第三十二話 鍵穴の外から
傷をつけた硬貨が、鬼太郎の指の間で裏返った。
地下倉庫の扉には、二つの鍵穴がある。
鉄の帯を打った木の縁には銀色の線が巡り、床へ並んだ記号は、敷居の前で半円を描いていた。
鬼太郎は硬貨を投げない。
ルークの工場では、何が起きるか分からない場所へ硬貨を先に触れさせた。
ここで同じことをすれば、薬品商が使っている防護を勝手に作動させることになる。
「この印は、何を見つけるものですか?」
鬼太郎は床の記号を指した。
「倉庫へ入った奴だ」
店の主人が答える。
「倉庫のどこへ入っても分かるのですか。それとも、この扉を通れば分かるのですか?」
「同じことだろう」
「扉以外から入れないのであれば、同じですね」
主人の口が閉じた。
鬼太郎は鞄からルークの手帳を取り出した。
扉と窓が描かれた頁を開く。
床にあるものと完全に同じ印ではない。線の本数も、囲まれた文字も違う。
それでも、手帳の図はすべて入口の周りで閉じていた。
倉庫の壁や天井まで見張っていると判断できるものはない。
「これを設置したのは、あなたですか?」
「専門の魔法使いに頼んだ」
「仕組みは、その人から聞きましたか?」
「破ろうとすれば分かる。中で姿くらましはできない。それで十分だ」
「扉を破ろうとした者しか分からない、という可能性もあります」
「だったら、どうやって確かめる」
「まず、中を見ます」
鬼太郎は手帳を閉じた。
「防護を止めて、あなたが開けてください。僕は触れません」
◆
主人は外套の内側から杖を抜いた。
銀色の線へ杖先を当て、短い言葉を唱える。
線の輝きが端から消えた。
床の記号も、古い汚れのような色へ変わる。
主人は二本の鍵を別々の鍵穴へ差し込み、上、下の順に回した。
扉が内側へ開く。
鬼太郎はすぐには入らなかった。
倉庫の中には、両側の壁に沿って棚が並んでいる。
瓶。
蓋を針金で留めた壺。
細長い木箱。
中身の見えない包み。
空気には、表の店よりも濃い匂いが混ざっていた。甘いもの、鼻の奥を刺すもの、湿った土に似たもの。そのどれが危険か、鬼太郎には区別できない。
「床を踏むだけで作動するものは?」
「ない。今は防護も切ってある」
「棚へ触れた場合は」
「印のある棚には触るな。右奥の白い瓶にもだ」
「あなたが先を歩いてください」
主人が顔をしかめる。
「俺の店だぞ」
「ですから、僕より安全な場所をご存じでしょう」
主人は杖を持ったまま倉庫へ入った。
鬼太郎は、その足が置かれた場所だけを踏んで続いた。
◆
盗まれた品の一覧は、店の帳面に残されていた。
鬼太郎は名前を読んでも、それが何に使われるかまでは分からない。
主人に、一つずつ元の位置を示させる。
「最初は、これだ」
奥の棚、下から二段目。
「次は?」
「向かいの棚にあった。青い封蝋の瓶だ」
それも倉庫の奥だった。
三つ目は、奥の棚の中央。
四つ目は、その隣の木箱から消えていた。
「高い物だけを選んでいる」
主人が言った。
「ここにある物の値段を、すべて教えてください」
「全部だと?」
「盗まれなかった物もです」
主人は面倒そうに答えた。
鬼太郎は帳面の余白へ、聞いた数字を書き込む。
消えた物より高価な瓶が、入口に近い棚へ二本残っていた。
同じほどの価値を持つ箱も、手前側にはある。
「最も高い物を選んだわけではありませんね」
「盗人が値段を間違えたんだろう」
「三晩続けて、奥の棚だけを?」
鬼太郎は盗品のあった場所を見直した。
すべて床から鬼太郎の頭二つ分ほどまでに収まっている。成人なら、屈まずに手を伸ばせる高さだった。
奥の棚のさらに上には、軽そうな小瓶が残されている。
「価値ではなく、取れる位置を選んだ可能性があります」
「扉から入れば、どれでも取れる」
「ええ。扉から入れば」
鬼太郎は倉庫の一番奥へ視線を移した。
