神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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消えない文字

第224話 消えない文字

 

 翌朝、談話室の暖炉には、いつもと同じように火が入っていた。

 

 違っていたのは、その前に集まる生徒の声だった。

 

「石になったんだってさ」

 

「でも、猫だろ。人間じゃない」

 

「人間じゃないから平気ってこと?」

 

 鬼太郎は階段を下りながら、最後の言葉を聞いた。

 

 別の生徒が朝食の時間だと言い、話は途切れた。

 

 窓際にキーノがいた。

 

「おはよう。昨夜は遅かったんだな」

 

「おはようございます。戻った時には、もう皆さん、お休みでしたから」

 

 彼女は読みかけの本を閉じる。その隣には、布を丸めた小さな包みが置いてあった。

 

「ミセス・ノリス、本当に戻るのか」

 

「校長先生は、石化だとおっしゃっていました。マンドレイクが育てば、治療できるそうです」

 

「いつ?」

 

「そこまでは、まだ」

 

 キーノは少し眉を寄せた。

 

「そうか。フィルチ、あの猫をずっと連れてたもんな」

 

「ええ」

 

 昨夜、机の上の猫を見つめていた管理人の姿が浮かんだ。

 

 怒鳴っていた時よりも、最後に小さな声で頼んだ時の方が、鬼太郎の記憶には残っている。

 

「お前が見つけたんだって?」

 

「ハリーさんが声を追った先にありました。僕らは、見つけただけです」

 

「その声は、結局、誰にも聞こえなかったのか」

 

「ハリーさん以外には」

 

 キーノは何か尋ねかけ、それから口を閉じた。

 

「じゃあ、分かるまで分からないままだな」

 

「そうですね」

 

「朝飯には行くんだろ」

 

「はい。朝食に遅れてしまいますから」

 

 彼女は布の包みを鞄へ入れた。

 

「次は、前より早く動かせるか試したい。昨日、少しうまくいったんだ」

 

「では、明日の授業が終わったら続きを」

 

「いいぞ。今度は、止める位置も決めておく」

 

 二人は、使えそうな廊下を話し合いながら朝食へ向かった。

 

     ◆

 

 週が明けても、学校中は同じ話をしていた。

 

 大広間では、隣の卓の生徒が「継承者」という言葉を小声で繰り返していた。廊下では、鬼太郎を見てから急に話をやめる者もいた。

 

 ハリーの方には、もっとあからさまな視線が向いた。

 

「僕があそこで何をするっていうんだろう」

 

 教室へ向かう途中、ハリーが呟く。

 

「知らないから、勝手に考えるんでしょうね」

 

 鬼太郎が答えると、ロンが肩をすくめた。

 

「考えるのは勝手だけどさ。僕たちが着く前から猫は吊るされてたんだぞ」

 

「それを知らない人もいるのよ」

 

 ハーマイオニーは本を胸に抱え、早足で歩いていた。

 

「あの夜、先生に話したことと、みんなに伝わっていることは別でしょう」

 

「じゃあ一人ずつ説明しろって?」

 

「そんなこと言ってないわ。ただ、噂だけで決めつけるのもおかしいってこと」

 

 前から、カメラを首に掛けたコリンが小走りに近づいてきた。

 

「あ、ハリー!」

 

 いつもなら、そこから質問が幾つも続く。だが、彼はハリーの顔を見たあと、周囲の生徒が振り向いたことに気づいた。

 

「……あの、今日、授業はいつもどおり?」

 

「うん。今から変身術」

 

「そうなんだ。じゃあ、頑張ってね」

 

 コリンはカメラを胸元へ押さえ、通路の端へ寄った。

 

 ハリーは少し驚いた顔で見送った。

 

「今日は写真じゃないんだ」

 

「気にしてくれたのかもしれないわ」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

「それなら、僕が挨拶するくらいは平気なのに」

 

 ハリーは追いかけはしなかったが、曲がり角で一度だけ後ろを見た。

 

