第28話 鍵を見る目
石段を下りるにつれ、人の声がはっきりした。
誰かが椅子を引き、別の者が笑った。何を言っているかまでは聞こえないが、侵入者を待つ見張り同士の声には思えなかった。
鬼太郎は壁際へ寄り、最後の段へ足を下ろした。
通路には油灯が掛かっていた。床に二本の車輪の跡が続き、その先の扉が半分開いている。
中へ入る者に、見せるための隙間にも見えた。
鬼太郎はすぐには近づかなかった。扉の下と横を見てから、壁に沿って進む。敷居の外に立ったまま、隙間から奥を覗いた。
小さな劇場だった。
舞台は木ではなく石で覆われ、その周囲に細い溝がある。袖へは水樽が並び、頭上に袋と滑車が吊られていた。
中央の台に、鉄箱が載っている。
少し離れた柱には、男が縛られていた。
茶色い髪。横を向いた顔の、左耳の下に傷がある。
「トーマス・ヘイルさん」
鬼太郎は扉の裏へ身を寄せ、舞台へ届く程度の声で呼んだ。
男の肩が跳ねる。
「誰だ」
「箱を取り戻すよう頼まれました。あなたが運んでいたものですか?」
「助けに来たのか。そうだ、あれだ」
「どこで奪われたのです?」
「北の街道だ。荷馬車を止められて……御者が先にやられた」
男は息を継ぎ、後ろへ回された腕を動かそうとした。
「早く縄を切ってくれ」
「箱が開けられたところは、見ましたか?」
「見てない。中身も知らない。俺は、運ぶだけだったんだ」
鬼太郎は男の手が見えるところへ、少し位置を変えた。
右の小指が、途中からなかった。
本人らしい。
箱も、左右に取っ手があり、右側の下にへこみがある。封の印までは、この距離からは読めなかった。
舞台の向こうは厚い幕で暗く、人のいる気配だけがする。
箱と男を、誰も守っていない。
ただ置き去りにされたというより、確認されるのを待っているようだった。
鬼太郎は床を見た。
銀色の線が、箱の周りを囲んでいる。客席側には、舞台の端を走る深い溝もあった。
格子を落とすなら、そこだろう。
ほかの三方にも同じものがあるかは、柱と台が邪魔で分からなかった。
薄い石板の継ぎ目も見える。どれが床の傷で、どれが仕掛けの一部なのかまでは判断できない。
「おい、いるんだろう」
トーマスが呼んだ。
鬼太郎は銃を抜き、舞台へ出た。
◆
サーシェスは、北東の石壁から男を見ていた。
林の監視役は、西の窓と物置の屋根、裏の斜面を順番に眺めていた。どこにもサーシェスはいない。
それでも、別の場所を探しには行かない。
見張るところを決められているらしい。
男が上着から小さな筒を出し、劇場へ向けた。
サーシェスは長銃を置いた。
ここで撃てば、狙撃手が外にいると教える。まだ男はこちらへ気づいていなかった。
石壁から離れ、枝が鳴るときに進む。
男は窓を見たまま、後ろを向かなかった。
最後の距離を詰め、左手で口を塞ぐ。ナイフを入れ、力の抜ける身体を枯れ葉へ下ろした。
筒の中には、色のついた光を出す仕掛けがあった。
腰の袋からは鍵が二本と、青い木札が出てきた。数字が刻まれている。
サーシェスは袋を探り終え、上着も剥ぎ取った。
劇場の下から、重い鎖の音が響いた。
地面を通り、靴底へ震えが伝わる。
「派手にやってるじゃねえか、坊主」
死んだ男の靴には、薄い色の土がついていた。この場所の黒い土とは違う。
サーシェスは長銃を拾い、足跡を逆へ辿った。
◆
箱へ触れる直前、鬼太郎はもう一度トーマスを見た。