◆
奥の棚は背板がなく、横長の棚板が壁の大半を隠していた。瓶や箱の隙間から見えるのは、古い煉瓦だけだった。
鬼太郎は床へ屈む。
棚の脚の周囲に、半円状の擦り傷があった。
ほかの棚の脚にはない。
「この棚は、いつ動かしました?」
「動かしていない」
「床には動かした跡があります」
「品を入れる前からあった傷だ」
鬼太郎は傷を指でなぞらず、硬貨の縁で周囲の埃を分けた。
擦れた部分だけ、埃が薄い。
古い傷の上を、最近もう一度棚が通っている。
棚の下から、黒い粒が一つ出てきた。
硬貨に載せる。
薬の粉には見えない。
倉庫の床に積もった灰色の埃とも違う。
「これは何です?」
主人は顔を近づけた。
「土だろう」
「この地下室にはありませんね」
鬼太郎は立ち上がった。
「外から建物を測ります」
◆
店の脇には、人一人がようやく通れる細い道があった。
鬼太郎は表から裏へ歩き、壁に並ぶ煉瓦の数を数えた。
地下へ戻り、扉から奥の棚まで歩数を合わせる。
一度目。
二度目。
歩幅を変えないよう、床の継ぎ目へ足先を置く。
外から測った長さと、地下倉庫の長さが合わない。
壁一枚の厚さを引いても、その向こうに空間が残る。
「隣は?」
「空き店舗だ。何年も使われていない」
「地下室はありますか?」
「知らん」
「この店を建てたのは、あなたですか?」
「七年前に買った」
鬼太郎は奥の棚へ戻った。
「動かしてください」
「商品がある」
「先に、安全な場所へ移してください。僕は触れません」
主人は店員を二人呼び、棚の瓶と箱を運ばせた。
空になった棚を三人で横へずらす。
背後から煉瓦壁が現れた。
一見すれば、周囲の壁と変わらない。
鬼太郎は硬貨で一つずつ叩いた。
低い音。
低い音。
中央の数個だけ、軽く響く。
その周囲には、古い漆喰とは色の違う部分があった。
新しい漆喰は表面だけに薄く塗られ、煉瓦同士の奥まで入っていない。
床際には、棚の下で見つけたものと同じ黒い土が落ちている。
「向こう側から外し、戻せるようにしてあります」
主人が杖を上げる。
「吹き飛ばせば――」
「まだ壊さないでください」
鬼太郎は壁の前へ立った。
「道を見つけただけです。盗んだ者は、まだ向こう側にいます」
◆
三人の店員には、別々の部屋で話を聞いた。
最初は、薬を調合している古参の男だった。
「この建物に、以前は別の通路がありましたか?」
鬼太郎が尋ねると、男はしばらく考えた。
「店ができる前なら、荷を入れる穴があったと聞いたことがある」
「どこへ続いていました?」
「隣の地下だ。昔は二軒で同じ持ち主だった。だが、壁で塞いだはずだ」
「そのことを店主へ話しましたか?」
「話す理由がなかった。塞がれた通路だぞ」
「知っている人は、ほかに?」
「古い建物を知る奴なら、いるだろうな」
二人目は、荷物を運ぶ大柄な店員だった。
「奥の棚を動かしたのは、いつです?」
「五日ほど前だ」
「店主は、動かしていないと言いました」
「旦那は見てない。瓶を一本割ったから、下を掃除するって言われたんだ」
「誰に?」
男は廊下の先を見た。
「帳面をつけてる若い奴だ」
「棚の裏を見ましたか?」
「少し引いただけだ。俺は反対側を持っていた。掃除はあいつがやった」
三人目は、在庫を記録する若い店員だった。
椅子へ座らせても、両手を机の下へ入れたまま出さない。
「奥の棚を動かしましたか?」
「動かしていない」
「荷物を運ぶ方は、あなたに頼まれたと話しています」
「あいつの勘違いだ」
「瓶を割ったことは?」
「ない」
「では、棚の後ろに何があるかも知りませんね」
「ただの壁だ。煉瓦なんか外していない」
鬼太郎は何も言わなかった。
壁が煉瓦であることも、外せるようになっていることも、まだ店員には伝えていない。
若い店員の右手が、机の下でわずかに動く。
