第221話 死者たちの宴
図書館の窓を打つ雨は、三日続いていた。
朝は白く霞んでいた湖も、午後になると黒い水面を波立たせる。冷えた石壁には湿気が残り、生徒たちの靴が廊下へ持ち込んだ泥を、フィルチが何度も拭き取っていた。
鬼太郎は窓際の机に本を三冊重ね、開いた一冊の端へ羊皮紙を寄せた。
授業の課題は、もう鞄の中だ。
今読んでいるのは、幽霊についての古い記録だった。
死者がどうして城へ残るのか。どのような場所に姿を現すのか。生きている者に何を見せ、何を伝えられるのか。
同じ題目でも、本によって書き方が違う。体験談ばかりを集めたものもあれば、幽霊の存在を何とか分類しようとする著者もいた。
ただ、鬼太郎が知りたいことについては、どちらも歯切れが悪かった。
『生前の姿を保つ例が多い』
そう書いてある本を閉じ、別の本を開く。
幽霊が古い傷を持って現れたという記録はある。首の切れた騎士についても、遠い時代の目撃談が載っていた。
首を外せる幽霊と、ニックのように首がわずかにつながっている幽霊。見た目の違いは分かる。では、その違いがどうして死後も残るのか。
そもそも、幽霊は自分の姿を変えられるのだろうか。
鬼太郎は羽根ペンを動かしかけ、先ほど書いた問いと似ていることに気づいて止めた。
「同じところを読んでないか?」
向かいで本を返却用の山へ積んでいたキーノが尋ねた。
「違う本です。答えが似ているだけですよ」
「それ、答えなのか?」
「いいえ。分からないことが増えています」
キーノは肩をすくめ、山から一冊抜いた。
「だったら、ニック本人に聞いた方が早いんじゃないか。三十一日には大勢来るんだろ」
「ええ。そのつもりです。ただ、何を聞けばいいのかは考えておきたくて」
「首のこと、って聞けばいいだろ」
「それも伺います。でも、最初から皆さんの首だけ見て回るわけにはいきませんからね」
「……そりゃそうだな」
キーノは真顔で頷いたあと、小さく笑った。
「幽霊だって、いきなり自分の死に方を聞かれたら嫌かもしれないし」
「ニックさんも、お嫌な方には無理に聞かないようにとおっしゃっていました」
鬼太郎は羊皮紙の上へ短く書き足した。
――身体のことは、本人が話してもよい場合だけ。
その下には、もっと普通の質問が並んでいる。城の外ではどんな場所へ行くのか。生きていた頃と、今の暮らしで変わったことは何か。ほかの幽霊と会う時には、どうやって場所を決めるのか。
「ずいぶん楽しそうね」
隣の棚から、ハーマイオニーが顔を出した。
腕には授業で使う本を二冊抱えている。
「ニックのパーティーの準備?」
「はい。せっかくですから、初めてお会いする方のお話も聞いてみようかと」
「それなら、幽霊についての歴史書も見た方がいいわ。そういう記録は、出来事のあった時代によって呼び方が変わることがあるの」
ハーマイオニーは棚を指した。
鬼太郎が礼を言うと、彼女は机に並んだ本の背表紙を見比べた。
「……でも、姿を変える方法を探しているなら、期待しすぎない方がいいと思うわ。私も授業で調べた時、はっきりした記述は見つからなかったもの」
「そうですね。できると決まったわけではありませんから」
「ニックには、何て言うの?」
「まだ分かりません、と」
鬼太郎は本を閉じた。
「その代わり、知らないことは聞いてきます」
ハーマイオニーは少し考え、それから頷いた。
「それなら、私も聞いてみたいことを考えておくわ」
キーノが彼女へ視線を向けた。
「ハーマイオニーも、そこまで楽しみにしてるのか?」
「五百回目の絶命日よ。そんな催しに招かれる機会、そう何度もないでしょう?」
「私は、ご馳走の方がいいな」
キーノは即答した。
