第33話 檻の外の約束
割れた壁の向こうへ出ると、鬼太郎は足を止めた。
「お金を、忘れています」
サーシェスが振り返った。
「その足で戻るのか」
「机の鞄です。中は、ご覧になりましたよね」
帳簿を持ち出すのに使った鞄には、最初から硬貨の袋が入っていた。サーシェスは肩の荷へ目をやり、口の端を上げた。
「ちゃんと覚えてやがる」
「忘れると、数え直せませんから」
「拾い物まで三対二か」
「ほかの割合にする理由があれば、伺います」
サーシェスは鬼太郎の顔をしばらく見ていた。
「帰ってからだ。ここで広げるなよ」
「ええ。帳簿の分も、そのときに」
約束を忘れていないのは、向こうも同じらしい。
鬼太郎は壁から手を離した。二歩ほどは支えなしで進めたが、その先ではまた指を石へ触れさせた。
通路に伏せた男の傍を、サーシェスが先に越えていく。鬼太郎はその後ろを辿った。靴が床を擦る音を、小さくする余裕がなくなっていた。
階段の手前で、人の声がした。
「こっちだ」
女の声だった。
サーシェスが銃口を向ける。
「出てくるな。そのまま喋れ」
「そっちにいた子供は、まだいるか」
鬼太郎は足を止めた。
壁の陰に、白い髪が見えた。舞台で切られていた少女が、自分の足で立っている。その手からは、まだ血が落ちていた。
「いますよ」
少女の目が、鬼太郎の顔から腹へ動いた。
「急に、弱くなったな」
「長くは続きませんでした」
「そうか」
それだけ言って、少女は壁から離れた。
後ろに、男が三人いた。
そのうち一人の顔を、鬼太郎は見覚えていた。左耳の下の傷。右手の小指がない。
「トーマス・ヘイルさんですか」
男はすぐには答えなかった。
「なぜ、名前を知ってる」
「あなたと箱を、取り戻す仕事です」
「誰に頼まれた」
鬼太郎は料金所で使う半札のことを伝えた。男の肩から力が抜ける。
「まだ持ってるのか、あれを」
「はい。箱は舞台に残っています。歩けますか」
「歩ける。あれなら、台車もいる」
サーシェスが、少女の手の鍵を見た。
「開けたのは、お前か」
「使える手があった方がいい」
少女は三人の方を見ずに答えた。
「出口が分かるなら、私も行く」
「まだ取りに行く物がある。横から余計な扉を開けんなよ」
サーシェスは銃を下げた。
鬼太郎は少女の足を見た。片足を少し後ろへ引き、いつでも壁際へ退ける姿勢だった。
「モーンは」
少女が尋ねた。
「奥の部屋です。もう動きません」
「見たのか」
「ええ」
少女は、二人が出てきた通路へ顔を向けた。
戻ろうとはしなかった。
◆
舞台へ戻る道では、トーマスが鬼太郎の前を歩いた。
何度か振り返られたが、鬼太郎は平気だとは言わなかった。平気ではないことは、見れば分かる。
半開きの格子の向こうに、鉄箱が残っていた。
右の取っ手の下の傷も、暗緑色の封蝋も、そのままだった。三つの鍵の印を、鬼太郎は離れたところから確かめた。
「これです」
トーマスが格子へ近づき、上端を見た。
「これじゃ、台車は通らないぞ」
「巻上げる所がある」
サーシェスは舞台の脇へ向かった。
「そいつら二人、ついてこい」
男の一人が後ずさった。
「また閉じ込める気じゃないだろうな」
「そう思うなら、一人で出口を探せ。俺は荷物を出して帰る」
男は開いた客席の方を見た。誰かを捜しているようだったが、すぐに目を戻した。
もう一人が先にサーシェスへ続き、遅れて歩き出す。
鬼太郎は格子の外側へ腰を下ろした。
座るつもりはなかった。壁を伝って膝が曲がり、そのままになった。
少女が、数歩離れて立ち止まった。
「お前が、あれを開けたのか」
「途中まで開いたのは、あの方のおかげです」
「私の方じゃない。あの、客のところだ」
鬼太郎は客席を見た。倒れた椅子と、動かない人影が並んでいる。目の高さが下がると、椅子の脚が邪魔で奥は見えなかった。
「ええ」
「私を買うつもりだったのか」
「買いませんよ」
少女の目が細くなった。
「モーンは、お前に渡したか」
「そのつもりのことは、言っていました」
「なら、私は行かない」
少女が一歩退いた。
鬼太郎は手を伸ばさなかった。
「あなたが決めればいいことです。僕の仕事は、あの箱と、こちらの方ですから」
トーマスは格子を見上げたまま、黙っていた。
遠くで歯車が動き始めた。格子が一度震え、止まる。次に動いたときには、鉄が擦れる音が長く続いた。
少女は、鬼太郎から目を離さなかった。
「なら、なんで私を見てた」
「出てくると思ったんです」
血が落ちる手へ、鬼太郎は視線を移した。
「鍵を見ていたでしょう。最初は、届きませんでしたけど」
少女がその手を身体の後ろへ隠した。
