第26話 名前の代価
サーシェスと三度目に組んだとき、鬼太郎は合図を一つ減らした。
運河沿いの倉庫で、追い出す相手は二人の密輸商だった。鬼太郎が裏へ回ると、サーシェスは何も尋ねず、高い窓を見られる場所へ移った。
窓の下を通る前に、鬼太郎は一度だけ顔を上げた。
男の銃は別の方を向いていた。
その線を避けて進み、扉の向こうへ入る。
仕事を終えてから、サーシェスが言った。
「いちいち呼ばなくなったじゃねえか」
「呼ばなくても、そちらへ動かれましたので」
「来なかったら?」
「別の入り方を考えます」
男は笑い、自分の取り分を持って帰った。
それからも、一緒の仕事ばかりではなかった。
サーシェスが別の雇い主と出ていれば、鬼太郎は一人でできる依頼を選んだ。鬼太郎が他の町へ行っている間には、男も別の報酬を受け取っていた。
同じ部屋へ帰らず、何もない日に会うこともない。
だが、次に組むとき、前の説明を繰り返すことは減っていった。
火を使えない場所では、サーシェスが先に逃げ道を見た。長銃を高いところへ置くなら、鬼太郎はその下を横切らない道を探す。
一度で通じたことが、次も通じる。
その分だけ、仕事の前に別のことを確かめられた。
◆
袖から手首が出るようになり、鬼太郎は上着を買い替えた。
前と似た色でも、脇に余裕のあるものを選ぶ。鏡へ映してみると、銃を隠すには少し大きかったが、腕を伸ばしても裾がついてくる。
個室へ戻り、古い上着からホルスターを移した。
握りにも、指の当たる場所の違いがある。
ペタルは、身体が育てば銃が合わなくなると言っていた。
鬼太郎は弾を抜いた〈シュライク〉を構え、下ろした。細い指へ合わせて作られたものを、いつまでも同じ形で使えるわけではない。
手入れの道具と一緒に、調整の必要を覚えておく紙を置いた。握りの当たりはわずかに直したが、銃そのものを別のものへ変えるつもりは、まだなかった。
使える魔法も増えていない。
アギを放ち、プリンパで相手の認識を乱し、かかった異常にはパトラを試す。
同じ手段でも、使わずに済ませる場所は分かるようになった。
瓶の多い部屋へ火を入れない。人質と敵が重なるところで、混乱した者が都合よく動くと決めつけない。
読める依頼書は増えたが、知らない言葉を読み飛ばすこともしなかった。
仲介人のところへ、鬼太郎を指定する紙が届くようになっていた。
名前は書いていない。
炎と小さな銃を使う、外国の子供。
それだけで、どこへ回せばよいか分かる者が増えたらしい。
入ると会話が止まる店もあれば、先に代金を出せと言う店もある。道の端へ寄ってくれる者もいた。
鬼太郎は、その一人一人に理由を尋ねなかった。
◆
証人を生きて連れ戻す依頼が来たのは、最初の帳簿回収から半年以上が過ぎたころだった。
賭け金の帳面をつけていた男が取り立て屋へ売られ、地下に閉じ込められている。
依頼人が必要としているのは、男の証言だった。
死亡すれば報酬は出ない。
ほかにも捕らえられている者がいるかもしれないが、依頼の対象ではなかった。
鬼太郎は、金を借りたい子供のふりをして建物へ入った。
「お前に貸す金はねえぞ」
受付の男が笑った。
「父が困っています。先に条件を聞いてこいと、言われました」
「親父はどこだ」
「外です」
男は隣の若い見張りへ顎を向けた。
裏へ連れていくよう命じられ、鬼太郎はついていった。
廊下の奥に、地下へ下りる扉がある。
見張りは鍵を回すと、鬼太郎の肩を掴んだ。
「払えねえなら、お前が代わりに――」
鬼太郎は左手を向けた。
「プリンパ」
男の目が揺れ、肩を掴む指が緩む。
鬼太郎はその手から離れ、壁へ寄った。次に何をするか見ていると、見張りは受付へ振り返り、杖を上げた。
「お前が売ったのか」
「何の話だ」
「近づくな!」
赤い光が走る。
受付の男が机の陰へ飛び込んだ。
鬼太郎は、見張りが腰へ戻した鍵束を横から引き抜いた。男はもう一方へ気を取られ、振り向かなかった。
地下へ下りる。
鉄格子が四つ並び、三つに人が入っていた。
奥の男は、似顔絵と同じ顔をしている。指が腫れ、頬に乾いた血がついていたが、呼びかけると顔を上げた。
「連れ戻すよう、頼まれました。歩けますか?」
「お前が?」
鬼太郎は鍵を試した。
三本目が回り、格子を開く。
隣から、女が手を伸ばした。
「私も出して」
鬼太郎は女と、別の格子にいる若い男を見た。
「あなた方を連れ出したら、誰から報酬をいただけます?」
「何を言ってるの。鍵があるんでしょう」