羊皮紙を巻き取る鬼太郎の横で、二人は小さな声で言い合い始めた。ハーマイオニーは珍しい経験の価値を説き、キーノは腐った魚の匂いを思い出しただけで顔をしかめる。
鬼太郎はその間に返却する本を分け、借りる一冊だけを残した。あとの問いは、宴で会う相手に聞いてみよう。
◆
十月三十一日が近づくと、城の中まで秋の匂いが濃くなった。
温室から戻る生徒は湿った土をまとい、医務室から出てくる生徒の耳からは、時折、細い湯気が立っている。ポンフリー先生の風邪薬がよく効くらしい。
ある日の昼食では、ジニーが赤い髪の間から白い蒸気を上げていた。
「だから言っただろう。早めに飲んでおけばよかったんだ」
パーシーが得意げに言う。
「もう分かったってば」
ジニーは不機嫌そうにパンをちぎった。ロンが口元を押さえ、笑いをこらえている。
その様子を見ていたキーノが、鬼太郎の方へ身を寄せた。
「あれ、寝る時も湯気が出るのかな」
「薬が効いている間は、そうかもしれませんね」
「枕が湿りそうだ」
鬼太郎は答えに迷った。そこまでは、まだ調べていなかった。
グリフィンドールの談話室でも、ハロウィーンの話が絶えない。
上級生は大広間のご馳走について去年の記憶を競い合い、一年生は、初めて見る巨大なカボチャの飾りを想像していた。
その騒ぎの真ん中で、フレッドとジョージが何かを囲んでいた。
「ねえ、もう少し離した方がよくない?」
誰かがそう言った時には、遅かった。
卓の上にいた小さな火トカゲが、口から橙色の火花を吐いた。次の瞬間、火花は細い線になって天井へ昇り、ぱん、と弾ける。
「おお、成功だ!」
「いや、今のはまだ前座だろう」
双子が顔を見合わせた。
再び火トカゲが火花を吐く。今度は光が三つに分かれ、談話室の梁の下をぐるりと回った。
歓声が上がる。椅子を引いて逃げる生徒もいた。
「フレッド! ジョージ!」
パーシーの声が飛ぶ。
「生き物を使って何をしているんだ! 今すぐやめなさい!」
「落ち着けよ、パーシー」
「ちゃんと火を吐くトカゲだ。少しくらい平気さ」
「少しくらいの問題じゃない!」
パーシーが卓へ近づく前に、火トカゲは勢いよく跳ね上がった。
小さな身体の後ろから、橙色の星が散る。火トカゲは驚いたように身をひねり、暖炉の方へ飛び込んだ。
「あっ、逃げた」
「もともと火が好きだからな」
双子の言葉に、パーシーは何かを言い返そうとした。だが、暖炉の中からまた一つ、間の抜けた音とともに火花が噴き、周囲が笑い声に包まれる。
キーノは半ば呆れた顔で笑った。
「何でも遊びにするんだな、あの二人」
「火トカゲの方は、びっくりしたでしょうね」
鬼太郎は暖炉を見た。
火の奥で小さな影が動いている。少なくとも、元気に這い回っているようだった。
「お前、捕まえに行くなよ」
「行きませんよ」
「さっき、ちょっと興味ありそうだったから」
「火花の出方は、少し気になりました」
「ほらな」
キーノは笑い、課題の頁をめくった。
◆
ハロウィーン当日の朝、大広間にはいつもと違う匂いが漂っていた。
焼いた菓子の甘い香りに混じって、切り開いたカボチャの青い匂いがする。
ハグリッドが育てた巨大なカボチャには顔が彫られ、中から灯りが漏れていた。その一つなど、鬼太郎がしゃがめば中へ入れそうな大きさだ。
朝食を終えた生徒たちが、その前で足を止めては見上げる。
コリン・クリービーはカメラを構え、天井から垂れた飾りとカボチャを一緒に写そうとしていた。
「ねえ、ハリー! こっちに立ってくれたら――」
「今日はカボチャだけ撮ってくれないかな」
ハリーは苦笑しながら、ロンの後ろへ回った。
「そう? じゃあ、あとでまた聞くね!」
コリンは落ち込むでもなく、すぐ次の飾りへ向き直る。
「元気な子だな」
ロンが言った。
「朝からずっと、あの調子だよ」
ハリーは肩を落とす。
