神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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黒い箱には、指紋がない

第三十話 黒い箱には、指紋がない

 

 ルークの杖先へ集まった光が、細く伸びた。

 

 鬼太郎は右へ身体を倒す。

 

 淡い光が頬の脇を通り、廊下の壁へ当たった。

 

 煉瓦の表面が黒く変色し、音もなく崩れる。

 

 鬼太郎は倒れながら〈シュライク〉を撃った。

 

 一発目。

 

 狙いは、杖を持つ右手だった。

 

「プロテゴ!」

 

 弾丸がルークの手前で弾かれた。

 

 隠し部屋の壁に火花が散る。

 

 ルークは箱を庇わなかった。

 

 盾の向こうで身を翻し、部屋の奥にある細い扉へ飛び込む。

 

 黒鉄の箱は、低い机に置かれたままだった。

 

 鬼太郎は起き上がる。

 

 箱へは近づかない。

 

 ルークが逃げた扉へ〈シュライク〉を向けた。

 

 箱を回収するだけなら、追わずに運び方を探すという選択もある。

 

 だが、工場の罠を作った者を自由にしたまま、箱へ両手を塞がれるわけにはいかない。

 

 鬼太郎はルークを追った。

 

     ◆

 

 扉の先には、下へ続く短い階段があった。

 

 鬼太郎はすぐに足を載せない。

 

 鞄から傷をつけた硬貨を一枚出し、一段目へ落とした。

 

 何も起きない。

 

 二段目。

 

 三段目。

 

 硬貨が四段目へ触れた瞬間、階段の両側から細い鎖が飛び出した。

 

 何もいない空間へ巻きつき、強く締まる。

 

 人間の足で踏んでいれば、そのまま倒されていた。

 

「随分と丁寧ですね」

 

 鬼太郎は鎖が引っ込まないことを確認し、その上を跨いだ。

 

 階段を下りる。

 

 先には、古い作業場が広がっていた。

 

 倒れた棚と空の染料桶が並び、天井から太い鎖が何本も垂れている。

 

 ルークの姿は見えない。

 

 足元に、細い紐が落ちていた。

 

 鬼太郎が排水路から来る途中で結んだものと、同じ色だった。

 

 だが、自分がここへ結んだ覚えはない。

 

 廊下の方向を再び乱そうとしている。

 

 鬼太郎は紐を拾わなかった。

 

 視界の端で、何かが動く。

 

 左の棚が倒れてきた。

 

 鬼太郎は前へ走る。

 

 背後で棚が床を打ち、来た道を塞いだ。

 

 続いて、右から瓶が飛んでくる。

 

 床へ伏せる。

 

 瓶が頭上で砕け、破片が向かいの柱へ突き刺さった。

 

 鬼太郎の上着にも、細かな破片が当たる。

 

 布は切れたが、皮膚までは届かなかった。

 

 前方の桶の陰から、ルークが杖を突き出す。

 

「子供が来るとは聞いていなかった」

 

「僕も、親切に迎えていただけるとは聞いていませんよ」

 

 鬼太郎が銃口を向ける。

 

 ルークはすぐに桶の陰へ隠れた。

 

 今度は撃たない。

 

 盾を張らせるだけなら、弾丸が減る。

 

 鬼太郎は足元の硬貨を拾い、右側へ投げた。

 

 硬貨が床へ落ちる。

 

 その周囲から三本の鎖が飛び出した。

 

 音に反応したのではない。

 

 床へ触れた重さに反応している。

 

 鬼太郎は鎖が戻るまでの時間を数えた。

 

 十二まで数えたところで、鎖が床の穴へ沈む。

 

 再び同じ場所へ硬貨を投げる。

 

 今度は何も起こらなかった。

 

 一度作動した罠は、すぐには使えない。

 

 鬼太郎は、その場所を通って前へ出た。

 

     ◆

 

 ルークは、鬼太郎が罠を知らないと思っていた。

 

 それは正しい。

 

 鬼太郎は、魔法で作られた鎖の仕組みも、道を惑わせる呪いの理屈も知らない。

 

 だが、知らない罠を自分の身体で確かめる必要はなかった。

 

 拾った物を先へ投げる。

 

 一度通った場所へ印をつける。

 

 相手が何を見て、いつ仕掛けを動かすかを観察する。

 

 罠を作る者にも癖がある。

 

 ルークは、鬼太郎が立ち止まるたび杖を動かした。

 

 その直後に、棚、瓶、鎖のいずれかが動く。

 

