見えない酒場
第二十五話 見えない酒場
サイラス・ウォードを引き渡してから、五日が過ぎた。
右手の痛みは消えていた。
右肩と背中にはまだ薄い痣が残り、身体を大きく捻れば脇腹も痛む。左手首の火傷には新しい布を巻いているが、歩くことに支障はない。
鬼太郎は、その五日間、一度も〈シュライク〉を撃たなかった。
撃てることと、撃つべきことは別だった。
英国側の買い手へ金を払い、ロンドンへ荷を運ぶ車に同乗する。荷台の隅で揺られながら、鬼太郎は何度も地図を開いた。
鞄には現金、予備の弾薬、ロンドンの街路図。それから、漏れ鍋の場所と、奥の壁にある煉瓦の並びを書いた紙が入っている。
上着の内側には〈シュライク〉と、ウォードから奪った杖を隠していた。
両親を襲った男の杖と、父が英国で生まれたことを示す書類は、借りている個室の床板の下へ残してある。一度にすべてを持ち歩く必要はない。
車は昼前にロンドンへ着いた。
降ろされた場所から先は、一人で歩く。
◆
通りには、人と車が絶え間なく流れていた。
靴音。車輪の音。呼び込みの声。開いた扉から漏れる音楽。
鬼太郎は道の端へ寄り、建物に掲げられた表示と地図を見比べた。
父から教わった英語と、英国へ来てから覚えた英語を合わせれば、道の名前は読める。だが、行き交う人々の会話は速い。いくつもの声が重なると、単語を拾うことさえ難しかった。
分からない声を無理に追わず、必要な文字だけを探す。
同じ角を二度通らないように道を選び、店の窓へ映る背後を確かめる。
尾けてくる者はいなかった。
やがて、地図の印をつけた場所へ着いた。
ウォードから聞き出したとおりなら、目的の店は二軒の店の間にある。
鬼太郎は通りの反対側で立ち止まった。
古びた、小さな酒場があった。
煤けた壁。汚れた窓。風雨に晒され、文字の薄れた看板。
見落とすほど小さいが、隠れてはいない。
それにもかかわらず、誰も店を見なかった。
男が看板の下を通り過ぎた。視線は酒場へ向く前に、その隣の店へ滑っていく。
二人連れの女は、酒場の前で人を避けた。扉へ肩が触れそうになったのに、そこに何があるのか確かめようともしない。
道を尋ねるため立ち止まった者も、酒場だけを抜かして左右の建物を見比べている。
鬼太郎は地図を畳んだ。
見えないのか。
それとも、見えていても意識できないのか。
自分には、普通の店と同じように見えている。
父の血によるものか。自分が使う炎によるものか。今ある材料だけでは、どちらとも決められない。
確かなのは、ウォードが嘘をついていなかったことだけだった。
鬼太郎は通りを渡り、扉を押した。
◆
外の喧騒が、扉一枚を隔てて遠くなった。
店内は暗かった。
窓から入る光は弱く、壁際の灯りが卓上をぼんやり照らしている。煙草の煙と酒、煮込んだ肉、濡れた外套の匂いが混ざっていた。
十数人の客がいる。
古い新聞を広げた老人。
湯気の立つ皿を挟み、小声で話す二人の女。
卓上の紙へ何かを書き込みながら、時折向かいの男へ顔を寄せる者たち。
変わった形の帽子や丈の長い外套を身につけた者もいれば、外を歩く人々と変わらない服装の者もいた。
鬼太郎が見たのは、服ではなかった。
卓上に細い杖を置いている者が二人。
袖口へ手を入れる癖のある男が一人。
外套の内側が、細長く膨らんでいる者が三人。
新聞を読んでいる老人は、扉が開くたびに紙面の上から目だけを動かしていた。
ウォードのように、あの杖から何が出てくるかは分からない。
だが、この店では、何人もが同じ道具を持っている。
入口近くの客が鬼太郎を見た。
その隣も振り返る。
一人で入ってきた外国人の子供は、珍しいらしい。
「坊や」
店の奥から声をかけられた。
禿げた年配の男が、磨いていた器を置く。
続けて何かを尋ねられたが、言葉が速かった。
「すみません。もう少し、ゆっくりお願いします」
鬼太郎が答えると、男は一度眉を上げた。
「連れは、いるのか?」
今度は、一語ずつ区切るように尋ねてくる。
