第32話 孔雀と笛
壁の灯りは、客席よりも低かった。
鬼太郎は銃を持つ右手を身体へ寄せ、通路の奥を見た。曲がり角の向こうで、靴底が石を擦っている。こちらが足を止めると、向こうも少し遅れて止まった。
逃げるだけなら、止まる必要はない。
鬼太郎は灯りの下へ左手をかざした。床を横切る細い線に、影ができた。膝より低い位置に張られた針金が、向かいの壁の穴へ入っている。
脚を上げて跨ぐ。着地する場所には、周囲より白い石板があった。そこも避け、壁際へ足を置いた。
その先で、金属が鳴った。
鬼太郎は振り返った。天井から落ちた鉄板が、いま通ってきた道を塞いでいた。敷居で感じた震えが、足元まで伝わる。
針金を踏まなくても、奥から動かせるらしい。
床が傾いた。
踵が滑り、左脚の傷が開く。鬼太郎は壁へ肘をついたが、石の継ぎ目に指は掛からなかった。通路の先で床板が起き上がり、その下に黒い穴が見えた。
「ブフ」
足元へ向けた冷気が、靴底と床の間を凍らせた。
滑りかけた身体が止まる。膝に重さが掛かり、鬼太郎は歯を食いしばった。凍らせた先でも、床はゆっくり傾き続けていた。
奥に人影が出た。
杖を向ける腕が見え、鬼太郎は左手を上げた。
「ジオ」
白い光が通路を走った。男が壁へ叩きつけられ、杖から散った火花が灯りの下へ落ちる。
鬼太郎は右足を捻り、靴を氷から剥がした。傾いた床の縁へ足を掛け、壁を押して向こう側へ身体を移す。左足が抜けたときには、床の半分が穴へ沈んでいた。
向こう岸で片膝をついた。
追ってくる者を振り落とすには、よくできていた。案内する役がいれば、客をここへ連れてくることもできただろう。
鬼太郎は口元を袖で拭った。布に、鼻から流れた血がついた。
立ち上がる前に、銃口を先へ向ける。
「まだ、そこにいらっしゃいますか」
返事はなかった。
代わりに、重い扉が閉まった。
◆
キーノは、最初に見つけた扉の前で鍵を三本とも試した。
どれも回らなかった。
鍵穴の周りを爪で引っ掻き、止める。そんなことをしている間にも、手の傷から血が落ちた。
自分を縛っていた金具の鍵が、建物中の扉を開けるわけではない。
キーノは扉へ耳を寄せた。
「誰かいるか」
中で物音がした。
「開けてくれ」
男の声だった。続いて、別の声が同じことを言った。
「鍵はどこだ」
「見張りが持ってる。外に、誰もいないのか」
キーノは薄暗い廊下を見回した。舞台の方から来たときには、倒れた男を避けて壁沿いを歩いてきた。その男の腰には、何もなかった。
「いつも持ってたのか」
「出入りのたびに音がした。扉の横だ。右の方で」
キーノは壁を手で探った。扉の陰、腰より高い場所に小さな鉤があり、別の鍵束が掛かっていた。
一本ずつ差し直す指が震えた。何度も鍵穴を外し、ようやく錠を回す。
中にいた男は、扉を押し開けかけてキーノを見た。
視線が、破れた服と血まみれの手で止まる。
「お前も、捕まってたのか」
「歩けるか」
男は頷いた。
「なら、出ろ。ほかにもいる」
隣の部屋には、二人いた。一人は壁へ背をつけたまま立とうとせず、もう一人がその肩を揺すっていた。
「また何か始めるんだろう」
「私は出る」
キーノは開けた扉から離れた。
「ここに残りたければ、残れ」
歩き出すと、後ろで足音が増えた。
先ほどの男が追いつき、どちらへ行くのか尋ねた。キーノにも分からなかった。運ばれたときには、天井と、覗き込んでくる顔しか見えていない。