鬼太郎がカボチャの方を見ると、コリンは写真の中へ入り込もうとした蝙蝠を追って、少しずつ後ろへ下がっていた。壁にぶつかる前に気づき、慌てて足を止める。
「写真の方も、随分増えたようですね」
「うん。今度、家に送るんだって」
ハリーはそう答え、それから大広間の奥へ視線を移した。
夕方になれば、そこに長い食卓が並ぶ。毎年のハロウィーンのご馳走は、ハリーも楽しみにしていた。
「……今夜、あそこにいられないんだよね」
「約束したんでしょう?」
ハーマイオニーが言った。
「分かってるよ」
「僕だって分かってるさ。ただ、あのカボチャは食べられるんじゃないかなって思っただけだ」
ロンが答える。
「飾りの方は、食べない方がいいと思いますよ」
鬼太郎が言うと、ロンは眉をひそめた。
「それくらい分かるよ! 僕が言ってるのは、あれと同じくらい大きいパイが出るかもしれないってことだ」
「それは、食べ甲斐がありそうですね」
「そうだろ? だから惜しいんだよ」
ハーマイオニーは二人を見比べて、呆れたように笑った。
「どうしてパーティーの前から食べ物の話になるのかしら」
「幽霊の方には、料理の話も大切なようですけれどね」
鬼太郎が答えると、ロンは顔をしかめた。
「僕には、腐った魚の方は大切じゃないよ」
◆
夕方、鬼太郎は談話室へ戻り、机に置いておいた羊皮紙を確かめた。
それを鞄の内ポケットへしまうと、キーノが靴紐を結びながら声を掛けてきた。
「行くのか」
「ええ。七時からだそうです」
「私は先に大広間へ行く。料理がなくなる前にな」
「それがいいですね。ロンさんも、かなり惜しがっていました」
「だろうな」
キーノは立ち上がった。
「そうだ。もし面白い話が聞けたら、あとで教えてくれ」
「首のお話ですか」
「それ以外もだ。五百年も前の人間が、今の学校をどう思ってるとかさ」
「ぜひ聞いてみます」
「だからって、帰りが遅くなりすぎるなよ」
「分かっています」
キーノは少し疑わしそうに鬼太郎を見たが、追及はせずに先へ歩き出した。
大広間の前で二人は別れた。
扉が開くたび、温かな空気と楽しげな声が流れ出す。中には何百もの蝋燭が灯り、長い卓には料理が並び始めていた。
キーノはそちらへ手を振り、グリフィンドールの席へ向かっていく。
反対側から、ハリーたち三人が来た。
「本当に、こっちでいいんだよね?」
ロンが地下へ続く階段を見下ろす。
「もう何度も確認したでしょう」
ハーマイオニーが答えた。
「いや、聞いてるんじゃなくて、残念だって言ってるんだよ」
「気になるなら、少しだけ食べてから行けばよかったのに」
「それじゃ遅れるだろ」
言いながら、ロンは歩き始める。
鬼太郎は少しおかしくなった。ご馳走に未練を残していても、ニックとの約束を破るつもりはないらしい。
四人で階段を下りる。
大広間の騒がしさが遠のくにつれ、足音が石壁へはっきり返るようになった。
曲がり角を一つ過ぎたところで、空気が変わった。
長く細い黒い蝋燭が、壁沿いに並んでいた。芯には青い火が灯っている。風もないのに炎の先が揺れ、廊下を歩く四人の顔を青白く照らした。
「これ、明るくするために置いてあるのかな」
ロンが呟く。
「道案内でしょうね」
鬼太郎は答えた。
「それにしたって、暗く見えるよ」
ハリーはローブの前を合わせた。
階段を下りているだけなのに、息が白くなっていく。
奥から、金属を細く擦り合わせるような音がした。音階らしいものはあるが、耳に残るのは震えた響きばかりだ。
「……あれ、音楽?」
「たぶん」
ハリーが答えた。
「曲を知ってる?」
「全然」
角を曲がると、黒い布の垂れた入口が見えた。
その前に立っていたのは、襟元をきちんと整えたニックだった。
「ようこそ。皆さん、お越しくださって本当に嬉しい」
