第223話 疑いの夜
最初に角を曲がってきた生徒は、笑いながら隣の友人を振り返っていた。
その笑みが、廊下の半ばで止まった。
「……何だ、あれ」
後ろから来た生徒が彼の肩越しに覗き込み、同じように足を止める。二人の向こうでは、まだ宴の話をしている声が続いていた。前が詰まった理由を知らない者たちが、互いの背中を押す。
「ちょっと、通してよ」
「上で何かあったのか?」
誰かが壁の文字を読もうと背伸びをした。
声が、一つずつ小さくなる。
鬼太郎は三人の位置を確かめた。ハリーは壁を見上げたまま固まり、ロンは水のある床を気にして一歩後ろへ下がっている。ハーマイオニーは、ミセス・ノリスから目を逸らせずにいた。
「皆さん、そこから先へは来ないでください」
鬼太郎は近くの生徒へ声を掛けた。
「先生を呼んでいます。今は、あちらに触らない方がいいと思います」
生徒は返事をせず、鬼太郎の背後を見つめていた。
灰色の猫が、松明の金具に吊られていた。
「フィルチの猫だ」
「死んでるの?」
「壁に何て書いてあるんだ?」
幾人もの声が重なった。読める位置へ出ようとして、また前へ押し出される者がいる。
鬼太郎は杖を抜かなかった。ただ手を横へ出し、足元の水へ不用意に踏み込もうとする一年生を止めた。
「見たいのは分かりますが、もう少し下がってください」
その子は蒼白な顔で頷き、後ろへ戻った。
人垣の向こうで、見覚えのある金色の髪が揺れた。
「何の騒ぎだ?」
ドラコ・マルフォイが、クラッブとゴイルを伴って前へ出てきた。
彼も最初は猫を見て口を閉じた。次いで壁の文字を見上げ、そこに書かれた文をゆっくりと読んだ。
「秘密の部屋は開かれた。継承者の敵よ、覚悟せよ……」
その声は、静まりかけた廊下によく通った。
ドラコの口元が持ち上がる。
彼は集まった生徒たちへ視線を走らせた。
「なるほどね。次は穢れた血の連中かもしれない。せいぜい気をつけるんだね」
その場にいた何人かが息を呑んだ。
「ドラコ、やめろ」
ハリーが言った。
「おい!」
ロンが前へ出かけた。
ハーマイオニーがその袖を掴む。
「ロン、今は――」
「聞いただろ、今の!」
「聞いたわ。でも、ここで喧嘩しても――」
鬼太郎はドラコを見た。
「マルフォイさん」
ドラコの視線が戻る。
「何だい」
「何が起きたかも分からないうちに、被害に遭う人を決めるのは早いですよ」
「僕が決めたんじゃない。そこに書いてある」
「書いた人が誰なのかも、まだ分からないでしょう」
ドラコの目が細くなった。
去年なら、ここでさらに強い言葉を返してきたかもしれない。だが今は、鬼太郎の手元を一度見ただけで、肩をすくめた。
「君は何でも慎重に考えるんだね」
「ここには、動かない猫がいますから」
鬼太郎が答えると、ドラコは一瞬だけ口を閉じた。
その時、向こう側の人垣が割れた。
「どけ! そこをどけ!」
聞き慣れた、しゃがれた声だった。
◆
アーガス・フィルチは、生徒を押し分けて廊下へ出た。
「いったい、誰がこんな時間に――」
言葉が途切れた。
フィルチの目が、松明の下へ向く。
ほんの一瞬、彼は何を見ているのか分からないという顔をした。それから、顔の色が変わった。
「ノリス……?」
鬼太郎は、フィルチの声があれほど細くなるのを初めて聞いた。
管理人は二、三歩進み、猫の姿を確かめるように首を伸ばした。
「ミセス・ノリス!」
叫びが廊下に響く。
フィルチは金具へ手を伸ばしかけ、すぐには触れられずにいた。いつもなら廊下を汚した生徒を追い回し、怒鳴りながら記録帳を広げる男が、今はただ目を見開いている。
「誰がやった。誰が、こんなことを……!」
鬼太郎は返事をしなかった。
できなかった。
何かをされたのは確かだ。だが猫が死んでいるかさえ、まだ分からない。
フィルチが振り返った。
その目がハリーを捉える。
「お前か!」
「違います!」
ハリーは反射的に叫んだ。
「僕らが来た時には、もうこうなっていたんです!」
「ここにいるじゃないか! この猫の前に、お前らが!」
フィルチは何かを掴もうとするように手を伸ばした。ハリーは後ずさり、ロンが間に入ろうとする。
鬼太郎は横から一歩出た。
