第222話 笑い声の先
「ニック!」
先頭の騎手が頭を高く掲げると、広間にもう一度歓声が上がった。
銀白色の馬は床に蹄を打ちつけるような仕草をしたが、石には何の跡も残らない。後ろの騎手たちが一斉に帽子を振り、ひとりが自分の頭を軽く放り上げた。頭は宙で一回転して、元の持ち主の腕へ戻った。
ロンが身を引く。
「今の、落としたらどうなるんだ?」
「落としたところを見てみたい気もするけど、持ち主に怒られそうだね」
ハリーが答えた。すぐ隣では、ハーマイオニーが驚くより先に騎手たちの服装を観察している。
鬼太郎は先頭の騎手から目を離さなかった。
頭を離したまま、身体は馬を降りるために重心を移している。少なくとも、首がなくなった途端に身体の動きが止まるわけではないらしい。
「やあ、ニック! 五百年とは立派なものだ。よくぞここまで長く死んでいた!」
騎手は馬から飛び降りると、抱えた頭を自分の肩へ押し当てた。そのまま大きな笑い声を上げ、ニックの肩を叩く。
「お招きいただき、光栄だよ。サー・パトリック」
ニックは礼儀正しく返した。
ただ、声には先ほどまで客人を迎えていた時の温かさがなかった。
「相変わらずだな。どうだね、首の方は。まだ身体にしがみついているのかい?」
パトリックは自分の首を持ち上げてみせた。ニックの視線が一度だけ横へ逃げる。
「見てのとおりだとも」
「いや、残念! あとほんの少しなのにな!」
周りの騎士たちが笑った。ニックは笑顔を作ろうとしたが、口元が引きつっただけだった。
鬼太郎の目は、ニックの襟元へ向いた。
「おっと!」
パトリックが声を張り上げた。
「生きたお客さんがいるじゃないか!」
彼はハリーたちへ勢いよく振り返る。その拍子に頭が肩から滑り落ちた。
頭は床をすり抜けることなく、床の高さにふわりと留まり、こちらを見上げる。
「これは失礼! 驚かせてしまったかな?」
騎士たちが声を上げて笑う。ハリーは思わず一歩退き、ロンはもう一歩下がった。
「いや……その、少し」
「大成功だ!」
パトリックの身体が両腕を広げた。
鬼太郎は頭と身体を交互に見た。床の近くにいる頭は楽しそうに瞬きし、身体は頭を拾い上げるために腰を折っている。
「失礼します。サー・パトリック」
声を掛けると、床の頭がくるりと鬼太郎を向いた。
「おや、君は驚かないのかい?」
「驚いていますよ。初めて拝見しましたから」
「その顔で? 大した胆力だ!」
「お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
パトリックの身体が頭を拾い、腕に抱え直した。
「もちろんとも。ただし、今夜の主役は私ではないぞ。いや、ひょっとするとそうかもしれないが!」
また笑いが起きた。
「首なし狩りに参加される方は、皆さん、首を取り外せるんですか」
「そうでなくては困る! 首を使う遊びがいくつもあるからな。外れない頭を投げようとしても、身体がついてきてしまうだろう?」
パトリックは自分の頭を片手で持ち、軽く投げる真似をした。
「つまり、競技のための決まりなのですね」
「当然のことさ。頭が外れない者を、どうやって頭投げの仲間に入れるんだい?」
鬼太郎は頷いた。
競技に決まりがある理由は分かった。けれど、祝いの席でまでその決まりを持ち出されたニックが、納得できるかは別だ。
「では、頭を離した時も、今と同じように見たり聞いたりできるんですか」
「ご覧のとおりさ!」
パトリックは頭を高く掲げ、片目をつぶってみせた。
それから一瞬、考えるように眉を上げる。
「おや。君は頭を投げる競技に興味があるのかい?」
「競技そのものより、幽霊の身体についてです。図書館の本では分からないことが多くて」
「はっはっは! 図書館の本で我々の楽しさが分かるものか!」
後ろから騎士の一人が彼を呼んだ。
「パトリック! そろそろ始めようじゃないか!」
「おお、そうだとも!」
パトリックは鬼太郎へ向き直った。
「続きはまたの機会に、若い研究家君。今夜は賑やかにやろう!」
「ありがとうございました」
鬼太郎は一礼した。
