第25話 五分の二
運び屋が壁へ肩を預けたのは、倉庫から三つ目の角を曲がったところだった。
息を吸うたび、腫れた頬が動く。
鬼太郎は近くの窓を見た。内側に灯りはなく、来た道から続く足音もない。男を座らせ、肩へ食い込んでいた布を少し緩めた。
「引渡し先まで、あとどれほどです?」
「川を離れて、二つ目の橋を北だ」
男が答えた。
指定された場所と同じだった。鬼太郎は通りの先を見た。古い荷車置き場の奥にある建物で、両替所とは別の場所だ。
サーシェスは少し離れた角に立っていた。
「歩けねえなら、担ぐか?」
誰へ言ったのか分からない声だった。
鬼太郎が振り返ると、男は口の端を上げた。
「別料金だがな」
「もう少し休めば、歩けそうです」
「俺は自分で歩く」
運び屋が壁へ手をついた。
鬼太郎は急かさず、立てるまで待った。男の休む時間に合わせて、背中の鞄の結び目も直せた。布の内側へ指を入れ、封のある面が押し潰されていないことを確かめる。
男が顔を上げた。
「そればかり気にするんだな」
「あなたには、お話ししていただけますから。破れていないかと尋ねても、鞄は答えませんので」
「俺は破れてる」
「ええ。ですから、休んでいただいています」
サーシェスが低く笑った。
運び屋は返事をせず、壁から背を離した。
◆
荷車置き場の奥の扉には、鉄板が張られていた。
指定の間隔で叩くと、覗き窓が開く。鞄と運び屋の顔を見せて待つ間、サーシェスは後ろの通りを見ていた。
「入れ」
扉を開けた男が言った。
「鞄を渡せ」
「確認する方の前で、お渡しします」
「俺が受け取れば済む」
「その方も、同じようにおっしゃるとよいのですが」
鬼太郎は、男の手へ鞄を移さなかった。
男が眉を寄せる。
「封が無傷か、今ここで見てください。受け取ったあとで傷があったと言われても、僕には確かめられません」
「坊主の言う通りだ」
サーシェスが通りから顔を戻した。
「あとで揉めると、俺の金まで遅れる。払う奴の前で受け取れ」
男は二人を見比べ、扉を広く開けた。
奥は、使われなくなった荷車の修理場だった。
机に仲介人と、手袋をした灰色の外套の男がいる。鬼太郎が入ると、二人とも先に運び屋へ目を向けた。
「本人と、生存を確認してください」
鬼太郎が言った。
灰色の男は、運び屋へ名を尋ねた。荷を受け取った場所と、封の形も答えさせる。
鬼太郎は会話が終わるのを待ち、背負った鞄を下ろした。布を外し、両手で支える。
「ひどくやられているな」
灰色の男が運び屋を見た。
「生きていれば追加でしたね」
仲介人が契約の控えを確かめた。
「負傷は、減額の条件に入っていない」
「俺は、歩いて戻ってきたぞ」
運び屋が机へ手を置く。
灰色の男は、その腫れた指を一瞥した。
「認めよう」
次に、鞄を調べた。
細い金属棒で赤い封蝋の縁をなぞり、留め具と革の継ぎ目を順に見る。鬼太郎は確認が済むまで手を離さなかった。
「封は本物だ。開けた跡もない」
「その状態でお受け取りになったと、確認してください」
仲介人がうなずいた。
鬼太郎は机へ鞄を置き、取っ手へ相手の手が掛かるのを見てから放した。
肩から、ようやく重さが消えた。
包んでいた布を畳むと、内側に革の粉が少しついていた。鬼太郎はそれを払い、鞄へ収める。灰色の男は机の書類鞄を自分の側へ寄せた。
さっきまで背中にあったものなのに、もう鬼太郎が動かす品ではない。
