第三十一話 鍵は、一度も使われない
帳面の次の頁には、短い文がいくつも並んでいた。
回収。
護衛。
捜索。
鬼太郎がまだ意味を知らない略号もある。
非正規両替所の仲介人は、帳面へ向けられた視線に気づいていた。
「まだ仕事を受けるつもりか」
「そのために、こちらへ来ましたから」
鬼太郎は答えた。
声は普段と変わらない。
だが、手押し車を押していた右手を離してから、指先に重さが残っている。夜を通して箱を運び、眠っていない。木片が掠めた頬には乾いた血がつき、上着の下にはウォードとの戦いで残った痣がある。左手首の火傷も、皮膚を引けばまだ痛んだ。
仲介人は鬼太郎の顔から鞄へ、鞄から右手へ視線を動かした。
「その身体でか」
「いいえ」
鬼太郎は帳面から目を上げた。
「次の仕事は、一週間後に伺います」
仲介人の眉が動く。
「今、選ぶんじゃないのか」
「疲れたまま受ければ、普段なら見えるものを見落とします。急いで失敗する理由はありません」
鬼太郎は机の上の帳面を指した。
「それまでに、危険と条件を整理しておいてください。次は、最初からすべて聞かせていただきます」
箱を受け取ったあとでは、仲介人も笑わなかった。
「一週間だな」
「ええ」
「その頃まで、残っていれば見せる」
「残っていなければ、別の仕事を選びます」
鬼太郎は踵を返した。
背後で、仲介人が帳面を閉じる音がした。
◆
朝のダイアゴン横丁を抜け、漏れ鍋の裏手へ戻る。
鬼太郎は鞄からウォードの杖を取り出した。
覚えている順に煉瓦を叩く。
壁が組み替わり、向こう側の中庭が見えた。
鬼太郎は通り抜け、壁が閉じるのを待ってから杖を鞄へ戻した。
この杖で、入口は開く。
それが杖の持ち主でなくても使えるからか、入口を開く仕掛けに魔法使い本人の力が必要ないからかは、まだ分からない。
分からないものは、使えたという事実と分けて覚えておけばよい。
鬼太郎はロンドンを離れ、英国で使っている個室へ戻った。
扉の錠に壊された跡はない。
室内へ入り、床板の下を確認する。
父の書類。
焼死した襲撃者から回収した杖。
どちらも、置いた場所に残っていた。
鬼太郎は扉を施錠し、上着を脱いだ。
水で頬の血を落とす。
傷は浅い。縫う必要もない。
左手首の火傷には新しい布を巻き、右肩と脇腹の痣を指で確かめた。押せば痛むが、腫れは以前より引いている。
〈シュライク〉から弾倉を抜く。
薬室を確認し、三発減った弾を数えた。銃身と作動部に異常がないことだけを確かめ、撃たずに鞄へ戻す。
それから、寝台へ横になった。
目を閉じた直後、工場の壁を這っていた黒い筋が浮かんだ。
黒鉄の箱から伸び、床と壁の隙間へ入り込んでいたもの。
灰色の布の上で動きを止めたが、消えたわけではない。
あれへ触れた者の右手は、失われた。
パトラが効いたかどうかを、試すつもりはなかった。
確かめるために自分の手を差し出すのは、検証ではなく浪費だ。
次に目を開けたとき、窓の外は暗くなっていた。
◆
身体は、眠る前より重かった。
喉が渇き、右肩の奥に鈍い痛みが残っている。左手首も熱を持っていた。
長く眠っただけでは、一晩の疲労がすべて抜けたわけではない。
鬼太郎は寝台の端に座り、左手を開いた。
工場で戻った一つの名を、口にする。
「パトラ」
目に見える光はなかった。
それでも、内側から何かが広がる感覚はある。
工場では、その直後に歪んでいた廊下が本来の形へ戻った。存在しない声も、動く壁も消えた。
今は何も変わらない。
喉は渇いたまま。
右肩を回せば痛み、左手首の皮膚を引けば火傷が疼く。眠気も残っている。
頬の傷へ触れる。
塞がってはいない。
「治すものではないようですね」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
鬼太郎は水を飲み、保存していた食べ物を口へ運んだ。
そのあと、布を一本取り出した。
左手首へ巻き、片手では解きにくい結び方で寝台の枠へ留める。腕を引けば布が食い込み、手首は枠から離れない。
「パトラ」
布は解けなかった。
締めつけも消えない。
鬼太郎は右手で結び目を解いた。
前世の記憶には、誰かの動きを封じるものと、眠らせるものと、認識を乱すものがあった。
だが、布で手を縛ることと、あの力で動けなくなることが同じとは限らない。