パトリックは頭を抱えたまま仲間へ歩いていった。途中でニックの方へ手を振ったが、ニックは小さく頷くだけだった。
◆
「聞きたいことは聞けたの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「少しは。やはり、あの方たちの首は外れるのが普通のようですね」
「見れば分かるだろ」
ロンが言った。
「ええ。だから、どうして外れるのかも聞いてみたかったんですが」
「その質問に答えてくれそうな人には見えなかったな」
ハリーは、まだ騎士たちを目で追っていた。
パトリックが仲間に向かって頭を掲げると、向こうからもいくつもの頭が持ち上がる。馬の鼻先を通り抜けて飛んだ頭が、持ち主の手に受け止められた。幽霊たちは大喜びしている。
「ニックは、あれをやりたいのかな」
ハリーがぽつりと呟いた。
「遊びだけじゃないんでしょう」
鬼太郎はニックを見た。
「仲間に入りたいのだと思います。あの方たちとは、ずいぶん長い付き合いのようですから」
「それなら少しくらい、入れてやったっていいじゃないか」
ロンが眉を寄せた。
「いや、頭を投げるのは無理かもしれないけどさ。見るだけでも、何か別の役があるだろ」
「あとでニックさんに伺ってみましょう。今は、ご挨拶があるそうですから」
ちょうどニックが舞台の方へ進むところだった。
彼は羽根つき帽子を脱ぎ、客人たちへ丁寧に頭を下げる。長い年月を過ごしてきた幽霊らしい、堂々とした身のこなしだった。
「皆様、お集まりいただき、ありがとうございます!」
ニックの声は、鋸の不協和音よりもよく響いた。
彼が楽団へ合図を送ると、奏者たちは演奏を止め、黒い布を掛けた舞台の脇へ引いた。踊っていた幽霊たちも、少しずつ舞台へ視線を向け始める。
「五百年という歳月を、皆様とともに振り返れますことを――」
ニックが言いかけた時、広間の反対側で大きな歓声が上がった。
振り向くと、パトリックが自分の頭を弧を描くように投げていた。
頭を受け取った騎士が、今度は別の騎士へ渡す。受け損ねた頭が観客の肩をすり抜け、持ち主の身体が慌てて後を追った。
笑いが広がる。
ニックは少し声を張り上げた。
「皆様、今夜は私の――」
「もう一度! もう一度!」
誰かが叫び、歓声が重なった。
パトリックが観客の方へ頭を掲げる。騎士たちは馬を使って輪を作り、頭を投げ合う競技を始めてしまった。
「……なんてこと」
ハーマイオニーが小さく漏らした。
舞台の上で、ニックはもう一度姿勢を正した。
「ご注目いただければ、幸いなのですが!」
だが、返事の代わりに聞こえるのは笑い声ばかりだった。
ハリーがニックの顔を見つめる。
「何か言った方がいいんじゃないかな」
「何て?」
ロンが尋ねた。
「演説の最中だって、みんなに……」
「聞こえてないから、こうなってるんだろ」
鬼太郎は二人のやり取りを聞きながら、舞台のニックを見た。
ニックは無理に騎士たちへ割り込もうとはしなかった。客人たちへ背を向けることなく、しばらく言葉を続けようとしていたが、最後には帽子を胸へ戻した。
それを見て、鬼太郎は一歩を踏み出しかけた。
何か言うべきだろうか。せめて演説を聞いている者がいると、声を掛けることはできる。
しかし、大勢の笑い声の中で、自分が騒ぎを起こせば、今度はそれがニックの祝いの場を余計に荒らしてしまうかもしれない。
鬼太郎は歩みを止めた。
「……あとで、ちゃんとお話を聞きたいですね」
「うん」
ハリーが答えた。
ニックが一瞬こちらへ顔を向けた。鬼太郎と目が合うと、彼はほんの少しだけ笑った。それから、騎士たちの競技へ視線を戻す。
楽団がまた鋸を鳴らし始めた。
舞踏の輪が戻る。
五百回目の絶命日の宴は、最初と変わらず賑やかなままだった。
◆
気がつくと、足の指先がすっかり冷えていた。
ハリーは靴の中で指を動かし、息を吐いた。吐いた息は白くなり、青白い蝋燭の光を横切って消える。
「もう駄目だ。僕、指先の感覚がないよ」
隣でロンが腕をこすった。
「僕は腹の感覚がなくなりそうだ。大広間じゃ、今頃温かいものを食べてるんだろうな」
