神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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疑いの夜

第223話 疑いの夜

 

 最初に角を曲がってきた生徒は、笑いながら隣の友人を振り返っていた。

 

 その笑みが、廊下の半ばで止まった。

 

「……何だ、あれ」

 

 後ろから来た生徒が彼の肩越しに覗き込み、同じように足を止める。二人の向こうでは、まだ宴の話をしている声が続いていた。前が詰まった理由を知らない者たちが、互いの背中を押す。

 

「ちょっと、通してよ」

 

「上で何かあったのか?」

 

 誰かが壁の文字を読もうと背伸びをした。

 

 声が、一つずつ小さくなる。

 

 鬼太郎は三人の位置を確かめた。ハリーは壁を見上げたまま固まり、ロンは水のある床を気にして一歩後ろへ下がっている。ハーマイオニーは、ミセス・ノリスから目を逸らせずにいた。

 

「皆さん、そこから先へは来ないでください」

 

 鬼太郎は近くの生徒へ声を掛けた。

 

「先生を呼んでいます。今は、あちらに触らない方がいいと思います」

 

 生徒は返事をせず、鬼太郎の背後を見つめていた。

 

 灰色の猫が、松明の金具に吊られていた。

 

「フィルチの猫だ」

 

「死んでるの?」

 

「壁に何て書いてあるんだ?」

 

 幾人もの声が重なった。読める位置へ出ようとして、また前へ押し出される者がいる。

 

 鬼太郎は杖を抜かなかった。ただ手を横へ出し、足元の水へ不用意に踏み込もうとする一年生を止めた。

 

「見たいのは分かりますが、もう少し下がってください」

 

 その子は蒼白な顔で頷き、後ろへ戻った。

 

 人垣の向こうで、見覚えのある金色の髪が揺れた。

 

「何の騒ぎだ?」

 

 ドラコ・マルフォイが、クラッブとゴイルを伴って前へ出てきた。

 

 彼も最初は猫を見て口を閉じた。次いで壁の文字を見上げ、そこに書かれた文をゆっくりと読んだ。

 

「秘密の部屋は開かれた。継承者の敵よ、覚悟せよ……」

 

 その声は、静まりかけた廊下によく通った。

 

 ドラコの口元が持ち上がる。

 

 彼は集まった生徒たちへ視線を走らせた。

 

「なるほどね。次は穢れた血の連中かもしれない。せいぜい気をつけるんだね」

 

 その場にいた何人かが息を呑んだ。

 

「ドラコ、やめろ」

 

 ハリーが言った。

 

「おい!」

 

 ロンが前へ出かけた。

 

 ハーマイオニーがその袖を掴む。

 

「ロン、今は――」

 

「聞いただろ、今の!」

 

「聞いたわ。でも、ここで喧嘩しても――」

 

 鬼太郎はドラコを見た。

 

「マルフォイさん」

 

 ドラコの視線が戻る。

 

「何だい」

 

「何が起きたかも分からないうちに、被害に遭う人を決めるのは早いですよ」

 

「僕が決めたんじゃない。そこに書いてある」

 

「書いた人が誰なのかも、まだ分からないでしょう」

 

 ドラコの目が細くなった。

 

 去年なら、ここでさらに強い言葉を返してきたかもしれない。だが今は、鬼太郎の手元を一度見ただけで、肩をすくめた。

 

「君は何でも慎重に考えるんだね」

 

「ここには、動かない猫がいますから」

 

 鬼太郎が答えると、ドラコは一瞬だけ口を閉じた。

 

 その時、向こう側の人垣が割れた。

 

「どけ! そこをどけ!」

 

 聞き慣れた、しゃがれた声だった。

 

     ◆

 

 アーガス・フィルチは、生徒を押し分けて廊下へ出た。

 

「いったい、誰がこんな時間に――」

 

 言葉が途切れた。

 

 フィルチの目が、松明の下へ向く。

 

 ほんの一瞬、彼は何を見ているのか分からないという顔をした。それから、顔の色が変わった。

 

「ノリス……?」

 

 鬼太郎は、フィルチの声があれほど細くなるのを初めて聞いた。

 

 管理人は二、三歩進み、猫の姿を確かめるように首を伸ばした。

 

「ミセス・ノリス!」

 