 事件は、猫が石になっただけで終わっていないのだろう。

 

 鬼太郎も、廊下の先に向き直った。

 

 階段を下りたところで、ジニーがロンを待っていた。

 

「ロン。ミセス・ノリス、まだ医務室にいるの?」

 

「先生たちが預かってるってさ。マンドレイクが育つまで戻せないらしい」

 

「そんなに長く……?」

 

 ジニーは手元の教科書を抱き直した。事件の夜から、顔色が優れない。鬼太郎は、眠れていないのかもしれないと思った。

 

「猫がいなくて寂しいのは分かるけど、あの見張りがいなくなったら少しは自由に歩けるだろ」

 

 ロンは軽く言ったつもりだったらしい。

 

 ジニーの唇が震えた。

 

「冗談だよ。ちゃんと元に戻るって、校長先生も言ってるんだろ?」

 

「……うん」

 

 彼女はそう答え、授業へ行くからと足早に離れていった。

 

「変なこと言ったかな」

 

「猫があんな目に遭ったんだもの。今は冗談にしない方がいいと思うわ」

 

 ハーマイオニーの指摘に、ロンは首の後ろを掻いた。

 

「そうだな。あとで謝っとく」

 

 鬼太郎はジニーの消えた階段を見た。あれだけ怯えていれば、何か理由があるのかもしれない。ただ、今は何も聞いていない。それを確かめる機会もなく、次の授業の鐘が鳴った。

 

     ◆

 

 あの日の壁の文字は、まだ消えていなかった。

 

 鬼太郎がそこを通った時、フィルチは石壁に向かって布を動かしていた。床には洗剤の瓶があり、濡れた布を絞った水が細い筋になって流れている。

 

 拭いたところは、石の色が少し明るくなった。だが、赤黒い文字そのものは薄くならない。

 

 フィルチは顔を近づけ、もう一度同じ箇所をこすった。

 

「何を見ている」

 

 鬼太郎が立ち止まった気配に気づいたらしい。声は掠れていた。

 

「通りかかりました。先生から、こちらを通ってはいけないとは伺っていませんので」

 

「見物なら、ほかへ行け」

 

「はい」

 

 鬼太郎は、瓶の横へ垂れた水を踏まないよう足を運んだ。

 

 何か手伝えるかと尋ねる気にはならなかった。今のフィルチが、自分に道具を預けるとは思えない。それに、消えない文字を消せる方法も知らない。

 

 少し離れたところで、布の擦れる音がまた聞こえた。

 

 夜になれば、あの人は猫を連れて歩けない。城は同じ広さなのに、一人で巡る距離は長く感じるのかもしれない。

 

 そこまで考えたところで、鬼太郎は思考を止めた。

 

 寂しいかどうかは、本人にしか分からない。

 

     ◆

 

 授業は止まらなかった。

 

 変身術では、甲虫をボタンへ変えたあと、穴の形と縁が揃っているかまで確かめた。鬼太郎は二つの穴を通る光を確認し、獅子の模様はまだ紙の上で考えることにした。

 

 魔法薬学では、材料を切る大きさが揃っているかをスネイプが一つずつ見て回った。間違いを指摘する声は、事件前と変わらない冷たさだった。

 

 鬼太郎は教科書の脇へ、授業の記録を書き残した。

 

 何かが起きたからといって、習うはずだった呪文を習わずに済むわけではない。

 

 昼食のあと、ハーマイオニーは図書館へ向かった。

 

「壁の文字にあった『秘密の部屋』のこと、少しくらい分かるかもしれないわ」

 

「どの本を探すんだ?」

 

 ロンに聞かれて、彼女は少し考えた。

 

「まず、学校の歴史よ。あとは、古い記録や伝説を扱った本も」

 

「本を一冊読めば犯人が分かるなら、先生たちも苦労しないよ」

 

「犯人を決めるためじゃないわ。何を知らないか分かるだけでも違うでしょう」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

「調べて分かったことがあれば、僕にも教えてください」

 

