第二十八話 誰も受けない仕事
「……一つだけ、誰も受けたがらない仕事がある」
机の向こうの男は、そう言ってから黙った。
鬼太郎も続きを促さない。
〈シュライク〉を右手に持ったまま、男が自分から話し始めるのを待つ。
床では、右脚を撃たれた茶色い外套の男が荒い息を吐いていた。右前腕を撃たれた用心棒は、もう一人の用心棒に傷口を押さえられている。
机の上には、四本の杖が並んでいた。
先ほどまで鬼太郎を囲んでいた者たちは、誰もそれへ手を伸ばさない。
「回収の仕事だ」
ようやく男が言った。
「ある男が、持ち主から品物を盗んだ。取り戻してほしい」
「品物は?」
「小さな箱だ。黒い鉄でできている」
「中身は?」
「知らなくていい」
「では、開けずに持ち帰ればよいのですね」
「そうだ。開けず、壊さず、ここへ持ってくる。それで仕事は終わる」
男は初めて、わずかに身を乗り出した。
「箱を持ち逃げしたのは、エドウィン・ルークという魔法使いだ。今はロンドン近郊の、使われていない染色工場に隠れている」
「その方を連れてくる必要はありますか?」
「ない。生きていても、死んでいても構わん」
鬼太郎は男の顔を見る。
仕事の説明は短い。
短すぎた。
「それだけなら、受けたがる方はいるでしょう」
「金は払う」
「金額の話ではありません」
鬼太郎は、机に開いたままの帳面へ視線を落とした。
「誰も受けたがらない理由を聞いています」
男はすぐに答えなかった。
「ルークは、用心深い」
「どのように?」
「あの工場には罠がある。扉と窓へ魔法を掛け、誰かが入れば分かるようにしているらしい」
「ほかには?」
「姿くらましでは入れない」
「ほかには?」
「工場の中で杖を使えば、ルークに居場所を知られる。少なくとも、戻った一人はそう言っていた」
「ほかには?」
男の眉間に皺が寄った。
「質問の多い子供だな」
「説明の少ない仲介人ですね」
鬼太郎は穏やかに言った。
「先ほど僕の物を奪おうとした方の言葉を、説明もなく信じると思いますか?」
返事はない。
鬼太郎は銃口を動かさず、次の言葉を待った。
◆
エドウィン・ルークは、以前から魔法界の裏で働いていた。
品物や建物へ呪いを掛ける。
倉庫へ侵入を知らせる仕掛けを置く。
取引の場から逃げる道を作り、反対に、追ってきた者が帰れないよう道を塞ぐ。
自分で品物を運ぶのではなく、運ぶ者や奪いに来る者を待つ側の人間だった。
「つまり、守ることと罠を作ることが得意なのですね」
「そういうことだ」
「今の工場にいると確認したのは、いつですか?」
「三日前だ」
「誰が確認しました?」
「最初に箱を取り戻しに行った連中だ」
複数だった。
鬼太郎は、その言葉を聞き逃さなかった。
「何人ですか?」
「三人」
「帰ってきたのは?」
男が口を閉じる。
「危険があることと、危険を隠すことは別の話です」
鬼太郎は言った。
「もう一度だけ聞きます。何人が帰りましたか?」
「二人だ」
「一人は?」
「死んだ」
「戻った二人は?」
「一人は右手を失った。もう一人は、自分の名前も、なぜ工場へ行ったのかも覚えていない」
部屋の空気が、さらに重くなった。
倒れている男たちも、この仕事の話を初めて聞いたらしい。茶色い外套の男が、床から仲介人を見上げていた。
「その二人は、ルークと戦ったのですか?」
「分からん。ルークを見たとは、どちらも言っていない」
「亡くなった方の遺体は?」
「工場の中だ。持ち帰れなかった」
「手を失った方は、何をしたのです?」
「箱へ触った、と言っていた」
「素手で?」
「手袋はしていた」
「それから?」
「腕へ黒い痣が広がった。肘まで来る前に、仲間が右手首を切り落とした」
箱そのものにも危険がある。
それを、男は説明しなかった。
「箱を開けず、壊さず持ち帰る。それが条件でしたね」
「そうだ」
「触れただけで手を失うかもしれない品物を、どうやって運ぶかは?」
「それを考えるのも仕事のうちだ」
鬼太郎は小さく笑った。
「なるほど。誰も受けたがらないわけです」
「怖くなったか?」
「いいえ。値段を決めるために必要な話が、ようやく揃ってきただけですよ」
◆
