第31話 観客席
上階の老人が、手すりへ両手をついた。
「治癒の呪文じゃない」
誰へ言ったのか分からない声だった。
その下で、仮面の女が後ろへ下がった。
「あの娘と同じだったんだ。傷が塞がる化け物だ」
「違う。あの娘は、血を流せばすぐには立てなかった」
鬼太郎は右脇腹から手を離した。
裂けた服の下で、傷は閉じていた。足元の血はそのままだったが、身体から新しく流れ続けてはいない。
モーンは覗き窓からこちらを見ていた。
「刃は、入ったはずだ」
「ええ。よくできていましたよ」
鬼太郎は男を見上げた。
「先ほどまでは、僕にもできませんでした」
モーンの口が閉じた。
客席の中央で、男が杖を振った。
「ステューピファイ!」
赤い光が、鬼太郎へ飛んだ。
鬼太郎はその場を動かず、左手を男へ向けた。
身体の中にある力を、掌の先へ通す。火とは違う感覚だったが、どこへ向けるかは覚えていた。
「ジオ」
雷が、迫る赤い光へ正面からぶつかった。
赤い光を突き破り、雷はその先の男まで貫いた。
男の身体が跳ねた。椅子を巻き込んで倒れ、杖が床へ落ちた。
客席が静まった。
鬼太郎の左手は、まだ少し震えていた。
雷を放った瞬間、腕の奥を内側から押されるように痛んだ。力は足りている。むしろ、今の身体に収めるには多すぎる。
長く試している時間はなかった。
男は倒れていた。だが、いまの一度で、どれほどの力を通したかを今の腕は知らない。
前の身体なら使えた量を、そのまま流そうとしている。
鬼太郎は掌を閉じ、また開いた。指は動く。床の揺れも収まっている。
次は少し抑える。それで足りなければ、向ける場所を選ぶ。
力が増えたから、全部を正面へ放てばよいというわけではなかった。動けなくなれば、さっきと同じになる。
「火だけじゃないぞ!」
誰かが叫び、別の者が出口へ走った。
扉は開かなかった。
前の列へいた者が押し寄せ、錠の下りた戸を叩く。後ろから杖が出ると、邪魔になるなと怒鳴り声がした。
『慌てるな!』
金属管からモーンの声が響いた。
『身体は子供のままだ。あれほど流した血まで戻ったわけではない!』
正しかった。
鬼太郎は、立っているだけで脚へ力を入れていた。意識の奥には、まだ失神の重さが残る。
左腕の袖は濡れ、傷から血が伝っていた。
「よく見ていますね」
鬼太郎は覗き窓を見た。
その視線の下で、魔法使いが盾を張った。後ろの二人を庇い、左の通路を下がろうとしている。
鬼太郎は盾へ撃たなかった。
水の広がる石床へ掌を向ける。
「ブフ」
白い冷気が床を走った。
男の靴の周りで水が凍り、引こうとした足を留めた。
上体だけが後ろへ動く。
盾が傾き、庇っていた二人の姿が見えた。
舞台袖から網が飛んだ。
鬼太郎は手の向きを変えた。
「ザン」
風が網を押し返した。
鉤が投げた男の上着へ絡み、その後ろの二人まで巻き込む。舞台道具へぶつかり、木と鉄が大きく鳴った。
「氷まで使うのか!」
「水を止めろ!」
「もう撒いたあとだ!」
鬼太郎は靴の下を確かめ、凍ったところを避けて一歩進んだ。
炎へ備えた水が、今は床に残っている。
使えるものが、こちらにも増えていた。
◆
サーシェスはリボルバーの弾倉を開いた。
空薬莢を落とす手が、一瞬止まった。
あの刃が入るところを見た。
血が広がるのも見ていた。
子供は傷を閉じ、雷を放ち、床を凍らせた。
「そいつは反則だろ、坊主」
「僕も、いま思い出したところです」
鬼太郎は敵から顔を動かさず答えた。
サーシェスは予備の弾を詰め、弾倉を戻した。
「次に組むときは、先に言えよ」
「まだ忘れているものまで、お約束はできません」
「最悪だな、お前」
男は笑い、柱の反対側へ出た。
雷を受けた男が倒れ、その向こうに別の術者が現れる。
サーシェスは撃った。
杖が上がる前に、男が崩れた。
足を凍らされた者は、逃げる場所を変えられない。
風で体勢を崩した者は、盾の脇を晒す。
鬼太郎の知らなかった力でも、何が起きたかを見れば撃つ相手は選べた。
サーシェスは、次に向ける銃口を探した。
腕の立つ子供と組んだつもりだった。
その底が、まだ見えていなかった。
◆
鬼太郎は、床に落ちた〈シュライク〉を見た。
敵も、その銃の周りを見ていた。
鬼太郎が近づく前に、二本の光が床へ集まる。拾いに来ると考えて待っているのだろう。
鬼太郎は右へ進まず、そちらの床へブフを放った。
前へ出かけた護衛が滑り、後ろの椅子へ手をつく。
鬼太郎は倒れた木椅子を蹴った。
