神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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忘れさせる工場

第二十九話 忘れさせる工場

 

 ダイアゴン横丁を出るころには、空の色が傾き始めていた。

 

 鬼太郎は中庭でウォードの杖を抜き、覚えていた順に煉瓦を叩いた。

 

 壁が開く。

 

 鬼太郎は漏れ鍋を通り、再びマグルのロンドンへ戻った。

 

 煉瓦の壁が背後で閉じれば、箒も大鍋も、宙を走る羽根ペンも見えなくなる。通りを歩く者たちは、すぐそばに別の街があることへ気づかない。

 

 鬼太郎は街路図と、仲介人から渡された地図を見比べた。

 

 目的地はロンドンの中心から外れている。

 

 二度乗り物を替え、最後は徒歩で向かった。

 

 途中で何度も後ろを確認したが、同じ者が続けて現れることはない。少なくとも、非正規両替所から尾行はついていなかった。

 

     ◆

 

 染色工場は、運河のそばに建っていた。

 

 煤けた煉瓦の建物が二棟。

 

 高い煙突は途中から崩れ、正面門には錆びた鎖が巻かれている。割れた窓は板で塞がれ、看板に残った文字も半分以上が剥がれていた。

 

 周囲には倉庫が幾つかあるが、使われているものは少ない。

 

 鬼太郎は、工場へ近づかなかった。

 

 向かいの建物の陰から、まず正面を見る。

 

 扉は閉じたまま。

 

 窓にも人影はない。

 

 煙突から煙は出ていなかった。

 

 それでも、誰もいない建物には見えない。

 

 正面門の内側だけ、雑草が踏まれている。

 

 鬼太郎は時間を置いて場所を変えた。

 

 運河側。

 

 裏手の搬入口。

 

 崩れた外壁の脇。

 

 工場の周囲を一度に一周せず、遠くから区切って確かめる。

 

 見取り図に記された三つの侵入経路へは、近づかなかった。先に送られた三人が使った道なら、ルークも知っている。

 

 裏手の搬入口には、古い荷車の轍が残っていた。

 

 新しい足跡はない。

 

 だが、運河へ下りる石段のそばで、泥のついた靴跡を見つけた。

 

 雨のあとについた跡だった。

 

 同じ靴底が、石段と草の間を何度も往復している。

 

 近くには、破ったパンの包み紙と、空になった瓶が押し込まれていた。どちらも長く放置されたものではない。

 

 鬼太郎は運河の縁から工場を見上げた。

 

 煉瓦壁の下に、黒い水の流れる穴がある。

 

 染料を外へ流すために使われていた排水路だった。

 

 見取り図にも細い線はある。

 

 ただし、工場の外までつながっているとは記されていなかった。

 

 穴の前には鉄格子があった。

 

 錆びているが、壊れたのではない。留め具だけが外され、必要なときに動かせるよう壁へ立てかけてある。

 

 ルークは正面の扉も、窓も、搬入口も使っていない。

 

 ここから出入りしている。

 

     ◆

 

 日が沈むのを待つ必要はなかった。

 

 暗くなれば、鬼太郎にも見えないものが増える。

 

 ルークが夜目を利かせる魔法を使えるかもしれない以上、暗闇が鬼太郎だけの味方になるとも限らない。

 

 鬼太郎は周囲に人がいないことを確認し、石段を下りた。

 

 鉄格子へは触れない。

 

 横の隙間から、小石を一つ投げる。

 

 何も起こらなかった。

 

 次に、拾った長い木片で留め具と格子の縁を押す。

 

 光も音もない。

 

 木片の先にも変化はなかった。

 

 鬼太郎は手袋をつけ、格子を少しだけ動かした。

 

 それでも何も起きない。

 

 人一人が通れる隙間を作り、身体を滑り込ませた。

 

 〈シュライク〉は右手に持つ。

 

 引き金には指を掛けない。

 

 ウォードから得た杖は鞄の中に入れたままだ。

 

 工場の中で杖を使えば、ルークに場所を知られる。

 

 仲介人の話を信じ切るつもりはないが、試す理由もなかった。

 

 排水路は、六歳の鬼太郎でも腰を曲げなければ歩けなかった。

 

 底には乾いた染料がこびりつき、黒、青、赤の筋が重なっている。

 

 進むたび、靴の裏で小さな砂が鳴った。

 

 鬼太郎は鞄から用意しておいた細い紐を出し、曲がり角ごとに結んだ。分かれ道には傷をつけた硬貨を置いた。

 