「ええ。あなたも、あの廊下の記録を見直しておいてね」

 

 ハーマイオニーはそう言って、本を抱えて去っていった。鬼太郎は事件の夜の道順をもう一度帳面へ書き、記憶が曖昧な階段には印をつけた。見なかったものを、見たことにはしない。

 

 午後、空いた場所でキーノと短い練習をした。

 

 使う布は一枚だけ。ただし、今日の目的はそれを鬼太郎へ当てることではない。キーノが布を浮かせ、鬼太郎が避ける。その後に、互いが次の呪文へ移れる位置を作れるか確かめる。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」

 

 布が上がり、胸の高さへ留まった。キーノはすでに、この程度の浮遊なら構え直す余裕さえある。

 

「最初は右だ」

 

 布が右へ送られる。鬼太郎が左へ退くと、キーノは追い掛ける代わりに布を止め、相手の黒檀へ視線を移した。

 

「今なら、私が先に杖を戻せた」

 

「ええ。でも、僕も布を避けた時には次の一歩を決められました」

 

 鬼太郎は黒檀を構え直す。二人とも互いへ呪文を撃つわけではない。その先の、どちらが撃つ位置を先に取れるかを確かめていた。

 

 二度目、キーノが布を速く送る。鬼太郎は一度右へ出るふりをして、左へ抜けた。

 

 キーノは布を追わせず、途中で落として杖を戻す。鬼太郎が腕を上げるより少し早かった。

 

「今のなら、武装解除へ移れたな」

 

「そうですね。ですが、相手がすぐ盾を出すなら、その後も考えないと」

 

「そこは先生がいる時にやろう。人へ撃つのは、ここじゃない」

 

 鬼太郎は頷いた。浮遊術も武装解除も、二人にはもう馴染みのある呪文だ。いまキーノが見ていたのは、布を離した瞬間に鬼太郎がどこへ動くかだった。

 

 布をいったん片付けると、キーノが床際の軽い木片を指した。

 

「お前の方も、少しやるんだろ」

 

「ええ。先生に教わったデパルソを」

 

 木片の向こうに布を敷き、誰も射線へ入らないことを確かめる。的になる印は一つだが、木片はその左と右へ一つずつ置いた。

 

「デパルソ」

 

 左の木片が斜めに滑り、布の上へ乗った。続けて右側の木片へ杖先を移す。同じ的へ当てるには、今度は押す角度を変えなければならない。

 

「デパルソ」

 

 二つ目は的の縁に触れ、横へ逸れた。力が足りないのではなく、最初の角度をそのまま使ったせいだ。鬼太郎は立つ位置を変えずに杖先だけを修正し、もう一度試して的へ届かせる。

 

「同じ術でも、物が置かれた場所で違うな」

 

「ええ。だから、相手の盾の横へ何を弾くかが先ですね」

 

 静止した軽い木片なら、押す方向をある程度そろえられるようになった。次は物陰や動く目標があるときに、反撃を受ける前の短い時間で選べるか。その先の練習は、先生の監督が必要だった。

 

 鬼太郎は木片を戻し、キーノは布を畳んだ。

 

 やるべきことは、片方だけのものではなかった。

 

「またあの声が聞こえたら、ハリーはどうするんだろうな」

 

 布を畳み直しながら、キーノが聞いた。

 

「まず先生に知らせるよう言われています。僕らも、次は急がずに連絡できる場所を探した方がいいでしょうね」

 

「でも、本当に誰かが襲われそうなら?」

 

「その場で考えるしかありません。ただ、何も分からないまま走れば、あの夜と同じです」

 

 キーノは頷いた。

 

「なら、走る練習も必要か」

 

「走りながら杖を使う練習、でしょうか」

 

「それもだな」

 

 彼女は笑って、布をもう一度浮かせた。

 

     ◆

 

 週明けの火曜日、呪文学の授業を終えたところで、フリットウィックが鬼太郎を呼び止めた。

 