「もう結構です」
鬼太郎は扉を開けた。
「仕事へ戻って構いません」
店員は鬼太郎を見たが、質問はしなかった。
◆
「あいつだろう」
若い店員が帰ったあと、主人はすぐに杖を抜いた。
「連れ戻す」
「今捕まえれば、壁の向こうから来る者は逃げます」
「吐かせればいい」
「どこまで知っているか分かりません。盗品の保管場所も、向こう側の人数も、まだ聞いていない」
「じゃあ、見逃せと言うのか」
「今夜だけです」
鬼太郎は主人の杖先を見た。
「疑っていることを気づかせないでください。棚を元へ戻し、煉瓦も触っていないように見せます」
「また盗ませるのか」
「盗む前に捕らえます」
主人は不満そうだったが、杖を収めた。
◆
日が落ちる前に、棚は元の位置へ戻された。
煉瓦の周囲に落ちていた粉も、完全には拭わない。
犯人が前夜との違いに気づかないようにする。
古参の店員と荷運びの男は、いつもどおり帰された。
若い店員だけは、主人から在庫の数字を確かめるよう命じられ、地上の奥部屋へ残された。
店員が部屋へ入ると、主人が外から鍵を掛けた。
疑われていると気づいたとしても、もう壁の向こうへ知らせることはできない。扉を叩く音はしたが、主人が杖を持って前へ立つと止んだ。
地下扉の前には、前夜と同じ場所へ見張りを一人置く。
扉しか見ない見張りだった。
それでよい。
鬼太郎は店の主人に防護を止めさせ、地下倉庫へ入った。
奥の棚から離れた場所に、背の低い木箱が積まれている。
その陰なら、壁から入った者にはすぐ見えない。
銃口を向けた先には、瓶も壺もない。外れた弾丸を受けるのは、何も置かれていない煉瓦壁だった。
アギは使えない。
棚の中には、火を近づけなくても燃える液体がある。炎を出せば、犯人より先に倉庫全体が敵になる。
パトラも、今使うものではない。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜き、右手へ持った。
左手は空けておく。
「朝まで開けるな」
主人が言う。
「中で何か起きても、扉の防護が――」
「作動しない可能性を調べているのですよ」
主人は舌打ちし、外へ出た。
二つの鍵が回る。
銀色の線が再び淡く光り、扉の縁を巡った。
◆
地下には、時を知るものがなかった。
上の店から聞こえていた足音が止まる。
通りを行く者の声も、やがて遠くなった。
鬼太郎は木箱の陰で姿勢を変えず、奥の壁を見ていた。
右手に〈シュライク〉。
引き金からは指を外している。
眠気はない。
一週間の休息を挟まず、黒鉄の箱を運んだ直後にここへ来ていれば、この待ち時間に集中を保てなかったかもしれない。
どれほど経ったころか。
小さな音がした。
石と石が擦れる音。
鬼太郎は動かない。
奥の棚の裏で、煉瓦が一つ、向こう側へ引かれた。
暗い穴が開く。
二つ目。
三つ目。
人の肩が通るほどの隙間になる。
穴は、背板のない棚の下段と重なっていた。
最初に入ってきたのは、杖を握った手だった。
杖先が左右へ動く。
続いて、痩せた男の顔が現れた。
男は棚の隙間から倉庫を見回す。
扉の銀色の線は光ったまま、何の音も立てない。
男は身体を横にし、棚板の間から壁をくぐった。
床へ降りる。
「誰もいない」
小声で、壁の向こうへ告げた。
返事は聞こえない。
代わりに、重い息が一つ返る。
もう一人いる。
痩せた男だけを止めれば、二人目は通路へ戻る。
鬼太郎は待った。
壁の穴から、大きな手が出る。
一本目とは別の杖を握っていた。
肩。
頭。
大柄な男が、狭い穴へ半身を入れる。
後ろへ戻るには、壁の向こうへ身体を引き抜かなければならない。
鬼太郎は木箱の陰から立ち上がった。
〈シュライク〉の銃口を、痩せた男へ向ける。
「なるほど」
二人の顔が、同時にこちらを向いた。
「鍵が使われなかったわけです」