 工場のすべてが勝手に襲ってくるのではない。

 

 少なくとも一部は、ルークが選んで動かしている。

 

 そして、ルークが一度に向ける杖先は一つだけだった。

 

 鬼太郎は倒れた机の陰へ入った。

 

 赤い光が机を削る。

 

 木片が頬を掠めた。

 

 浅い線ができたが、血はわずかだった。

 

 鬼太郎はそれを拭わず、天井を見る。

 

 作業場の中央に、大型の染料桶が吊られていた。

 

 底は錆び、支える鎖も赤茶色に変わっている。

 

 真下にはルークがいる。

 

 いや。

 

 ルーク自身も、桶の位置を知っている。

 

 その真下へ立つほど愚かではない。

 

 桶の端が落ちれば届く場所に立ち、鬼太郎が正面から撃つのを待っている。

 

 再び〈プロテゴ〉で受け、次の呪文を返すつもりだった。

 

 鬼太郎は机の陰から左手だけを出した。

 

「アギ」

 

 炎が、ルークではなく天井へ走った。

 

 桶を吊るす鎖の一部へ絡みつく。

 

 古い鉄が赤く染まり始めた。

 

 ルークが上を見る。

 

「何を――」

 

 鬼太郎は立ち上がった。

 

 ルークが反射的に杖を向ける。

 

「プロテゴ!」

 

 盾が二人の間に現れた。

 

 鬼太郎はルークを撃たない。

 

 赤熱した鎖へ照準を移す。

 

 二発目。

 

 弾丸が鎖を砕いた。

 

 大型の染料桶が傾く。

 

 残った鎖に引かれ、ルークの横へ振り子のように落ちていく。

 

 ルークは盾の向きを変えた。

 

 染料桶と〈プロテゴ〉が衝突する。

 

 重い音が作業場へ響いた。

 

 盾は桶を弾いたが、床板が衝撃に耐えられなかった。

 

 ルークの足元が割れる。

 

 身体が傾き、右手の杖が床へ落ちた。

 

 鬼太郎は走った。

 

 ルークが杖へ手を伸ばすより早く、その手前を靴で踏む。

 

 杖を後方へ滑らせた。

 

 〈シュライク〉の銃口を、ルークの額へ向ける。

 

「動かないでください」

 

 ルークの右手が止まった。

 

「殺せばいい」

 

「今は、そのつもりはありません」

 

 鬼太郎は微笑む。

 

「あなたを殺すのは簡単ですが、その前に働いていただきます」

 

     ◆

 

 鬼太郎はルークを立たせた。

 

 杖から離れた位置を歩かせ、隠し部屋へ戻る。

 

 途中に残る罠の場所は、ルーク自身に言わせた。

 

 答えるのが遅れれば、〈シュライク〉の銃口を右脚へ移す。

 

 それだけで十分だった。

 

 隠し部屋へ戻っても、黒鉄の箱から伸びる筋は消えていない。

 

 机を這い、床へ垂れ、壁の隙間へ入り込んでいる。

 

「あれは何です?」

 

「箱から漏れた呪いだ」

 

「あなたが掛けたものではない?」

 

「違う。俺なら、あんなものを自分の寝床へ置かん」

 

「ですが、盗んできた」

 

 ルークの口元が歪んだ。

 

「持ち主が、あれを運ぶために何人殺したか知れば、価値があると思う奴は多い」

 

「中身は?」

 

「知らん」

 

 鬼太郎は銃口をわずかに下げ、右膝へ合わせた。

 

「本当だ」

 

 ルークが早口で続ける。

 

「開ける前に、持ち主の連中に見つかった。ここへ運んでから、継ぎ目へ触れた道具が腐り始めた。箱へ直接触った人間がどうなるかも知っている。だから開けていない」

 

「先に来た三人のうち、一人が右手を失いました」

 

「切り落としたなら、運がいい」

 

「運び方を見せてください」

 

「道具が要る」

 

「どこです?」

 

 ルークは隠し部屋の奥を顎で示した。

 

 壁際の戸棚に、長い真鍮の挟み具が二本あった。

 

 灰色の厚い布。

 

 箱より一回り大きい木枠。

 

 折り畳まれた小型の手押し車。

 

「あの布は呪いを止めるのですか?」

 

「止めない。触れるまでの時間を延ばすだけだ。素手で箱を持てば、布の上からでもいずれ移る」

 

「では、真鍮の道具で布を掛け、木枠へ固定する」

 

「分かっているなら、自分でやれ」

 

