神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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奪われたものは、炎を呼ぶ

第二話 

 

 鍵が、最後まで回り切った。

 

 小さな金属音が、静まり返った室内へ落ちる。

 

 父が玄関へ駆け寄り、取っ手を押さえた。

 

「裏口へ行け!」

 

 母が鬼太郎の肩をつかむ。

 

 その瞬間、扉の向こうから何かが叩きつけられた。

 

 蝶番が悲鳴を上げる。

 

 父の身体が扉ごと弾き飛ばされ、食卓へ激突した。皿が落ち、床の上で砕け散る。

 

「お父さん!」

 

 母の腕に力がこもった。

 

 破壊された玄関から、二人の男が入ってくる。

 

 どちらも黒い外套をまとい、細長い棒を手にしていた。

 

 先に入ってきた男が、倒れた父を見下ろす。

 

「こんなところで、随分と慎ましく暮らしていたものだ」

 

 父は食卓に手をつき、よろめきながら立ち上がった。

 

「もう終わったはずだ」

 

「何がだ?」

 

「戦争は終わった。あの人も消えた。もう、私たちを追う理由はない」

 

 二人の男が顔を見合わせた。

 

 短い沈黙のあと、片方が笑う。

 

「追う?」

 

 その言葉には、愉快そうな響きがあった。

 

「自分が追われるほど大した人間だと思っているのか?」

 

 父の顔が強張った。

 

 男たちがこの家を探していたのか。

 

 それとも、偶然見つけただけなのか。

 

 答えは、その表情からも読み取れなかった。

 

「鬼太郎、行くわよ」

 

 母が小声で告げた。

 

「ですが、お父さんが」

 

「いいから」

 

 鬼太郎の身体が引かれる。

 

 父はそれを横目で確認すると、両腕を広げて男たちの前に立った。

 

 手には何も持っていない。

 

 あの細い棒も、身を守るための武器もなかった。

 

「妻と子供は関係ない」

 

「関係があるかどうかを決めるのは、お前ではない」

 

 男が棒を持ち上げた。

 

 その先端が父の胸へ向けられる。

 

 鬼太郎には、それが何を意味するのか分からなかった。

 

 ただ、父の顔から恐怖が消えたことだけは分かった。

 

「走れ!」

 

 父が叫ぶ。

 

「アバダ・ケダブラ」

 

 緑色の閃光が、薄暗い室内を切り裂いた。

 

 父の身体が大きく跳ねる。

 

 声も上げず、床へ倒れた。

 

「お父さん?」

 

 呼びかけても返事はなかった。

 

 目は開いている。

 

 けれど、もう鬼太郎を見ていなかった。

 

「見ないで!」

 

 母が鬼太郎の頭を胸元へ抱き寄せる。

 

 そのまま台所を抜け、裏口へ走る。

 

 鬼太郎の足は、母の速さについていけない。半ば引きずられるように廊下を進んだ。

 

 背後から、ゆっくりと足音が近づいてくる。

 

 急いでいる様子はなかった。

 

「待て」

 

 男の声がした。

 

 母は振り返らない。

 

 裏口の取っ手へ手を伸ばす。

 

 扉は開かなかった。

 

 母が何度回しても、取っ手は固まったように動かない。

 

「どうして……!」

 

「開くわけがないだろう」

 

 振り返ると、廊下の向こうに男が立っていた。

 

 先ほど父を殺した男とは別の一人だった。

 

 その手にある棒が、母へ向けられている。

 

「鬼太郎」

 

 母が膝をついた。

 

 震える手が、鬼太郎の頬へ触れる。

 

「私が合図したら、二階へ逃げなさい」

 

「二階には出口がありませんよ」

 

「窓から出るの」

 

「高すぎます」

 

「大丈夫。あなたなら――」

 

「相談は終わったか?」

 

 男が一歩近づいた。

 

 母は鬼太郎を背後へ押しやり、自分の身体で隠した。

 

「この子には何もありません」

 

「確かめてみなければ分からない」

 

「まだ六歳よ」

 

「だからどうした」

 

 男の杖先に、緑色の光が集まる。

 

 鬼太郎は母の服をつかんだ。

 

 これは危険なものだ。

 

 先ほど父を動かなくしたものと、同じ光。

 

 逃げなければならない。

 

 母を連れて、この場から離れなければならない。

 

 そう考えているのに、六歳の身体は動かなかった。

 

「やめてください」

 

 鬼太郎は男へ言った。

 

 声は震えていなかった。

 

「お母さんは、僕のものです。壊さないでいただけますか?」

 

 男が一瞬、目を見開く。

 

 やがて、口元を歪めた。

 

「気味の悪い子供だ」

 

「聞こえませんでしたか?」

 

「聞こえたとも」

 

 杖先が母の胸へ定められる。

 

「断る」

 

「アバダ・ケダブラ」

 

 再び、緑色の閃光が走った。

 

 母の身体が鬼太郎へぶつかる。

 

 受け止めるには重すぎた。

 

 二人は折り重なるように床へ倒れた。

 

「お母さん?」

 

 鬼太郎は母の下から這い出した。

 

 床に膝をつき、その顔を覗き込む。

 

 いつも自分を見つめていた目は、何も映していなかった。

 

 頬へ触れても、返事はない。

 

 身体はまだ温かい。

 

 それなのに、もうそこにはいなかった。

 

 父も。

 

 母も。

 