 魔法に頼らない目印だった。

 

 やがて天井が高くなる。

 

 朽ちた木の蓋を押し上げると、工場の床下へ出た。

 

 上から人の声は聞こえない。

 

 床板の隙間から見えるのは、錆びた配管と、倒れた染料桶だけだった。

 

 鬼太郎は蓋を元の位置へ戻した。

 

     ◆

 

 工場の内部は、見取り図と違っていた。

 

 排水路から出た場所は、図面では一階の洗浄室に当たる。

 

 洗浄室の北側には、広い作業場へ続く扉があるはずだった。

 

 実際には、細い廊下が奥へ伸びている。

 

 鬼太郎は見取り図を畳み、廊下へ入った。

 

 十二歩進む。

 

 右へ曲がる。

 

 九歩進む。

 

 さらに左へ曲がったところで、足を止めた。

 

 目の前に、倒れた染料桶がある。

 

 先ほど床下から見たものと、同じ傷がついていた。

 

 鬼太郎は後ろを見る。

 

 歩いてきたはずの廊下は、真っ直ぐ伸びている。

 

 曲がり角がない。

 

 もう一度歩く。

 

 今度は壁際へ硬貨を置いた。

 

 十歩進み、左へ曲がり、さらに十歩。

 

 同じ硬貨が足元にあった。

 

 硬貨は動かされていない。

 

 傷の向きも、置いたときのままだ。

 

「道が曲がっているのではありませんね」

 

 鬼太郎は小さく呟いた。

 

 変えられているのは、建物ではない。

 

 自分が見ているものか、進んだ方向の認識だった。

 

 遠くで、靴音が鳴った。

 

 一度。

 

 二度。

 

 立ち止まる。

 

 鬼太郎も動きを止める。

 

 靴音は、背後から聞こえた。

 

 振り返ると、今度は正面で鳴る。

 

 右の壁の向こうから、誰かが息を吐いた。

 

 〈シュライク〉の銃口を向ける。

 

 そこには壁しかない。

 

 笑い声がした。

 

 子供の声だった。

 

 聞いたことのない声なのに、自分を呼んでいるように感じる。

 

 鬼太郎は答えなかった。

 

 代わりに、左手で脇腹へ触れた。

 

 治りかけていた打撲が、急に強く痛み始めている。

 

 ウォードの魔法で棚へ叩きつけられたときよりも、深く骨へ食い込むような痛みだった。

 

 布を巻いた左手首も熱を持つ。

 

 アギで魔法の縄を焼き切った際の軽い火傷が、今また燃えているように疼いていた。

 

 傷が開いたわけではない。

 

 血も出ていない。

 

 それなのに、痛みだけが増していく。

 

 耳元で声が囁いた。

 

 右手に敵がいる。

 

 撃て。

 

 鬼太郎は視線を下げた。

 

 〈シュライク〉を握る自分の右手が、手袋をつけた他人の腕に見えた。

 

 銃口が、ゆっくり自分の身体へ向こうとする。

 

 鬼太郎は引き金から離していた指を、さらに大きく開いた。

 

 左手で右の手首を押さえる。

 

 銃口を床へ向け、その場に膝をついた。

 

 目で見えるものも、耳から入る音も、痛みも信用できない。

 

 ならば動かない方がよい。

 

 鬼太郎は呼吸の回数を数えた。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 背後から近づく足音が、数えるたびに増えていく。

 

 正面の廊下が細くなった。

 

 壁が迫る。

 

 床が傾く。

 

 左手首の熱が、肩まで這い上がってくる。

 

 すべてが、自分の内側へ押し込まれてくる。

 

 その感覚に、覚えがあった。

 

     ◆

 

 場所は思い出せない。

 

 誰といたのかも分からない。

 

 けれど、これは初めてではなかった。

 

 目を開けたまま眠らされる。

 

 敵ではないものを敵と思わされる。

 

 怒りを植えつけられる。

 

 身体の自由を奪われる。

 

 頭の中へ入り込まれ、自分の考えと、外から与えられた考えの区別がつかなくなる。

 

 そうした、科学では説明できない現象が、前世ではしょっちゅう起きていた。

 

 珍しいことではなかった。

 

 受けるたびに驚いていては、生き残れないほどに。

 

 そして、それを取り除くための方法もあった。

 

 名前だけが、深い場所から浮かび上がる。

 

「……パトラ」

 

 口にした瞬間、身体の内側から何かが広がった。

 

 アギのような熱ではない。

 

 プリンパを使うときの、他人の認識へ指を差し込む感覚とも違う。

 