「勝手に、見てたのか」
「見えるところでしたので」
答えてから、鬼太郎は首を壁へ預けた。頭の傷へ触れ、すぐに離す。
少女の顔が、また腹の傷へ向いた。
「あれは、お前も治るのか」
「傷を塞ぐことはできました。失くした血は、戻っていません」
少女は、そこで初めて少し近づいた。
「私もだ」
鬼太郎は顔を上げた。
「見ていました。立ち上がるたびに、遅くなっていましたね」
「お前も今、遅い」
「困っています」
格子が頭より高いところまで上がった。
トーマスが台車を探しに行く。その足音を聞きながら、鬼太郎は少女を見た。
「外に出た後、行くところはありますか」
「お前には関係ない」
「なければ、一緒に来ませんか」
少女の手が、また鍵を握り込んだ。
「買わないと、言ったな」
「はい」
「じゃあ、何に使う」
鬼太郎は少し考えた。
目の前で縛られていたときも、少女は諦めずに人の動きを追っていた。手が届いたら噛みつき、血を流したまま自分で鍵を奪った。あれを、傍でまた見てみたいと思った。
「あなたは、しぶといですね」
「それで?」
「近くにいてほしいと思いました。何をするかは、お互いに動けるようになってから相談したいです」
「分からないまま、来いと言うのか」
「いま仕事を頼んでも、できないでしょう。僕も、今日はもう働きたくありません」
少女は鬼太郎の脚へ目を落とした。
血で色の変わった布を見て、少し黙った。
「食べ物と、寝る所は」
「用意します」
「檻はいらない」
「僕の部屋にはありませんよ」
「部屋になくても、鎖はつけるな。血も身体も、売らない。切って調べるのも、させない」
最後の言葉を言うとき、少女は鬼太郎の目を見た。
「分かりました」
「嫌なら、私は出ていく」
「出ていく前に、ひと言お願いします」
「止めるためか」
「捜してしまいますから」
少女の口が閉じた。
鬼太郎は続けた。
「僕からも、頼みたいことがあります。持ち物を勝手に持ち出さないこと。僕のことを、勝手に他人へ話さないこと。それから、仕事の相手へいきなり噛みつかないでください」
「そいつが、先に何かしたら」
「何をされたかは、聞きます」
「毎回、お前に聞くのか」
「逃げる必要があるときまで、待てとは言っていません」
少女は鍵束を見下ろした。
トーマスが空の台車を押してきた。車輪の音が近づいても、二人の間へは入らなかった。
「名前は」
少女が尋ねた。
「墓場鬼太郎です。鬼太郎で結構です」
「キーノだ」
「そう呼ばれていましたね」
「私が、そう呼べと言ってる」
鬼太郎は少女の顔を見た。
「では、キーノさん。外まで、一緒に」
「先は、外で考える」
「ええ」
キーノは、その場から離れなかった。
◆
箱を台車へ載せるときには、鬼太郎の出番はなかった。
巻上機から戻った男二人とトーマスが、取っ手へ手を掛けた。サーシェスは持ち上がる側を見ながら、封蝋を床や格子へぶつけないように指示した。
鬼太郎は壁へ手をついて立ち上がった。
「包みの下へ、布をお願いします」
「見えてる。お前は倒れねえようにしとけ」
箱が台車へ収まった。
サーシェスが結び紐を引き、トーマスが反対側を押さえる。鬼太郎は封蝋をもう一度見てから、右の取っ手の傷へ指を触れた。
「開けられていませんか」
鬼太郎が尋ねると、トーマスは封の縁へ顔を近づけた。
「俺が運んでたときと同じだ。ここの欠けも、前からある」
男の指が、封蝋の下の小さな凹みを示した。
「取り上げられた後は、見てない。それ以上は言えない」
「それで結構です。引渡しの際にも、そう話してください」
「俺を、また渡すのか」
トーマスの手が、取っ手から離れた。
鬼太郎は男を見た。
「頼まれたのは、無事な帰還です。あなたが何をしたかは、聞いていません」
「……道で捕まったんだ。二人がかりで、馬の前へ出てきて」
トーマスはそこで言葉を切り、歯を噛んだ。
「話せる。あいつらには、俺から話す」
男が自分で取っ手を持ち直すのを、鬼太郎は待った。
中身を確かめたいとは、もう思わなかった。
少なくとも、今夜は。
キーノは台車の反対側にいた。廊下を先に見ようとして、途中で顔を背ける。
鬼太郎も、そちらを見た。
解体に使う台の傍で、白衣の男が床を這っていた。片手を身体の下へ入れ、肘で引きずるように進んでいる。こちらへ伸ばした腕には、血がついていた。
キーノの鍵が鳴った。
鬼太郎は何も言わなかった。
彼女は男を見つめ、次に、開いた廊下へ目を向けた。
台車が動き出す。
キーノもついてきた。
床の男が何か言ったが、車輪の軋む音に混じって聞き取れなかった。キーノは振り向かなかった。