凍った床を滑ったそれが、魔法使いたちの足元へぶつかる。
狙いが逸れた間に身を低くし、銃へ進んだ。
右手で拾う。
檻の中からここまで、五発使っていた。
鬼太郎は残弾を確かめ、上着へ収めた。
拾えたからといって、撃ち続ける必要はない。
「サーシェスさん」
左側の通路へジオを放ち、呼んだ。
「舞台裏を塞いでいただけますか」
「勝手に命令すんな、坊主」
返事と同時に、袖で銃声がした。
裏へ走った黒服が倒れる。
「だが、そっちの方が撃ちやすい」
サーシェスが通路へ下がった。
鬼太郎は客席を見た。
杖を向ける者も、扉を叩く者もいた。椅子の下へ隠れようとする者や、杖を床へ置いて両手を見せる者もいる。
「私は撃っていない」
扉の前にいる男が言った。
胸元へ青い番号札が下がっていた。
鬼太郎は、その男が座っていた席を見た。
少女の身体へ刃が入るのを見て、前へ身を乗り出していた。檻へ水が落ちたときには、手を叩いていた。
この場所へ来て、鬼太郎が死ぬところを見て帰るつもりだったのだろう。
鬼太郎は男へ手を向けた。
「途中でお帰りになるのですか」
「金なら――」
「最後まで、ご覧ください」
雷が男を倒した。
隣の客が声を上げ、別の扉へ走る。
鬼太郎は追いかけなかった。
そちらへ向かう者の陰で、杖を抜く手が見えた。先にアギを通路へ放つ。
火を避けて顔を上げた者へ、別の方向からサーシェスの銃声がした。
鬼太郎は自分へ向いた杖を一つずつ確かめた。
ブフで足を止める。
盾を構えた者へザンを当て、身体の向きを崩す。
露わになったところへジオを放つ。
一度で舞台すべてを焼くような力ではなかった。
相手が残っていれば、次の手を使わなければならない。
そのたびに、身体の奥が痛んだ。
MAGはある。
だが、力を通す左腕も、立っている脚も、七歳のままだった。
鬼太郎は足を止める時間を短くし、次の者へ向いた。
客席の端で、二人が椅子の背を揃えようとしていた。盾になると思ったのか、前へ倒して、その後ろへ杖を隠す。
鬼太郎は手元を狙わなかった。
ザンで椅子を押し返すと、支えていた男の腕が外へ出た。その腕へジオを向ける。
隣の者が逃げようとして、凍った床で足を取られた。
狭い通路へ人が集まっている。さっきはそれぞれ別の場所から鬼太郎を囲んでいた者たちが、今は逃げるために互いの後ろへ隠れようとしていた。
後列から光が飛んだ。
鬼太郎は格子の支柱へ隠れた。光が鉄へ当たり、頬のそばに熱が残る。
まだ、当たらなくなったわけではない。
鬼太郎は顔を出す場所を変え、撃った者を探した。
モーンが命じたとおりの包囲を、もう保ててはいない。それでも手を止めれば、残った者からまた杖が向く。
◆
舞台裏へ、解体役が走ってきた。
手首には血の滲む布が巻かれていた。台の上を見もせず、先の裏口へ向かっている。
キーノは右腕を捻った。
金具は、さっきから少し浮いている。
押し戻した黒服が、急いで留めたからだった。指一本分の隙間に、何度も手を通そうとした。
皮膚は擦れ、血が滑りを作っている。
男が横へ来た。
キーノは腕を引いた。
痛みと一緒に、手が抜けた。
上着を掴み、鉄台へ引き寄せる。
「お前、まだ――」
男の手首へ噛みついた。
顔を殴られた。
離れず、空いた手を腰へ伸ばす。
鍵の輪へ指が掛かる。
キーノは男の服を引き裂くようにして、束を奪った。
ようやく歯を離し、その鍵で男の顔を打つ。
男がよろめいた。
キーノは真ん中の一本を、左手首へ差した。
すぐには回らなかった。
向きを変え、もう一度差す。
金具が浮いた。
両手が使えるようになると、首のところへ手を運んだ。浅い呼吸を繰り返しながら、鍵穴を探る。
解体役が近づく音がした。
キーノは空いた金具を掴んで突き出した。
男が手首を庇い、止まる。
舞台から雷の音がした。
男が振り返った隙に、首の錠が開いた。
足首も、一つずつ外した。
キーノは台から下りた。
膝が折れた。
解体役へ飛びかかるだけの力は残っていなかった。
男も追いすがらず、裏口の方へ身体を寄せた。キーノは鍵を握り、台を間に置いて離れた。
床を這うように進み、黒い幕の陰へ入る。
その隙間から、舞台が見えた。
檻にいた子供が立っている。
足元には大きな血溜まりがあった。服の脇腹は深く裂けているのに、その下から血は流れていなかった。
火が通路を塞ぎ、雷が一人を倒す。
濡れた床は凍り、網が風に押し返された。
鬼太郎はキーノへ向かってきたわけではない。