普通の疲労と、異常によって動けない状態も別だ。
工場で消えたのは、傷でも痛みでもなかった。
外から認識へ押しつけられていた異常だけだ。
それ以上を確かめるには、もう一度、同じような力を受ける必要がある。
安全な部屋で試せるのは、ここまでだった。
◆
二日目も、鬼太郎は〈シュライク〉を撃たなかった。
食事を取り、眠り、傷の布を替える。
眠れば眠気は消えた。
時間が経てば、肩と脇腹の痛みも薄くなった。
パトラを使った直後には変わらず、休息のあとにだけ回復している。
鬼太郎は、その違いを記憶した。
三日目からは、買った初歩書とルークの手帳を机へ並べた。
初歩書の文章は、すべてを読めるわけではない。
辞書を引き、分からない単語の横へ印をつける。ルークの手帳には、さらに略された言葉と、本人にしか分からない書き込みが多かった。
床から飛び出す鎖。
取っ手へ触れた者を知らせる警報。
侵入者の方向感覚を乱した廊下。
工場で見たものと似た図を探し、実際に置かれていた場所と照らし合わせる。
同じ印が、扉と窓の図に使われている。
別の印は、床へ引かれた線の内側に書かれている。
また別の頁には、箱や瓶に手を伸ばす人間の絵があった。
文字をすべて読めなくても、仕掛けが一つではないことは分かる。
入口を見張るもの。
一定の場所へ入ったことを捉えるもの。
物へ触れたことへ反応するもの。
ただし、手帳にある図を真似て杖を振ることはしなかった。
線の意味も、必要な言葉も、込める力も知らない。
一部だけを真似て何が起こるかも分からない。
これは今のところ、魔法を使うための本ではない。
魔法を使う者が、どこを見張っているのかを知るための本だった。
◆
一週間後。
頬の傷は、近くで見なければ分からない細い線になっていた。
右肩、背中、脇腹の痣も薄い。左手首の火傷は新しい皮膚が張り、強く擦らなければ痛まない。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜き、弾を入れないまま構えた。
右手だけで狙う。
左手を添える。
立ったまま、膝をつき、身体を横へ倒す。
肩と脇腹に、動きを止めるほどの痛みはない。
引き金へ触れず、銃を下ろした。
完全に傷が消えたわけではない。
だが、次の仕事を始めるには足りている。
鬼太郎は〈シュライク〉、予備弾薬、ウォードの杖、ルークの手帳、初歩書を鞄へ収めた。
再びロンドンへ向かった。
◆
漏れ鍋の中庭で、ウォードの杖を取り出す。
以前と同じ順に煉瓦を叩く。
開いた壁の向こうには、一週間前と変わらないダイアゴン横丁があった。
だが、非正規両替所の扉を開けた用心棒の反応は違った。
鬼太郎の顔を見た直後、男の右手が外套の内側へ動く。
そこまでは以前と同じだった。
男は何かを思い出したように動きを止め、右手を外へ出した。
「帳面を見に来ました」
鬼太郎が言うと、男は返事をせずに道を空けた。
店の奥では、仲介人が待っていた。
「きっちり一週間か」
「約束しましたから」
仲介人は閉じた帳面へ手を置いた。
「ルークは生きていた」
「そうでしょうね」
「左肩を撃たれ、柱に縛られていた。二本の杖は、這っても届かない場所に置かれていたそうだ」
「そのようにしました」
仲介人は少しの間、鬼太郎を見た。
「工場の呪いが効かなかったと話している」
「一度は効きましたよ」
「杖を使わずに破ったとも」
「杖を使わなかったのは事実です」
「炎で工場を焼き、正面から盾を撃ち抜いたという話もある」
「それは事実ではありませんね」
鬼太郎は微笑んだ。
「ですが、訂正する必要もないでしょう」
正確な手順を知られるより、何をしても通じないと思われる方がよい。
恐怖で仕事が減るなら、その程度の依頼人だったということだ。報酬を上げてでも使おうとする者だけが残る。
仲介人は帳面を開いた。
「名前を聞いていなかったな」
「仕事に必要ですか?」
「帳面へ書く」
「箱を持ち帰った者、と書けば分かるのでは?」
仲介人は鬼太郎の顔を見たあと、帳面の端へ短く何かを書いた。
「好きにしろ」
「そうさせていただきます」
本名を渡す必要はない。
名前がなくても、箱を持ち帰ったという結果は残る。
◆
仲介人が示したのは、ノクターン横丁にある薬品商の仕事だった。