 叫びが廊下に響く。

 

 フィルチは金具へ手を伸ばしかけ、すぐには触れられずにいた。いつもなら廊下を汚した生徒を追い回し、怒鳴りながら記録帳を広げる男が、今はただ目を見開いている。

 

「誰がやった。誰が、こんなことを……!」

 

 鬼太郎は返事をしなかった。

 

 できなかった。

 

 何かをされたのは確かだ。だが猫が死んでいるかさえ、まだ分からない。

 

 フィルチが振り返った。

 

 その目がハリーを捉える。

 

「お前か!」

 

「違います!」

 

 ハリーは反射的に叫んだ。

 

「僕らが来た時には、もうこうなっていたんです!」

 

「ここにいるじゃないか! この猫の前に、お前らが!」

 

 フィルチは何かを掴もうとするように手を伸ばした。ハリーは後ずさり、ロンが間に入ろうとする。

 

 鬼太郎は横から一歩出た。

 

「フィルチさん、僕らは四人で一緒にここへ来ました」

 

「だから何だ!」

 

「誰も、あの猫へ手を出していません。僕も、見つけた時から触らないようにしています」

 

「口を揃えれば済むと思ってるのか!」

 

 怒鳴り声の最後が、わずかに震えた。

 

 鬼太郎はそれ以上言い返さなかった。

 

 目の前の人は、今すぐ納得できる状態ではない。無理に言葉を重ねれば、たぶん余計な争いになるだけだ。

 

「アーガス」

 

 人垣の向こうから、静かな声がした。

 

 ダンブルドアが歩いてきた。

 

 その後ろにマクゴナガル、スネイプ、ロックハートが続いている。

 

 校長は騒ぐ生徒たちを見渡し、次に壁と猫へ目を向けた。半月形の眼鏡の奥で、表情が引き締まる。

 

「皆、少し道を空けてくれるかね」

 

 大きな声ではなかった。

 

 けれど生徒たちは自然と左右へ分かれた。

 

「何が起きたかは、わしらが確かめる。今は寮へ戻りなさい。ここで立ち止まらず、先生方の指示に従うんじゃ」

 

 マクゴナガルがすぐに動き、上級生たちへ指示を出した。

 

「廊下を塞がないこと。見物は終わりです。グリフィンドールの生徒は、こちらへ」

 

 生徒たちはまだ振り返っていたが、少しずつ動き始めた。

 

 その中に、キーノがいた。

 

 彼女は大広間から来たらしく、夕食を終えた生徒たちと一緒だった。鬼太郎と目が合うと、すぐに歩み寄ろうとする。

 

 鬼太郎は小さく首を振った。

 

「僕らは、先生に事情をお話しします」

 

「……分かった。怪我は?」

 

「ありません」

 

 キーノの視線が壁へ移った。

 

 彼女は猫を見て眉を寄せたが、今は何も聞かなかった。

 

「後で教えろよ」

 

「はい」

 

 マクゴナガルに促され、キーノは他の生徒とともに離れていった。

 

 ダンブルドアは猫の前で立ち止まると、吊られた身体を慎重に確かめた。細い尻尾を金具から外し、動かないままの猫を両腕に受ける。

 

 フィルチが息を詰めた。

 

「校長……」

 

「まず、落ち着ける場所へ運ぼう。ここでは診られん」

 

 ダンブルドアは鬼太郎たちへ目を向けた。

 

「ハリー、ロン、ハーマイオニー、それから鬼太郎。君たちにも話を聞きたい。来てくれるかね」

 

「はい」

 

 四人は頷いた。

 

「それと、鬼太郎」

 

「はい」

 

「肖像画を通した知らせは、届いておるよ」

 

 鬼太郎は少しだけ息を吐いた。

 

「よかったです」

 

「あとで、どこで何を見たのかも聞かせておくれ」

 

 それは、無事に知らせられたことへの礼ではなかった。

 

 事情を確かめるための言葉だった。

 

「私の部屋が近くです、校長!」

 

 ロックハートが一歩進み出た。

 

 華やかな色のローブが揺れる。

 

「ぜひ使ってください。広さもありますし、調べ物にはもってこいですよ。私もこうした騒ぎには、幾度となく立ち会ってきましたから」

 

「ありがとう、ギルデロイ」

 