「ええ。こちらの方を出すために、持ってきました」
証人を立たせる。足は動いた。
階上で机の割れる音がした。
混乱がいつまで続くか分からなかった。鬼太郎は証人を階段へ向かわせた。
「鍵だけでも、置いていって」
女が格子を掴んだ。
鬼太郎は束を見た。持ち帰る品ではないが、廊下へ投げれば追ってくる者もすぐ使える。
階段の下に、水桶があった。
鍵をその中へ落とす。
底へ沈む音がして、水面が揺れた。格子の中からは手が届かない。
鬼太郎は階段を上がった。
受付の男は床へ倒れていた。
見張りがその前で杖を構え、こちらを見る。
鬼太郎が誰なのか、まだ分かっていない目だった。
杖先が動く。
証人を壁へ押し、鬼太郎は銃を抜いた。
一発で右肩を撃つ。
男が杖を落とした。鬼太郎はそれを遠ざけ、証人を連れて表へ出る。
依頼人が用意した馬車へ乗せた。
男が息をつき、窓から建物を見た。
「ほかにもいた」
「ええ」
「出さなかったのか」
鬼太郎は、追ってくる影がないことを確かめた。
「あなたを生きて戻すよう、頼まれました」
男は口を閉じた。
御者が馬を動かす。
地下の二人を連れて戻った場合、依頼人が何を言うかまでは考えなかった。頼まれた証人は隣にいる。それで、この仕事は終えられる。
◆
次に聞いた噂では、鬼太郎は目を見ただけで人を狂わせることになっていた。
杖を持たず人を焼く。
呪いは効かず、銃弾は盾を抜く。
十人を相手にしても、一人で全員を殺す。
話を持ってきた仲介人の用心棒は、どれを本当と思っているのか、鬼太郎と目を合わせなくなった。
その噂で、報酬は上がった。
同時に、店の戸が閉じることも増えた。
呪物商は、売る物はないと言いながら袖の中で杖を握っていた。別の店では、前に見たはずの品が棚からなくなっていた。
通りですれ違った男が、足元へ唾を吐いたこともあった。
鬼太郎の靴には当たらなかった。
そのまま通り過ぎると、男は追ってこなかった。
仲介人の紙は厚くなり、危険と取得できる品、追加報酬が最初から分けて書かれるようになった。
子供だから、何を言っても分からない。
そう扱う者は、少なくなった。
代わりに、最初から鬼太郎を使わないと言う者が現れた。
「お前が入るなら、護衛から降りるそうだ」
「では、その方がいなくてもできる仕事を選びましょう」
鬼太郎は並べられた紙を見た。
すべての依頼を受ける必要はなかった。
◆
地下競売所の台帳を取り戻す仕事は、最初の帳簿回収から十一か月近く経ったころに来た。
黒い台帳と、封をした入場札の束を回収する。
夜明けまでに記録を焼くという話があり、待つ時間は短かった。
競売所の表は、古い酒蔵だった。
鬼太郎はサーシェスと屋根の上から見ていた。正面に三人の見張りがいる。裏の搬入口は、人が入れるだけ開いていた。
「人気者だな、坊主」
「あなたも、名前を聞くようになりましたよ」
「子供の後ろで撃つスクイブ、ってやつか?」
「子供に使われている銃兵、とも」
サーシェスは、面白くなさそうな顔で笑った。
「言った奴の顔は覚えてるか」
「今度の仕事に必要ですか?」
「報酬次第だな」
男は搬入口へ視線を戻した。
開いた先に木箱が見える。入った者が隠れるには、都合のよい位置だった。
「開きすぎだ」
「ええ」
鬼太郎もその扉を使う気はなくなっていた。
荷物を出した車輪の跡はない。雨も降っていないのに、内側の床だけが不自然に暗い。
何があるかは分からない。入って確かめるつもりもなかった。
「お前が裏へ回るって、知ってる奴がいる」
「正面を避ける話は、もう聞かれているのでしょうね」
サーシェスは屋根の反対へ移った。
隣には使われていない製氷所があり、地下の古い排水路が競売所の近くまで伸びているという。
二人で同じ穴へ入ることはしなかった。
鬼太郎が潜り、サーシェスは外へ残る。
格子は半分錆び落ちていた。身体を通し、奥へ進むと、途中で煉瓦壁に塞がれていた。
だが、上に清掃口があった。
鬼太郎は壁へ足を掛け、蓋を押す。初めて工場の排水路へ入ったころより、指の届く場所が高くなっていた。
それでも、錆びた蓋は重い。
肩を寄せて少しずつずらし、身体を上へ出した。
冷たい床へ伏せる。
廊下の先に、明かりがあった。
男が二人、台帳から頁を外している。隣の炉には火が入っていた。
「裏はまだか」
「入ったら分かる」
鬼太郎は銃を抜いた。
一人が頁を炉へ持っていく。
その手を一発。
立ち上がったもう一人が杖を抜こうとしたので、肩へ二発目を撃った。
