第二十六話 硬貨のない客
ダイアゴン横丁を歩く者の多くは、鬼太郎を二度見した。
一度目は、通りにいる人間を何気なく見るため。
二度目は、六歳ほどの子供が一人で歩いていると気づいたためだった。
鬼太郎は視線を返さない。
代わりに、店と商品を見た。
箒を並べた店では、客が柄の長さや木目を確かめている。大鍋の店先には、同じ大きさでも材質の異なる品が積まれていた。乾燥した葉や根を吊した店からは、苦みのある匂いが流れてくる。
羽根ペンは、誰も触れていないのに紙の上を動いていた。
窓の中で、銀色の器具が幾つもの輪を回している。針の向きも、数字の意味も分からない。
籠の中の梟が、通りを歩く客を一人ずつ見送っていた。
どれも、鬼太郎の知らないものだった。
鬼太郎の歩みは、自然と遅くなった。
知らないという事実が、これほど楽しいと感じたのは久しぶりだった。
この通りには、ウォードが使ったもの以外にも、数え切れないほどの魔法がある。
杖で物を動かす。
人の記憶を曖昧にする。
銃弾を弾く。
姿を消し、離れた場所へ移動する。
鬼太郎が実際に見たものだけでも、それだけあった。
父は魔法族の血を引いていた。
自分には漏れ鍋が見え、煉瓦壁の向こうへ入ることもできた。
左手から出す炎が、ウォードたちのいう魔法と同じものかは分からない。杖を使う力が自分の中にもあるのか、それとも全く別のものなのかも分からなかった。
だが、答えがあるとすれば、この通りのどこかだった。
鬼太郎は、店頭へ置かれた大鍋の値札を見た。
数字の後ろに、見慣れない単位が書かれている。
隣の店も、その向かいも同じだった。
客が代金を払うところを見る。
金色、銀色、銅色の硬貨。
それぞれ大きさも違う。
鞄の中にある英国の紙幣を出している者はいなかった。
◆
店先へ本を積み上げた建物があった。
看板の文字を、鬼太郎はゆっくり読んだ。
フローリシュ・アンド・ブロッツ。
扉を開けると、紙と革の匂いがした。
壁一面に棚が並び、上の段まで本が詰まっている。平積みにされた本の隣では、背表紙の文字が光っては消えていた。
店の奥で、閉じた本が小刻みに震えている。
近くを通った店員が、その上へ重い本を載せた。震えが止まる。
鬼太郎は棚の間を歩いた。
歴史。
法律。
薬草。
魔法薬。
生き物の飼育。
箒の手入れ。
題名を読むだけでも、魔法使いが何を学び、何を道具として使っているかが分かる。
初歩の呪文を扱う棚もあった。
鬼太郎は一冊を抜き、頁を開いた。
短い言葉と、杖の動かし方を示す図が載っている。
すべての文章を読むには時間がかかる。それでも、杖は持つだけで使える道具ではなく、言葉と動きと集中が必要だということは分かった。
上着の内側にある杖を意識する。
ウォードの杖で、この本に載っている魔法を使えるのか。
試す価値はある。
ただし、人前で試す価値はなかった。
鬼太郎は本を閉じた。
次に、英国魔法界の仕組みを扱う薄い本を選ぶ。最初に必要なのは、攻撃方法より、この社会の決まりだった。
本を持って会計台へ向かう。
店員が本の裏を確かめ、値段を告げた。
早口では聞き取れなかったが、示された硬貨の見本は金色だった。
鬼太郎は鞄から英国の紙幣を一枚出した。
「これは、使えますか?」
店員は紙幣と鬼太郎の顔を交互に見た。
「マグルの金かい?」
「マグルが使うお金なら、そうです」
「ここでは使えないよ。グリンゴッツで替えてもらわないと」
店員は通りの奥を指した。
先ほど見た白い建物だった。
「交換するには、何が必要ですか?」
「普通に窓口へ行けばいい。だが……」
店員の目が、鬼太郎の後ろへ向いた。