「人を待っています」
「ここで?」
「はい」
男は鬼太郎の背後にある扉を見た。
それから、上着の膨らみや鞄へ短く視線を落とす。
「そうか」
信じた顔ではなかった。
だが、追い出そうともしない。
鬼太郎は壁際の空いた椅子へ座った。
身体を休めるふりをして、店の中を見る。
客は酒を飲み、食事をし、紙に書かれた金額を指で示していた。笑う者もいれば、相手の返事に顔をしかめる者もいる。
両親を殺した者も、ウォードも魔法使いだった。
だが、ここにいる者すべてが同じ目的で動いているわけではない。
使う道具と暮らす場所が違っても、人間は金を払い、話をし、互いの様子を窺う。
それなら、この社会にも規則がある。
規則があるなら、外れる者もいる。
鬼太郎は、奥の扉から入ってきた男へ目を向けた。
男は空の木箱を二つ抱えていた。店主と言葉を交わし、そのまま店の外ではなく、再び奥の扉へ向かう。
外套の内側には杖らしき膨らみがあった。
鬼太郎は椅子から降りた。
「もういいのか?」
店主が尋ねる。
「待つ場所を、間違えたようです」
鬼太郎はそう答え、男が消えた奥の扉へ向かった。
◆
扉の先は、小さな中庭だった。
四方を煉瓦の壁に囲まれ、隅には古いごみ箱が置かれている。
先ほどの男が、行き止まりの壁の前へ木箱を下ろした。
鬼太郎は扉の陰から見ていた。
男が外套から杖を抜く。
杖先が煉瓦へ触れた。
一度。
位置をずらして、もう一度。
ウォードに言わせた場所と同じだった。
煉瓦が震えた。
中央の一個が奥へ引っ込み、隣の煉瓦が横へ滑る。動きは周囲へ広がり、行き止まりだった壁に穴が開いていく。
煉瓦同士がぶつかる音を立てながら組み替わり、最後には、人が通れるほどのアーチになった。
男は杖をしまい、木箱を持ち上げて通路へ入る。
破壊したのではない。
決められた場所へ杖で触れ、建物に組み込まれた仕掛けを動かした。
鍵と同じだった。
ただし、扉そのものが壁へ隠されている。
鬼太郎は紙を取り出さなかった。叩いた場所も順番も、既に覚えている。
煉瓦が閉じ始める前に、男の後を追ってアーチをくぐった。
◆
壁の向こうには、一本の通りが続いていた。
左右へ並ぶ建物は狭く、古く、二階より上が石畳へ覆い被さるように傾いている。
窓には箒が吊られていた。
別の店では大小の大鍋が積み上げられ、値札が下がっている。
羽根ペン、望遠鏡、薬草、瓶へ詰められた粉。細長い箱を抱えて出てくる親子の姿もあった。
梟の鳴き声が頭上から降ってくる。
店先の籠や檻には、見たことのない色や形をした生き物もいた。
鬼太郎は足を止めず、その戸締まりと檻の太さを見た。売られている物なら、使い道と値段がある。生き物なら、餌と扱い方も必要になる。
目についたものを順に覚える。
杖は、武器であると同時に鍵にもなる。
薬草と瓶の中身は、毒にも薬にもなり得る。
箒が飾りでないのなら、移動へ使う物だろう。
書物を積み上げた店もある。
知らないことを調べる場所には困らないらしい。
通りの奥には、周囲の店とは違う白い建物が見えた。入口の上には、グリンゴッツという名と、銀行を示す文字が掲げられている。
入口へ向かう者たちは、硬貨の入った袋や書類を持っている。親に手を引かれた子供もいたが、一人で入っていく幼い者はいない。
鬼太郎は白い建物へ向かわなかった。
魔法界の金を持っておらず、連れもいない。何を尋ねられるかも分からない場所へ、六歳の外国人が一人で入る必要はなかった。
まずは、この通りを知るべきだった。
魔法使いたちは、買い物をしていた。
値段を聞き、品物を比べ、子供を叱り、荷物の重さに顔をしかめている。
壁の向こうに隠れていても、していることまで別物ではない。
表の通りがこれだけ賑わっているのなら、人目につかない品を扱う場所もあるはずだった。
鬼太郎は、店と店の間に伸びる細い路地へ視線を向けた。
「隠れているわりには、随分と賑やかな世界ですね」
誰に聞かせるでもなく呟き、石畳の上を歩き始めた。