「フィルチさん、僕らは四人で一緒にここへ来ました」
「だから何だ!」
「誰も、あの猫へ手を出していません。僕も、見つけた時から触らないようにしています」
「口を揃えれば済むと思ってるのか!」
怒鳴り声の最後が、わずかに震えた。
鬼太郎はそれ以上言い返さなかった。
目の前の人は、今すぐ納得できる状態ではない。無理に言葉を重ねれば、たぶん余計な争いになるだけだ。
「アーガス」
人垣の向こうから、静かな声がした。
ダンブルドアが歩いてきた。
その後ろにマクゴナガル、スネイプ、ロックハートが続いている。
校長は騒ぐ生徒たちを見渡し、次に壁と猫へ目を向けた。半月形の眼鏡の奥で、表情が引き締まる。
「皆、少し道を空けてくれるかね」
大きな声ではなかった。
けれど生徒たちは自然と左右へ分かれた。
「何が起きたかは、わしらが確かめる。今は寮へ戻りなさい。ここで立ち止まらず、先生方の指示に従うんじゃ」
マクゴナガルがすぐに動き、上級生たちへ指示を出した。
「廊下を塞がないこと。見物は終わりです。グリフィンドールの生徒は、こちらへ」
生徒たちはまだ振り返っていたが、少しずつ動き始めた。
その中に、キーノがいた。
彼女は大広間から来たらしく、夕食を終えた生徒たちと一緒だった。鬼太郎と目が合うと、すぐに歩み寄ろうとする。
鬼太郎は小さく首を振った。
「僕らは、先生に事情をお話しします」
「……分かった。怪我は?」
「ありません」
キーノの視線が壁へ移った。
彼女は猫を見て眉を寄せたが、今は何も聞かなかった。
「後で教えろよ」
「はい」
マクゴナガルに促され、キーノは他の生徒とともに離れていった。
ダンブルドアは猫の前で立ち止まると、吊られた身体を慎重に確かめた。細い尻尾を金具から外し、動かないままの猫を両腕に受ける。
フィルチが息を詰めた。
「校長……」
「まず、落ち着ける場所へ運ぼう。ここでは診られん」
ダンブルドアは鬼太郎たちへ目を向けた。
「ハリー、ロン、ハーマイオニー、それから鬼太郎。君たちにも話を聞きたい。来てくれるかね」
「はい」
四人は頷いた。
「それと、鬼太郎」
「はい」
「肖像画を通した知らせは、届いておるよ」
鬼太郎は少しだけ息を吐いた。
「よかったです」
「あとで、どこで何を見たのかも聞かせておくれ」
それは、無事に知らせられたことへの礼ではなかった。
事情を確かめるための言葉だった。
「私の部屋が近くです、校長!」
ロックハートが一歩進み出た。
華やかな色のローブが揺れる。
「ぜひ使ってください。広さもありますし、調べ物にはもってこいですよ。私もこうした騒ぎには、幾度となく立ち会ってきましたから」
「ありがとう、ギルデロイ」
ダンブルドアは簡潔に答えた。
そのまま歩き始める。
鬼太郎は最後に一度、文字の書かれた壁を見た。
先ほどまで猫が吊られていた場所には、何もない。
だが赤黒い文字は残り、水の広がった石床も、そのままだった。
◆
ロックハートの部屋は、相変わらず本人の写真でいっぱいだった。
壁の額縁では、何人ものロックハートがこちらを見ている。半分は顔を顰め、もう半分は妙に晴れやかな笑顔のままだった。
部屋の片隅には、ヴァルキリーがいた。
書記のような装いの彼女は、入ってきた一行を静かに迎えた。ロックハートが机の上を空けるよう告げると、積まれた封筒と本を手早く片づける。
鬼太郎には、以前と同じく不思議な存在に見えた。
しかし今は、その正体を考えている場合ではなかった。
ダンブルドアが猫を机へ横たえる。
足は不自然な形のまま伸び、瞳は開いたまま動かない。
「アーガス、椅子に座っておくれ」
「私は、そんなもの……」
「ここで見ていてよい。少しだけ、わしに診せてくれんか」
フィルチはしばらく立ち尽くしたあと、机に近い椅子へ腰を下ろした。
手を膝の上へ置き、指を組み直す。
その指が、落ち着きなく動いていた。
鬼太郎たちは壁際へ寄った。
スネイプは腕を組み、マクゴナガルはフィルチの様子を気に掛けている。ロックハートは何かを言いかけ、校長が猫を調べ始めると、一度口を閉じた。
ダンブルドアはミセス・ノリスの目と身体を確かめ、杖の先を近づけた。