縄は胸と腰を柱へ留め、後ろの金具を通っている。表から見えるところを切るだけでは、腕まで自由にできなかった。
柱の裏へ回ると、客席と舞台袖の両方へ背を向ける。
「先に箱を確かめます」
「俺を置いていく気か」
「生きてお戻りなら、追加が出ます。置いてはいきませんよ」
鬼太郎は台へ近づいた。
銀線を跨いでも、身体の内側に変わった感覚はなかった。だが、何も起きない仕掛けだとは限らない。
深緑の蝋へ、三本の鍵の印が押されている。
封は切れていない。
取っ手の下のへこみも、説明どおりだった。
左手で取っ手へ触れる。
頭上の金具が鳴った。
鬼太郎は手を離し、立ち上がった。
客席側へ鉄格子が落ちる。
背後へ走ると、そちらでも鎖が動いていた。
右へ向きを変える。
その格子だけ、落ちるのが遅かった。下端と床に、身体を通せそうな隙間がある。
鬼太郎は身を低くした。
滑り込む前に、横の壁が鳴った。
鉄枠が通路を横切った。
鬼太郎は左手を床へつき、後ろへ身体を押し戻した。頭を上げていれば、首へ当たるところだった。
遅れていた格子が落ちる。
四方が閉じた。
鬼太郎は銃を構えたまま立ち上がった。
太い鉄の間隔は、子供の頭より狭い。下端は床の溝へ固定され、上の鎖は格子の外にあった。
開閉する者は見えなかった。
トーマスは檻の外に残っていた。
「何だ、これ。おい、早く出してくれ!」
舞台袖から黒服が二人現れた。
柱の根元へ手を掛け、男ごと動かし始める。土台には小さな車輪がついていた。
「その方も、依頼の対象なのですが」
鬼太郎が言っても、二人は答えなかった。
撃つことはできた。
ただし、黒服と男の身体が重なっている。撃ち損じれば、追加報酬はなくなる。
鬼太郎は銃口を下げた。
トーマスの声が、幕の奥へ遠ざかっていく。
舞台には、鬼太郎と箱だけが残った。
右側の鉄枠を見直す。落ちるのが遅かったのは、たまたまではなかったらしい。逃げようとして身体を入れた者へ、別の仕掛けを当てる。
格子を避けることまで、考えられていた。
鬼太郎は足元の線を踏まず、箱の脇へ寄った。
何もないところへ炎を出せば、向こうの用意を確かめる前に手を見せる。鉄へ銃弾を当てるのも、跳ね返る危険があった。
鬼太郎は背後へも目を向けた。入ってきた扉は見える。そこまで、さっきなら数歩で戻れた。
今は鉄が間にある。
箱が本物だと確かめられれば仕事を終えられると、どこかで思っていた。だが、同じ場所に品物があっても、そこから運び出す道まで自分のものではなかった。
鬼太郎は息を吐いた。
罠を疑ったことと、罠に掛からないことは違う。
右へ逃げたときに見えた鉄枠の縁を思い出し、立つ位置を箱の側へ変えた。次も同じ場所から来るとは限らないが、まずは壁のすぐそばを空けたかった。
誰がどこに立ち、何を使うのか。
それを見てからでも、撃つ機会は探せる。
「始めないのですか?」
暗い客席へ声をかけた。
鐘が一度、鳴った。
左右から灯りが増えていく。
段になった席を、大人たちが埋めていた。仮面をつけた者、襟で顔を隠す者、隠しもせず笑っている者。
数十人いる。
「本当に子供だ」
「火を出させろ!」
声が重なった。
四方の高い足場にも、人影が現れた。どれも杖を持ち、互いに離れている。
水樽のそばに二人。天井の袋から続く縄を持つ者が一人。左右には、網を運ぶ者もいた。
鬼太郎は顔を動かしすぎず、順番に目を向けた。
上階正面の桟敷席へ、痩せた男が出てきた。
片手を上げると、客席の声が小さくなる。
