第29話 拍手の終わり
キーノの乗せられた台が、舞台袖へ運ばれていく。
車輪が石の継ぎ目を越えるたび、手足を留めた金具が鳴った。
鬼太郎は、解体役の腰を見ていた。
鍵は三本ある。右手首を開いたのは真ん中だった。残る金具にも同じものが合うかは分からなかったが、鍵があることと、使った者の顔は覚えた。
キーノは幕の向こうへ消えるまで、その男を見ていた。
上階で手が叩かれた。
次に運ばれてきたのは、細長い木の足場だった。
両目を布で覆われ、手を背へ縛られた男が端へ立たされる。
「向こうまで歩けば、今夜は生かして帰す」
舞台袖の係員が、並んだ棒の一本を倒した。
男が三歩進んだとき、足元で刃が跳ねた。
足を取られ、男は横へ倒れた。次の刃が身体の脇を通り、客席から笑いと落胆の声が上がる。
鬼太郎は係員を見ていた。
棒を倒してから、刃が出るまで少し間がある。三本のうち、二本は使われた。残る一本がどこを動かすかは、まだ見えなかった。
男は引きずられていった。
次には、鎖で手首をつながれた二人が出てきた。
間へ杖が投げられる。
相手を倒せば外へ出す、と言われた。
二人は杖を奪い合った。一人が手にした瞬間、四方の術者が動く。正面右が先に構え、左奥が続いた。高い足場の二人は、客席へ杖先を向けた。
観客へ撃たれることも考えているらしい。
勝った男が出口を見ても、係員は鎖を外さなかった。杖だけを取り上げ、動かなくなった相手と一緒に連れ戻す。
客席から異議は出なかった。
鬼太郎は足元へ目を落とした。
石には細い割れ目があり、古い傷も、黒ずんだ染みもある。さっき見せた刃だけが、ここで使われるものとは思えなかった。
箱の陰へ身を寄せても、四方のすべてから隠れることはできない。
銃はまだ右手にあった。だが、持っていれば四人を同時に止められるわけでもなかった。
◆
サーシェスは空の檻と壁の間へ入った。
車輪の音が近づいていた。
通路へ現れた鉄台の上に、金髪の子供がいた。黒服が前後に一人ずつついている。
顔色は悪い。口と手首に血がついていた。
少女の目が、隙間にいるサーシェスを捉えた。
男は奪った上着の前を合わせ、道を空けた。台にいる子供を近くで覗き込む者の顔はしなかった。
少女も声を上げなかった。
通り過ぎる間、その目だけが男の腰と手を見ていた。
今ここで黒服を殺せば、台の転がる音か、残った一人の声が舞台まで届くかもしれない。
少女は依頼の対象でもなかった。
サーシェスは台を見送り、先へ進んだ。
扉が三枚並んでいた。
一枚目の小窓から、柱へ縛られていた男が見えた。左耳の下の傷と、欠けた指がある。
トーマス・ヘイル。
生きている。見張りは一人だった。
サーシェスは手を出さず、隣へ移った。
二枚目の奥から呻き声が聞こえる。三枚目の向こうでは、金属が一定の間隔で軋んでいた。
その脇へ寄ると、しばらくして扉が内側から開いた。
工具を下げた男が出てくる。
閉めたところを背後から押さえ、ナイフを入れた。身体を支えて声を止め、隣の扉を細く開く。
空の道具部屋だった。呻きは、その奥の壁の向こうから響いている。
死体を引き込み、鍵束を外す。
三枚目の部屋には、大きな巻き上げ機があった。
鎖が天井へ延び、太い縄が壁の穴へ入っている。いくつかの鉄の棒もあるが、札も文字もなかった。
サーシェスは適当に触れなかった。
高いところに覗き穴を見つけ、木箱を寄せて乗る。
中央の檻が見えた。
鬼太郎は立っている。右手に銃があり、まだ血は見えない。
「随分、大人しくしてるな」
サーシェスは巻き上げ機から延びる鎖を見た。舞台の格子へ続くものらしい。
上げれば子供は出られるかもしれないが、四方の術者にはその動きも見える。
先に、見えなくすればよかった。
サーシェスは木箱から降り、取っ手の周りを見た。大きな鎖は巻き上げ機へ続いているが、横へ延びる細いものもあった。
引けば別の仕掛けが動くのかもしれない。
扉へ戻り、廊下の左右を確かめる。ここから舞台袖へ出る道には、低い荷台と幕がある。煙を転がすだけなら、客席へ身体を晒さずに済んだ。
ただし、投げて戻るまでの間、巻き上げ機は動かせない。
開ける合図を子供へ送る手段もなかった。声を張れば、術者まで同じことを聞く。
サーシェスは覗き穴へ目を戻した。
坊主が動くところに合わせる。それくらいの時間は、自分で選ばなければならなかった。
腰の煙を確かめ、部屋から舞台袖へ出るまでの道を見た。