運び屋も、机の脇の椅子へ座らされた。扉を開けた男が水を持ってくる。飲む手は震えていたが、誰もその杯を代わりに持とうとはしなかった。
鬼太郎はその男から目を離し、仲介人が出す袋へ向き直った。
何を運んだのかは、最後まで知らないままだった。
灰色の男も、ここで中を開けようとはしなかった。
仲介人が、基本分と追加分を出した。鬼太郎は額が合うことを確かめ、机の端へ寄った。
硬貨が五つに分けられる。
三つは鬼太郎へ、二つはサーシェスへ。
続いて追加分を分け始めたところで、サーシェスが口を開いた。
「運び屋を連れ出したのは、坊主だ」
仲介人の手が止まった。
「分け方を変えるのか?」
「変えません」
鬼太郎は答えた。
「追加も、同じ割合と決めています」
「俺は縄を解いてねえぞ」
サーシェスは自分の側にある二つへ触れず、鬼太郎を見ていた。
「川側を見ていただいていたので、解く時間がありました」
「二階から鞄を持って降りたのも、お前だ」
「それで、基本分は僕が多くいただきます」
鬼太郎は相手の取り分へ目を落とした。
「今から、こちらへ譲るというお話でしたら、別ですが」
サーシェスが歯を見せた。
「冗談じゃねえ。約束した分はもらう」
「では、そのままで」
仲介人は止めていた手を動かし、追加分を配り終えた。
鬼太郎は自分の分を袋へ移した。サーシェスも数え、何も言わず上着へ収める。
灰色の男が、机の鞄から顔を上げた。
「倉庫にいた者は?」
「四人死んだ。俺が三人、坊主が一人。あと二人は生きてる」
サーシェスが言った。
「正面には防護があったはずだ」
「ありました」
鬼太郎が答える。
「破ったのか」
「別の場所から入りました」
「どこから?」
鬼太郎は、仲介人が閉じかけた控えを見た。
そこまで報告する条件はなかった。
灰色の男は鬼太郎の視線を追い、尋ねるのをやめた。
「噂より、慎重な子供だ」
「どのような噂でしょう?」
「工場を焼いて、呪いを破ったという話だ」
「鞄まで燃えなくて、よかったですね」
サーシェスが横で笑った。
鬼太郎は袋の口を閉じた。
◆
外へ出ると、運び屋は建物に残った。
治療を受けるのか、別の仕事へ戻されるのかは、鬼太郎が決めることではなかった。
サーシェスは通りへ出る手前で足を止めた。
「俺は西だ」
「僕は南へ行きます」
「ついてくんなよ」
「同じお願いをしようと思っていました」
二人は少しの間、相手を見た。
サーシェスは鬼太郎の袋へ手を伸ばさず、寝床も尋ねなかった。鬼太郎も、男がどこへ帰るかは聞かなかった。
「また、人数の足りねえ仕事があったら呼べ」
「条件が合えば」
「面白え仕事を頼むぜ」
男は西へ向かって歩き出した。
鬼太郎は、その背を少しだけ見た。
暗くなった窓を捨て、別の場所へ動いたことも、分配を変えず受け取ったことも覚えている。
次も同じように働くかは、もう一度組めば分かる。
そのために帰り道まで同じにする必要はなかった。
個室へ戻った鬼太郎は、鞄を下ろす前に錠を確かめた。
床下も動かされていない。
銃を手入れし、使った三発を補った。新しい怪我はなく、プリンパを使ったあとの頭痛もなかったが、肩には鞄を背負っていた重さが残っている。
鬼太郎は布を畳み、机へ置いた。
その隣には、まだ読んでいない本の頁が待っていた。
◆
三日休んでから選んだのは、一人で受けられる帳簿回収だった。
魔法薬の材料を横流しした元在庫係が、取引先を書いた黒い革表紙の帳簿を持ち逃げしたという。
