夜明けを待たずに
第34話 夜明けを待たずに
鬼太郎が横へ倒れたとき、キーノは袖を掴んだ。
支えきれず、膝も一緒に滑った。荷台へ肘をぶつけ、歯の間から息が漏れる。鬼太郎の肩は床へ落ちたが、頭だけは鉄箱の角へ届かなかった。
「おい」
返事がない。
トーマスが箱から手を離し、こちらへ屈んだ。
「動かすな。首が曲がってる」
「じゃあ直せ」
男は鬼太郎の肩の下へ腕を入れ、荷台の奥へ少し引いた。キーノは袖を放す。指の傷がまた開き、布に赤い筋がついた。
「生きてるのか」
尋ねると、トーマスは鬼太郎の口元へ顔を寄せた。
「息はしてる」
「してなきゃ、治療屋まで急ぐ意味もねえだろ」
御者台から声がした。サーシェスは振り返らず、手綱を引いて道を曲がった。
車輪が石を踏み、鉄箱の下で台車が鳴る。トーマスは慌てて紐を押さえた。箱が動かなかったことを確かめてから、御者台との隙間へ顔を向ける。
「北街道は逆だ。料金所へ行くんだろう」
「先に治療だと聞いただろ」
「だが、夜明けまでだぞ。待つ側が帰ったら――」
「あそこまで、お前一人で箱を押していけるか?」
トーマスは荷台を見回した。鬼太郎は動かず、キーノも壁へ背をつけたまま立てない。
「……無理だ」
「なら、俺に任せろ。まだ間に合う」
サーシェスが馬へ声を掛けた。
キーノは入口の布へ目を戻した。端が風に煽られるたび、暗い道が見えた。背後に灯りはない。劇場の壁も、もう分からなかった。
それでも、布が閉じそうになると手を伸ばした。
「そいつは、前からああなのか」
「どいつだ」
「倒れてる方だ」
「金の話をする方か、死にかけてから立つ方か」
「どっちもだ」
サーシェスが短く笑った。
「金は前からだ。立つ方は、俺も初めて見た」
「一緒に仕事をしてたんだろ」
「毎回、腹を裂かれてたわけじゃねえよ」
キーノは鬼太郎の腹を見た。濡れた上着の下には、血の固まった布がある。さっきまで立っていた身体が、今は車輪の揺れに合わせて動くだけだった。
「何ができるかも知らなかったのか」
「炎と妙な術、あとは銃。それで仕事は済んでた」
「氷も雷も使った」
「だから、今日は高くついた」
意味が分からず、キーノは御者台へ目を向けた。
「治療費だよ。こんな時間に診る奴は、安くねえ」
「お前が払うのか」
「立て替える。起きたら返させる」
「起きなかったら?」
「そいつの金から取る」
サーシェスは、当然のように答えた。
キーノは自分の掌を開いた。鍵を握っていた指が、曲がったまま震えている。今は何も持っていない。金も、食べ物も、どこへ行けば手に入るのかも知らなかった。
「私の分も、あいつが払うのか」
「連れてくと言ったのは坊主だ。俺に聞くな」
「私が聞いてるのは、お前が先に払うかだ」
「値段を聞いてからだな」
気に入らない答えだった。だが、治療を受ける代わりに何をしろとも、血を寄越せとも言わなかった。
キーノは布の端を指から外した。開いた入口を見ていれば、目を閉じずに済んだ。
◆
荷馬車が止まったのは、煉瓦塀に囲まれた裏庭だった。
サーシェスは門を閉じてから、建物の小さな扉を叩いた。三度、少し待って二度。内側で金具が動き、細い窓が開く。
「朝に来な」
「朝まで待てる顔か、見てから言え」
サーシェスが荷台の布を持ち上げた。
覗き窓の向こうで目が動いた。すぐに窓が閉じ、しばらくして扉が開いた。灰色の髪を束ねた女が、前掛けで手を拭きながら出てくる。
女は鬼太郎の顔を見て、次に上着へ染みた血を見た。
「二人かい」
「こっちの小娘もだ。名前と来た場所は聞くな」
「二人で金貨十枚。薬は別」
「先に値段をつけるには、よく見えたな」
「それだけ流れて、まだ運び込めると思ったんだろう。安い患者じゃないよ」
女が手を出した。
サーシェスは肩の鞄を下ろさず、自分の上着から財布を出した。硬貨を数えて渡し、女が受け取る前に手を止める。
「薬を使うなら、先に値を言え。勝手な検査もなしだ」
「診なけりゃ薬も選べない」
「治療に要る分はやれ。それ以外だ」
「面倒な連れだね」
「起きてると、もっと細けえぞ」
硬貨が女の手へ落ちた。
サーシェスは鬼太郎の上着を開き、小さな銃を抜いた。キーノがその手を見ていると、銃を自分の腰へ差すのではなく、ホルスターごと外した。杖と、折られた紙も取り出す。
孔雀の印が一瞬見えた。紙は開かれず、銃と一緒に乾いた布へ包まれた。
「それ、あいつのだろ」
「治療中に抱かせとくか?」
「どこへ置く」
「寝台の横だ。見てたきゃ、お前も来い」
サーシェスが鬼太郎を抱き上げる。力の抜けた左腕が垂れ、治療師が支えた。
キーノも荷台の縁へ足を出した。地面へ下りた途端、膝が曲がる。トーマスの手が伸びてきたので、荷馬車の板を掴んで身体を止めた。
「触るな」
「倒れそうだったからだ」
「まだ倒れてない」
男は手を引いた。キーノは板から塀へ手を移し、扉へ向かった。