 ダンブルドアは簡潔に答えた。

 

 そのまま歩き始める。

 

 鬼太郎は最後に一度、文字の書かれた壁を見た。

 

 先ほどまで猫が吊られていた場所には、何もない。

 

 だが赤黒い文字は残り、水の広がった石床も、そのままだった。

 

     ◆

 

 ロックハートの部屋は、相変わらず本人の写真でいっぱいだった。

 

 壁の額縁では、何人ものロックハートがこちらを見ている。半分は顔を顰め、もう半分は妙に晴れやかな笑顔のままだった。

 

 部屋の片隅には、ヴァルキリーがいた。

 

 書記のような装いの彼女は、入ってきた一行を静かに迎えた。ロックハートが机の上を空けるよう告げると、積まれた封筒と本を手早く片づける。

 

 鬼太郎には、以前と同じく不思議な存在に見えた。

 

 しかし今は、その正体を考えている場合ではなかった。

 

 ダンブルドアが猫を机へ横たえる。

 

 足は不自然な形のまま伸び、瞳は開いたまま動かない。

 

「アーガス、椅子に座っておくれ」

 

「私は、そんなもの……」

 

「ここで見ていてよい。少しだけ、わしに診せてくれんか」

 

 フィルチはしばらく立ち尽くしたあと、机に近い椅子へ腰を下ろした。

 

 手を膝の上へ置き、指を組み直す。

 

 その指が、落ち着きなく動いていた。

 

 鬼太郎たちは壁際へ寄った。

 

 スネイプは腕を組み、マクゴナガルはフィルチの様子を気に掛けている。ロックハートは何かを言いかけ、校長が猫を調べ始めると、一度口を閉じた。

 

 ダンブルドアはミセス・ノリスの目と身体を確かめ、杖の先を近づけた。

 

 小さな声で呪文を唱える。

 

 鬼太郎の耳には、聞き慣れない音が続いた。

 

 杖先から淡い光が現れ、猫の身体をゆっくりとなぞる。光はほどなく消えた。

 

 ミセス・ノリスには、何の変化もなかった。

 

 ダンブルドアは別の角度から様子を見た。

 

 鬼太郎は、その手つきを観察していた。

 

 校長の魔法が効かなかったのか、それとも変化のないこと自体が判断材料なのか。今の鬼太郎には分からない。

 

 ただ、すぐに治そうとせず、まず状態を確かめていることは分かった。

 

「私なら、こういった症例を旅先で何度も――」

 

 ロックハートが口を開いた。

 

「ギルデロイ」

 

 マクゴナガルの声が飛ぶ。

 

「今は、校長が診察中です」

 

「ええ、もちろんですとも。ただ、参考になるかと思いまして」

 

 彼は笑顔を崩さず、少し下がった。

 

 ヴァルキリーは机の端に置かれた書類を揃え、必要以上に口を挟まない。鬼太郎はそれを横目で見たが、すぐに猫へ視線を戻した。

 

 部屋に、沈黙が戻る。

 

 フィルチが椅子の背を握っている。

 

 ハリーは何か言おうとして、やめた。

 

 ようやくダンブルドアが顔を上げた。

 

「アーガス」

 

 フィルチの身体が強張る。

 

「ミセス・ノリスは、死んではおらんよ」

 

 音が消えたように感じた。

 

「……死んで、いない?」

 

 フィルチは聞き返した。

 

「そうじゃ」

 

 彼は椅子から半ば立ち上がり、机に手を掛けた。

 

「だったら、どうして……どうして動かないんです。名前を呼んでも、まったく……」

 

「石化しておる」

 

 ダンブルドアは静かに言った。

 

「生きてはいるが、通常の方法では身体を動かせぬ状態じゃ。何によってこうなったのかは、まだ分からん」

 

「石化……」

 

 ハーマイオニーが口の中で繰り返した。

 

 鬼太郎は机の上の猫を見た。生きていると知っても、フィルチの指はまだ震えていた。

 

「なるほど、石化でしたか!」

 

 ロックハートが頷いた。

 

「実は私も、その可能性を考えておりました。以前、似たような事件に出会ったことがありましてね――」

 

 彼は話を始めたが、フィルチは聞いていなかった。

 

 机の上の猫だけを見ている。

 