仲介人は、名前と最後に見た場所、使っていた店の一覧を一緒に出した。危険を尋ねる前に、武装した協力者がいるかもしれないと付け加える。
鬼太郎は期限と欠けた頁の扱いを確かめ、受けた。
元在庫係は寝床を二度変えていた。
二つ目の部屋に残された帳簿の一頁には、強い匂いがついていた。薬種店を回って聞くと、洗濯に使う香り消しだと分かった。
周辺で、昼でも鎧戸を閉じていた洗濯屋を見つけた。
正面扉には銀糸が渡されていたので、夜を待ち、裏の石炭口から入った。
地下に並ぶ木箱から、横流しされた材料らしい瓶や乾いた葉が見えた。
階上では、帳簿を燃やす前に写しを売れと話していた。
鬼太郎は階段の下へ箱を寄せ、音を聞いて降りてきた男の手を撃った。続いて、帳簿を抱えて現れた元在庫係がランプへ手を伸ばす。
二発目で、その腕を止めた。
切り取った残りの頁は、洗濯籠の中にあった。
帳簿を揃えて渡すと、材料にも追加が出た。
その次の依頼書には、扉の防護を壊さず入った子供を使え、と追記されていた。
鬼太郎はその文を読み、紙を裏返した。
仕事の条件は、表に書かれたとおりだった。
それから幾つかの小仕事を受けた。
銀の秤を取り戻し、支払金を持って逃げた運び手を連れ帰った。呪物商の使いが落とした封筒を、別の買い手へ渡る前に回収したこともある。
報酬は弾薬や食事、本と部屋代へ変わり、残った分が床下へ増えていった。
知らない単語は辞書で調べた。仕事で同じ言葉を聞くと、次には紙を見なくても意味が分かった。
新しい依頼書を読むときには、以前の紙も取り出した。同じ言葉が、別の仕事では少し違う条件につながっていることがある。回収と言っても、品を見つければよい場合と、本人の前へ戻して初めて終わる場合があった。
知らないところを聞くと、仲介人はときどき面倒そうな顔をした。それでも、尋ねたことには答えるようになっていた。
鬼太郎が説明を待って立つ間に、別の客が先へ通される日もある。急かされれば、分かるまで待つか、その日は別の仕事を選んだ。
サーシェスを呼ぶ理由のない仕事では、一人で行った。
男からも、理由のない誘いは来なかった。
◆
雨を弾く外套が必要になったころ、仲介人が封印された鉄箱の護送を持ちかけた。
屋根つきの荷車へ固定し、依頼人の御者が運ぶ。襲撃される見込みは高いが、人数は分からないという。
鬼太郎は説明を聞き終えてから言った。
「サーシェスさんにも、話をお願いします」
再会した男は、以前より短い銃を持っていた。
腰にリボルバー、上着の内側には煙を出す円筒が二本ある。
「今度は、窓から撃つ仕事じゃねえからな」
「箱と一緒に走れるものを選んだのですね」
「話が早くなったじゃねえか、坊主」
鉄箱は荷台へ固定されていた。
黒い蝋と細い鎖の封を二人で見て、開けないことを確かめる。箱を外すのは、緊急時を除いて認められていない。
出る前に、二人で荷車の周りを歩いた。荷台から後ろの道は見えるが、屋根の上とすぐ前の地面は見えない。鬼太郎が顔を出す位置を示すと、サーシェスは銃を構えず、そこから前へ伸びる線を指で確かめた。
「そこへ立ちっぱなしになるなよ。こっちからも見えなくなる」
「立つより、箱の横へ屈むつもりです」
「ならいい」
鬼太郎が荷台へ、サーシェスが御者台の脇へ座った。
雨が屋根を叩いていた。
街道を離れ、倉庫の並ぶ古い貨物路へ入ると、前方に倒れた荷車があった。道の大半を塞いでいる。
御者が馬を止めた。
「朝にはなかった」
「右へ寄せろ」
