第30話 死は誰にも預けない
最初の光は、鬼太郎の足元へ飛んだ。
石が弾け、破片が靴へ当たった。
右へ動くと、前列の別の杖が追ってくる。鬼太郎は格子の支柱へ身を寄せ、光が鉄を叩く音を耳のそばで聞いた。
銃口を前へ戻す。
次の呪文を始めた男を、一発で倒した。
その隣から、また杖が上がった。
鬼太郎は左手を向けた。
「アギ」
通路に積まれた木椅子へ火が走った。
手前の男が下がり、後ろの二人へぶつかる。狭いところで互いを押し、杖を向ける場所がずれた。
鬼太郎は支柱から離れた。
高い足場から、青い光が降ってくる。
身を低くすると、頭上で鉄が鳴った。濡れた上着の裾が遅れて床を擦り、左腕から落ちる血が水へ混ざる。
上階左で、女が長く呪文を唱え始めた。
鬼太郎が銃口を向けると、女は言葉を切り、盾を作ろうとした。
その前に二発目を撃った。
肩を押さえた女が手すりへ崩れる。
鬼太郎は止まらず、横へ動いた。
着地した先に黒服がいた。棍棒が振り下ろされる。
頭を沈めて避け、男の身体の近くへ銃を寄せる。三発目で男が折れるように倒れた。
その先に、杖を持つ別の男が見えた。
鬼太郎は左手を上げた。
「プリンパ」
男の目が揺れた。
後ろから呼んだ女へ振り向き、杖を向ける。黄色い光が女を椅子へ倒すと、周囲の者が一斉にその男を見た。
鬼太郎への攻撃が減った。
その間に息を吸おうとして、胸が痛んだ。
呼吸が浅い。
腕も、脚も、まだ動いている。だが、床を蹴ると、拷問を受けた筋肉が細かく震えた。
右手に銃を持つ重さも、いつもより早く増している。
鬼太郎は燃える椅子から離れ、次に隠れられる場所を探した。
◆
サーシェスは、倒れた舞台道具の陰へ入った。
赤い光が板へ当たり、穴を開ける。
その横からリボルバーを出した。
鬼太郎へ杖を向けている男の背中へ一発。振り返った隣の魔法使いへ、もう一発。
二人が倒れると、その向こうの三人がこちらを見た。
「そりゃ、こっちも気になるよな」
サーシェスは銃を引き、道具から離れた。
三つの光が木板を砕いた。
破片が肩を掠める。次の柱へ寄ると、鬼太郎との間へ客席からの光が走った。
真っ直ぐ渡れば、途中で撃たれる。
サーシェスは鬼太郎を見た。
まだ立っている。
ならば、今こちらへ杖を向けている者を先に片づければよかった。
◆
『一人ずつ撃つな』
モーンの声がした。
桟敷席ではない。壁へはめられた金属管から響いている。
『そいつのいるところではなく、逃げる先へ撃て』
命令に従う者ばかりではなかった。
扉を開けようとする客もいる。足元へ伏せたまま動かない者もいた。
だが、鬼太郎へ攻撃を続ける者は、まだ十分に残っていた。
正面から光が来た。
鬼太郎は右へ動く。
その足元へ、右の通路から別の呪文が走った。
足を引き、左へ向きを変える。
寄ろうとした柱へ、先に縄が飛んだ。
鬼太郎は支柱を蹴って後ろへ身体を投げた。目の前で光と縄が交差する。
床へ膝をつき、銃を上げた。
正面を撃とうとすると、左の杖が動く。
そちらへ向ければ、今度は高いところから狙われた。
鬼太郎は撃たず、左手を通路へ向けた。
「アギ」
火が広がり、二人が退く。
もう一人は盾を張り、その後ろから別の者が杖を上げた。
火で止めた相手とは別のところから、次が来る。
鬼太郎は箱のそばへ戻れないかと見た。間を通る場所へ、すでに杖先が向いている。
煙は薄くなっていた。
初めは、撃つ者の顔も腕も見えた。今も、見えていないわけではない。
ただ、一人を止める間に、別の者がこちらの動いた先へ狙いを置く。
鬼太郎は息を吐いた。
一本の杖が上がるのを見れば、そこへ撃てた。だが、撃ったあとで身体を起こす場所も、もう見られている。
サーシェスの銃声が別の方角で鳴った。
あちらへ注意が向いた隙に動こうとしたが、足場の上の術者は鬼太郎から目を離さなかった。下にいる者が隠れ、高いところの者が待つ。その交代まで、全員を同時に止めることはできない。
扉へ寄れれば、と一度考えた。
そこには客が集まっていた。開かない戸を叩く者の後ろで、別の者が杖を振り向ける。近づけば、囲んでいる相手の数が増えるだけだった。
七歳の肺が、次の息を待っていた。
左腕の袖が肌へ貼りついている。銃を構える右手には、水が伝っていた。
拷問の残った脚が、一度もつれた。
鬼太郎は倒れる前に踏み直した。
正面と左から、同時に光が来る。
右には火がある。