「鬼太郎、キーノ。先日相談していた時間のことですが」

 

 小柄な教授は、机の上の予定表を指した。

 

「部屋を使える日が決まりました。今日の放課後です。短い練習を中心に、参加者同士で相手を替えることもできますよ」

 

「ありがとうございます。セドリックさんたちも?」

 

「声を掛けました。全員が来られるかどうかは、当日のお楽しみです」

 

 鬼太郎は予定表の印を見た。

 

 去年、杖を落とされた相手がいた。鬼太郎に杖を落とされた相手もいた。そのどちらとも、もう一度やりたい。

 

「楽しみですね」

 

「本当に楽しそうだな」

 

 キーノが横から言う。

 

「お前、その顔で授業を受けていたら、先生が怒るぞ」

 

「授業の間は、ちゃんと聞いていますよ」

 

「ふふ。では、その調子で予習もしてきてください」

 

 フリットウィックは、使える呪文を改めて確認しておくよう告げた。

 

 勝った時よりも、なぜ当たったのか。失敗した時よりも、どう動いたのか。

 

 そういうことを話せる練習にしたいのだという。

 

     ◆

 

 その日の放課後、教室の机は壁際へ寄せられていた。

 

 床の中央には二本の線が引かれ、片側に布の的、もう片側に軽い木片が置かれている。壁際には、あらかじめ広げた厚い敷物があった。

 

「来たな」

 

 先にいたのは、セドリックだった。

 

 ハッフルパフの制服の袖をまくり、杖を持つ手首を回している。

 

「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」

 

「こちらこそ。前に言ってた盾は、少し保てるようになった?」

 

「出すことはできます。ただ、受けたあとに残しておくのは、まだ難しいですね」

 

「なら、当てない程度に試してみよう」

 

 セドリックは当たり前のように答えた。

 

 去年、そうして互いの出来ることを確認した時と、何も変わらない。

 

「今日は大勢なんだな」

 

 キーノが部屋を見渡した。

 

 壁際には、レゼが立っていた。スリザリンの緑が入ったネクタイを緩め、靴の紐を結び直している。

 

「遅かったじゃない」

 

「まだ開始前ですよ」

 

 鬼太郎が返すと、彼女は靴先で床の線を示した。

 

「今日は爆発させるのはなしだって。先生、始める前に何度も言うんだから」

 

「それでしたら、ほかの手を使う練習になりますね」

 

「言われなくても、そうするわ」

 

 レゼは言い返してから、少し笑った。

 

 レゼのすぐ横には、背の高い男子がいた。ネクタイもローブの縁も、彼女と同じスリザリンの緑だ。

 

「また先輩と話してたのか」

 

 キーノが小声で言うと、レゼがこちらを見た。

 

「だって、あの人と話すと試したいことが増えるんだもの」

 

「おいレゼ、あの横への抜け方はどうだ? 今日こそ見せてくれんのか!」

 

 男子が楽しそうに声を上げると、レゼは首を傾けた。

 

「さあ。使うって言ったら読まれるでしょう?」

 

「ははっ、言うじゃねえか! そういう方が面白ぇ!」

 

 年上の男子は声を上げて笑った。二人とも、からかい合うのに慣れているらしい。

 

 少し離れた場所には、赤みのある茶髪を後ろでまとめた女子がいて、床の線を確かめていた。

 

 女子の方には見覚えがある。

 

 去年、グリフィンドールの点数が大きく減った日の朝、鬼太郎へ最も強く怒っていた生徒だ。午後には、フリットウィックの前で杖を向け合った。

 

 レゼの横にいた男子は、別の日の練習で鬼太郎から武装解除を奪った相手だった。対戦中はやけに大きな声で煽ってきたが、最後にこちらが待った瞬間だけ、声も杖も静かになった。

 

「また会ったな」

 

 女子が先に言った。

 

「去年の借り、まだ返してねえからな。今日はあたしがその杖を落としてやるよ」

 

「もちろんです」

 

