーが笑顔で答えた。

 

「たくさんいらっしゃるんですね」

 

「今夜は遠くから来た友人もいるからね。昔の顔に会うのはいいものさ。もっとも、相手も私も、昔とほとんど変わらない顔だけれど」

 

 修道士は楽しそうに笑った。

 

 鬼太郎はその言葉を聞き、少し身を乗り出した。

 

「亡くなってから、ずっとそのお姿なのですか」

 

「私かい? まあ、そうだね。昔からこの格好さ」

 

「服も含めて?」

 

「そうとも。お気に入りの服を何着も持っていたわけじゃないから、私は困らないけれどね」

 

 修道士は自分の袖を広げた。

 

 透けた布の輪郭は、指先で触れられそうなほどはっきりしている。しかし、袖が台の端を通ると、何の抵抗もなく向こうへ抜けた。

 

「変わらないことは、不便ではありませんか」

 

「時にはね。でも、そればかり考えて過ごすには、五百年も六百年も長すぎる」

 

 修道士は軽く肩を上げた。

 

「こうして昔の友人と話せるだけでも、私は悪くないと思っているよ」

 

 鬼太郎は礼を言った。

 

 修道士が別の友人へ手を振り、ゆっくり離れていく。

 

「もう質問してる」

 

 ロンが笑った。

 

「話してもよさそうでしたので」

 

「聞かれた方も楽しそうだったわ」

 

 ハーマイオニーはそう言い、鬼太郎の鞄へ目を向けた。

 

「今のこと、書かないの?」

 

「あとで忘れそうなところだけ、書きます」

 

「その場で全部書くつもりかと思った」

 

 キーノにも似たことを言われそうだ、と鬼太郎は思った。

 

     ◆

 

 会場を進むと、壁際の銀色の皿が目に入った。

 

 遠目には立派な料理が並んでいるように見える。しかし近づくにつれ、鼻を突く匂いが強くなった。

 

 魚の表面は崩れ、皿の上には色の変わった肉が載っている。黒く焦げた菓子の隣には、青緑の黴に覆われた塊が置かれていた。

 

「……うわ」

 

 ロンが立ち止まる。

 

「やっぱり、食べられるものはないんだな」

 

「食べるためではないのよ、きっと」

 

 ハーマイオニーが鼻を押さえた。

 

 鬼太郎は、ニックが以前話していたことを思い出す。

 

 強い匂いなら、幽霊もわずかに感じ取れることがある。

 

 ちょうどその時、丸い頬の幽霊が皿の上へ身をかがめた。鼻先を腐った魚へ近づけ、そのまま魚の中へ顔を通す。

 

 幽霊は目を閉じ、すぐに顔を上げた。

 

「よい香りですか」

 

 鬼太郎が尋ねる。

 

「香り、と言い切れるほどではないね」

 

 相手は少し寂しそうに答えた。

 

「でも、何かがあったという感じはするんだよ。薄い思い出みたいなものさ」

 

「新しい料理では、難しいのでしょうか」

 

「さあ。少なくとも私には、こっちの方が分かりやすいね」

 

 幽霊はもう一度皿へ顔を近づけ、満足そうに頷いて離れていった。

 

 鬼太郎はその背を見送った。

 

 隣でロンが口を押さえていた。

 

「お願いだから、もうあっちへ行こう。見てるだけで気持ち悪い」

 

「そうですね。お話、ありがとうございました」

 

「魚に言ってもしょうがないよ」

 

 ハリーが小声で笑った。

 

「今の幽霊の方にですよ」

 

「ああ、そっか」

 

 ハリーはもう一度笑い、ロンと一緒に皿から離れた。

 

 鬼太郎も続く。

 

 生きている者には耐え難い匂いが、幽霊にはかすかな記憶になる。鬼太郎は先ほどの返事だけを、頭の隅へ残した。

 

     ◆

 

「ちょっと待って。あそこには行かない方がいいわ」

 

 ハーマイオニーが急に足を止めた。

 

 視線の先に、眼鏡を掛けた少女の幽霊がいた。

 

 周りの人影とは少し離れ、俯きながら漂っている。髪は顔の半分へかかり、口元は不機嫌そうに引き結ばれていた。

 

「あの方は?」

 

 鬼太郎が尋ねる。

 

「嘆きのマートルよ。女子トイレにいる幽霊なの。機嫌が悪いと、ずっと泣いているのよ」

 

「知り合い?」

 

 ハリーが聞くと、ハーマイオニーは困った顔をした。

 

「知り合いというほどじゃないけど、何度か会ったわ。今は声を掛けない方が――」

 

「おやおや、誰のことだい?」

 

 明るすぎる声が、頭の上から落ちてきた。

 

 振り返ると、派手な帽子を被ったピーブズが逆さまに浮かんでいた。首元の飾りがくるくる回り、手には何やら黴のついた菓子が握られている。

 

「また会ったね、お行儀のよい皆さん!」

 

「ピーブズ」

 

 ハリーの声に、警戒が混じる。

 

「そんな怖い顔をしなくたっていいじゃないか。ほら、お菓子をあげよう」

 

「いらない」

 

 ロンが即答する。

 

「遠慮しなくていいんだぞ」

 

 ピーブズはにんまり笑い、鬼太郎の方へ菓子を差し出した。

 

「お前なら、何が入ってるか知りたがるんじゃないのか?」

 

「中身より、まず捨てた方がよさそうですね」

 

「つれないねえ!」

 

 ピーブズは大げさに身体をひねった。

 

 その目が、ハーマイオニーの向こうへ向く。

 

「おっと。今、あの泣き虫の話をしていただろう?」

 

「違うわ。別に、悪口なんて――」

 