「さっきからそればかりね」
ハーマイオニーが呆れた声を出す。
「だって、あの魚の匂いを嗅いだ後だぞ? まともな料理のことを考えずにいられるかよ」
鬼太郎は辺りを見た。
首なし狩りの騎士たちはまだ競技に夢中だった。音楽も戻り、幽霊の輪は広間の端まで広がっている。先ほど話を聞かせてくれた古い騎士は、もう別の人と談笑していた。
今夜は十分、いろいろな話を聞けた。気になることは増えたが、それで損をした気はしない。
「そろそろ戻りましょうか」
鬼太郎が言うと、ロンは勢いよく頷いた。
「ようやく言ってくれた!」
「まだお話ししたい方はいらっしゃいますけど、皆さんの邪魔をしてまで引き止めることでもありませんし」
「次は、食べ物のある場所でやってほしいね」
ハリーが言い、ハーマイオニーが少し笑った。
四人は舞踏の輪を避け、入口の方へ歩き始めた。生きた足が床を踏む音が、幽霊の奏でる音楽の下で小さく響く。
壁際まで来たところで、ニックがふわりと現れた。
「お帰りかね?」
「ええ。今日は招いてくださって、ありがとうございました」
鬼太郎が答える。
「まだ演説も、ちゃんと終わっていないのに……いや、すまない。今夜は少々、騒がしくなってしまったようだね」
ニックは自分の襟に触れかけ、途中で手を下ろした。
「騒がしいのは、もともとお祝いだからじゃないですか」
ハリーが言った。
「でも、演説は、ちゃんと聞きたかったよ」
「そう言ってくれるだけで十分だよ、ハリー」
ニックは少しだけ顔を明るくした。
「僕も、続きを伺いたかったです」
鬼太郎は言った。
「それに、ほかの方にも面白いお話を聞けました。今日は来てよかったですよ」
「それは嬉しいね。私も皆に君を紹介したかったのだが、どうにも今夜は目が足りなくて」
ニックの声は、さっきより普段に近かった。
「よろしければ、また別の日にお話を伺わせてください。首のことも、ほかのことも」
「もちろんとも。ああ、ただし……今夜のあの連中については、少し頭を冷やしてからにしてもらえると助かるね」
「ええ」
鬼太郎は頷いた。
冗談だったのだろう。ニックの口元が少し緩んだ。
ハーマイオニーは、舞踏の輪の向こうを一度振り返った。
「マートルにも、また会ったら謝らなくちゃ」
「彼女なら、城の中で会えるだろう」
ニックが答えた。
「今夜のあれは、気の毒だったね。ピーブズには、どうも他人の気持ちを考えるところがなくて」
「それは、よく分かったわ」
ハーマイオニーはため息をついた。
ニックが帽子を取る。
「では、皆さん。どうか温かくしてお休みを。今宵は来ていただき、本当にありがとう」
四人も挨拶を返した。
鬼太郎は、ニックが再び客人の間へ戻るのを見届けた。
騎士たちが頭を離せた理由は、まだ分からない。それより今は、演説を最後まで聞けなかったことの方が気になった。
ニックに次に会った時は、まずあの挨拶の続きを聞こう。鬼太郎はそう決め、黒い幕へ歩き出した。
◆
入口の黒い幕を抜けると、冷たく湿った廊下が続いていた。
背後の音楽は、扉から離れるにつれて小さくなる。青い炎を上げる細い蝋燭が、壁際に等間隔で並んでいた。
四人の足音だけが、石の廊下を伝わっていく。
「幽霊って、どうやってあんなに大勢集まるんだろう」
ハリーが尋ねた。
「招待状を出すんじゃないかしら。ニックも、あちこちの知人に声を掛けたって言っていたわ」
ハーマイオニーが答える。
「いや、そうじゃなくて。馬に乗ったまま壁から入ってきたけど、どこから来るんだろうって」
「城の壁を抜けられるくらいですから、道は僕らほど限られないでしょうね」
鬼太郎が言った。
「でも、遠い場所から来るのには時間が掛かるのかもしれません。そこは聞きそびれました」
「まだ聞きたいことがあるのか」
ロンが呆れた。
「ええ。ロンさんはありませんか?」
「あるよ。あの料理をどうやって運ぶのかとか……いや、もうあの料理の話はしたくない」
ハリーが笑った。
鬼太郎も笑いかけた、その時だった。
ハリーの足が止まった。
後ろから来たロンが危うくぶつかりそうになり、慌てて立ち止まる。