「人が来たら、言え」
「お前、出口を知ってるんじゃないのか」
「知らない。お前は?」
男は口をつぐんだ。
キーノは渡すつもりのなかった鍵束を握り直した。一人で歩くより、背後を見る目があった方がいい。追っ手が来ても、全員が自分だけを見るとは限らない。
階段の手前で、男が腕を伸ばした。
「あそこ、誰かいる」
キーノは壁の陰へ下がった。三人も慌てて続く。
暗い廊下の先で、銃声が一度した。
◆
サーシェスは、消えた灯りを見上げる男の胸へ一発撃ち込んだ。
投げたナイフは、灯りの覆いを割って向こう側へ落ちている。拾うには、まだ早かった。
倒れた男の後ろで、もう一人が杖を振った。
サーシェスは柱の陰へ引いた。赤い光が石を打ち、顔へ細かな欠片が飛ぶ。相手がこちらへ杖先を戻す前に、腰から別のナイフを抜いた。
足音を抑えず、柱の右へ踏み出す。
向こうが腕を動かしたところで左へ切り返し、間合いへ入った。杖を持つ手首を押し上げ、空いた脇腹へ刃を入れる。
声を上げる男を壁へ押しつけ、その腕が下がるまで待った。
「灯りぐらい、自分で点けろよ」
身体を離し、銃を向けたまま二歩下がった。
追ってくる者はいない。
サーシェスはナイフを回収し、廊下の奥へ進んだ。突き当たりの扉は鉄張りで、下端から細い線が壁へ延びている。取っ手に手を掛ける前に、その先を目で辿った。
壁の中だった。
脇の板張りを拳で叩くと、軽い音がした。
扉より薄い。
サーシェスは近くの椅子を持ち上げ、背を壁へ叩きつけた。乾いた音とともに板が割れる。向こうで誰かが怒鳴った。
返事をせず、もう一度打ち込む。
人が通る幅までは、まだ足りなかった。
◆
鬼太郎は、閉じた扉の横へ立った。
取っ手の付近には鉄が打たれ、蝶番も大きい。さっきの桟敷席の扉より頑丈だった。
向こうから、モーンの声がした。
「待て。話をしよう」
「どうぞ」
「その銃を下ろせ」
鬼太郎は右手を下げなかった。
「聞こえていますよ」
「金は払う。お前を誘った連中の名前も教える。私が死ねば、分からなくなるぞ」
鬼太郎は扉の下を見た。隙間を塞ぐ布が、内側から押し込まれている。こちらの火を警戒しているのだろう。
左手を扉へ向けた。
「ザン」
風が鉄張りを叩いた。木が軋み、取っ手の周りが割れる。向こうで、男が何かを引きずった。
鬼太郎は息を吸い直した。胸の奥が焼けるように熱い。掌へ通した力をいったん止め、指を開く。
「お話は、顔を見て伺います」
二度目の風が、裂けた木を押し広げた。
扉が内側の机ごと傾いた。
鬼太郎は開いた隙間へ銃口を差し入れた。机の向こうにモーンがいた。右手が、壁の赤い取っ手へ伸びている。
引き金を引いた。
男の手が取っ手から離れた。
悲鳴に重なって、部屋の横壁が割れた。
鬼太郎は敷居から一歩退いた。向こうの護衛が、崩れた板へ杖を向ける。その胸に銃弾が入り、男は机の端へ倒れた。
「そこにいたか、坊主!」
板の穴からサーシェスが顔を出した。
鬼太郎は答える前に、左の棚へ掌を向けた。
「ブフ」
棚の後ろから踏み出しかけた男の足元を、氷が覆った。靴が止まり、身体だけが前へ傾く。男は倒れながらも杖を上げた。
「ジオ」
雷を受けた腕が、棚の瓶をなぎ払った。
割れた硝子が床へ散る。
鬼太郎は銃を構えたまま、モーンを見た。
男は右手を腹へ抱え込んでいた。指の間から血が垂れ、上着へ黒い染みが広がっていく。