小さな声で呪文を唱える。
鬼太郎の耳には、聞き慣れない音が続いた。
杖先から淡い光が現れ、猫の身体をゆっくりとなぞる。光はほどなく消えた。
ミセス・ノリスには、何の変化もなかった。
ダンブルドアは別の角度から様子を見た。
鬼太郎は、その手つきを観察していた。
校長の魔法が効かなかったのか、それとも変化のないこと自体が判断材料なのか。今の鬼太郎には分からない。
ただ、すぐに治そうとせず、まず状態を確かめていることは分かった。
「私なら、こういった症例を旅先で何度も――」
ロックハートが口を開いた。
「ギルデロイ」
マクゴナガルの声が飛ぶ。
「今は、校長が診察中です」
「ええ、もちろんですとも。ただ、参考になるかと思いまして」
彼は笑顔を崩さず、少し下がった。
ヴァルキリーは机の端に置かれた書類を揃え、必要以上に口を挟まない。鬼太郎はそれを横目で見たが、すぐに猫へ視線を戻した。
部屋に、沈黙が戻る。
フィルチが椅子の背を握っている。
ハリーは何か言おうとして、やめた。
ようやくダンブルドアが顔を上げた。
「アーガス」
フィルチの身体が強張る。
「ミセス・ノリスは、死んではおらんよ」
音が消えたように感じた。
「……死んで、いない?」
フィルチは聞き返した。
「そうじゃ」
彼は椅子から半ば立ち上がり、机に手を掛けた。
「だったら、どうして……どうして動かないんです。名前を呼んでも、まったく……」
「石化しておる」
ダンブルドアは静かに言った。
「生きてはいるが、通常の方法では身体を動かせぬ状態じゃ。何によってこうなったのかは、まだ分からん」
「石化……」
ハーマイオニーが口の中で繰り返した。
鬼太郎は机の上の猫を見た。生きていると知っても、フィルチの指はまだ震えていた。
「なるほど、石化でしたか!」
ロックハートが頷いた。
「実は私も、その可能性を考えておりました。以前、似たような事件に出会ったことがありましてね――」
彼は話を始めたが、フィルチは聞いていなかった。
机の上の猫だけを見ている。
「治るんでしょうね」
その言葉は、校長だけへ向けられていた。
「治る見込みはある」
ダンブルドアが答える。
「ただし、少し時間が要るのう」
フィルチは何かを言いかけ、唇を閉じた。
怒りを向ける先が見つからないような顔だった。
◆
「治せるなら、誰がこんなことをしたのかも、分かるんでしょう?」
フィルチが急に顔を上げた。
視線が、ハリーへ向かう。
「聞いてください、校長。こいつらは現場にいたんです! しかも、あんな文字まで書かれていた!」
「僕は書いてません!」
ハリーが声を上げた。
「猫にも触ってない!」
「じゃあ、どうしてそこにいた!」
「アーガス」
ダンブルドアは声を荒らげなかった。
「事情は聞こう。しかし、見つけた場所にいたことと、犯人であることは同じではない」
「でも、そいつは……!」
フィルチが口ごもる。
それから、ほとんど噛みつくような声を出した。
「その子は、私の手紙を見たんです。事務室にあった、あの……速成魔法講座の手紙を!」
ハリーが驚いた顔をした。
鬼太郎には、何のことか分かった。
雨の日、ハリーがフィルチの事務室で見たという、魔法を学び直すための通信講座だ。
「だから、私が何者か知っている!」
フィルチの声が高くなる。
「だから、笑いものにして……!」
言葉が続かなかった。
部屋にいた誰もが、彼を見ていた。
「私はスクイブなんだ!」
フィルチは吐き捨てるように言った。
「それが、そんなにおかしいか!」
ハリーは返事をしなかった。
言葉の意味を知らないらしく、ロンとハーマイオニーを見た。ロンも今ばかりは、いつものように軽口を言わない。
鬼太郎はフィルチへ目を戻した。
スクイブ。
魔法使いの家系に生まれても、魔法を使えない者。
自分の父親も、そうだった。
その事実は知っていたし、今さら驚きもしない。けれど、フィルチが人前でその言葉を口にするまでの苦しさは、声だけでも伝わってきた。
魔法を使えないというだけで、ほかの者にどう見られるか。
鬼太郎は、その手の話をまったく知らないわけではない。