倒れた二人から杖を離し、燃える前の頁を拾う。黒い台帳へ挟み、封をした札の束と一緒に鞄へ収めた。
天井の奥で、低い音がした。
廊下の壁へ黒い線が浮かび上がる。
一本が床まで伸び、別の線が角の向こうへ消えた。
「持って帰れると思ったか」
机の陰で、男が笑った。
鬼太郎は近づかなかった。
何を動かしたのか、聞いても正しく答えるか分からない。
鞄の口を閉じ、来た道へ戻った。
廊下の先から、足音が三人分近づいていた。
清掃口まで戻るには、その前を横切らなければならない。
鬼太郎は壁の陰へ止まった。
黒い線が、背後の石を細く割った。
引き返して別の道を探す余裕も、なくなり始めていた。
そのとき、上で銃声が三つ鳴った。
続いて、硝子の割れる音。
「上だ!」
追ってきた者が叫び、足音が階段へ寄った。
鬼太郎は廊下を渡った。
清掃口へ足を入れ、蓋を押し退ける。背後で煉瓦が割れた。
排水路へ降りると、天井から土が落ちてきた。
鬼太郎は身を屈め、格子へ向かった。
外へ出たとき、サーシェスが製氷所の陰から手を振った。
「走れ、坊主!」
酒蔵の屋根が沈んだ。
鬼太郎は壁から離れた。正面から見張りが二人飛び出し、こちらを見つける。
サーシェスが短銃を向けた。
撃てる距離だった。
男の指は動かなかった。
代わりに、煙の円筒を鬼太郎と酒蔵の間へ投げる。
「そっちを見るな。来い!」
白い煙が広がった。
鬼太郎は製氷所の角へ走り、サーシェスが続く。背後で大きなものが崩れ、地面が揺れた。
ついさっき立っていた場所へ、煉瓦と梁が落ちる。
煙に土埃が混ざり、息を吸うと喉がざらついた。
二人は止まらず、裏の道へ抜けた。
◆
「二人、逃げましたね」
安全な路地まで離れたあと、鬼太郎が言った。
サーシェスは銃を下げ、崩れた建物の方を見た。
「撃ってりゃ、あそこで一緒に埋まれたぜ」
「それは困ります」
「取り分が減るからか?」
鬼太郎は答えなかった。
台帳も、入場札もある。二人のどちらが運んでも、依頼人へ渡すことはできる。
だが、瓦礫の下へサーシェスが消えた場合を考えると、袋の金より先に浮かぶものがあった。
暗くなった窓から離れた男。
追撃を捨て、荷車を別の道へ通した男。
鬼太郎が言う前に、いま必要な場所へ動く。
同じように使える者を探し、もう一度確かめるには、どれほどかかるだろう。
「使えるものは、長く使いたいと思っているだけです」
鬼太郎が言うと、サーシェスは口の端を吊り上げた。
「そりゃ、壊す方も気をつけねえとな」
男は鞄の口を確かめるよう鬼太郎へ顎を向けた。
鬼太郎は台帳があることを確かめ、また閉じた。
◆
台帳は、外された頁と一緒に依頼人へ渡った。
札の封も残っていた。
仕事は終わり、二人は取り分を受け取って別れた。
鬼太郎は記録の中身を読んでいない。それでも、競売所がなくなって困る者の名は、あとから耳へ入ってきた。
品を流していた呪物商。前金を払った買い手。人を運ぶ者。護衛を送り、戻らなかった傭兵の世話役。
これまで別々の仕事で損をさせた相手も、その中にいた。
仲介人は、以前より多い報酬を机へ置いた。
「次から、お前を使いたい奴には、この額を基準にする」
「危険が増えましたか?」
「名を聞いて逃げる奴も、お前を殺すなら受けると言う奴もいる」
鬼太郎は硬貨を寄せた。
その一年の途中で、父の書類に記された誕生日を過ぎていた。
七歳になっている。
上着は大きくなり、読める言葉も増えた。
仕事を終えて床下へしまう金と、その金を失った者の数も増えていた。
「あの傭兵は、次も呼ぶか?」
仲介人が尋ねた。
「そのつもりです」
「先に押さえておけよ。別の仕事へ行くぞ」
鬼太郎の指が止まった。
サーシェスは、誰の依頼でも受ける。
条件が合えば、別の場所へ行き、別の者の判断で戦う。そこで死ぬかもしれない。
相手側へ雇われれば、次は鬼太郎へ銃を向けることもあるだろう。
最初はそれでよかった。
今は、少し気に入らなかった。
あの腕前を使いたいときに、他人の仕事でいない。必要なときには、もう死んでいる。
そうなる前に、自分が条件を出せばよい。
鬼太郎は止めていた指を動かし、残りの硬貨を袋へ移した。
「次に組む仕事で、もう一度見てからにします」
「そのあと、どうする?」
「話をしてみますよ。あの方にも、欲しいものはあるでしょうから」
袋の口を結び、席を立った。
机には、次の仕事を探す紙が残っていた。
鬼太郎はそれを取り上げず、両替所を出た。