提示された報酬は、最初に出された額より増えた。
鬼太郎は、それでもすぐには受けなかった。
「まず、準備に使う分を先にいただきます」
「仕事を終える前に金を寄越せと?」
「あなたは、僕へ危険を隠していました。そのまま信用して、すべて後払いにする理由がありません」
男は机上の硬貨を見る。
「途中で逃げたら?」
「そのときは、先に払った分があなたの損になります」
「ふざけているのか」
「先ほど僕から全てを奪おうとした方に、信用について教わるとは思いませんでした」
男の頬が引きつった。
だが、断らなかった。
別の誰かへ任せられる仕事なら、鬼太郎と交渉する必要はない。三人を送り、一人を失い、二人を壊されても、まだ箱は工場に残っている。
鬼太郎は、条件を一つずつ確認した。
期限は翌朝。
箱は開けず、壊さずに引き渡す。
ルークの生死は問わない。
箱以外にルークが持っている物は、鬼太郎が取ってよい。
工場内にルーク以外の者がいた場合、どう扱うかは鬼太郎が決める。
仲介人は、期限まで別の回収者を送らない。
鬼太郎を尾行させない。
準備金は今、残りは箱の引き渡し時に払う。
仲介人が報酬から取る分も、先に数字で示させた。
「怪我をした場合は?」
男が尋ねた。
「僕の怪我は、僕の問題です」
「死んだ場合もか」
「その場合、あなたは残りを払わずに済みますね」
鬼太郎は続けた。
「ただし、まだ隠している危険があれば別です。それが原因で損をした場合、次は箱ではなく、あなたから取り立てます」
男は、机の上の四本の杖を見た。
「……分かった」
準備金が、魔法界の硬貨で支払われた。
続いて、男は机の引き出しから数枚の紙を出す。
染色工場までの地図。
古い建物の見取り図。
ルークの人相と服装を書いた紙。
先に入った三人が使った経路と、倒れた場所につけられた印。
そして、黒い箱の絵。
黒い鉄で作られ、角は真鍮で補強されている。蓋には横向きの線が三本あり、鍵穴も持ち手もない。
大人なら片手でも持てる。今の鬼太郎なら両手で運べる重さだという。
運んでいる間は、〈シュライク〉を右手に持てない。
「箱の持ち主は誰です?」
鬼太郎が尋ねた。
「依頼人の名は教えられん」
「中身を知らず、持ち主も知らない」
「それでも受けるのか?」
「中身を知ることは、仕事の条件ではありませんから」
鬼太郎は紙を鞄へ入れた。
「けれど、知らないものへ不用意に触れるつもりもありません」
〈シュライク〉を構えたまま、入口へ向かう。
「僕が外へ出るまで、杖は机に置いていてください」
誰も逆らわなかった。
◆
路地を抜け、ダイアゴン横丁へ戻る。
箒が宙に浮き、羽根ペンが紙の上を走り、瓶の中では見たことのない液体が色を変えていた。
先ほどまでいた部屋とは違い、ここでは魔法を隠す者がいない。
鬼太郎はフローリシュ・アンド・ブロッツへ戻った。
先ほど読んでいた初歩の本を、今度は棚へ戻さない。
魔法使いの社会で使われる言葉。
杖と呪文の基本。
魔法省が禁じていること。
魔法によって物や場所を守る方法についても、わずかに触れられている。
選んだ本を会計台へ置き、金貨ではなく銀貨と銅貨で代金を払った。
店員は硬貨を数え、本を紙で包んだ。
今回は、店を出るまで誰にも呼び止められなかった。
◆
鬼太郎は横丁の隅にある空いた腰掛けへ座り、買った本と見取り図を並べた。
工場の正面入口には、先に入った三人のうち一人が通った印がある。
窓にも印があった。
残る一人は、裏手の搬入口から入っている。
三つとも、ルークが侵入者を予想しやすい場所だった。
正面からは入らない。
箱へ素手で触れない。
魔法を使えば居場所を知られる可能性がある。
先に調べるべきなのは、建物ではない。
ルークが水と食事をどこから得ているのか。
工場から出ているのか。
外へ出ないなら、誰が物を運んでいるのか。
罠を作る者にも、暮らし方はある。
そして、同じ場所で暮らす者は、必ず何かを繰り返す。
鬼太郎は見取り図を畳み、買った本とともに鞄へ収めた。
「誰も受けたがらないのであれば、競争相手はいませんね」
そう呟いて、染色工場へ向かうため腰掛けから立ち上がった。