彼は帽子を取り、丁寧に頭を下げた。
「五百回目の絶命日、おめでとうございます」
鬼太郎が言う。
ニックは少し目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「ありがとう、鬼太郎君。生きた方からそう言っていただくのは、何とも不思議なものだね」
「誕生日とは違うから、何て言えばいいか迷ったんだ」
ハリーが言った。
「来ていただけただけで十分だよ。さあ、どうぞ」
ニックは黒い幕を片手で示し、四人を中へ招いた。
◆
室内は、思っていたよりもずっと広かった。
高い天井から吊られた燭台には、青い光が幾重にも並んでいる。黒い布で覆われた台の上では、細長い金属の鋸を手にした演奏者たちが身体を揺らしていた。
冷たい音楽に合わせ、半透明の人影がゆっくり舞う。
騎士の鎧を着た者。昔風の長い裾の服を着た女性。くたびれた帽子を被った老人。姿は様々だが、どの人影も向こう側が透けていた。
鬼太郎が足を止めると、そのすぐ前を二人の幽霊が横切った。
片方の袖が、鬼太郎の腕をすり抜ける。
一瞬、井戸の底へ手を入れたような冷たさが走った。
「失礼」
幽霊の一人が気づき、礼をした。
「こちらこそ」
鬼太郎が答えると、相手は少し驚いたように笑い、また舞踏の輪へ戻っていった。
ロンが腕をさすった。
「できれば、もう通り抜けられたくないな」
「端を歩きましょう」
ハーマイオニーが言った。
四人は踊る人影を避けて進んだ。
窓のない地下牢に、知らない時代の服が集まっている。足元を確かめて歩く鬼太郎の横を、鎖の音を立てる痩せた幽霊が通った。
さらに奥には、銀色の血の染みをまとった血みどろ男爵もいる。周りの幽霊たちは、彼の近くを避けて歩いていた。
その少し向こうには、太った修道士がいた。誰かの話に笑い、丸い腹を揺らしている。
「おや、グリフィンドールの子たちじゃないか」
修道士がこちらに気づいた。
「ニコラスのお祝いへようこそ。暖かい飲み物でも出せたらいいんだけれどね」
「ありがとうございます」
ハーマイオニーが笑顔で答えた。
「たくさんいらっしゃるんですね」
「今夜は遠くから来た友人もいるからね。昔の顔に会うのはいいものさ。もっとも、相手も私も、昔とほとんど変わらない顔だけれど」
修道士は楽しそうに笑った。
鬼太郎はその言葉を聞き、少し身を乗り出した。
「亡くなってから、ずっとそのお姿なのですか」
「私かい? まあ、そうだね。昔からこの格好さ」
「服も含めて?」
「そうとも。お気に入りの服を何着も持っていたわけじゃないから、私は困らないけれどね」
修道士は自分の袖を広げた。
透けた布の輪郭は、指先で触れられそうなほどはっきりしている。しかし、袖が台の端を通ると、何の抵抗もなく向こうへ抜けた。
「変わらないことは、不便ではありませんか」
「時にはね。でも、そればかり考えて過ごすには、五百年も六百年も長すぎる」
修道士は軽く肩を上げた。
「こうして昔の友人と話せるだけでも、私は悪くないと思っているよ」
鬼太郎は礼を言った。
修道士が別の友人へ手を振り、ゆっくり離れていく。
「もう質問してる」
ロンが笑った。
「話してもよさそうでしたので」
「聞かれた方も楽しそうだったわ」
ハーマイオニーはそう言い、鬼太郎の鞄へ目を向けた。
「今のこと、書かないの?」
「あとで忘れそうなところだけ、書きます」
「その場で全部書くつもりかと思った」
キーノにも似たことを言われそうだ、と鬼太郎は思った。
◆
会場を進むと、壁際の銀色の皿が目に入った。
遠目には立派な料理が並んでいるように見える。しかし近づくにつれ、鼻を突く匂いが強くなった。
魚の表面は崩れ、皿の上には色の変わった肉が載っている。黒く焦げた菓子の隣には、青緑の黴に覆われた塊が置かれていた。