「どうした?」
返事がない。
ハリーは廊下の先を見ていた。笑顔が消え、耳を澄ますように顔をわずかに傾けている。
「ハリーさん?」
鬼太郎も足を止めた。
「……まただ」
ハリーが囁いた。
「何が?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「声だよ。あの声が、また聞こえる」
廊下が、急に静かになったように感じられた。
鬼太郎は反射的に周囲を見渡した。灯りの途切れた先にも、曲がり角の奥にも、人影はない。背後からはまだ、鋸の音がかすかに聞こえている。
「今、ですか」
「うん……ああ、また」
ハリーの眉間に皺が寄る。
「引き裂くとか、殺すとか……そう言ってる」
ロンの喉が鳴った。
「待てよ。あの、ロックハートの部屋で聞いたっていう?」
「同じ声だ。間違いない」
鬼太郎は、自分の耳へ意識を集中させた。
蝋燭の炎が小さく揺れている。遠くの水音もある。けれど、ハリーの言う声は聞こえなかった。
「僕には聞こえません」
「私もよ」
ハーマイオニーも首を横に振る。
ハリーは唇を噛み、今度は頭上を見た。
「上だ。さっきは向こうからだったのに、今は上の方へ……動いてる」
「場所は分かりますか」
「はっきりは。でも、あそこじゃない」
ハリーは、自分たちが出てきた地下牢の方を振り返った。
「もっと上だ。誰かが、どこかにいるんだ」
鬼太郎は一度、杖のある袖口へ手を伸ばした。
聞こえない声を相手に、呪文を使うわけにはいかない。ただ、誰かが本当に危ないのなら、身を守る備えは要る。
「前にお話ししたこと、覚えていますね」
「一人で追いかけない。近くにいる人に言う」
ハリーはすぐに答えた。
「だから言ったんだ。でも……」
彼は言葉を切り、また耳を澄ませた。
青い蝋燭の炎が、風もないのに細く揺れた。
「……今、殺すって言った」
鬼太郎の胸の奥が冷えた。
聞き間違いだと決めつけるには、ハリーの顔が真剣すぎた。先日の報告では、声は一度きりだった。今回は、目の前で聞こえている。
「先生に知らせましょう」
鬼太郎が言った。
「大広間なら、まだ皆さんがいらっしゃるはずです」
四人は足を速めた。
地下牢から続く階段を上がる。そこから玄関ホールへ出れば、大広間は近い。
しかし、階段の途中でハリーがまた立ち止まった。
「待って。声が……上へ行った!」
「ハリー!」
ロンが呼んだ。
ハリーは既に駆け出していた。
鬼太郎は一瞬、大広間の方角を見た。先生たちがいるのは、あちらだ。このまま進めば呼びに行ける。
けれど、ハリーは止まらない。誰かが襲われると思い込んだ彼を、このまま一人にするわけにもいかなかった。
「離れないでください!」
鬼太郎が声を掛け、ハリーの後を追う。
「言った本人が走ってるじゃない!」
ハーマイオニーが叫んだ。
「そういう時こそ、一緒にいるしかないでしょう!」
ロンも走り出す。
鬼太郎はハリーへ追いつき、横へ並んだ。
「上にいると分かるんですね?」
「うん。天井の向こうから……いや、もっと先だ」
「では、曲がる時は教えてください。何か見つけたら、すぐ先生を呼びます」
ハリーは短く頷いた。
階段を上り、玄関ホールの横へ出る。
大広間の扉の向こうから、食器の触れ合う音と生徒たちの話し声が流れてきた。宴はまだ終わっていないらしい。
ハリーは一度だけ扉の方を見た。
「声は、あっちじゃない。もっと上だ!」
そして大理石の階段へ走る。
鬼太郎は追いながら、声を張った。
「ハリーさん、速すぎます。足元を見て!」
ハリーが速度を落とす。ロンが追いつき、ハーマイオニーもその後ろから階段を駆け上がった。
鬼太郎は耳を澄ましたが、やはり声は聞こえなかった。
見えるのは、遠くまで続く廊下と、石の柱に落ちる松明の影だけだ。
物音を聞きつけて、階段脇の肖像画の人物がこちらを見た。
「何事だね、こんな時間に走って!」
「すみません。大広間の先生に、誰かが襲われるかもしれないと伝えていただけませんか。僕らは上の階へ向かいます」