サーシェスが穴を抜けて部屋へ入った。
「ほかは」
「いま見えたのは、この二人です」
「じゃあ、見えてねえ所も気にしとけ」
サーシェスは棚の裏へ銃口を向け、倒れた護衛の杖を靴で遠ざけた。
鬼太郎は部屋へ入った。足元には割れた硝子がある。踏む場所を選ぶだけのことが、ずいぶん遅くなっていた。
「椅子は、いりません」
モーンが少し動いたので、先に断った。
「今日はもう、十分座りましたから」
男の膝が曲がり、そのまま壁際へ崩れた。
机の上には、開いた鞄があった。
硬貨の袋。色の違う帳簿が三冊。それから、まだ封を切っていない手紙が一通。
逃げるときに持ち出す物は、これだったらしい。
「客の名簿か」
サーシェスが赤い帳簿を開く。次いで青いものへ手を伸ばし、途中で鼻を鳴らした。
「こっちは売り物と買い手。黒いのは……出資の取り分だな」
「売れば、買う方がいそうですね」
「持ってるだけで、消したがる奴もいるぜ」
「では、扱いの分かる方にお願いします」
サーシェスは帳簿を閉じた。
「まだ、分け前の話は済んでねえぞ」
鬼太郎は手紙を見た。
封蝋には、小さな鳥が刻まれていた。広がった尾羽が、孔雀に見える。その下を、一本の細い笛が横切っていた。
知らない紋だった。
それなのに、見ていると、喉の奥が妙に冷えた。
「その手紙は違う」
モーンが言った。
「私の客じゃない。代理の者が置いていった」
「誰の代理ですか」
「名前は知らない。金を出す相手は、ほかにもいた。私は場所を貸して、手配をしただけだ」
鬼太郎は左手を下げ、手紙を机の端へ寄せた。銃をモーンへ向けたまま、封を破る。折られた紙を広げるには指がうまく動かず、机へ押さえてから開いた。
文は短かった。
火を使う子供の処分について、既に話がついているらしい。成功を確認できるものを渡せ、とある。遺体も、所持品も、引き渡しは求めない。
鬼太郎は、意味の分からない単語で一度止まった。
「この、ここは」
サーシェスが横から紙を覗いた。
「証拠。それだけ寄越せってことだ」
「……ずいぶん、欲のない方ですね」
金や銃が欲しいのなら、こんな書き方はしない。見世物として売るつもりなら、死体さえいらないというのもおかしい。
殺したことだけを、確かめたい。
鬼太郎は最後の署名を探した。
そこにも、孔雀と笛の印があった。
誰かが、笑った気がした。
青い色と、こちらを見下ろす顔の輪郭が浮かびかける。目を上げると、向かいには血の気の失せたモーンしかいなかった。
「坊主?」
「何でもありません」
答えてから、鬼太郎は紙をもう一度見た。思い出そうとすると、頭の傷の奥が痛んだ。
名前は出てこなかった。
「その娘も連れていけ」
モーンの声に、鬼太郎は顔を上げた。
「あの再生する娘だ。欲しかったんだろう。金も、好きなだけ持っていっていい。今後、私の方から手を出すことはない」
「あなたが決めるんですか」
「私の商品だ」
鬼太郎は少し首を傾けた。
「あの方が、そう言いましたか」
モーンは答えなかった。
生きたまま切られ、客席へ見せられていた顔を思い出した。こちらを見ていたときにも、あの目はモーンへ何かを譲ってはいなかった。
鬼太郎は手紙を折った。
「お渡しできる物は、もう机の上にありますよ」
「待て。まだ、聞きたいことがあるだろう」
「では、その印の方について」
「会っていない。使いも、顔は隠していた」
「ほかには?」
モーンの左肘が、上着の陰へ入った。