だが、父親を思い出したからといって、フィルチの気持ちまで分かったつもりにはなれなかった。
「僕は、手紙のことを誰にも話してません」
ハリーが言った。
「面白がってもいません。それに、僕が見たのは――」
「なぜ黙っていた!」
フィルチが立ち上がった。
「静かになさい、アーガス」
マクゴナガルが厳しい声を出した。
「今ここで、その話を広める者はいません。まずはミセス・ノリスのことです」
フィルチは机を睨み、やがて力なく椅子へ戻った。
ダンブルドアは、その様子を見届けてから四人へ向き直った。
「では、順を追って教えてくれるかね」
鬼太郎は頷いた。
◆
「まず、四人ともニックさんの絶命日パーティーに出席していました」
鬼太郎は、地下牢へ行った時間から話し始めた。
首なし狩りの騎士たちが現れ、演説が始まったこと。寒さと空腹もあって、四人で途中退席したこと。
「その後、何があったのかな」
ダンブルドアが尋ねた。
鬼太郎はハリーを見た。
「ここからは、ハリーさんにお話しいただいた方が正確です。僕には聞こえなかったものですから」
ハリーは唇を舐めた。
「……声がしたんです」
スネイプの目が動いた。
「声?」
「はい。誰かが、引き裂くとか、殺すとか……そういうことを言っていました」
「誰が言ったのか分かるのかね」
ダンブルドアの問いに、ハリーは首を振った。
「分かりません。姿は見ていません」
「では、声のする方を見て、そこに誰もいなかったのかね」
「そうです。いや……目の前から聞こえたというより、壁の向こうから聞こえたみたいで」
ハリーは自分の答えに自信が持てないらしく、手を握った。
「前にも一度、同じ声を聞きました。ロックハート先生の部屋で罰則を受けた時です」
「ああ、そのことなら覚えているよ!」
ロックハートが顔を明るくした。
「ハリーは少々疲れていたんだ。長時間のお手伝いでね。私は休息を勧めたんだが――」
「僕、眠ってなんかいませんでした」
ハリーが言った。
いつもの彼なら、ここで顔を赤くして黙ったかもしれない。今夜は違った。
「それに、今夜も聞いたんです。二回とも、同じ声でした」
ロックハートは微笑みを少し引きつらせた。
「なるほど。では、何か別の説明があるのかもしれないね」
ダンブルドアはハリーの顔を見ていた。
「その声を、ほかの誰かは聞いたかね」
「いいえ」
鬼太郎が答えた。
「僕とロンさん、グレンジャーさんには聞こえませんでした」
「私たち、ハリーのすぐそばにいたんです」
ハーマイオニーが補足した。
「でも、ほかの音は聞こえていたのに、その声だけは聞こえませんでした」
「では、ポッターがそう言ったということしか、確かな事実はないわけだ」
スネイプが口を開いた。
ハリーの背筋が伸びる。
「先生、僕は嘘なんか――」
「まだ、嘘だとは言っていない」
スネイプは冷ややかに答えた。
「ただ、声が聞こえたことと、声の主が実在したことは別だと言っているんだ」
鬼太郎は頷いた。
「そのとおりだと思います」
ハリーが驚いてこちらを見る。
鬼太郎は続けた。
「だから、誰が話したのかを確かめようとしました。ただ、ハリーさんが一人で行かないように、僕らも同行しました」
「なぜ、教師を呼ばなかった?」
スネイプが尋ねた。
「呼ぼうとしました」
鬼太郎は答えた。
「大広間へ向かおうとしたところで、ハリーさんには声が上の階へ移動したように聞こえたそうです。ハリーさんが走り出したので、僕らも追いました」
「つまり、危険かもしれない場所へ、四人で駆け込んだのだな」
スネイプの口調には、責める響きがあった。
「はい」
鬼太郎は否定しなかった。
「ハリーさんを一人にしない方を選びました。ですが、近くの肖像画には、先生へ知らせていただくよう頼みました」
ダンブルドアが一度頷いた。
「その連絡は、わしらに届いた。伝え方は十分だったが、危険な相手を追ったことまで安全になるわけではないのう」
「はい。それは分かっています」
「ならば、次はもう少し早く先生のところへ来るようにしておくれ」
「気をつけます」
鬼太郎は答えた。
もっとも、自分が同じ状況になれば必ず立ち止まれるか、そこまで約束することはできなかった。
