第二十三話 消える前に
サイラス・ウォードの依頼を受けてから、二週間が過ぎた。
鬼太郎が英国へ来て、五か月半ほどになる。
ベケットから渡された三つの住所を、鬼太郎は順に調べた。
一つ目の家には、ウォードと無関係な家族が住んでいた。
半年前に越してきてから、似顔絵の男を見たことはないという。
二つ目は空き家だった。
家具はなく、床には埃が積もっている。窓の留め具も内側から錆びつき、人が出入りした跡はなかった。
三つ目は、閉店した製本所の二階にあった。
表の看板は外され、作業場に残っているのは重い机と棚だけだった。
二階の一室を、ウォードは以前から借りている。
家主は一階の奥に住んでいた。
「まだ、あの部屋を使っているのですか?」
鬼太郎が似顔絵を見せると、家主は声を落とした。
「家賃は届く。だが、階段を上がるところは見ていない」
「部屋に来ていない?」
「夜になると、窓に明かりが見えることがある。確かめに上がれば、もう消えてる。裏に階段でも作ったんだろう」
建物の裏側には、高い煉瓦の壁しかない。
鬼太郎は一階と二階を調べた。
壁を叩き、床板の高さを比べ、棚も動かす。
人が通れる空洞も、隠された階段も見つからなかった。
それでも、二階の部屋にだけ新しい蝋の跡がある。
暖炉には、古い灰の上へ落ちた黒い燃えかすが残っていた。
誰かが部屋へ入り、灯りと火を使っている。
だが、家主の前を通っていない。
鬼太郎は、出入口を探すのをやめた。
ウォードが出入口を必要としないなら、見つからないものを探し続けても意味はない。
◆
鬼太郎は、ウォードが出入りしていた古書店を回った。
最初の二軒では、似顔絵を見せても知らないと言われた。
三軒目の店主だけが、紙を手に取った。
「名前は知らん。だが、この顔なら覚えている」
店主は鬼太郎の置いた情報料を数え、硬貨を帳場の下へしまった。
「何をお探しでしたか?」
「古い本だ。どこで刷られたかも分からん、題の一部しか読めない本を捜していた。金なら出すと何度も来た」
「見つかった場合、連絡する方法は?」
店主は帳場から、小さな紙片を出した。
そこには別の名前と、私書箱の番号が書かれていた。
「これを使えと言われた。だが、本は見つからなかった」
鬼太郎は紙片の文字を書き写した。
買い手の事務所へ戻り、似た時代の古書を一冊用意させる。
表紙は擦れ、頁の端は茶色く変わっている。
ウォードが捜しているものではない。
布で包めば、開くまでは分からなかった。
「国外から持ち込まれた。捜していた本かもしれない。確認したければ、三日後の夜に指定した場所へ来い」
そう書いた手紙を、古書店の店主から私書箱へ送らせた。
受け渡し場所には、閉店した製本所を指定した。
ウォードが扉を使わず二階へ入れるなら、慣れた建物の方が警戒を弱める可能性がある。
来なければ、別の餌を使えばよい。
鬼太郎は、返事を求めず三日待った。
◆
約束した夜、鬼太郎は製本所の作業場で待った。
正面の扉には、内側から錠を掛けている。
裏口と窓も閉じた。
机の上には、布で包んだ古書を置いた。
鬼太郎は机から離れ、部屋全体を見渡せる壁際に立つ。
上着の下には〈シュライク〉がある。
約束の時刻を過ぎても、扉は動かなかった。
外の足音も聞こえない。
来ないのであれば、今夜は終わりだった。
そう考えたとき、乾いた破裂音が響いた。
鬼太郎の視線が、作業場の中央へ動く。
少し前まで誰もいなかった場所に、男が立っていた。
頬が痩せ、暗い色の外套を着ている。
サイラス・ウォードだった。
扉も窓も開いていない。
床にも、男が隠れられる場所はなかった。
ウォードは周囲を見回し、机の上の包みへ目を止めた。
それから、壁際にいる鬼太郎を見る。
「店の者はどうした」
「来ませんよ」
「では、お前は誰だ?」
「墓場鬼太郎と申します」
鬼太郎は壁から離れた。
「ハロルド・ベケットさんから、あなたを捜すよう頼まれました」
ウォードの顔から、わずかに力が抜けた。
驚いたのではない。
子供が一人で立っている理由を理解し、かえって警戒を解いたように見えた。
「あの男は、とうとう子供まで使い始めたのか」
「黒い帳簿と、宝石の入った革袋をお返しください。あなたも一緒に来ていただきます」
「本は?」
「あなたに来ていただくための偽物です」
ウォードは机の包みを見た。
その右手が、外套の袖口へ寄る。
鬼太郎の右手も、上着の下へ入った。
ウォードの袖から、細い棒が現れる。
ブルガリアの家で見たものと、よく似た形だった。
鬼太郎が〈シュライク〉を抜く。
ウォードは棒を向け、短い言葉を発した。
見えない何かが、鬼太郎の右手を打った。
指が開く。
〈シュライク〉が手を離れ、床を滑った。
壁際まで飛び、木箱へ当たって止まる。
痛みの残る右手を見ている時間はない。
ウォードが、もう一度細い棒を向けていた。
◆
「怖がる必要はない」
ウォードの声は、追跡者から逃げている男のものとは思えないほど落ち着いていた。
「私に会ったことを、少し忘れるだけだ」
「それで、以前の方は顔を思い出せなかったのですね」
鬼太郎は左手を上げた。
「アギ」
炎が放たれる。
ウォードは目を見開き、横へ飛んだ。
炎は男がいた場所を通り、背後の作業台へ当たった。
乾いた木の表面が燃え上がる。
ウォードは重い机の陰へ身を伏せた。
「杖もなしに魔法を使ったのか」
鬼太郎は、燃える作業台から距離を取る。
「その言葉は、初めて聞きました」
「何?」
「魔法、という言葉です」
机の脇から、細い棒の先端が見えた。
鬼太郎は横へ動く。
直後、さきほどまで立っていた壁が大きく鳴った。
何かに殴られたように、木の板が割れる。
「自分が何者かも知らないのか。どこの魔法使いだ、お前は」
「それを、あなたに教えていただこうと思っています」
鬼太郎は燃えている作業台の陰へ回った。
炎がウォードから〈シュライク〉を隠している。
だが、鬼太郎からも見えない。
床に落ちた位置は覚えていた。
木箱の手前まで、あと数歩。
ウォードが机の陰から立ち上がる。
鬼太郎ではなく、部屋の空いた場所へ顔を向けた。
足を揃える。
細い棒を身体へ引き寄せた。
袋小路で消えたときも、閉ざされた部屋で消えたときも、同じ動作をしたのかもしれない。
鬼太郎は足を止めた。
「プリンパ」
ウォードの身体が強張る。
空いた場所へ向いていた目が、炎と机の間を迷った。
自分がどちらを向いていたのか、分からなくなったように一歩よろめく。
乾いた破裂音は鳴らない。
鬼太郎は木箱へ走った。
ウォードもすぐに細い棒を上げる。
プリンパは、相手を従わせる力ではない。
長く止めておくこともできない。
ただ、一度逃げるための時間を奪えば、それでよかった。
鬼太郎は床から〈シュライク〉を拾い、右手で構えた。
ウォードの棒も、鬼太郎へ向く。
二人の間で、作業台の炎が揺れている。
鬼太郎の口元に、戦うときの笑みが浮かんだ。
「魔法使い、ですか。ようやく、あなた方の名前を知りました」