「一緒の大人はどこにいるんだ?」
「いません」
「いない?」
店員の声が少し大きくなった。
別の客が振り返る。
「両親は? 一人で横丁へ来たのか?」
質問が増える。
このまま続ければ、名前も住んでいる場所も尋ねられるだろう。
鬼太郎は紙幣を鞄へ戻した。
「先に、交換してきます」
持っていた本を会計台へ置く。
「待ちなさい。グリンゴッツまでなら――」
「場所は分かります。ありがとうございました」
店員が会計台から出る前に、鬼太郎は店を出た。
◆
通りへ戻っても、白い建物には向かわなかった。
先ほどより、入口付近にいる者を詳しく見る。
荷物を抱えた者。親子。連れ立って入る者。書類を持った商人らしい男。
幼い子供が一人で入る姿はない。
書店の店員が同行すれば、銀行へ入ることはできるかもしれない。
その代わり、どこから来たのか、なぜ一人なのかを説明する必要が生じる。
魔法界の制度を何も知らない状態で、自分から記録を残す理由はなかった。
別の方法を探せばよい。
鬼太郎は白い建物へ背を向けた。
その先に、間口の狭い店があった。
曇った窓の向こうに、一本の杖が置かれている。
店名は、オリバンダー。
看板には、現在の暦が始まるよりも前から杖を作っていることが記されていた。
鬼太郎は足を止めた。
ここなら、ウォードの杖について分かるかもしれない。
誰が作り、どのような材料が使われ、なぜウォードの魔法を形にできたのか。
さらに、自分の内側に魔法使いとしての力があるなら、それを扱う杖も存在するかもしれない。
知りたいことは多かった。
だが、奪った杖を専門家へ見せれば、元の持ち主について尋ねられる可能性がある。
支払いに使える金もない。
鬼太郎は店の場所だけを覚え、再び歩き始めた。
◆
書店を出てから、同じ男を三度見た。
一度目は、大鍋を積んだ店の前。
二度目は、薬草店の窓に映った姿。
三度目は、オリバンダーの店から離れた後だった。
茶色い外套を着た、痩せた男だった。
鬼太郎が止まれば、男も別の店を見る。
歩く速度を落とせば、男は通りの反対側へ移る。
距離を詰めすぎず、見失いもしない。
書店で紙幣を出した時、棚の端に立っていた男だった。
鬼太郎は気づかないふりをした。
人通りの多い表通りでは、相手も近づいてこない。
鬼太郎は店と店の間にある細い道へ入った。
表通りの声が少し遠くなる。
数十歩進んだところで、後ろから呼び止められた。
「おい、坊や」
鬼太郎は振り返った。
茶色い外套の男が、親しげな笑みを浮かべている。
右手は見える位置にある。
左手は外套の内側に近い。
「さっき、本屋で困っていただろう」
男は、鬼太郎が聞き取れる程度にゆっくり話した。
「あの銀行は面倒だ。質問も多い。特に、子供が一人で行けばな」
「そうなのですか」
「マグルの金を持っているんだろう? 替えてくれる場所を知っている。手数料も安い」
親切を装っているが、男の視線は鬼太郎の顔だけを見ていなかった。
鞄。
上着の内側。
腰の近く。
何を持っているか確かめている。
銀行を避けたことも、一人でいることも見られていた。
男が欲しいのは、両替の手数料だけではない。
それでも、鬼太郎は断らなかった。
表で扱えない金を替える者がいるなら、表で扱えない仕事も知っている可能性がある。
探していた入口の方から、近づいてきたのだ。
「どこにありますか?」
「すぐ近くだ。こっちへ来な」
男が、さらに細い路地を指した。
鬼太郎は穏やかに笑った。
「それは助かります。案内してください」
男が背を向ける。
鬼太郎はその後ろを歩きながら、上着の内側にある〈シュライク〉の位置を確かめた。