鬼太郎が足を緩めずに頼むと、絵の中の老人はぎょっとして椅子から立ち上がった。
「襲われる? 誰が?」
「まだ分かりません。急いでください!」
老人は何か言いかけたが、隣の額縁の方へ駆け去った。伝言が届くかどうかは分からない。それでも、誰にも知らせず進むよりはよい。
鬼太郎はそのままハリーとともに上の階へ向かった。
誰かに助けを求める叫び声は、まだない。
それが少しだけ救いに思えた。
◆
次の階へ上がったところで、ハリーが急に歩みを緩めた。
「……消えた」
ロンが荒い息を吐く。
「何が?」
「声だよ。聞こえなくなった」
ハリーは顔を上げ、天井を見つめた。
鬼太郎はハリーの隣へ立ち、廊下の両側を確かめた。誰もいない。開いた扉もない。少し先で、松明だけが火を揺らしている。
「最後は、どちらから聞こえましたか」
「この辺り……たぶん、奥だ」
「先生を呼ばないと」
ハーマイオニーが言った。
「そうですね。何か起きているのなら、僕らだけでは――」
鬼太郎の言葉が止まった。
廊下の先、二つの窓の間に何かが見えた。
松明の光を受けて、壁の一部が鈍く光っている。
「……あれ、何でしょう」
鬼太郎が示すと、ハーマイオニーが息を呑んだ。
「文字?」
四人は足を止めたまま、壁を見つめた。
赤黒い文字が、窓と窓の間に大きく書かれていた。松明の揺れる光に照らされ、塗りつけられた跡が湿って見える。
『秘密の部屋は開かれた。継承者の敵よ、覚悟せよ』
誰も、すぐには声を出さなかった。
ハリーが呟く。
「秘密の……部屋?」
「こんなもの、誰が書いたんだよ」
ロンの声が掠れていた。
鬼太郎は壁から少し目を下げた。
文字の下に、暗い影がある。
最初は濡れた布が吊されているのかと思った。だが、細い尻尾が見えた瞬間、違うと分かった。
「待ってください」
鬼太郎は三人の前へ半歩出た。
足元の石が濡れている。小さな水たまりかと思ったが、壁際まで水が広がっていた。ここへ来るまで、雨が入り込むような開いた窓はなかったはずだ。
彼は一度足場を確かめてから、近づいた。
吊されていたのは、猫だった。
灰色の毛皮。細い四肢。見開いたまま動かない目。
尻尾が松明の金具に掛けられ、身体は不自然な姿勢でぶら下がっている。
「……ミセス・ノリス?」
ハーマイオニーが、信じられないような声を出した。
そうだ。
鬼太郎も見覚えがあった。城の廊下で何度も見かけた、フィルチの猫だ。彼が歩けば、まるで見張りの相棒のようについていく。
今は、その猫がまったく動かなかった。
ロンが口を覆う。
「嘘だろ……」
ハリーは文字と猫を見比べていた。
「さっきの声……あいつがやったんじゃ……」
「まだ分かりません」
鬼太郎は即座に言った。
ハリーの聞いた声と、壁の文字が同じ者の仕業かどうかも分からない。
「まず、触らないでください。金具から下ろすにしても、先生に来ていただいた方が――」
言いながら、鬼太郎は猫の顔を見上げた。
生きているのか、死んでいるのか。
鬼太郎は猫に手を伸ばさなかった。
フィルチの顔が、ふと頭をよぎった。
いつも怒鳴る管理人。泥を落とした生徒を追いかけ、猫を連れて城中を歩く男。机に置かれた手紙を見られただけで、あんなに苛立っていた。
あの人がこれを見たら、どうなるだろう。
「……先生を呼ぼう」
ハリーが言った。
「うん。早く」
ロンも頷いた。
鬼太郎は杖を袖から抜きかけたが、止めた。
何をされたのか分からない猫に、手探りの呪文を掛けるべきではない。
「僕が――」
その時、遠くから足音が聞こえた。
一人や二人ではない。
大勢の靴が石の階段を踏む音に、生徒たちの笑い声が混じっている。
大広間の宴が、ちょうど終わったのだ。
声は廊下の両端から近づいてきた。まだここで何が起きたのか知らない、浮き立った声ばかりだった。
鬼太郎はもう一度、壁の文字と吊された猫を見た。
ハーマイオニーが小さく呟いた。
「まずいわ。みんなが来る」
鬼太郎は他の三人の立ち位置を確かめ、誰かが慌てて猫へ駆け寄らないよう、廊下の中央へ戻った。
その明るさが、今はかえって不気味だった。
まもなく誰かが角を曲がる。