「いいえ」

 

 鬼太郎は即座に答えた。

 

「もし説明が間違っていれば、最初に困るのはあなたであるべきです」

 

 ルークは黙った。

 

「始めてください」

 

     ◆

 

 ルークは真鍮の挟み具を両手に持った。

 

 鬼太郎は三歩離れ、〈シュライク〉を向けている。

 

 まず、灰色の布を広げる。

 

 挟み具の先だけで布を持ち上げ、黒鉄の箱へ被せた。

 

 布が箱の表面へ触れる。

 

 黒い筋が、急に太くなった。

 

 机の縁まで這っていた筋が持ち上がり、布の上を探るように蠢く。

 

 ルークの手が止まる。

 

「続けてください」

 

「見れば分かるだろう。活性化している」

 

「止めれば、安全になるのですか?」

 

 ルークは答えない。

 

「続けてください」

 

 挟み具が再び動いた。

 

 布の四隅を折り、箱を完全に包む。

 

 黒い筋は消えなかった。

 

 だが、布の上で動きを止めた。

 

 ルークは木枠を机の横へ置き、二本の挟み具で包んだ箱を持ち上げた。

 

 箱が机から離れる。

 

 壁と床へ伸びていた黒い筋が、細い糸のように引き延ばされた。

 

 一本ずつ切れ、布の下へ戻っていく。

 

 木枠へ箱を下ろす。

 

 上から木の留め具を掛け、直接触れないよう挟み具で金具を閉じた。

 

 ルークは木枠の左右を持ち上げた。

 

 数秒、そのまま立たせる。

 

 手にも腕にも、黒い痣は現れない。

 

「それで運べる」

 

「まだです」

 

 鬼太郎は手押し車を指した。

 

「載せて、裏の搬入口まで運んでください」

 

 ルークは歯を食いしばったが、従った。

 

 鬼太郎は戸棚に残されていた手帳もルークに出させ、鞄へ入れた。

 

     ◆

 

 手押し車を使うなら、入ってきた排水路からは出られない。

 

 鬼太郎はルークに、裏の搬入口までの罠を一つずつ解除させた。

 

 床の鎖。

 

 扉を開けた者へ落ちる鉄板。

 

 取っ手に触れると悲鳴を上げる警報。

 

 ルークは杖なしでも、壁や床に隠した金具を動かして停止させた。

 

 鬼太郎はその手順を見て、ルークの部屋から持ち出した手帳へ印をつける。

 

 文章のすべては読めない。

 

 図と数字だけでも、罠の位置を照らし合わせる役には立った。

 

 搬入口の手前で、ルークの視線が一度だけ右へ動いた。

 

 崩れた煉瓦壁。

 

 腰の高さに、一つだけ色の違う煉瓦がある。

 

 ルークはすぐに前へ向き直った。

 

 鬼太郎は気づかないふりをした。

 

「扉を開けてください」

 

 ルークが手押し車から手を離す。

 

 搬入口の閂へ近づき、右手で金具を外す。

 

 左手が、壁の色違いの煉瓦へ伸びた。

 

 煉瓦が抜かれる。

 

 奥には、短い杖が隠されていた。

 

 ルークが左手で掴む。

 

 振り向くより先に、鬼太郎は撃った。

 

 三発目。

 

 弾丸が左肩へ入る。

 

 ルークの身体が壁へぶつかった。

 

 短い杖が床へ落ちる。

 

「あ……ぐっ……」

 

 ルークは左肩を押さえ、膝をついた。

 

 鬼太郎は近づき、短い杖を蹴って遠ざけた。

 

「説明していない危険が、まだありましたね」

 

「殺せ……」

 

「先ほども同じことを言いましたね」

 

 鬼太郎はルークの外套を裂かせ、布を傷口へ押し当てさせた。

 

 それから荷を縛る縄で、ルークの右手首と胴を太い柱へ固定する。負傷した左腕は胸の前から動かせないよう、別の布で押さえた。

 

 最初の杖と短い杖は、ルークから届かない作業場の反対側へ置いた。

 

 持ち帰らない。

 

 由来も性質も分からない杖を増やすより、この男が生きて話を広める方が役に立つ。

 

 鬼太郎は、ルークの手帳、残っていた灰色の布、真鍮の挟み具、戸棚にあった魔法界の硬貨を鞄へ入れた。

 

 ルークが荒い息の合間に笑う。

 

「誰も……信じないぞ。こんなガキにやられたなんてな」

 