 今朝まで、確かに自分のものだった。

 

 自分の名を呼び、食事を作り、髪に触れた。

 

 明日もいると、父は言った。

 

 それを、目の前の男たちが壊した。

 

 ――奪われた。

 

 その言葉が浮かんだ瞬間、鬼太郎の頭蓋の奥で何かが軋んだ。

 

 知らない空が見えた。

 

 赤黒く濁った空。

 

 崩れ落ちた建物。鉄と血の臭い。人ではない何かの咆哮。

 

 瓦礫の間を歩く自分。

 

 昨日まで隣にいた者が倒れ、持っていたものを奪われ、弱い者から順番に消えていく世界。

 

 誰かが教えたわけではない。

 

 生き延びる中で、嫌というほど思い知らされた。

 

 力がなければ、奪われる。

 

 食料も。

 

 居場所も。

 

 自由も。

 

 気に入ったものも。

 

 自分自身さえ、より強い何かに踏みにじられる。

 

 ならば、奪われないためにはどうすればよい。

 

 答えは、最初から一つしかなかった。

 

 奪う者より強くなればいい。

 

 六歳分しかなかった思考の器へ、二十四歳で死んだ男の精神が流れ込む。

 

 経験。

 

 判断。

 

 冷酷さ。

 

 死を前にしても揺らがない、戦う者の意識。

 

 けれど、その男が誰だったのかは分からない。

 

 どこで生き、誰と戦い、なぜ死んだのか。

 

 何一つ思い出せない。

 

 残ったのは、終末を生きた断片と、力のない者からすべてが奪われるという事実だけだった。

 

「おい」

 

 男が鬼太郎を呼ぶ。

 

「次はお前だ」

 

 杖が向けられた。

 

 鬼太郎は立ち上がった。

 

 涙は流れていなかった。

 

 母の亡骸を背にして、男を見つめる。

 

 恐怖はあった。

 

 身体は小さく、武器もない。

 

 相手が何をしたのかさえ、正確には理解できていない。

 

 それでも、殺されるのを待つという選択肢だけはなかった。

 

 鬼太郎は自然に右手を伸ばした。

 

 なぜ、そうしたのかは分からない。

 

 なぜ、その言葉を知っていたのかも分からない。

 

 ただ、唇が動いた。

 

「アギ」

 

 空気が爆ぜた。

 

 鬼太郎の掌の先に、赤い火球が生まれる。

 

 男が驚愕に目を見開いたときには、もう遅かった。

 

 火球が胸へ直撃する。

 

「がっ――!」

 

 外套が燃え上がった。

 

 炎は布の表面を焼くだけではない。生き物のように全身へ絡みつき、男の身体を瞬く間に包み込んだ。

 

「熱い! 消せ! 消してくれ!」

 

 男は床を転げ回り、自分の身体を叩いた。

 

 それでも炎は消えない。

 

 皮膚の焼ける臭いが廊下へ広がる。

 

 叫び声は次第に言葉の形を失い、やがて動かなくなった。

 

 鬼太郎は、自分の右手を見た。

 

「……アギ?」

 

 口にした言葉を、確かめるように呟く。

 

 知らない言葉のはずだった。

 

 けれど、炎に包まれた男を見た瞬間、ひどく懐かしい感覚が胸の奥に蘇った。

 

 自分はこれを知っている。

 

 以前にも使っていた。

 

 一度や二度ではない。

 

 数え切れないほど、この手から炎を放ってきた。

 

 だが、それだけだった。

 

 誰を焼いたのか。

 

 どこで使ったのか。

 

 どうして自分がその力を持っていたのか。

 

 思い出そうとすると、記憶は濃い霧の向こうへ沈んでいく。

 

 玄関の方から、足音が聞こえた。

 

 父を殺したもう一人の男が、廊下の入口で立ち尽くしていた。

 

 燃える仲間。

 

 その前に立つ、六歳の少年。

 

 杖も持たず、聞いたこともない言葉だけで人間を焼いた存在。

 

 男の顔から余裕が消えていた。

 

「何をした……?」

 

 鬼太郎は男へ右手を向けた。

 

「さあ。僕にも、よく分かりません」

 

 偽りのない答えだった。

 

「ですが――」

 

 鬼太郎はわずかに目を細めた。

 

「あなたにも試してみれば、何か思い出せるかもしれませんね」

 

 男の喉が鳴った。

 

 鬼太郎の掌には、まだ炎が生まれていない。

 

 すぐにもう一度使えるのかどうかも分からなかった。

 

 だが、男にはそれを確かめる勇気がなかった。

 

 燃えている仲間を一度だけ見る。

 

 助けようとはしなかった。

 

 杖を上げると、乾いた破裂音とともに姿を消した。

 

 残されたのは、焼け焦げた臭いと、三つの動かない身体だけだった。

 

 鬼太郎はしばらく、男が消えた場所を見つめていた。

 

 追う方法は知らない。

 

 名前も、目的も、どこへ消えたのかも分からない。

 

 分からないことばかりだった。

 

 鬼太郎は伸ばしていた右手を下ろす。

 

 父のそばへ歩き、その顔を見る。

 

 次に母のもとへ戻り、開いたままの目を静かに閉じた。

 

「なるほど」

 

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 

「力がなければ、こうなるのですね」

 

 六歳の身体だけを残して、その目には二十四歳の冷静さが戻っていた。

 

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