 鬼太郎が答えると、レゼの横にいた男子が口を挟んだ。

 

「お前、勝負の話だと本当に早いよな! 嫌いじゃねえぜ!」

 

「当然でしょ。今度まで同じ結果にしたくないの」

 

 彼女は男子を睨まずに言い返し、鬼太郎へ向き直った。

 

「そういや、名乗ってなかったな。エレノア・カーター、グリフィンドールの四年だ。覚えとけよ」

 

「墓場鬼太郎です。改めまして、よろしくお願いします」

 

「そっちは知ってるよ。あたしだって、あんたが何者かくらい覚えてるさ」

 

 エレノアは掌を差し出した。

 

 鬼太郎が握ると、彼女は強く握り返してから手を離した。

 

「去年の点の件は、あたしも頭に血が上った。けど、あんたに腹が立ったのは本当だよ」

 

「はい。僕も、言い方を間違えました」

 

「そいつは聞いた。……でも、決闘に誘ったのまで後悔してねえんだろ?」

 

「ええ。あの試合は勉強になりましたので」

 

「ったく、そういう奴だよな」

 

 エレノアは呆れたように鼻を鳴らしたが、握手をした手を隠そうとはしなかった。

 

「今日はあたしが勝つ。そしたらもう一回付き合えよ」

 

「楽しみにしています」

 

 男子が息を吐いた。

 

「お前ら、会うとそこから始めるんだな」

 

 今度は自分から手を差し出した。

 

「グレアム・ホルト。スリザリンの五年だ。去年、お前の杖を落とした方」

 

「覚えています。あの時は、打たれるのを待ってしまいました」

 

「ああいう時、お前が止まるのが見えたんだよな。殴り合ってる時に考え込む奴は、つい突きたくなる」

 

「今日は待ちませんよ」

 

「ははっ、いいぜ! なら俺も違う手で来てやるよ!」

 

 口調は荒っぽく、笑い声もよく通る。それでも相手の手元を見る目は、出会った頃から変わらなかった。

 

「寮が違っても、ここへ来られるんですね」

 

 鬼太郎が尋ねると、グレアムは肩をすくめた。

 

「寮で相手を選ぶ? 馬鹿言うなよ。強ぇ奴がいるのに、組み手を断るなんてもったいねえだろ!」

 

「それで、レゼさんとも?」

 

「私から声を掛けることも多いけどね」

 

 レゼが当然のように答えた。

 

「面白い動きをする人には、聞いた方が早いでしょう?」

 

「そうやって俺の手を盗んでいくんだよな。いいぜ、次はこっちも新しいのを試す!」

 

 グレアムは愉快そうに握手を終えた。レゼも笑った。彼女が普段からこの先輩によく話しかける理由は、鬼太郎にも分かる気がした。

 

 教室の外では、まだ事件の話をする生徒たちの声が聞こえている。

 

 しかし、目の前の二人が聞いてきたのは、鬼太郎が誰を石にしたかでも、犯人だと思うかでもなかった。

 

 盾をどこまで出せるか。去年から何が変わったか。今日はどう戦うか。

 

 それで十分だった。

 

     ◆

 

「それでは、始めましょう」

 

 フリットウィックが教室の中央へ立った。

 

「今日は練習です。互いに出来ることを見てもらう日で、決闘クラブの大会ではありません。上の学年の人は、年下に合わせて知っている呪文を忘れる必要はありません。ただし、使う術は私が確認したものだけ。怪我をさせる術や、許可していないものは使わないこと」

 

 レゼが頷く。

 

「それから、相手が倒れるのを待たず、私が止めたら必ず止まる。見学する人は、線の内側へ入りません」

 

 教授は一人ずつ目を合わせた。

 

 最初は、動く的と木人を使った短い練習だった。

 

 エレノアが杖を振り、壁際から吊るされた布の的を左右へ動かす。キーノはその手前で自分の布を浮かせた。二年生が既に習った浮遊術と武装解除を、どの順番で使うかが今回の課題だ。

 