サーシェスが言った。
「通れないぞ」
「真ん中で待ってやる必要はねえ」
屋根の端で、光が生まれた。
鬼太郎は荷台へ身を伏せた。赤い光が、直前まで頭のあったところを通り、反対の壁へ当たる。
後ろの路地からも、三人出てきた。
「坊主、箱を見ろ」
サーシェスは後ろへ向かなかった。
円筒を一つ投げる。
荷車の後ろで白い煙が噴き出し、追ってくる者たちを隠した。
前の倒れた荷車から、別の男が立った。杖を上げる。
盾ができるより先に、サーシェスの銃が二度鳴った。
男が倒れ、光が消えた。
「右の倉庫へ入れ!」
サーシェスが御者台から飛び降りた。
鬼太郎は示された扉を見た。半分開いたままで、雨に濡れた地面へ新しい車輪の跡はない。
「使われていない場所ですよ」
「だから、前で待ってる奴がいねえ」
サーシェスは短銃を肩へ掛け、両手で扉を広げた。
御者が馬を右へ向ける。
箱が揺れた。
鬼太郎は固定した縄の結び目を押さえ、荷台の縁へ足を張った。銃はまだ抜かない。箱が外れれば、逃げるどころではなかった。
荷車が暗い倉庫へ入る。
サーシェスが先へ走った。
「突き抜けろ。奥にも扉がある!」
正面の明かりが遠ざかる。
後ろの煙から一人が出てきた。盾を前に置き、荷台へ杖を向ける。
鬼太郎は箱の縄から手を離した。
揺れの収まった床へ膝をつき、左の掌を、男ではなく入口の脇へ向けた。
「アギ」
空の麻袋が燃え上がった。
積まれていた袋が崩れ、追手と荷車の間へ火を落とす。男は盾を保ったまま足を止めた。
奥で重い戸が軋んだ。
外の雨明かりが入ってくる。
御者が手綱を振り、荷車は細道へ抜けた。サーシェスが最後に出て扉を引く。
「そのまま行け!」
後ろで戸を叩く音がする。
サーシェスは追手へ戻らず、荷台の後ろへ飛び乗った。
雨の中で、箱を留めた縄が軋んだ。鬼太郎はもう一度結び目を確かめ、男へ顔を向ける。
「道が変わりましたね」
「待ち伏せに戻りたかったか?」
「いいえ。この方がよいです」
サーシェスは、濡れた髪を顔から払った。
追手はまだ生きている。
それでも男の銃は、戻る方向へ向かなかった。
◆
箱の封は、最後まで切れなかった。
引渡し先の男は荷車を見るなり、違う道から来た理由を聞いた。サーシェスが答える間、鬼太郎は御者と一緒に固定具を外した。
検分した男が、封に問題はないと認める。
そこでようやく、箱が荷車から下ろされた。
報酬を受け取って外へ出ると、雨は少し弱くなっていた。
「追わなかったのですね」
鬼太郎が言った。
「誰をだ」
「煙から出てきた方々です。あなたなら、もう少し撃てたでしょう」
「箱を置いてか?」
サーシェスは袋を上着へ収めた。
「殺しは好きだが、ただ働きは嫌いなんでね」
「そうですか」
「がっかりしたか?」
鬼太郎は首を振った。
「評価を上げました」
サーシェスが笑う。
「そいつは、次の取り分に入るのか?」
「入りません。役に立たなければ、次に声をかける理由がなくなるだけです」
「相変わらず、安い褒め言葉だ」
男は鬼太郎の肩越しへ通りを見てから、道の反対へ渡った。
鬼太郎も、自分の帰る方へ歩き始めた。
サーシェスは殺せる相手を見つけても、仕事を捨てなかった。
倉庫のときと違う役目を渡しても、その場で使う武器と道を選び直す。
今度、あの男に任せるなら、最初からそこまで考えられる。
鬼太郎は襟を立て、雨の入らないよう鞄の口を押さえた。
濡れた石畳には、二人分の足音が別々の方角へ遠ざかっていった。