「治るんでしょうね」

 

 その言葉は、校長だけへ向けられていた。

 

「治る見込みはある」

 

 ダンブルドアが答える。

 

「ただし、少し時間が要るのう」

 

 フィルチは何かを言いかけ、唇を閉じた。

 

 怒りを向ける先が見つからないような顔だった。

 

     ◆

 

「治せるなら、誰がこんなことをしたのかも、分かるんでしょう?」

 

 フィルチが急に顔を上げた。

 

 視線が、ハリーへ向かう。

 

「聞いてください、校長。こいつらは現場にいたんです! しかも、あんな文字まで書かれていた!」

 

「僕は書いてません!」

 

 ハリーが声を上げた。

 

「猫にも触ってない!」

 

「じゃあ、どうしてそこにいた!」

 

「アーガス」

 

 ダンブルドアは声を荒らげなかった。

 

「事情は聞こう。しかし、見つけた場所にいたことと、犯人であることは同じではない」

 

「でも、そいつは……!」

 

 フィルチが口ごもる。

 

 それから、ほとんど噛みつくような声を出した。

 

「その子は、私の手紙を見たんです。事務室にあった、あの……速成魔法講座の手紙を!」

 

 ハリーが驚いた顔をした。

 

 鬼太郎には、何のことか分かった。

 

 雨の日、ハリーがフィルチの事務室で見たという、魔法を学び直すための通信講座だ。

 

「だから、私が何者か知っている!」

 

 フィルチの声が高くなる。

 

「だから、笑いものにして……!」

 

 言葉が続かなかった。

 

 部屋にいた誰もが、彼を見ていた。

 

「私はスクイブなんだ!」

 

 フィルチは吐き捨てるように言った。

 

「それが、そんなにおかしいか!」

 

 ハリーは返事をしなかった。

 

 言葉の意味を知らないらしく、ロンとハーマイオニーを見た。ロンも今ばかりは、いつものように軽口を言わない。

 

 鬼太郎はフィルチへ目を戻した。

 

 スクイブ。

 

 魔法使いの家系に生まれても、魔法を使えない者。

 

 自分の父親も、そうだった。

 

 その事実は知っていたし、今さら驚きもしない。けれど、フィルチが人前でその言葉を口にするまでの苦しさは、声だけでも伝わってきた。

 

 魔法を使えないというだけで、ほかの者にどう見られるか。

 

 鬼太郎は、その手の話をまったく知らないわけではない。

 

 だが、父親を思い出したからといって、フィルチの気持ちまで分かったつもりにはなれなかった。

 

「僕は、手紙のことを誰にも話してません」

 

 ハリーが言った。

 

「面白がってもいません。それに、僕が見たのは――」

 

「なぜ黙っていた!」

 

 フィルチが立ち上がった。

 

「静かになさい、アーガス」

 

 マクゴナガルが厳しい声を出した。

 

「今ここで、その話を広める者はいません。まずはミセス・ノリスのことです」

 

 フィルチは机を睨み、やがて力なく椅子へ戻った。

 

 ダンブルドアは、その様子を見届けてから四人へ向き直った。

 

「では、順を追って教えてくれるかね」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

     ◆

 

「まず、四人ともニックさんの絶命日パーティーに出席していました」

 

 鬼太郎は、地下牢へ行った時間から話し始めた。

 

 首なし狩りの騎士たちが現れ、演説が始まったこと。寒さと空腹もあって、四人で途中退席したこと。

 

「その後、何があったのかな」

 

 ダンブルドアが尋ねた。

 

 鬼太郎はハリーを見た。

 

「ここからは、ハリーさんにお話しいただいた方が正確です。僕には聞こえなかったものですから」

 

 ハリーは唇を舐めた。

 

「……声がしたんです」

 

 スネイプの目が動いた。

 

「声?」

 

「はい。誰かが、引き裂くとか、殺すとか……そういうことを言っていました」

 

「誰が言ったのか分かるのかね」

 

 ダンブルドアの問いに、ハリーは首を振った。

 

「分かりません。姿は見ていません」

 

「では、声のする方を見て、そこに誰もいなかったのかね」

 

「そうです。いや……目の前から聞こえたというより、壁の向こうから聞こえたみたいで」

 

 ハリーは自分の答えに自信が持てないらしく、手を握った。

 