「いいか、あたしが右へ動かしたら、そっちへばっかり追うなよ。後ろの木人も見ときな」

 

「分かった」

 

 キーノが布を送る。エレノアの的が右へ動いたため、一度はそちらへ寄せたが、すぐ戻さずに手前で止めた。エレノアが左へ切り返す。キーノは布を落とし、木人の手へ杖を向け直した。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光が棒に当たり、後ろの敷物へ飛ばした。

 

「当てたな。でも今は、あたしが木人を動かしてない。次はそうはいかねえぞ」

 

 エレノアはそのまま木人の足元に敷かれた板を軽く動かした。キーノが布の方へ気を取られる間に、木人の腕は半歩ぶん横へ移っていた。

 

 二度目、キーノは布を止めるところまでは同じように出来た。だが、木人を狙った武装解除は、棒の端をかすめて抜ける。

 

「おい、そっちだ。相手がさっきと同じ場所にいると思うなよ」

 

「分かってる。でも、布を動かしながら木人の足まで見てなかった」

 

「なら、あたしの手の動きも見ときな」

 

 キーノは布を拾った。三度目、彼女はエレノアの腕が動き始めたところで布を中央へ引き、木人の進路を先に確かめる。術を解くと同時に、杖を短く返した。

 

「エクスペリアームス!」

 

 今度は動き終えた木人の棒が飛んだ。

 

「よし、今のはいい! 浮かせるのが上手いかどうかじゃなく、どこで捨てるかが分かったな」

 

「そっちも、前より早く見られた」

 

 キーノは息を弾ませて笑った。三度とも同じように成功したわけではない。それでも、出来る呪文を増やすのでなく、相手に応じて使い分ける感触があった。

 

 フリットウィックも頷いた。

 

「年上の相手なら、今の反撃を防ぐかもしれません。だから一つ成功したところで終わりではない。でも、今の判断はよかったですよ」

 

 その後、レゼがエレノアと向かい合った。

 

 使うのは武装解除と、その場で認められた防護だけ。レゼは開始直後、正面へ出るように見せかけて横へ移った。

 

 エレノアは最初の動きにつられて杖を上げかけたが、すぐに立ち位置を変え、射線を空ける。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光は、レゼがいたところを通った。

 

 レゼも反撃の杖を向けたが、エレノアが先に半歩退いたため当たらない。短い応酬のあと、フリットウィックが止めた。

 

「二人とも、相手の動いた先を見ていましたね。ただ、最初の一歩に意識を取られすぎないことです」

 

 レゼは杖を下ろした。

 

「次はあの退き方、覚えておく」

 

「あたしも最初の足に釣られた。次は簡単に引っかかんねえよ」

 

 言い合う二人の声は、喧嘩には聞こえなかった。

 

     ◆

 

「よっしゃ、次は俺だ! おい、鬼太郎!」

 

 グレアムが声を張った。

 

 普段から威勢のいい男だが、手合わせが始まるとなれば声にはさらに張りが出る。レゼが顔を上げ、見慣れたものを見るように笑った。

 

「はい。お願いします」

 

 二人は床の両端へ立った。

 

 鬼太郎が黒檀を構えると、グレアムは去年と同じように、一度だけ視線を手元へ落とした。そのあと、肩と足を順に見る。

 

「さあ、去年の続きだ! あの時みたいに止まってみろ、また杖をぶっ飛ばしてやるぜ!」

 

 部屋中へ響く声だった。口元には、今すぐ戦いたくて仕方がないという笑いがある。けれど踏み出す足は、床の線から無闇に出ない。

 

 フリットウィックが合図する。

 

「エクスペリアームス!」

 

 先に撃ったのはグレアムだった。

 

 鬼太郎は右へ動く。赤い光が左肩のあった場所を過ぎた。

 

「どうしたどうした! もっと攻めてこいよ!」

 

 黒檀を返しながら、相手の杖先を見る。

 

 グレアムは、こちらが声に反応して打ってくるのを待つ素振りがない。今度は杖先を少し下げる。

 