前へ出れば、縄を持つ者が待っている。
後ろへ跳んだ。
そこへ、高所の杖が向いていた。
「ステューピファイ!」
背中へ赤い光が当たった。
音が消えた。
◆
次に見えたのは、自分の膝だった。
倒れたのか、膝をついたのか、覚えていない。
右手にはまだ銃がある。
動かそうとしても、指へ力が届かなかった。
声が遠い。
水の中から聞いているようだった。
パトラ。
名前は浮かんだ。
だが、力を働かせるところまで意識をまとめられなかった。
顔を上げる必要がある。
まだ仕掛けが残っている。
どこから来るかは分からない。
床か、壁か、天井か。
それを探す目も、思うように動かなかった。
遠くで、誰かが叫んだ。
石を擦る音がした。
右側の壁が開いたことを、鬼太郎は見ていなかった。
大型の刃が斜めに跳ね上がった。
右脇腹へ入り、身体を横へ投げた。
床へ落ちたとき、銃が手から離れた。
硬いものの滑る音がする。
鬼太郎は手を伸ばせなかった。
濡れた石へ、温かいものが広がっていく。
その温かさだけが、やけにはっきりしていた。
鬼太郎は左手を動かそうとした。
押さえなければならない。
ウォードの腕へ布を巻いたときも、ルークを柱へ留めたときも、流れるところを押さえた。自分の身体なら、場所はすぐ分かるはずだった。
だが、手が脇腹へ届かなかった。
指先で床を擦るだけで、肩から力が抜けた。
熱いはずの傷も、次第に遠くなっていく。
痛くなくなればよいと、さっきまで思っていた。それなのに、薄れていく感覚が怖かった。
自分の身体がどこまであるか、分からなくなり始めていた。
◆
サーシェスは柱から身を出した。
刃の出たところは見えた。
動かした者は見えない。
上階の小さな覗き窓へ銃を向け、一発撃った。石枠が欠けたが、中の男まで届いたか分からなかった。
すぐ正面から光が来る。
柱の後ろへ戻った。
鬼太郎との間には、三人の魔法使いがいた。
床へ伏せた子供の下で、血だけが広がっている。
「死んだふりなら、起きろよ。坊主」
返事はない。
サーシェスは、通路を塞ぐ男へ銃口を移した。
死んだと決めるには、まだ早かった。
だからといって、杖の前へ飛び込めば二人とも倒れる。
弾がなくなる前に、寄れる道を作る必要があった。
『これが、怪物の最期だ』
金属管がモーンの声を運んだ。
『噂がどれほど増えようと、身体は子供です。数の前では、炎も銃も役に立たない』
歓声が起きた。
サーシェスの銃が、その中でまた鳴った。
◆
銃声だったのかもしれない。
鬼太郎の前に、瓦礫があった。
足を踏み出すと、もう別の場所へ立っていた。
剣が迫る。
避け、炎を放つ。
雷を受けた腕が痺れ、凍った地面を踏み割り、風の中へ進んだ。
どこなのかは分からない。
人間と戦ったことがある。
人でないものとも、殺し合った。
悪魔。
その言葉が戻った。
姿は、見えたと思う間に消えた。名は分からない。
ただ、今の劇場にいる者より、はるかに強いものがいた。
それへ自分から向かっていた。
剣を避け損なったことも、地面へ叩きつけられたこともある。
それでも、次を見ようとしていた。
最後に、青いものが見えた。
共に戦った感覚と、命を奪い合った感覚が重なる。
顔は、まだ分からなかった。
だが、最後の戦いは、誰かに置かれた処刑台ではない。
相手を選び、挑み、その結末を受け取った。
今、濡れた床へ流れているものとは違った。
見たくもない客が席へ座り、鬼太郎の身体へ何をするかを他人が決めている。
始める合図も、止める合図も、あの男の手だった。
鬼太郎は、床へ触れた右手を動かそうとした。
もう、石の冷たさも薄くなっている。
このまま意識を放せば、次に目を開ける場所さえなくなるだろう。
「僕の死は、僕のものです」
声になったかは分からなかった。
「あなた方に、決めていただくつもりはありません」
笑い声がした。
観客のものではなかった。
鬼太郎の前へ、背の高い影が立っていた。
「随分、惨めな姿ですね」
自分と同じ言い方だった。
顔は影の中で見えない。それでも、誰かは分かった。
生前の自分だった。
「人間や悪魔と殺し合い、その先へまで挑んだ僕が、今は見世物の仕掛けで死にかけている」
影は血の中の鬼太郎を見下ろした。
「子供の身体だからですか?」
一歩、近づく。
「覚えていなかったから?」
鬼太郎は顔を上げた。