「前にも一度、同じ声を聞きました。ロックハート先生の部屋で罰則を受けた時です」

 

「ああ、そのことなら覚えているよ!」

 

 ロックハートが顔を明るくした。

 

「ハリーは少々疲れていたんだ。長時間のお手伝いでね。私は休息を勧めたんだが――」

 

「僕、眠ってなんかいませんでした」

 

 ハリーが言った。

 

 いつもの彼なら、ここで顔を赤くして黙ったかもしれない。今夜は違った。

 

「それに、今夜も聞いたんです。二回とも、同じ声でした」

 

 ロックハートは微笑みを少し引きつらせた。

 

「なるほど。では、何か別の説明があるのかもしれないね」

 

 ダンブルドアはハリーの顔を見ていた。

 

「その声を、ほかの誰かは聞いたかね」

 

「いいえ」

 

 鬼太郎が答えた。

 

「僕とロンさん、グレンジャーさんには聞こえませんでした」

 

「私たち、ハリーのすぐそばにいたんです」

 

 ハーマイオニーが補足した。

 

「でも、ほかの音は聞こえていたのに、その声だけは聞こえませんでした」

 

「では、ポッターがそう言ったということしか、確かな事実はないわけだ」

 

 スネイプが口を開いた。

 

 ハリーの背筋が伸びる。

 

「先生、僕は嘘なんか――」

 

「まだ、嘘だとは言っていない」

 

 スネイプは冷ややかに答えた。

 

「ただ、声が聞こえたことと、声の主が実在したことは別だと言っているんだ」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

「そのとおりだと思います」

 

 ハリーが驚いてこちらを見る。

 

 鬼太郎は続けた。

 

「だから、誰が話したのかを確かめようとしました。ただ、ハリーさんが一人で行かないように、僕らも同行しました」

 

「なぜ、教師を呼ばなかった?」

 

 スネイプが尋ねた。

 

「呼ぼうとしました」

 

 鬼太郎は答えた。

 

「大広間へ向かおうとしたところで、ハリーさんには声が上の階へ移動したように聞こえたそうです。ハリーさんが走り出したので、僕らも追いました」

 

「つまり、危険かもしれない場所へ、四人で駆け込んだのだな」

 

 スネイプの口調には、責める響きがあった。

 

「はい」

 

 鬼太郎は否定しなかった。

 

「ハリーさんを一人にしない方を選びました。ですが、近くの肖像画には、先生へ知らせていただくよう頼みました」

 

 ダンブルドアが一度頷いた。

 

「その連絡は、わしらに届いた。伝え方は十分だったが、危険な相手を追ったことまで安全になるわけではないのう」

 

「はい。それは分かっています」

 

「ならば、次はもう少し早く先生のところへ来るようにしておくれ」

 

「気をつけます」

 

 鬼太郎は答えた。

 

 もっとも、自分が同じ状況になれば必ず立ち止まれるか、そこまで約束することはできなかった。

 

 しかし、何も知らずに危険へ走り込んだ点について、言い訳するつもりはない。

 

「それで、廊下へ出た時には、すでにあの状態だったのね」

 

 マクゴナガルが確かめた。

 

「はい。文字も、猫も、先にありました」

 

 ハーマイオニーが答える。

 

「床には水がありました。鬼太郎が、触らない方がいいって」

 

「猫を見つけてから、動かした者は?」

 

「いません」

 

 鬼太郎が言った。

 

「生きているか確認したかったのですが、何が起きていたか分からなかったので、触れないでおきました」

 

 スネイプは短く息を吐いた。

 

「ならば、現場の状態をほぼそのまま見たわけだな」

 

「はい」

 

 ここだけは、はっきり答えられた。

 

 鬼太郎は来た時に見た廊下と、今机に横たわる猫の姿を思い出した。それ以外を見たとは、言わないつもりだった。

 

「それにしても、ずいぶん都合のよい話だ」

 

 スネイプが言った。

 

「ポッターにだけ聞こえる声に導かれ、事件現場へ到着する。しかも、ほかの三人には聞こえなかったと」

 

 ロンの顔が赤くなる。

 

「本当なんです!」

 

「その声の主が犯人だと、何か証明できるのか?」

 

「それは……」

 

 ロンが言葉に詰まる。

 