「……うわ」
ロンが立ち止まる。
「やっぱり、食べられるものはないんだな」
「食べるためではないのよ、きっと」
ハーマイオニーが鼻を押さえた。
鬼太郎は、ニックが以前話していたことを思い出す。
強い匂いなら、幽霊もわずかに感じ取れることがある。
ちょうどその時、丸い頬の幽霊が皿の上へ身をかがめた。鼻先を腐った魚へ近づけ、そのまま魚の中へ顔を通す。
幽霊は目を閉じ、すぐに顔を上げた。
「よい香りですか」
鬼太郎が尋ねる。
「香り、と言い切れるほどではないね」
相手は少し寂しそうに答えた。
「でも、何かがあったという感じはするんだよ。薄い思い出みたいなものさ」
「新しい料理では、難しいのでしょうか」
「さあ。少なくとも私には、こっちの方が分かりやすいね」
幽霊はもう一度皿へ顔を近づけ、満足そうに頷いて離れていった。
鬼太郎はその背を見送った。
隣でロンが口を押さえていた。
「お願いだから、もうあっちへ行こう。見てるだけで気持ち悪い」
「そうですね。お話、ありがとうございました」
「魚に言ってもしょうがないよ」
ハリーが小声で笑った。
「今の幽霊の方にですよ」
「ああ、そっか」
ハリーはもう一度笑い、ロンと一緒に皿から離れた。
鬼太郎も続く。
生きている者には耐え難い匂いが、幽霊にはかすかな記憶になる。鬼太郎は先ほどの返事だけを、頭の隅へ残した。
◆
「ちょっと待って。あそこには行かない方がいいわ」
ハーマイオニーが急に足を止めた。
視線の先に、眼鏡を掛けた少女の幽霊がいた。
周りの人影とは少し離れ、俯きながら漂っている。髪は顔の半分へかかり、口元は不機嫌そうに引き結ばれていた。
「あの方は?」
鬼太郎が尋ねる。
「嘆きのマートルよ。女子トイレにいる幽霊なの。機嫌が悪いと、ずっと泣いているのよ」
「知り合い?」
ハリーが聞くと、ハーマイオニーは困った顔をした。
「知り合いというほどじゃないけど、何度か会ったわ。今は声を掛けない方が――」
「おやおや、誰のことだい?」
明るすぎる声が、頭の上から落ちてきた。
振り返ると、派手な帽子を被ったピーブズが逆さまに浮かんでいた。首元の飾りがくるくる回り、手には何やら黴のついた菓子が握られている。
「また会ったね、お行儀のよい皆さん!」
「ピーブズ」
ハリーの声に、警戒が混じる。
「そんな怖い顔をしなくたっていいじゃないか。ほら、お菓子をあげよう」
「いらない」
ロンが即答する。
「遠慮しなくていいんだぞ」
ピーブズはにんまり笑い、鬼太郎の方へ菓子を差し出した。
「お前なら、何が入ってるか知りたがるんじゃないのか?」
「中身より、まず捨てた方がよさそうですね」
「つれないねえ!」
ピーブズは大げさに身体をひねった。
その目が、ハーマイオニーの向こうへ向く。
「おっと。今、あの泣き虫の話をしていただろう?」
「違うわ。別に、悪口なんて――」
ハーマイオニーが慌てて言う。
だがピーブズは、彼女が話し終える前に声を張り上げた。
「マートル! こっちへおいでよ! 君の噂をしてる子がいるぞ!」
少女の幽霊が顔を上げた。
ゆっくりとこちらへ近づく。その眼鏡の奥で、目が細くなっていた。
「何の噂?」
「何でもないの」
ハーマイオニーが答える。
「ただ、あなたがここにいるのを見かけたから」
「見かけたから、どうしたっていうの?」
「久しぶりだと思っただけよ」
ピーブズがハーマイオニーの後ろで、こっそり大げさな顔をした。
マートルは、それを見逃さなかった。
「また笑ってるんでしょう」
「笑ってないわ」
「みんな、そう言うのよ。私がどこにいても、陰で何か言ってる」
彼女の目に、銀色の涙が盛り上がる。
鬼太郎が何か言おうとすると、マートルはこちらを見た。