「敵が多かった。疲れていた。そう言えば、死んだあとで誰かが納得してくれるのでしょうか」
「いいえ」
鬼太郎は答えた。
「僕が弱かった。それだけです」
影の口元が緩んだ。
「そこは、変わりませんね」
鬼太郎はその言葉へ返さず、自分の身体を見た。
罠を疑い、楽しみにして、踏み込んだ。
相手が集めたものを見たかった。
来ることを決めたのは自分だ。何があるか分からなかったことを、責める相手はいなかった。
だが、分かったつもりで待っている間に傷つき、痛みで判断もできず、身体を止められた。
四人を数えた。
客席の全員まで、同じように撃ち合いへ入るとは数えきれていなかった。
ここから逃げる手も、最後まで用意できていなかった。
鬼太郎は影を見た。
「ですが、この死に方は気に入りません」
「ええ」
生前の自分は、劇場の方へ顔を向けた。
「僕もです」
遠くで、客の声がした。
影の輪郭が、ほんの少し揺れる。
別の誰かに助けを求めているという感じは、不思議としなかった。
失くしたものへ、手を伸ばそうとしていた。
「返していただけますか」
鬼太郎は小さな手を差し出した。
「僕の力を」
影は、すぐには取らなかった。
「今のあなたが、扱える量ではありませんよ」
「承知しています」
「借りたもので勝っても、今の身体が強くなったわけではない」
鬼太郎は答えを急がなかった。
ここを出ても、また同じように待っていれば、別の場所で同じことになる。
もう一度、次もあると考えてしまえば、目の前のものを測り違えるだろう。
「次は、自分で届きます」
「そうでなければ、僕まで恥をかきますからね」
差し出された大きな手が、小さな手へ重なった。
「今回だけですよ」
◆
流れ込んできたものは、記憶だけではなかった。
身体の内側に力が満ちた。
これまでアギを使うため引き出していたものと同じで、それとは比べられない量だった。
MAG。
その名も、使っていた感覚と一緒に戻った。
血管と神経を内側から押し広げられるようだった。
心臓が強く跳ねる。
子供の身体は、それだけで軋んだ。
すべてを思い出したのではない。
悪魔の名も、共にいた者の顔も、青い人影と交わした言葉も浮かばなかった。
だが、目の前に立っていた自分と、今の自分を別の者だと思う感覚が薄れていく。
戦いを楽しむこと。
負ければ自分が弱いと認めること。
生きることも、戦うことも、自分で選ぶこと。
記憶が戻るたび、別の者へ近づいていたわけではなかった。
初めから、自分だった。
影はもう、目の前にいなかった。
知らない年月を一度に生き直したわけではない。
誰かと話した言葉を思い出そうとしても、そこにはまだ空白があった。何を得て、何を捨てたのかも分からない。
戻ったものを探している間にも、今の身体からは血が流れている。
鬼太郎は、名の分からない顔を追うのをやめた。
いま使わなければならないものは、分かっていた。
呼びかける必要もなくなっていた。
鬼太郎の中に、四つの名があった。
ディア。
ブフ。
ジオ。
ザン。
そのうちの一つへ、意識を向けた。
◆
血に濡れた指が動いた。
前列の男が身を乗り出した。
「今、動かなかったか?」
「死ぬときには、ああなるものだ」
隣の者が答えた。
鬼太郎は右手を脇腹へ触れさせた。
「ディア」
裂けたところの奥で、何かが動いた。
開いていたものが寄り、流れ続けていた血が止まる。
痛みが、少し遠ざかった。
だが、すべてが消えたわけではなかった。
息は浅く、頭は重い。左腕を床へつくと傷が痛み、肘へ力を入れただけで全身が震えた。
流した血は、まだ足元にある。
身体へ戻ったわけではなかった。
鬼太郎は片膝を立てた。
右脇腹は、動けばまた命が流れ出す状態ではなくなっていた。
それで、今は足りる。
濡れた床へ足を置いた。
滑りかけ、掌で支える。
身体の中に満ちた力は、膨大だった。
同時に、長く抱えられないと分かった。何も使わなくても、骨の内側まで押し広げられるように痛む。
鬼太郎は息を吐き、自分の脚を伸ばした。
客席の声が減っていく。
サーシェスも、柱の陰で銃を止めていた。
〈シュライク〉は数歩先に落ちている。
鬼太郎は拾いに行かなかった。
先に、上を見た。
奥の小さな覗き窓に、人の顔がある。
モーンだった。
鬼太郎は、血のついた唇を僅かに上げた。
「お待たせしました」
声は掠れていたが、自分のものだった。
「続きを、見せていただきましょうか」