「できません」

 

 鬼太郎が代わりに答えた。

 

「ただ、声を追っていたら、あの場所へ着いた。それは事実です」

 

「ならば、その説明はまだ十分ではないな」

 

「はい」

 

 スネイプは鬼太郎を見た。

 

 少し意外そうな顔だった。

 

「君は、自分の説明が不十分だと分かっているのか」

 

「分からないことが残っていますから」

 

 鬼太郎は答えた。

 

「だから、確かめる必要があると思います」

 

 しばらく、誰も喋らなかった。

 

「校長」

 

 スネイプがダンブルドアへ向き直る。

 

「私には、ポッターが何かを隠している可能性を否定できません。調査が終わるまで、彼のクィディッチ参加を見合わせることも考えるべきでしょう」

 

「セブルス!」

 

 マクゴナガルが鋭く言った。

 

「この子たちを罰する証拠が、どこにあります? クィディッチと猫の石化に、何の関係があるのです」

 

「証拠がないからこそ、慎重にすべきだと言っているのです」

 

「何もしていない生徒の活動を止めることが、慎重さですか?」

 

 二人の声がぶつかった。

 

 鬼太郎は黙って聞いていた。

 

 教師同士の意見の違いへ、わざわざ口を挟む必要はない。

 

 ただ、ハリーの手が膝の上で強く握られていることには気づいた。

 

「そこまでじゃ」

 

 ダンブルドアの声が、二人を止めた。

 

「今分かっておることだけで、誰かを犯人と決めることはできん」

 

 校長はハリーへ視線を向ける。

 

「ハリー、君にしか聞こえない声については、あとで改めて話を聞くことになるかもしれん。それまで、今夜のことは思い出せる限り正確に覚えておいておくれ」

 

「はい、先生」

 

 ハリーは、ようやく息を吐いた。

 

「そして皆、危険を感じたら教師を頼ること。事件を一人で解決しようとしてはならんよ」

 

 鬼太郎は、ダンブルドアが最後に自分の方も見たのを見逃さなかった。

 

「分かりました」

 

 答えながら、なぜだかキーノに同じことを言われた時の顔を思い出した。

 

     ◆

 

「では、ミセス・ノリスは?」

 

 フィルチが低い声で尋ねた。

 

 長い間黙っていたせいか、喉が掠れていた。

 

「本当に、元に戻るんですね」

 

 ダンブルドアは机の上の猫へ目を向けた。

 

「スプラウト先生が、今年マンドレイクを育てておられる。十分に成熟すれば、石化を解く薬の材料に使えるはずじゃ」

 

「マンドレイク……」

 

 ハーマイオニーが呟く。

 

 鬼太郎は、今年の薬草学の授業を思い出した。

 

 土から引き抜かれた、小さな人の形の根。耳当て越しにも、皆が口を大きく開けているのが見えた。叫び声を聞けば気を失うほど危険だと、スプラウトが説明していた。

 

 あの植物が、今度は猫を助けるために必要になる。

 

「でも、すぐには使えないんですね」

 

 ハリーが尋ねた。

 

「まだ若いのでな」

 

 ダンブルドアが答える。

 

「成長を待つ必要がある。その間、ミセス・ノリスは安全な場所で保護しよう」

 

 フィルチは黙って頷いた。

 

 ほんの少し、肩の力が抜けたように見えた。

 

「薬の調合でしたら、ぜひ私に!」

 

 ロックハートが前へ出た。

 

「旅先でも何度か作りました。目を閉じていてもできるほど、慣れたものです」

 

「お言葉ですが」

 

 スネイプが冷たく言った。

 

「この学校で魔法薬学を担当しているのは、私です」

 

「ええ、もちろん存じていますよ。私はただ、助力が必要ならと――」

 

「必要になれば申し上げます」

 

 そこで話は終わった。

 

 ダンブルドアはそれ以上のやり取りを続けさせなかった。

 

「アーガス。マクゴナガル先生と一緒に、ミセス・ノリスを預ける場所を決めておくれ。わしもすぐに向かう」

 

 フィルチは椅子から立ち上がった。

 

 猫を見つめている間、何度も手を伸ばしかけていたが、最後まで勝手に触れなかった。

 

「……お願いします」

 

 ようやくそう言った。

 