「今夜の新しい演目を、ご紹介しましょう」
よく通る声だった。
「杖なしで人を焼き、呪いを外し、小さな銃で魔法使いを倒す子供です」
拍手が起きた。
鬼太郎は上階を見上げた。
「あなたが、依頼人ですか?」
「私一人ではありません」
男は客席へ腕を広げた。
「皆さんの中にも、この子供の働きをよく知る方がいる。商品を奪われた方、取引を壊された方、使っていた者を殺された方」
笑い声に、別の響きが混ざる。
鬼太郎を初めて見るだけの客ではない者も、ここにいた。
「探す手間が省けましたね」
鬼太郎は言った。
一瞬、声が途切れた。
すぐに大きな笑いが覆う。
上階の男は、口元を変えなかった。
「今夜最後には、君にも舞台を移ってもらう。銃を取り上げ、炎を封じ、どこまでの呪いに耐えるかを見せてもらおう」
舞台袖へ、革帯と刃物の台が運ばれてきた。
「死ねば持ち物と身体へ買い手がいる。生き残れば、次の夜にも席を売れます」
観客が足を踏み鳴らした。
鬼太郎は男の顔を覚えた。
次に、桟敷席の奥の扉と、客席左右の出入口を見る。
男が手を下ろした。
「その前に、最初の演目を」
黒い幕が開いた。
向こうに鉄の台があった。
その上へ、小さな少女が寝かされている。
◆
淡い金色の髪が、台の端へこぼれていた。
首と両手首、両足首を銀色の金具で固定されている。服には乾いた血と新しい血が重なり、台の下に受け皿が置かれていた。
鬼太郎と、同じくらいの年頃に見えた。
少女は、泣いていなかった。
台の横に立つ男が腰へ触れると、その目が動いた。
鍵が下がっている。
次に、男の手の刃物を見る。それから舞台袖の通路、檻の中の鬼太郎へと視線が移った。
「人と吸血鬼の間に生まれたものです」
上階から声がした。
鬼太郎は少女へ目を戻した。
血で汚れた服の隙間に見える肌には、古い傷がほとんどなかった。
男が細い刃を灯りへかざした。
少女の指が握られる。
服を少し開き、脇腹へ刃を入れた。
身体が跳ねた。
首の金具が鳴り、喉から短い息が漏れる。それでも少女は叫ばず、目を閉じなかった。
刃が離れると、血が台の溝を伝った。
客席から拍手がした。
鬼太郎は、開いた傷を見ていた。
傷の縁が寄り、断たれたところが少しずつ埋まっている。
一瞬ではなかった。
その間も受け皿へ血が落ち、少女の顔色が薄くなる。
「失った肉も戻るのですか?」
鬼太郎が尋ねた。
上階の男がこちらを見る。
「量によります」
「そのために、食事や血が要るのでしょうか」
男はすぐには答えなかった。
鬼太郎の手元の銃へ、一度目を落とす。
「どこまで壊せば死ぬか。それも、演目の楽しみでね」
答える気はないらしい。
鬼太郎は少女の手を見た。
握り込んでいた指から力が抜けている。傷は半分ほど閉じたが、呼吸は浅かった。
痛みがなくなるわけでも、流したものがすぐ戻るわけでもないようだった。
「君なら、どう殺す?」
上階の男が聞いた。
鬼太郎は少女の顔を見てから答えた。
「その必要があるか、まだ決めていません」
客席の一部が笑った。
少女は、また鍵を見ていた。
解体役が脇の台へ手を伸ばすと、その目だけが追う。別の道具を取ったと分かると、男の顔を見ず腰へ戻った。
鬼太郎は自分の立つ格子へ目をやった。
自由な手と銃はあるが、ここを開けられない。向こうには腕を動かせない子供と、すぐそばで揺れる鍵がある。
どちらも、持っているものだけでは足りなかった。