「あなたもそう思ってるんでしょう。こんなところに来るなんて、変だって」
「僕は、初めてお会いしますから。そういうことは、まだ何も」
鬼太郎は正直に答えた。
だが、その返事が届くより早く、ピーブズが横から囃したてる。
「ほらほら、泣き虫ちゃんのお出ましだ!」
「やめなさい!」
ハーマイオニーが声を上げた。
マートルの顔がくしゃりと歪んだ。
「もういいわ! どうせ誰も、私がいたって喜ばないんだから!」
彼女は泣き声を上げ、そのまま壁を突き抜けて出ていった。
ピーブズは笑いながら追いかけかけたが、ハリーに睨まれると舌を出し、反対の方向へ飛んでいった。
四人の周りには、しばらく気まずい沈黙が残った。
「……悪いことをしたわ」
ハーマイオニーが呟いた。
「避けようとしたのが、見えちゃったのね」
「ピーブズが余計なことを言ったせいだよ」
ロンが答える。
「でも、あの人も本当に泣いていたんだよね」
ハリーが壁を見た。
鬼太郎は、二人の幽霊の姿を思い返した。
同じように壁を抜けていくのに、ずいぶん違う。ピーブズは人の反応を見て喜び、マートルは誰かの言葉に傷ついていた。
「あとで、ニックさんに聞いてみてもいいかもしれませんね」
「何を?」
ハリーが尋ねた。
「マートルさんのことです。お話し相手がいらっしゃるのか、少し気になります」
ハーマイオニーは鬼太郎を見た。
「そうね。私も、今度会ったら謝りたいわ」
鬼太郎は頷いた。
◆
しばらくすると、ニックが人影の間から現れた。
「皆さん、楽しんでいただけているかな」
「はい。いろいろなお話を伺えました」
鬼太郎が答える。
「それは何よりだ。ああ、鬼太郎君。あちらにいる鎧姿の方は、遠い土地から来た古い知人でね。剣の扱いについてなら、君とも話が合うかもしれない」
ニックは舞踏の輪の向こうを示した。
矢の刺さった騎士が、別の幽霊と身振りを交えて語り合っている。
鬼太郎は興味を引かれた。
「ぜひ、ご紹介いただきたいです」
「もちろん。ただ、少し待っていてくれたまえ。もうすぐ私の挨拶の時間なのだよ」
ニックは襟を直した。
今夜、何度目かの仕草だった。
「皆さんに集まっていただいたお礼を、きちんと述べたい。五百回目だからね」
「楽しみにしています」
「ありがとう。では、楽団へ合図を――」
ニックが振り返った、その時だった。
金属の鋸が鳴らす音が、ふっと途切れた。
代わりに、地下牢の奥から長い角笛の音が響く。
冷たい空気が揺れた。
幽霊たちが一斉に壁へ目を向ける。誰かが歓声を上げ、踊っていた者まで足を止めた。
「おや」
ニックの声が低くなる。
次の瞬間、石壁を突き抜けて、馬が現れた。
一頭ではない。銀白色に透けた馬が次々に駆け込み、その背には鎧や古い服をまとった騎手が乗っている。
誰にも、首がなかった。
先頭の騎手は、自分の頭を片腕に抱えていた。その口に角笛を当て、もう一度盛大に吹き鳴らす。
馬たちが広間の中央で足を止めると、歓声が波のように広がった。
「すごい……」
ハリーが呟いた。
ロンは口を開いたまま騎手たちを見上げている。ハーマイオニーも、驚いた様子で目を凝らしていた。
鬼太郎の視線は、腕に抱えられた頭へ向かった。
その頭は、こちらを見るように目を動かし、楽しげに笑っている。身体から離れていても、騎手の動きは少しも鈍らない。
けれど、目の前で見るのは初めてだった。
鬼太郎は隣へ目を移す。
ニックも騎手たちを見ていた。先ほどまで客を迎えていた柔らかな笑顔は消え、襟を押さえる手だけが動いた。
鬼太郎は声を掛けようとして、やめた。
今日はニックの祝いの日だ。
馬上の騎手が頭を高く掲げる。
「ニック!」
大きな声が、冷えた地下牢に響き渡った。
五百回目の宴は、ここから一層騒がしくなりそうだった。