「インペディメンタ!」

 

 鬼太郎の足が進もうとしていた線へ、動きを妨げる呪文が走った。まともに受ければ、そこで踏み出しが鈍る。鬼太郎は足を止めず、進路を横へ移した。

 

「そうだ、逃げるなら逃げろ! ならこっちはどうだ!」

 

「エクスペリアームス!」

 

 今度は杖を握る右手へ光が来た。避けたばかりの位置からは横へ抜けにくい。鬼太郎は黒檀を引き戻して唱えた。

 

「プロテゴ!」

 

 半透明の円盾が一瞬だけ形を取り、武装解除を受けた。手首へ衝撃が伝わる。

 

「おおっ、盾か! そうこなくっちゃな! 次はどうする!」

 

 楽しそうに叫びながら、グレアムは半歩だけ進路を変えた。

 

 鬼太郎は盾を保とうとせず、すぐに解いた。左へ動いて、黒檀を返す。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光に対し、グレアムは横へ退いた。盾を使う必要のない位置まで離れ、そのまま鬼太郎の手元を狙ってくる。

 

 グレアムの笑顔は本物だ。だが去年も、騒ぎながら鬼太郎が止まった瞬間を見逃さなかった。

 

 鬼太郎は床の印を踏まないよう足を返した。

 

 去年なら止まって相手の出方を見ただろう。

 

 今回は、踏み出した。

 

 距離を変えたまま、杖を次の位置へ戻す。だが、その動作は相手にも見えていた。

 

「いいぞ、そうこなくっちゃな! ほら、こっちから来いよ!」

 

 グレアムはわざと肩を開いてみせた。正面が空く。戦いを楽しんでいるのは本当だとしても、それで手元への注意が鈍るわけではない。杖先の角度を変えず、鬼太郎がどちらへ打つかを待っていた。

 

 鬼太郎は誘いに乗るふりをして、一歩だけ横へずれた。そこで呪文を放つ。

 

 グレアムの腕が小さく沈む。

 

「プロテゴ!」

 

 あらかじめ備えていたように防護が間に合い、赤い光が砕けた。

 

「そこまでです!」

 

 フリットウィックが声を掛けた。

 

 鬼太郎はすぐに杖を下ろした。グレアムも構えを解く。興奮が残ったまま、弾んだ息を整えた。

 

「今日は、ここで区切りましょう。互いに一度ずつ、防ぐか避けるかを選びましたね。ホルトさん、相手の注意を引くのは結構ですが、練習の約束は守ってくださいね」

 

「もちろんです、先生」

 

 返事は驚くほど穏やかだった。

 

「去年より待たなくなったじゃねえか! そっちの方が面白ぇよ」

 

「去年は、その間に杖を落とされましたから」

 

「ただ盾のあと、手が少し遅れたぞ。それに最後、俺の肩を見ただろ?」

 

「ええ。開いていたので、少し怪しいと思いました」

 

「怪しくても打ってくるとはな! だから戦うのは面白ぇ!」

 

 鬼太郎は右手を軽く開いた。

 

「次は、もう少し早く動けるようにしたいですね」

 

「じゃあ次は、もっと派手に誘ってやるよ。覚悟しとけ!」

 

 レゼが横から口を挟んだ。

 

「先輩、毎回あんなに騒ぐの、喉が痛くならないの?」

 

「お前が隣で喋ってるのに比べりゃ楽なもんさ!」

 

「それ、私のこと?」

 

「ほかに誰がいるんだ」

 

 軽口のあと、グレアムはもう一度鬼太郎へ向いた。

 

「どの寮だろうが、強ぇ相手とやれりゃ最高だろ!」

 

 慰めでも、年下へ気を遣う言葉でもなかった。彼自身が次の勝負を欲しがりながら、相手の直したい点まで聞き取っている。

 

 鬼太郎は笑った。

 

「それでしたら、ますます楽しみです」

 

     ◆

 