 鬼太郎は手押し車の取っ手を握った。

 

「僕を六歳の子供として話しても構いませんよ」

 

 搬入口の扉を開く。

 

 冷たい外気が入ってきた。

 

「信じるかどうかは、聞いた方の問題ですから」

 

 箱を載せた手押し車を押し、工場の外へ出た。

 

     ◆

 

 箱を覆う灰色の布は、一度も動かなかった。

 

 鬼太郎は上から古い麻布を被せ、ただの荷物に見えるよう隠した。

 

 人通りの少ない道を選び、夜の間にロンドンへ戻る。

 

 途中で何度も木枠を確認したが、黒い筋が外へ伸びることはなかった。

 

 それでも、箱へは触れない。

 

 夜が明け始めるころ、漏れ鍋へ着いた。

 

 奥の中庭へ手押し車を入れる。

 

 鬼太郎は鞄からウォードの杖を抜き、以前と同じ順に煉瓦を叩いた。

 

 壁が開く。

 

 鬼太郎は杖を鞄へ戻し、閉じる前に手押し車を押して通り抜けた。

 

 朝のダイアゴン横丁は、まだ人が少ない。

 

 店を開ける者たちが、布を被せた荷物と、それを運ぶ子供へ視線を向ける。

 

 鬼太郎は立ち止まらなかった。

 

     ◆

 

 非正規両替所の扉は閉まっていた。

 

 鬼太郎が三度叩くと、内側で足音がする。

 

「誰だ」

 

「昨日、仕事をいただいた者です」

 

 鍵が外れた。

 

 扉を開けたのは、昨日とは別の用心棒だった。

 

 男は鬼太郎の顔を見て、次に手押し車を見る。

 

 その手が外套の内側へ入る前に、鬼太郎は言った。

 

「杖は抜かない方がよいですよ」

 

 店の奥から、仲介人の声がした。

 

「入れろ」

 

 鬼太郎は手押し車を押して店へ入った。

 

 右脚を撃たれた案内役も、右前腕を撃たれた用心棒もいない。

 

 机の向こうには、昨日と同じ仲介人が座っていた。

 

「まさか……」

 

「確認しますか?」

 

 鬼太郎は麻布の端だけを、真鍮の挟み具で持ち上げた。

 

 灰色の布に包まれ、木枠へ固定された箱が現れる。

 

 仲介人の顔から色が消えた。

 

 蓋を見なくても、木枠と灰色の布に覚えがあるらしい。

 

「残りの報酬をお願いします」

 

「ルークは」

 

「生きています。工場の裏手に近い搬入口から入り、広い作業場の柱を探せば見つかります」

 

「箱に触ったのか?」

 

「いいえ。触れていません」

 

 鬼太郎は挟み具で麻布を戻した。

 

「先に報酬を」

 

 仲介人は新しい用心棒へ目を向けた。

 

 男が奥から小袋を持ってくる。

 

 机の上に、金貨、銀貨、銅貨が並べられた。

 

 鬼太郎は手押し車から手を離さず、片手で種類ごとに硬貨を分ける。

 

 準備金を除いた残額。

 

 仲介人の取り分。

 

 危険を隠していた分として増やした額。

 

 昨日決めた数字と一致している。

 

「足りています」

 

 鬼太郎は硬貨を鞄へ入れた。

 

 それから初めて、手押し車の取っ手を仲介人側へ向ける。

 

「箱はお渡しします。灰色の布を外さず、木枠ごと扱ってください」

 

「中を見たか?」

 

「いいえ」

 

「なぜだ」

 

「開けないことが、仕事の条件でしたから」

 

 仲介人は箱と鬼太郎を交互に見る。

 

 子供が恐ろしくて開けなかったと思っている顔ではない。

 

 報酬を受け取るために、危険な品を条件どおり持ち帰った実行役を見る目だった。

 

「ルークの物は?」

 

「箱以外は僕が取ってよいという契約でしたね」

 

 仲介人は何も言えなかった。

 

 鬼太郎は机の上に開かれた帳面へ目を向ける。

 

 回収。

 

 護衛。

 

 運搬。

 

 人捜し。

 

 欄の端にある意味の分からなかった略号も、買った本と見比べれば少しずつ読めるようになるだろう。

 

「次からは、最初にすべて話してください」

 

 鬼太郎は仲介人へ微笑んだ。

 

「そうすれば、余計な交渉をせずに済みます」

 

 仲介人が答える前に、鬼太郎は帳面の次の頁へ視線を移した。

 

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