しかし、何も知らずに危険へ走り込んだ点について、言い訳するつもりはない。
「それで、廊下へ出た時には、すでにあの状態だったのね」
マクゴナガルが確かめた。
「はい。文字も、猫も、先にありました」
ハーマイオニーが答える。
「床には水がありました。鬼太郎が、触らない方がいいって」
「猫を見つけてから、動かした者は?」
「いません」
鬼太郎が言った。
「生きているか確認したかったのですが、何が起きていたか分からなかったので、触れないでおきました」
スネイプは短く息を吐いた。
「ならば、現場の状態をほぼそのまま見たわけだな」
「はい」
ここだけは、はっきり答えられた。
鬼太郎は来た時に見た廊下と、今机に横たわる猫の姿を思い出した。それ以外を見たとは、言わないつもりだった。
「それにしても、ずいぶん都合のよい話だ」
スネイプが言った。
「ポッターにだけ聞こえる声に導かれ、事件現場へ到着する。しかも、ほかの三人には聞こえなかったと」
ロンの顔が赤くなる。
「本当なんです!」
「その声の主が犯人だと、何か証明できるのか?」
「それは……」
ロンが言葉に詰まる。
「できません」
鬼太郎が代わりに答えた。
「ただ、声を追っていたら、あの場所へ着いた。それは事実です」
「ならば、その説明はまだ十分ではないな」
「はい」
スネイプは鬼太郎を見た。
少し意外そうな顔だった。
「君は、自分の説明が不十分だと分かっているのか」
「分からないことが残っていますから」
鬼太郎は答えた。
「だから、確かめる必要があると思います」
しばらく、誰も喋らなかった。
「校長」
スネイプがダンブルドアへ向き直る。
「私には、ポッターが何かを隠している可能性を否定できません。調査が終わるまで、彼のクィディッチ参加を見合わせることも考えるべきでしょう」
「セブルス!」
マクゴナガルが鋭く言った。
「この子たちを罰する証拠が、どこにあります? クィディッチと猫の石化に、何の関係があるのです」
「証拠がないからこそ、慎重にすべきだと言っているのです」
「何もしていない生徒の活動を止めることが、慎重さですか?」
二人の声がぶつかった。
鬼太郎は黙って聞いていた。
教師同士の意見の違いへ、わざわざ口を挟む必要はない。
ただ、ハリーの手が膝の上で強く握られていることには気づいた。
「そこまでじゃ」
ダンブルドアの声が、二人を止めた。
「今分かっておることだけで、誰かを犯人と決めることはできん」
校長はハリーへ視線を向ける。
「ハリー、君にしか聞こえない声については、あとで改めて話を聞くことになるかもしれん。それまで、今夜のことは思い出せる限り正確に覚えておいておくれ」
「はい、先生」
ハリーは、ようやく息を吐いた。
「そして皆、危険を感じたら教師を頼ること。事件を一人で解決しようとしてはならんよ」
鬼太郎は、ダンブルドアが最後に自分の方も見たのを見逃さなかった。
「分かりました」
答えながら、なぜだかキーノに同じことを言われた時の顔を思い出した。
◆
「では、ミセス・ノリスは?」
フィルチが低い声で尋ねた。
長い間黙っていたせいか、喉が掠れていた。
「本当に、元に戻るんですね」
ダンブルドアは机の上の猫へ目を向けた。
「スプラウト先生が、今年マンドレイクを育てておられる。十分に成熟すれば、石化を解く薬の材料に使えるはずじゃ」
「マンドレイク……」
ハーマイオニーが呟く。
鬼太郎は、今年の薬草学の授業を思い出した。
土から引き抜かれた、小さな人の形の根。耳当て越しにも、皆が口を大きく開けているのが見えた。叫び声を聞けば気を失うほど危険だと、スプラウトが説明していた。
あの植物が、今度は猫を助けるために必要になる。
「でも、すぐには使えないんですね」
ハリーが尋ねた。
「まだ若いのでな」
ダンブルドアが答える。
「成長を待つ必要がある。その間、ミセス・ノリスは安全な場所で保護しよう」
フィルチは黙って頷いた。
ほんの少し、肩の力が抜けたように見えた。
「薬の調合でしたら、ぜひ私に!」
ロックハートが前へ出た。
「旅先でも何度か作りました。目を閉じていてもできるほど、慣れたものです」