 休憩のあと、セドリックと短く手合わせした。

 

 セドリックは「ロコモーター・モルティス」と唱えて、鬼太郎の踏み込む足を狙った。脚縛りを避けて横へ出たところへ、すぐに武装解除を重ねてくる。鬼太郎は盾を使わずに間合いを外した。

 

 前に見た動きだ。けれど、同じ速度ではなかった。

 

 セドリックの方も、鬼太郎がどこで足を止めるかをよく見ている。

 

「エクスペリアームス!」

 

 鬼太郎は攻めに転じ、相手の右肩を狙う。

 

 セドリックが腰を引き、光が前を抜ける。

 

「悪くない。でも、いまのは僕の肩を見てから撃ったね」

 

「動く前に決めてしまうと、外れそうでしたので」

 

「そうだね。けど、見てからじゃ遅いこともある」

 

 次の構えを取ろうとしたところで、教授が終了を告げた。

 

 勝敗はつかなかった。

 

 鬼太郎は物足りなさを覚えたが、セドリックが真剣に考えて打ってくれたのは分かった。

 

「今度はもう少し、長くお願いします」

 

「時間が取れたらね。僕も、もう少し続けたかった」

 

 セドリックは笑い、握手を求めた。

 

 鬼太郎はその手を取った。

 

 窓の外は、すっかり夕方の色になっている。

 

     ◆

 

 片づけが始まると、エレノアは床の印を消す役を引き受けた。グレアムは木片をまとめ、レゼは布の的を元の箱へ戻す。

 

「次はあたしが先に相手を取るからな」

 

 エレノアが鬼太郎へ言った。

 

「はい。お待ちしています」

 

「その返事、勝てるって決めつけてるみてえで、腹立つんだよ」

 

「勝ちたいとは思っています」

 

「あたしもだよ。だから楽しみなんだろ」

 

 彼女はそう言って、杖を鞄へしまった。

 

 グレアムがその横で、木片の数を数える。

 

「よし、先生に次の予定を聞きに行くか!」

 

「次も来るんでしょう、先輩」

 

 レゼが尋ねると、彼は顔を上げた。

 

「当たり前だろ! 今日はまだ途中で終わっちまったしな!」

 

「私も、次は違う動き方を試す。先輩にばかり手を読まれるの、癪だもの」

 

「ははっ、そう言っていつも聞きに来るじゃねえか!」

 

「上手い人から習うのは、悪いことじゃないでしょ?」

 

 同じ緑のネクタイが二つ、揃って揺れた。

 

 キーノが布を抱えて戻ってくる。

 

「私も。浮遊のあとで武装解除へ繋げると、相手が動く速さでまだ変わる。今日は一度、動く木人に当てられたけど」

 

「それを、自分で分かっているなら続きは出来ますね」

 

 フリットウィックが道具を確かめながら言った。

 

「今日、出来たことまで忘れないように。次に会う時は、また違うところが見えるはずです」

 

 皆が返事をし、教室の戸が開いた。

 

 廊下には、まだ事件の話が漂っていた。

 

 誰かが鬼太郎の方を見て、声を潜める。壁の向こうでは、「秘密の部屋」という言葉が聞こえた。

 

 エレノアはそちらを一度見ただけで、鬼太郎に振り向いた。

 

「次も右ばっかり逃げたら、そこをぶち抜いてやるよ」

 

「では、左へ行きましょうか」

 

「口に出したら意味ねえだろ。あんた、ほんと調子狂うな!」

 

 グレアムが吹き出した。セドリックも、キーノも笑った。

 

 鬼太郎は、次の練習で本当に左へ出す足を思い浮かべた。

 

 次に会う時、エレノアは何を狙うだろう。グレアムはどこでこちらを待つだろう。セドリックには、何を見せればいい。

 

 鬼太郎はキーノと並んで階段へ向かった。

 

 翌日の授業で使う本を取りに戻る途中、鞄の中で練習記録の羊皮紙が小さく揺れた。

 

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