鬼太郎は、その手から目を離さなかった。袖口で、短い木の先が動いた。
「アギ」
炎が左の袖へ噛みついた。
男が腕を振り、隠していた杖が床へ落ちた。燃えた布を払い落とそうとして、傷ついた右手で触り、呻く。
鬼太郎は掌を向け直した。
サーシェスは口を挟まなかった。机から離れ、床の杖を拾って自分の後ろへ放った。
「ほかのことは、こちらで調べます」
モーンが顔を上げた。
次の炎は、胸元で膨らんだ。
男は壁に肩をぶつけ、倒れた。声が途切れた後も服は燃え、鬼太郎は銃口を下げずに見ていた。
やがて動かなくなった身体へ、サーシェスが近づいた。
靴先で残った布を踏み、男の顔を横へ向ける。少し待ってから、立ち上がった。
「もう喋らねえな」
鬼太郎は頷こうとした。
足が、言うことを聞かなかった。
左膝から床へ落ち、机の縁へ肘をぶつける。右手の銃が硝子へ触れ、乾いた音を立てた。
身体の奥を満たしていたものが、急に遠ざかっていた。
掌へ力を集めようとしても、さっきまでの量が来ない。流し込めば腕を壊しそうだったものが、どこにもなかった。
残っている感覚まで、失ったわけではない。火も、氷も、雷も、風も、どう通したのかは覚えている。
だが、同じようには出せなかった。
「おい」
鬼太郎は返事をする前に、机へ左手をついた。
傷が引かれ、肘が曲がる。
塞がった腹の傷も、内側から重く痛んだ。頭が脈を打ち、床が傾いて見える。もう罠が動いたのではないと分かるまで、少しかかった。
「少し……待ってください」
「少しで済む顔じゃねえぞ」
サーシェスが銃へ目を落とす。
「そいつ、しまえ。倒れるついでに俺を撃つな」
鬼太郎は指を引き金から離し、銃を腹の近くへ戻した。革の口へ収めるのに、一度失敗した。
サーシェスは手を貸す代わりに、開いた戸口へ向き直った。
「箱と、運び屋。まだ取りに行くんだろ」
「……ええ」
机の上の手紙を、上着の内側へ差し込んだ。
片手を離しても、身体は支えられた。
それを確かめてから、鬼太郎は椅子の脚へ手を移した。腰を上げると、膝が震える。
モーンの死体は、もう動かなかった。
ここへ来たときの仕事は、まだ終わっていない。
「出口までの道は」
「見てきた方は通れる。お前が来た方は?」
「床を、落とされました」
「だったら俺の後だ。次の穴に落ちる前に、足元を見ろ」
サーシェスは帳簿を三冊まとめ、鞄へ押し込んだ。
「名前を見つけたからって、片っ端から訪ねて回る気になるなよ」
鬼太郎は顔を上げた。
「そこまでは、考えていません」
「いま考えてなくても、後で考えそうな面だから言ってる」
サーシェスは鞄の留め金を閉じ、肩へ掛けた。
鬼太郎は上着の胸元を押さえた。折った手紙の角が、指の下にあった。
送り主を探すにも、会っていないという相手へ、今夜のうちに辿り着けるはずがない。まずは外へ出て、血を止め、横になれる場所を見つける必要があった。
その順序を考える間にも、左脚から血が流れている。
ディアで塞ごうとして、鬼太郎は手を止めた。いま残っている力でどこまでできるか、まだ分からない。ここで使い切り、歩けなくなる方が困る。
机に掛かっていた布を引き寄せた。血に触れていない端を裂き、脚の傷へ巻く。結び目を引いたところで、指が滑った。
「歩けるか」
「ゆっくりなら」
「じゃあ、ゆっくり来い。俺は先を見る」
鬼太郎は返事をして、割れた壁の方へ一歩進んだ。