 ハーマイオニーが慌てて言う。

 

 だがピーブズは、彼女が話し終える前に声を張り上げた。

 

「マートル! こっちへおいでよ! 君の噂をしてる子がいるぞ!」

 

 少女の幽霊が顔を上げた。

 

 ゆっくりとこちらへ近づく。その眼鏡の奥で、目が細くなっていた。

 

「何の噂?」

 

「何でもないの」

 

 ハーマイオニーが答える。

 

「ただ、あなたがここにいるのを見かけたから」

 

「見かけたから、どうしたっていうの?」

 

「久しぶりだと思っただけよ」

 

 ピーブズがハーマイオニーの後ろで、こっそり大げさな顔をした。

 

 マートルは、それを見逃さなかった。

 

「また笑ってるんでしょう」

 

「笑ってないわ」

 

「みんな、そう言うのよ。私がどこにいても、陰で何か言ってる」

 

 彼女の目に、銀色の涙が盛り上がる。

 

 鬼太郎が何か言おうとすると、マートルはこちらを見た。

 

「あなたもそう思ってるんでしょう。こんなところに来るなんて、変だって」

 

「僕は、初めてお会いしますから。そういうことは、まだ何も」

 

 鬼太郎は正直に答えた。

 

 だが、その返事が届くより早く、ピーブズが横から囃したてる。

 

「ほらほら、泣き虫ちゃんのお出ましだ!」

 

「やめなさい!」

 

 ハーマイオニーが声を上げた。

 

 マートルの顔がくしゃりと歪んだ。

 

「もういいわ! どうせ誰も、私がいたって喜ばないんだから!」

 

 彼女は泣き声を上げ、そのまま壁を突き抜けて出ていった。

 

 ピーブズは笑いながら追いかけかけたが、ハリーに睨まれると舌を出し、反対の方向へ飛んでいった。

 

 四人の周りには、しばらく気まずい沈黙が残った。

 

「……悪いことをしたわ」

 

 ハーマイオニーが呟いた。

 

「避けようとしたのが、見えちゃったのね」

 

「ピーブズが余計なことを言ったせいだよ」

 

 ロンが答える。

 

「でも、あの人も本当に泣いていたんだよね」

 

 ハリーが壁を見た。

 

 鬼太郎は、二人の幽霊の姿を思い返した。

 

 同じように壁を抜けていくのに、ずいぶん違う。ピーブズは人の反応を見て喜び、マートルは誰かの言葉に傷ついていた。

 

「あとで、ニックさんに聞いてみてもいいかもしれませんね」

 

「何を?」

 

 ハリーが尋ねた。

 

「マートルさんのことです。お話し相手がいらっしゃるのか、少し気になります」

 

 ハーマイオニーは鬼太郎を見た。

 

「そうね。私も、今度会ったら謝りたいわ」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

     ◆

 

 しばらくすると、ニックが人影の間から現れた。

 

「皆さん、楽しんでいただけているかな」

 

「はい。いろいろなお話を伺えました」

 

 鬼太郎が答える。

 

「それは何よりだ。ああ、鬼太郎君。あちらにいる鎧姿の方は、遠い土地から来た古い知人でね。剣の扱いについてなら、君とも話が合うかもしれない」

 

 ニックは舞踏の輪の向こうを示した。

 

 矢の刺さった騎士が、別の幽霊と身振りを交えて語り合っている。

 

 鬼太郎は興味を引かれた。

 

「ぜひ、ご紹介いただきたいです」

 

「もちろん。ただ、少し待っていてくれたまえ。もうすぐ私の挨拶の時間なのだよ」

 

 ニックは襟を直した。

 

 今夜、何度目かの仕草だった。

 

「皆さんに集まっていただいたお礼を、きちんと述べたい。五百回目だからね」

 

「楽しみにしています」

 

「ありがとう。では、楽団へ合図を――」

 

 ニックが振り返った、その時だった。

 

 金属の鋸が鳴らす音が、ふっと途切れた。

 

 代わりに、地下牢の奥から長い角笛の音が響く。

 

 冷たい空気が揺れた。

 

 幽霊たちが一斉に壁へ目を向ける。誰かが歓声を上げ、踊っていた者まで足を止めた。

 

「おや」

 

 ニックの声が低くなる。

 

 次の瞬間、石壁を突き抜けて、馬が現れた。

 

 一頭ではない。銀白色に透けた馬が次々に駆け込み、その背には鎧や古い服をまとった騎手が乗っている。

 

 誰にも、首がなかった。

 

 先頭の騎手は、自分の頭を片腕に抱えていた。その口に角笛を当て、もう一度盛大に吹き鳴らす。

 

 馬たちが広間の中央で足を止めると、歓声が波のように広がった。

 

「すごい……」

 

 ハリーが呟いた。

 

 ロンは口を開いたまま騎手たちを見上げている。ハーマイオニーも、驚いた様子で目を凝らしていた。

 

 鬼太郎の視線は、腕に抱えられた頭へ向かった。

 

 その頭は、こちらを見るように目を動かし、楽しげに笑っている。身体から離れていても、騎手の動きは少しも鈍らない。

 

 けれど、目の前で見るのは初めてだった。

 

 鬼太郎は隣へ目を移す。

 

 ニックも騎手たちを見ていた。先ほどまで客を迎えていた柔らかな笑顔は消え、襟を押さえる手だけが動いた。

 

 鬼太郎は声を掛けようとして、やめた。

 

 今日はニックの祝いの日だ。

 

 馬上の騎手が頭を高く掲げる。

 

「ニック!」

 

 大きな声が、冷えた地下牢に響き渡った。

 

 五百回目の宴は、ここから一層騒がしくなりそうだった。

 

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