 冷たい水が頭の奥を洗い、目、耳、喉、胸へ流れ落ちていく。

 

 囁き声が途切れた。

 

 足音が消えた。

 

 迫っていた壁は、元の距離へ戻る。

 

 右手は、自分の右手だった。

 

 脇腹と左手首には、治りかけた傷の鈍い痛みだけが残っている。

 

 鬼太郎は、ゆっくり立ち上がった。

 

 頭痛はない。

 

 意識も濁っていない。

 

 使い方を詳しく思い出したわけではなかった。

 

 何に効き、何に効かないのかも、すべて分かったわけではない。

 

 ただ、今受けていた精神への干渉は消えた。

 

 それだけは確かだった。

 

 鬼太郎は左手首の布を見た。

 

 火傷そのものは治っていない。

 

 脇腹の痣も残っている。

 

 パトラは傷を治す力ではない。

 

 黒鉄の箱へ触れた者の腕に広がったという黒い痣にも、同じように効く保証はなかった。

 

「以前の僕にとっては、この程度のことは珍しくもなかったようですね」

 

 声には、恐怖よりも興味が混じっていた。

 

 前世の自分は、どのような場所で生きていたのか。

 

 何と戦い、これを何度使ったのか。

 

 答えは戻らない。

 

 人の顔も、名前も見えなかった。

 

 それでも、失っていたものを一つ拾い直した感覚があった。

 

     ◆

 

 鬼太郎は、すぐには歩き出さなかった。

 

 〈シュライク〉を右手に持ち直す。

 

 それから、再び壁へ手を伸ばした。

 

 何もない場所を探るように指を動かし、二歩進んでは立ち止まる。

 

 呪いがまだ効いているふりをした。

 

 ルークが侵入者の状態を知る方法を持っている可能性がある。

 

 ここで急に正しい道を歩けば、解除したことを教えるだけだった。

 

 鬼太郎は存在しない声へ答えるように顔を上げた。

 

「どちらですか?」

 

 返事はない。

 

 廊下を迷う子供を装いながら、別の音を探す。

 

 水が管を落ちる音。

 

 風が割れた窓を抜ける音。

 

 古い建物が軋む音。

 

 その中に、一度だけ、不自然な音が混じった。

 

 右側の壁の奥。

 

 靴底が床を擦る、短い音だった。

 

 壁の向こうには、人がいる。

 

 鬼太郎は、なおも二歩だけ前へ進んだ。

 

 もう一度、壁の奥で床板が鳴る。

 

 見取り図では、その先に部屋はない。

 

 鬼太郎は立ち止まった。

 

 迷っていた子供の顔から、表情が消える。

 

 右腕を上げ、壁の一点へ〈シュライク〉を向けた。

 

「そこですね」

 

 沈黙。

 

 銃口は動かさない。

 

「出てこないのであれば、壁越しに撃ちます」

 

 数秒後、壁の一部に細い線が走った。

 

 煉瓦に見えていた面が、音もなく内側へ開く。

 

 暗い隠し部屋の中に、男が立っていた。

 

 仲介人から渡された紙に描かれていた顔。

 

 エドウィン・ルークだった。

 

 痩せた頬。後ろへ撫でつけた灰色の髪。長い外套の右手には、黒い杖がある。

 

 その杖先は、鬼太郎へ向いていた。

 

 ルークは鬼太郎を見て、次に床の硬貨を見る。

 

「何をした」

 

 低い声だった。

 

「あの呪いは、子供が耐えられるものじゃない」

 

「さあ」

 

 鬼太郎は微笑んだ。

 

「昔の僕は、こうしたものに慣れていたようですよ」

 

 ルークの背後に、低い机があった。

 

 その上に、黒い箱が置かれている。

 

 黒い鉄。

 

 真鍮で補強された四隅。

 

 蓋に刻まれた三本の横線。

 

 鍵穴も、持ち手もない。

 

 仲介人から見せられた絵と一致していた。

 

 ただし、絵にはなかったものがある。

 

 箱の底から、黒い筋が伸びていた。

 

 細い根のように机を這い、床へ垂れ、隠し部屋の壁にまで広がっている。

 

 鬼太郎は箱へ近づかなかった。

 

 〈シュライク〉の銃口を、ルークの胸へ合わせる。

 

「では、箱をいただく前に――」

 

 ルークの杖先に、淡い光が集まり始めた。

 

 鬼太郎の笑みが深くなる。

 

「あなたの仕掛けを、すべて教えていただきましょうか」

 

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