◆
上階の男が立ち上がった。
「お待たせしました」
声が静まる。
「今夜の場所と演目を用意した、エリアス・モーンです。最後は、皆さんの気になっていることを確かめましょう」
鬼太郎は、その名を覚えた。
モーンは手すりへ指を掛けた。
「盾を張るより早く撃つ。正面が守られていれば、別の場所から入る。人の判断を狂わせ、呪いを受ければ自ら外す」
工場を焼いたといった話とは、少し違っていた。
見た者の話を集め、実際に何をしたか考えたのだろう。
「熱心に調べてくださったのですね」
「君を子供だと思い、準備を怠った者も調べました。私は、同じ理由で手を抜いてはいない」
鬼太郎の口元に、笑みが浮かんだ。
「それなら、楽しみにしています」
モーンは答えず、腕を上げた。
客席の後ろと左右で、扉の閉まる音がした。観客は舞台へ顔を向けたまま、気にも留めていない。
頭上の袋が開いた。
鬼太郎は右手を上着の内側へ入れた。
水が落ちてきた。
頭と肩を叩き、服へ染み込む。石床へ広がった水は銀線を越え、檻の外の溝へ流れていく。
鬼太郎は顔を拭わず、銃の握りを確かめた。
上着で直撃から庇えたが、袖にも手にも水がついている。
この手から火が出ると知って、これを用意した。
炎を消すだけでなく、重くなった服も、濡れた足場も使えるのだろう。
四方の術者が前へ出た。
鬼太郎は箱の側へ足をずらした。
「それでは、始めましょう」
モーンの腕が下りた。
正面右の杖が動く。
白い光が、格子の間へ入ってきた。
鬼太郎は身体を捻った。だが、背後にも鉄がある。大きく退くことはできなかった。
左袖が裂けた。
上腕へ熱が走り、血が腕を伝う。
客席から声が上がった。
「銃はどうした!」
「火を見せろ!」
鬼太郎は傷を押さえなかった。
正面右の術者が杖を下げ、足場の奥へ戻る。撃つときには身を乗り出し、撃ち終えてから退く。
次は、左奥だった。
鬼太郎はその杖を見た。
「クルーシオ」
赤い光が身体へ触れた。
舞台が見えなくなった。
膝が折れた。
全身のどこへ力を入れても、痛みから逃げられなかった。床へ肩がぶつかったのも、自分で倒れたのか押し倒されたのかも、区別できない。
息を吸おうとして、喉が閉じた。
声が漏れた。
短い悲鳴に、観客が沸く。
何秒続いたのか、分からなかった。
相手の位置も、次の動きも数えられない。痛みを受けながら観察し続けるつもりだったことさえ、その間は消えていた。
「止めろ。まだ早い」
モーンの声を聞いたのは、痛みが途切れたあとだった。
鬼太郎は床へ頬をつけたまま息を吸った。
指が震えている。
左奥の術者は杖を下げ、汗を浮かべていた。こちらへ向けていた目も、ようやく一度逸れた。
あれは、放って終わる魔法ではなかったらしい。
鬼太郎は肘をつこうとした。
腕の傷より先に、筋肉が強く痛んだ。息を吐き、片膝へ身体を上げたとき、正面の高いところで杖が動いた。
「ペトリフィカス・トタルス」
両腕が身体へ引きつけられた。
脚が揃い、膝も曲がらなくなる。
鬼太郎はそのまま後ろへ倒れた。
後頭部が石へ当たり、目の奥へ鈍い衝撃が残る。右手は銃を握ったまま、脇へ押しつけられていた。
指一本、動かない。
客席の足音と笑いが、耳の近くへ響いた。
「自分で呪いを外すという話もある」
モーンが言った。
「今回は、どうでしょう」
鬼太郎は目だけを動かした。
縄ではない。
石や鉄へ押さえつけられてもいない。
工場で、壁が迫るように見えたときも、自分の身体へ他人の力が入り込んでいた。
今は、見えるものではなく動きを止められている。
同じように外せるか、まだ試したことはなかった。
だが、試さずに待っていれば、ここから先も相手の順番だった。
鬼太郎は、内側の力へ意識を向けた。
パトラ。
名を思い浮かべ、身体へ働きかける。
胸を縛っていたものが緩んだ。
指の感覚が戻る。
鬼太郎は動かなかった。
足は揃え、腕も身体へつけたままにする。呼吸が深くなりそうなのを抑え、視線だけを上へ向けた。
傷は痛い。頭も重く、拷問で残った震えも消えていない。
銀線の囲む中にいても、パトラは働いた。
だが、床にあるそれが何をしているかまで分かったわけではなかった。
「解けないらしいぞ」
客が言った。
笑いが続く。
モーンだけは、まだこちらを見ていた。
鬼太郎は待った。
身体を止められていた時間は、短いはずだった。それなのに、石床の冷たさが濡れた服を通り、背中へ広がっている。