キーノは、それでも男が次に何をするかを見ていた。
◆
監視役の足跡は、北の斜面を下り、半地下の扉へ続いていた。
サーシェスは離れたところから周りを見た。
倒木と石の間へ長銃を滑り込ませ、枝を戻す。上着の下にはリボルバー、腰にはナイフがある。
奪った上着を羽織り、青い木札を出した。
扉の横にも、同じ色の小さな板があった。数字のある木枠へ札を差すと、内側で金具が外れた。
「こっちの札か」
扉の向こうには短い通路と、もう一枚の扉がある。
二本の鍵のうち、長い方が錠へ合った。
サーシェスは回してから、すぐには開かなかった。
向こうで拍手が響いている。
銃声はしない。
「まだ、客を楽しませてやってるのかよ」
薄く開いた隙間から、中を見た。
壁際に空の檻が並ぶ細い通路だった。黒服の男が一人、奥へ歩いていく。
サーシェスはその後ろへ飛び出さず、先に扉を閉めた。
どこへ通じるかを見てからでも、殺すのは遅くなかった。
◆
少女の傷は、細い線を残すところまで閉じていた。
解体役は手袋を替え、客席へ両手を見せる。
「次は腕だ!」
声に応じるように、男が腰の鍵を抜いた。
少女の目がその動きへ寄る。
右手首の金具が、少し浮いた。
その瞬間、少女は腕を引いた。
金具に皮膚が擦れて血が出たが、止めなかった。男の袖を掴み、手首へ歯を立てる。
悲鳴が上がった。
男が腕を引いても、少女は離さなかった。
鍵が腰で揺れる。
空いた指が、そこへ伸びた。
舞台袖から二人が走り寄った。
一人が少女の髪を掴み、もう一人が肩へ棒を振り下ろす。
歯が外れた。
少女は鉄台へ押し戻された。
口元へ血がつき、肩が浅く上下している。鍵はまだ男の腰にあった。
「この、化け物が」
男が手首を押さえた。
少女は息を整えようとしながら、笑った。
「次は、喉だ」
客席の声が少し弱まった。
「名前もない獣が」
「ある」
少女は口の中の血を横へ吐いた。
「キーノ・ファスリス・インベルンだ。殺し損ねた奴の名前くらい、覚えておけ」
鬼太郎はその名を聞いた。
キーノは、男の腰からこちらへ目を移した。
檻に入れられたまま、何もしていない子供を見る。
「お前も、そこで待ってるだけか」
「見ていました」
鬼太郎が答えた。
「何を」
「あなたが、どこへ手を伸ばすかを」
キーノの目が細くなった。
「分かったなら、笑っていればいい」
「笑われて、やめるつもりはないのでしょう?」
「当たり前だ」
鬼太郎は僅かに口元を緩めた。
傷が塞がる力だけではなかった。
あの鍵があれば金具を外せる。男が腕を緩める瞬間に掴み、血を流しても離さず、もう片方の手を伸ばした。
失敗しても、まだ腰を見ている。
鬼太郎はキーノから視線を外し、檻の錠を見た。
こちらの鍵を持つ者は、まだ分からなかった。
四方には術者が立っている。一人へ撃てば、ほかも動く。
上階の男が手すりへ片手を置いた。
「気に入ったかね?」
「興味はあります」
「最後には、君も同じ台へ乗せてあげよう」
客席に笑いが戻った。
鬼太郎は、血を受ける溝の刻まれた台を見た。
キーノは目を逸らさなかった。
「それは困りますね」
鬼太郎は銃を持つ右手へ、力を込めすぎないよう指を添え直した。
「僕は、そちらから見せていただく方が好みですので」
男の笑みが薄れた。
鬼太郎はもう男だけを見ていなかった。
キーノを運ぶ台の車輪と、男の腰に揺れる三本の鍵。それから、舞台袖へ開いた通路を、順に覚えた。