「大切に、診てやってください」

 

 鬼太郎はフィルチの横顔を見た。

 

 普段なら見せない、ひどく疲れた表情だった。

 

 少なくとも、猫がフィルチにとって大切な存在なのは確かだった。

 

 鬼太郎は自分から話し掛けなかった。

 

 ただ、猫が助かるなら、その方がいいと思った。

 

 ダンブルドアが四人を見る。

 

「今夜は、もう休みなさい」

 

「先生、でも――」

 

 ハリーが何か言いかける。

 

「心配なのは分かる。話したことは、十分に受け取ったよ」

 

 ダンブルドアは穏やかに続けた。

 

「新しいことを思い出したら、わしか先生方に知らせておくれ。君たちを犯人と決める理由は、今のところ何もない」

 

「……はい」

 

 ハリーは頷いた。

 

 鬼太郎も頭を下げる。

 

「失礼します」

 

 四人は部屋を出た。

 

     ◆

 

 扉が閉じると、廊下はひどく静かだった。

 

 先ほどまであれほどの生徒がいた城とは思えない。

 

 階段を上がりながら、ロンが大きく息を吐いた。

 

「寿命が縮んだよ」

 

「何もしてないのに、スネイプ先生にまで疑われるなんて」

 

 ハリーの声には、まだ怒りが残っていた。

 

「僕、ちゃんと聞いたんだ。あの声を」

 

「分かってるよ」

 

 ロンが答えた。

 

「でも先生たちには聞こえなかったんだろ。証拠がないって言われたら、どうしようもないよ」

 

「声の話をしたのは、よかったと思うわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「あとから事件が起きていたと分かったんだもの。黙っていたら、どこで何を聞いたのか伝わらないでしょう」

 

 鬼太郎も頷いた。

 

「少なくとも、今夜聞こえたことは、記録に残りました」

 

「それだけ?」

 

 ハリーが聞いた。

 

「今は、それだけです」

 

 鬼太郎は答えた。

 

「でも、声が聞こえたから事件の場所に来たのなら、次に同じことが起きた時、無視してよいとは思いません」

 

「また起きるかもしれないってこと?」

 

 ロンが眉を寄せる。

 

「分かりません」

 

 鬼太郎は首を振った。

 

「だからこそ、考えておいた方がいいことはあります」

 

 ハリーは黙った。

 

 鬼太郎は、それ以上言葉を足さなかった。

 

 階段の先には、グリフィンドールの塔へ続く廊下が伸びていた。

 

「そういえば」

 

 ロンが小さく言った。

 

「フィルチがスクイブだって、ハリーは知らなかったんだな」

 

「知らなかったよ。どういう意味なの?」

 

「魔法使いの家に生まれたのに、魔法が使えない人のことだよ」

 

 ロンの答えは簡単だった。

 

 ハリーは少し考えた。

 

「……だから、あの手紙を」

 

「そういうことだと思うわ」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

 鬼太郎は父親のことを思い出したが、口にはしなかった。

 

 ロンが続けようとしたところで、ハリーが先に口を開いた。

 

「でも、あの人、本当に泣きそうだった」

 

「……猫のこと?」

 

「うん。僕が疑われたのは嫌だけど、ミセス・ノリスが戻るなら、よかったと思う」

 

 ロンは短く頷いた。

 

「それは、そうだな」

 

 しばらく、四人の足音だけが続いた。

 

 廊下の端で、鎧の影が揺れる。遠くの肖像画から寝息が聞こえた。

 

 鬼太郎は歩きながら、先ほどの赤黒い文字を思い出した。

 

『秘密の部屋は開かれた。継承者の敵よ、覚悟せよ』

 

 あの文字は脅しなのか、それとも本当に何かが始まった知らせなのか。

 

 ハリーの聞いた声と石化した猫を、鬼太郎はまだ結びつけられなかった。

 

 鬼太郎は一度、後ろを振り返った。

 

 ロックハートの部屋は、もう見えない。

 

 けれど、机に横たわる猫と、それを椅子から見つめていたフィルチの姿だけは、はっきりと思い出せた。

 

 今夜はこれ以上調べられない。

 

 それでも胸の奥は落ち着かなかった。

 

 四人は談話室へ戻るため、階段を上がった。

 

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