頭を起こせば、腕を動かせば、もう固まっていないと分かる。
鬼太郎は床に触れた指を、そのままにした。銃を握る右手だけ、力を入れすぎないよう気をつける。震えを止めようと強く握れば、抜くときに遅れるかもしれなかった。
目の端で、正面右の男が客席へ顔を向けた。
あの男は最初に撃ち、もう一度こちらを傷つけられる位置にいる。手を下げている今なら、先に狙える。
逃げる場所はなくても、最初に誰を撃つかまでは、まだ取られていなかった。
銃を握る右手は動く。
それでも、立ち上がってから撃てば、四方へ同時に知らせることになる。
正面右の術者は、もう杖を下げていた。左奥は息を整えている。高所の一人だけが、硬直の様子を確かめるように杖を向けていた。
残る背後側の術者が前へ出た。
口を開く。
鬼太郎は右腕を動かした。
銃を上着から抜き、身体を横へ転がす。
狙ったのは背後の男ではなかった。
正面右。
杖を下げた男が目を見開き、盾を作ろうと腕を上げた。
鬼太郎の銃が鳴った。
男の手が喉へ上がり、杖が落ちた。
身体が足場から崩れる。
拍手が止まった。
◆
サーシェスは覗き穴から、鬼太郎が倒れるところを見ていた。
傷を負っても、赤い魔法へ身体を折られても、巻き上げ機へは触れなかった。
今、格子を上げても、動けない子供へ四方から撃たれる。
銃声が響いた。
サーシェスは木箱から降りた。
「やっと、始めやがったか」
制御室を出て、煙の筒を舞台袖の幕の下へ転がす。
床で短い音がした。
黒い煙が広がった。
向こうから赤い光が走り、鉄へ当たって火花を散らす。
サーシェスは部屋へ戻った。
大きな取っ手を握り、体重を掛けて回す。
鎖が動いた。
もう一度回し、さらに押す。
途中で止まった。
「あ?」
押し直しても動かない。
鎖は張り、どこか別の場所で止められている。ここから見える金具を蹴っても、その先がどこへ続くかは分からなかった。
サーシェスは覗き穴へ戻った。
格子の下に隙間がある。
大人は無理だが、子供なら通れる高さだった。
◆
鬼太郎は箱の陰へ転がった。
煙に人影が消え、光だけが飛んでくる。
一つが箱の角を掠めた。
別の光が石床を砕く。
頭上で鎖が鳴り、格子が上がり始めた。
鬼太郎は開いた隙間を見た。
その先は煙だった。術者の姿も、こちらを待つ者も見えない。
だが、ここに残れば、四方へ囲まれたままだった。
鬼太郎は銃を身体へ寄せ、伏せて格子の下へ入った。
濡れた袖が床へ擦れた。
左腕の傷が開き、指へ血が流れる。
それでも、檻の外へ出た。
箱は残した。
運び出すためには、先に邪魔をする者を減らさなければならない。
「扉を開けるな!」
モーンの声がした。
「数で潰せ!」
煙の中で黒服と目が合った。
男が腕を上げたところで、別の銃声が鳴る。
胸を押さえ、後ろへ倒れた。
〈シュライク〉とは違う音だった。
「来ていましたか」
鬼太郎が言っても、返事はなかった。
代わりに、幕のそばで靴音が移る。
背後側の術者が、煙の奥で呪文を始めた。
鬼太郎は声の位置へ二発目を撃った。
悲鳴が上がった。
どこへ当たったかは見えなかった。
高所から風が来た。
煙が裂け、杖を振る影が現れる。
鬼太郎は左手を上げた。
血と水のついた掌を、その足場へ向ける。
「アギ」
炎が煙を赤く染めた。
術者が身を引く。手すりと外套の端に火がつき、次の魔法が別の方へ飛んだ。
鬼太郎の濡れた袖へは、燃え移らなかった。
煙が客席へ流れる。
椅子を蹴る音と、扉を叩く音がした。
全員が逃げようとしているわけではなかった。
前列の男が立ち、杖を抜いた。
その隣の女も、上階の通路にいた者も、次々に舞台へ向ける。
係員だけではない。
仮面の客と、顔を隠していなかった客の中にも、魔法を使う者がいた。
鬼太郎は上階の桟敷席を見た。
モーンがいなかった。
椅子の奥の扉は開いている。逃げたのか、別の仕掛けを動かす場所へ行ったのか、今は分からない。
銃を構え直すと、右腕も少し震えた。
パトラで外れたのは硬直だけだった。左腕の傷、後頭部の痛み、拷問を受けた筋肉の重さは残っている。
それでも、鉄の中へは戻っていなかった。
鬼太郎は箱と格子の支柱を背にせず、横へ動ける位置を探した。
客席から、最初の杖が上がった。
その隣にも、もう一本。
鬼太郎は濡れた前髪の下から、その手を見た。
「見物は、おやめになるのですね」
口元へ、笑みが戻った。
右手の銃口が、前列へ向いた。