「地下の倉庫から、品が消えている」
「盗難ですか」
「三晩続けてな。量は少ないが、高い物から選ばれている」
「扉は?」
「鍵が二つ。魔法の防護もある。開けられれば店主に分かる」
「窓は」
「ない」
「姿くらましは?」
「倉庫の中ではできないようにしてある」
「見張りは置きましたか?」
「二晩目から扉の前に一人。三晩目は二人置いた。誰も入らず、朝にはまた減っていた」
鬼太郎は帳面へ目を落とした。
「倉庫へ入れる者は」
「店主と店員が三人。全員調べた。盗んだ品も、金に替えた形跡も出ていない」
「先に調べた者は?」
「扉の防護を調べた魔法使いが二人いる。どちらも、破られた跡はないと答えた」
「危険物はありますか?」
仲介人は、今度は答えるまで間を置かなかった。
「ある。皮膚につけば焼ける薬。吸い込めばしばらく声が出なくなる粉。瓶を割れば、火を近づけなくても燃える液体。盗まれた中にも、表の店では売れない物が含まれている」
「防護そのものが、調べる者へ危害を加える可能性は?」
「解除方法を知らずに扉や棚へ触れればある。店主に止めさせる」
「店主は、疑った相手へ先に杖を向けますか?」
「向ける男だ」
「分かりました」
鬼太郎は頁の報酬欄を指した。
「これは犯人を見つけた場合の額ですか。それとも、盗み方を突き止めただけでも同じですか?」
「方法と犯人の両方だ。盗まれた品を取り戻せば、追加が出る」
「では、倉庫は僕が見るまで動かさないこと。店員とは一人ずつ話をさせること。僕へ襲いかかった者の杖や道具は、僕が取得すること」
「店主へ伝える」
「伝えるのではなく、先に了承を得てください」
仲介人は用心棒へ目を向けた。
男が奥の扉から出ていく。
しばらくして戻り、仲介人の耳元で何かを告げた。
「すべて飲むそうだ」
「期限は?」
「三日。今夜から数える」
「その間、別の者を倉庫へ入れないでください」
「それも了承した」
鬼太郎は、先払い分の硬貨を数えた。
決めた額と一致している。
「お受けします」
◆
ノクターン横丁へ入ると、ダイアゴン横丁よりも道幅が狭くなった。
建物は互いへ寄りかかるように並び、上階から張り出した窓が空を細く切っている。
店先に品名を出していない店が多い。
扉を閉ざしたまま、覗き窓だけを開けて客を確かめる店もある。
鬼太郎は案内役の半歩後ろを歩いた。
視線を向けてくる者はいる。
子供が珍しいから見ている者。
鞄の価値を測っている者。
鬼太郎の顔を見たあと、隣の者へ小声で何かを告げる者。
どれがルークの話を知っているかは分からない。
鬼太郎は誰とも目を合わせず、杖を隠している位置だけを見た。
案内役は、煤けた緑色の扉の前で止まった。
看板はない。
三度、間を変えて扉を叩く。
内側の覗き窓が開いた。
「例の調査役だ」
案内役が言う。
覗き窓の向こうの目が、鬼太郎へ下がった。
「子供じゃないか」
「黒い箱を持ち帰った子供だ」
窓が閉じた。
少し遅れて、扉の鍵が外れる。
◆
店内には、薬草とも金属とも違う匂いが満ちていた。
壁際の棚には、色の異なる液体が入った瓶と、封をされた壺が並んでいる。床には白い線が引かれ、その内側へ入らないよう椅子が置かれていた。
店の主人は、鬼太郎を上から下まで見た。
「あの箱の話が本当だとしても、盗人探しは別だぞ」
「ええ。ですから、箱を運んだ方法ではなく、こちらを調べに来ました」
鬼太郎は奥へ続く扉を見た。
「地下倉庫は、あちらですか?」
主人は答えずに歩き出した。
狭い階段を下りる。
地下の突き当たりには、鉄の帯を打った木製の扉があった。
二つの鍵穴。
扉の縁には、細い銀色の線が巡らされている。床にも、見慣れない記号が並んでいた。
ルークの手帳にあったものと、形の似た印が一つある。
鬼太郎は触れずに足を止めた。
「この扉は、一度も開けられていない」
店の主人が言った。
「鍵も防護も、盗まれる前と同じだ。見張りも、誰も通していない」
鬼太郎は扉を見た。
次に、扉の左右の壁を見る。
頭上の天井。
足元の床。
階段の幅と、建物の外から見た奥行きを思い出す。
「では、最初から扉を使ったと決めない方がよいでしょうね」
鬼太郎は鞄から、ルークの手帳と傷をつけた硬貨を取り出した。
鍵へは触れない。
調べるべきものは、その周りにもあった。