「お言葉ですが」
スネイプが冷たく言った。
「この学校で魔法薬学を担当しているのは、私です」
「ええ、もちろん存じていますよ。私はただ、助力が必要ならと――」
「必要になれば申し上げます」
そこで話は終わった。
ダンブルドアはそれ以上のやり取りを続けさせなかった。
「アーガス。マクゴナガル先生と一緒に、ミセス・ノリスを預ける場所を決めておくれ。わしもすぐに向かう」
フィルチは椅子から立ち上がった。
猫を見つめている間、何度も手を伸ばしかけていたが、最後まで勝手に触れなかった。
「……お願いします」
ようやくそう言った。
「大切に、診てやってください」
鬼太郎はフィルチの横顔を見た。
普段なら見せない、ひどく疲れた表情だった。
少なくとも、猫がフィルチにとって大切な存在なのは確かだった。
鬼太郎は自分から話し掛けなかった。
ただ、猫が助かるなら、その方がいいと思った。
ダンブルドアが四人を見る。
「今夜は、もう休みなさい」
「先生、でも――」
ハリーが何か言いかける。
「心配なのは分かる。話したことは、十分に受け取ったよ」
ダンブルドアは穏やかに続けた。
「新しいことを思い出したら、わしか先生方に知らせておくれ。君たちを犯人と決める理由は、今のところ何もない」
「……はい」
ハリーは頷いた。
鬼太郎も頭を下げる。
「失礼します」
四人は部屋を出た。
◆
扉が閉じると、廊下はひどく静かだった。
先ほどまであれほどの生徒がいた城とは思えない。
階段を上がりながら、ロンが大きく息を吐いた。
「寿命が縮んだよ」
「何もしてないのに、スネイプ先生にまで疑われるなんて」
ハリーの声には、まだ怒りが残っていた。
「僕、ちゃんと聞いたんだ。あの声を」
「分かってるよ」
ロンが答えた。
「でも先生たちには聞こえなかったんだろ。証拠がないって言われたら、どうしようもないよ」
「声の話をしたのは、よかったと思うわ」
ハーマイオニーが言った。
「あとから事件が起きていたと分かったんだもの。黙っていたら、どこで何を聞いたのか伝わらないでしょう」
鬼太郎も頷いた。
「少なくとも、今夜聞こえたことは、記録に残りました」
「それだけ?」
ハリーが聞いた。
「今は、それだけです」
鬼太郎は答えた。
「でも、声が聞こえたから事件の場所に来たのなら、次に同じことが起きた時、無視してよいとは思いません」
「また起きるかもしれないってこと?」
ロンが眉を寄せる。
「分かりません」
鬼太郎は首を振った。
「だからこそ、考えておいた方がいいことはあります」
ハリーは黙った。
鬼太郎は、それ以上言葉を足さなかった。
階段の先には、グリフィンドールの塔へ続く廊下が伸びていた。
「そういえば」
ロンが小さく言った。
「フィルチがスクイブだって、ハリーは知らなかったんだな」
「知らなかったよ。どういう意味なの?」
「魔法使いの家に生まれたのに、魔法が使えない人のことだよ」
ロンの答えは簡単だった。
ハリーは少し考えた。
「……だから、あの手紙を」
「そういうことだと思うわ」
ハーマイオニーが言う。
鬼太郎は父親のことを思い出したが、口にはしなかった。
ロンが続けようとしたところで、ハリーが先に口を開いた。
「でも、あの人、本当に泣きそうだった」
「……猫のこと?」
「うん。僕が疑われたのは嫌だけど、ミセス・ノリスが戻るなら、よかったと思う」
ロンは短く頷いた。
「それは、そうだな」
しばらく、四人の足音だけが続いた。
廊下の端で、鎧の影が揺れる。遠くの肖像画から寝息が聞こえた。
鬼太郎は歩きながら、先ほどの赤黒い文字を思い出した。
『秘密の部屋は開かれた。継承者の敵よ、覚悟せよ』
あの文字は脅しなのか、それとも本当に何かが始まった知らせなのか。
ハリーの聞いた声と石化した猫を、鬼太郎はまだ結びつけられなかった。
鬼太郎は一度、後ろを振り返った。
ロックハートの部屋は、もう見えない。
けれど、机に横たわる猫と、それを椅子から見つめていたフィルチの姿だけは、はっきりと思い出せた。
今夜はこれ以上調べられない。
それでも胸の奥は落ち着かなかった。
四人は談話室へ戻るため、階段を上がった。