客を倒し、杖を向ける者へ次の力を使っている。
助けに来たとは思えなかった。
それでも、あの席で笑っていた者たちが逃げようとする姿から、目を離せなかった。
キーノは鍵を握り直した。
掌に、輪の形が食い込んでいた。
その痛みは、金具を外されたと思わせるだけのものではない。左手を首へ当てると、あったはずの銀色の輪がなくなっている。
キーノは肩を壁へ寄せ、立とうとした。
足へ力が入らなかった。
台へ戻る気はない。だからといって、その場で倒れていれば、戻ってきた係員に運ばれるだけだった。
床へ膝をつき、幕の端から離れる。
舞台へ出る道と、さっき台を押されてきた通路があった。舞台には火と氷があり、知らない魔法が飛んでいる。
キーノは反対の通路へ顔を向けた。
どこへ出るのかは知らなかった。それでも、運ばれてきたときに曲がった角は一つ覚えている。
鍵を服へ押しつけるように持ち、鳴らないようにした。息が乱れ、口の中に血の味が残っている。
助けを呼ぼうとは思わなかった。
あの子供も、その連れらしい銃の男も、自分がここへ残っていると分かったうえで別の者へ向かっている。
それなら、自分の行く道は自分で探すしかなかった。
次は、自分がここから出る番だった。
◆
『床を落とせ!』
モーンの声がした。
下で歯車が鳴る。
鬼太郎は音の方へ目を向けた。
客席中央の床が傾いた。
椅子と人が穴へ滑り、縁にいた鬼太郎の足も引かれた。
左手を床へ向ける。
「ブフ」
水と石の縁が凍り、靴の周りへ氷が盛り上がった。
身体が止まる。
膝へ強い力が掛かり、鬼太郎は歯を噛み締めた。
頭上から網が落ちてきた。
「ザン」
風で横へ押す。
網は別の客たちへ被さり、手すりへ絡んだ。
鬼太郎は氷から足を引いた。
続けて右の壁で石が鳴る。
身体を引いたが、すべては避けきれなかった。
短い刃が左脚の外側を浅く切った。
鬼太郎は壁へ寄らず、その向こうで杖を構えていた係員へジオを放った。
係員が倒れ、杖先の光が消える。
床に落ちた椅子の下から、助けを求める声がした。
鬼太郎へだけ向けた仕掛けではなかった。
モーンは、自分の客がそこにいるまま動かしている。
「モーン、開けろ!」
「こっちにも落ちてきたぞ!」
上へ向かう声に、返事はなかった。
代わりに、奥で扉が閉まった。
鬼太郎は覗き窓を見た。
男の顔は、もうなかった。
◆
動く者は、ほとんど残らなくなっていた。
鬼太郎は息を整えようとした。
鼻から血が落ち、唇へ触れた。
左脚の新しい傷も痛む。
力を使うと、身体が内側から軋んだ。一歩進んだとき、視界の端が暗くなった。
止まってしまえば、もう一度同じように動き出せるか分からない。
それでも、無闇に走れば転ぶと分かった。
鬼太郎は足を置くところを見て、倒れた椅子を避けた。
サーシェスが舞台裏から顔を出した。
「奥へ逃げた奴がいる。道は二つだ」
「上へ続く方は?」
「途中で曲がってる。先までは見えねえ」
鬼太郎は桟敷席を見た。
モーンが消えた奥の扉が、閉じている。
右手に〈シュライク〉を持った。
「そちらは、お願いします」
「追うのか。坊主」
サーシェスの目が、鬼太郎の脚へ動く。
鬼太郎は階段へ向かった。
「まだ、お話が終わっていませんので」
階段は、ここから見えるところでは壊れていなかった。
一段ずつ上がる。
手すりへ指を掛けると、左腕の傷が引かれた。鬼太郎は握り込まず、身体を支える程度に使った。
背後で、サーシェスの靴音が別の通路へ遠ざかる。
桟敷席には、空いた椅子と倒れた杯があった。
鬼太郎は、その奥の扉へ左手を向けた。
「ザン」
風が扉へ叩きつけられた。
留め金が外れ、扉が暗い方へ倒れる。
走る足音が聞こえた。
鬼太郎は息を継ぎ、敷居の手前で床を見た。
まだ、罠は残っているかもしれない。
扉を壊した風に押され、床の埃が細く流れていた。その中を、何かを引いたような線が通っている。
鬼太郎は、踏み込もうとした足を半歩横へずらした。
ここへ入れば、客席からは見えなくなる。だが、モーンには慣れた道で、自分は初めてだった。
さっきまで数えていた客の数を思い出そうとはしなかった。目の前の床と壁、それから奥へ続く足音を確かめる。
足の傷は、まだ浅い。歩けるうちに近づかなければ、追う方の時間がなくなる。
隠れた部屋と逃げ道を持つ男を、これ以上自由にする気はなかった。
「モーンさん」
足音が、少し乱れた。
「先に帰られるのは、困りますよ」
鬼太郎は銃口を低く保ち、暗い通路へ足を入れた。