サーシェスが先導した道には、彼が倒した男がいた。二人の元捕虜がそこを通るたびに、箱を押す手が止まる。
「止めるなら、止めるって言え。脚を挟むぞ」
注意された男が謝った。
トーマスは返事の代わりに、前の車輪を段差へ持ち上げた。
裏口の手前で、サーシェスが全員を待たせた。
外を見てから戻り、短く言う。
「いまなら出られる。騒ぐなよ」
鬼太郎は扉の縁へ手を掛けた。
冷たい風が、濡れた服へ入ってきた。
空はまだ暗かった。壁の上に星が幾つか見え、その下に道が続いている。遠くで犬が吠えた。
舞台の明かりも、拍手も、ここからは聞こえなかった。
キーノは敷居を越えたところで止まった。
建物ではなく、空を見ていた。
「そこは、荷物が通ります」
鬼太郎が言うと、彼女は横へ避けた。
「分かってる」
鍵束を握った腕を、今度は下ろしていた。
「それは、持っていくんですか」
鬼太郎が尋ねると、キーノは手を開いた。
鉄の鍵が、互いに重なって掌へ載っている。
「いらないのか」
「戻る予定はありませんけど」
キーノは建物を見た。すぐに視線を外し、扉の脇へ鍵束を置く。
自分を縛っていた金具の鍵も、そこへ落とした。
短い音がして、手が空いた。
「後ろから来る奴がいたら、使うだろ」
「まだ、いたんですか」
「知らない。全部は開けてない」
鬼太郎は戸口の暗がりを見た。奥を調べ直すつもりはなかった。キーノも、置いた鍵を拾い直さずに荷馬車へ向かった。
サーシェスは近くに繋がれた馬と、荷馬車を調べた。御者台の下を覗き、荷台の覆いを引く。
「これを借りる。箱を載せろ」
男二人が台車を押し上げようとして、サーシェスに止められた。脇に積まれていた板を二枚渡し、車輪が落ちない幅へ直す。
鬼太郎は荷台の縁へ手を掛けた。
腕へ体重を掛けると、左の傷が痛んだ。
もう一度足を置こうとしたところで、後ろから襟を掴まれた。
「首が、締まります」
「ぶら下がる前に、乗れ」
サーシェスに持ち上げられ、鬼太郎は腹を庇って荷台へ転がり込んだ。
キーノが避け損ねた袖を掴んだ。鬼太郎の肩が縁へ戻りかけ、そこで止まる。
彼女も顔をしかめていた。
「重い」
「下ろさないでくださいね」
「自分で奥へ行け」
鬼太郎は空いた手で床を押し、箱の脇へ身体を移した。
トーマスが乗り込み、箱の紐を荷台へ結び直した。
キーノは荷台の覆いを見上げ、入口の布を脇へ寄せた。
「閉めるな」
「寒いですよ」
「開いてる方がいい」
鬼太郎は布から手を離した。風が通っても、彼女は元へ戻さなかった。
「着いた先で、身体のことを聞かれたら」
小さな声だった。
「答えたくないことは、答えなくていいと思います」
「お前が言うのも、だ」
鬼太郎は彼女を見た。
混血だという舞台の紹介も、傷の塞がる様子も、覚えている。それを代金の足しにするつもりはなかったが、言わないでほしいことまで、こちらが勝手に決めるものではないらしい。
「分かりました。僕からは話しません」
キーノは入口へ顔を向けた。
「私が噛むかもしれない相手にも、先に言え」
「その話は、動けるようになってから、もう少し詳しくお願いします」
言い終わる前に、鬼太郎は息を継いだ。長く話すほど、胸が苦しかった。残る二人は、荷馬車から離れて立っていた。
「俺たちは、こっちへ行く」
一人が道を指した。
サーシェスは行き先を尋ねなかった。
「追っ手が来ても、こっちの話はするな」
男は頷いた。もう一人がキーノの方へ何か言いかけたが、声を出す前に頭を下げた。
キーノは返さなかった。
二人は足を速め、建物の陰へ消えた。
サーシェスは御者台へ上がり、少し進んだところでもう一度降りた。塀の外へ回って、隠していた長い銃を持ち帰る。
鬼太郎は、その姿を見てようやく息を吐いた。
サーシェスが空いた窓から中を見た。
「料金所へは、まだ間に合う」
鬼太郎は顔を上げようとした。
口が乾いていた。
「先に……治療を」
「報酬より先でいいのか」
「受け取る前に、死ぬと困ります」
サーシェスが小さく笑った。
「そりゃ、そうだ」
「費用は、記録を……お願いします」
「忘れたら、適当に足すぞ」
何か言い返そうとしたが、舌が動かなかった。
荷馬車が揺れた。
鬼太郎は壁へ身体を預け、上着へ手を当てた。折られた手紙は、まだそこにあった。銃も、収まっている。
向かい側で、キーノが膝を抱えて座った。
白い髪の間から、目がこちらを見ていた。
「おい」
呼ばれて、返事をしようとした。
車輪の音が、急に遠くなった。
身体が横へ傾き、誰かの手が袖へ触れたところで、鬼太郎の意識は途切れた。
第3章『最後の演目』完