処置室には細い寝台が二つあり、奥の棚に色の違う瓶が並んでいた。白い布を持った助手が鬼太郎へ近づく。キーノは入口で止まり、部屋の奥と女の手を見比べた。
「そこの戸は開けときな」
サーシェスが助手へ言った。
「まだ、荷がある」
裏庭の荷馬車が、ここから見えた。トーマスは御者台の脇に立ち、こちらを見ている。サーシェスは包みを寝台の横へ置き、三冊の帳簿と金が入った鞄を足元へ下ろした。
女が鬼太郎の服を切った。
乾いた血と布が離れ、腹が見える。女の手が止まった。
「傷は、どこだい」
「そこにあった」
「あった?」
サーシェスは、肋骨の下から腹へ残る線を指した。
「そいつが自分で塞いだ。それから立って、歩いて、倒れた」
女は鬼太郎の瞼を上げ、首へ指を当てた。次に腹の線を確かめ、袖から杖を抜く。
「中を診るよ。光を当てるだけだ」
短い呪文とともに、淡い光が皮膚の上を滑った。女は腹だけで終わらず、胸、腕、頭へと杖を動かした。
「塞がってる。外だけじゃないね」
「なら起こせるか」
「傷口がなくても、血が戻るわけじゃない。左腕と脚にも傷がある。頭も打ってる。身体中、ひどく疲れてるよ。何をされた」
「呪文を何発も食らった。切られたのはその後だ」
女はもう一度、鬼太郎の顔を見た。問い直す代わりに、助手へ水と布を持ってこさせる。
「先に出血してる所を処置する。あの腹へ、もう治癒を重ねる必要はない」
キーノは入口から、赤い線を見ていた。あれだけ開いた傷が閉じたのに、鬼太郎は起きない。自分も立てるだけで、脚の震えが止まらなかった。
「血を戻す薬はあるのか」
キーノが聞くと、女は棚から暗赤色の瓶を出した。
「ある。ただし、飲ませた途端に走り出す薬じゃないよ」
「いくらだ」
サーシェスが尋ねた。
「一本三枚。まず少しずつだ。この子に一度で全部は飲ませない」
「使え」
助手が鬼太郎の肩を持ち上げた。女は口元を濡らし、飲み込むのを待ってから、少量ずつ薬を流した。急かす様子はない。サーシェスもその間は黙っていた。
キーノは戸口から離れ、空いた寝台へ近づいた。
端に革帯が載っていた。
「それをどけろ」
助手が振り返る。
「診る間、動かないようにするだけだ」
「どけろと言った」
「暴れなければ使わない」
キーノは寝台から退いた。後ろの壁まで、三歩あった。助手の手首なら噛める。女が杖を上げる前に、扉へ届くかもしれない。
「帯は使うな」
サーシェスが言った。
「そいつには、先に何をするか言え」
「あんたが治療するのかい」
「暴れさせて薬棚をひっくり返す方が、腕の見せどころなら止めねえがな」
女はキーノの口元を見た。助手へ手を振り、革帯を片づけさせる。
「手首に触って脈を診る。目と口も見る。その後は、隣の子に使った光で中を診る。切らない。それでどうだい」
「針も使うな」
「今は必要ない」
「必要になっても、勝手に刺すな」
「分かったよ。そこへ座りな」
キーノは、助手が帯を持って奥へ行くまで待った。それから寝台の端へ座る。靴は脱がず、床へ足をつけた。
女の指が手首へ触れた。振り払わずにいると、言ったとおり目を診られ、口を開けるよう求められた。
助手が戻ってきて、犬歯を見た。
「吸血鬼か」
「半分だ」
キーノは女の手を見た。引っ込めるのかと思ったが、指は顎を離しただけだった。
「薬の量を変える。まずは一口ずつだね」
「それだけか」
「ほかにも聞きたいことはあるよ。今、答えたいかい」
「嫌だ」
「なら後だ。服は傷の所だけ開くよ」
キーノは自分で布を引いた。女は残る痕を見て、長く締められていた手首も確かめた。光が足首を滑ったときには、キーノの足が少し動いた。
「痛む?」
「近い」
杖が離れた。
診察を終えた女は、傷の閉じていない掌を洗い始めた。水が触れると痛かった。キーノが手を引く前に、次は布で押さえると言った。
「血は足りない。食べてもいないね」
「食べてた」
「足りるほどじゃなかったんだろう」
そこは否定できなかった。
女は新しい瓶を取り、杯へ少しだけ注いだ。水を加え、キーノの横へ置く。
「同じ薬を薄めた。具合が悪くなったら、そこでやめるんだよ」
「私の分も三枚か?」
キーノではなく、サーシェスへ向けた言葉だった。
男は財布を開き、硬貨を出した。
「二人で十六。食い物は別か」
「食べられるようになったら出す」
「そっちも書いとけ。坊主に読ませる」
女が棚の上の帳面へ手を伸ばす。キーノは杯を持ち、匂いを確かめた。見世物小屋で嗅いだ甘い薬とは違った。
一口飲む。
舌へ苦さが広がったが、飲み込んでも眠くはならない。腹も痛まなかった。
「苦いなら、先に言え」
「次は言うよ」
女は杯を取り上げず、鬼太郎の寝台へ戻った。
◆
鬼太郎が目を開けたとき、梁から下がる薬草が見えた。
知らない天井だった。身体の下は板ではなく、薄い敷布のある寝台らしい。右手を動かすと、掌に布が触れた。
銃はなかった。
顔を横へ向ける。小卓の上に、ホルスターごと置かれている。杖と折った手紙も見えた。その向こうにサーシェスが座り、開いた戸口からは荷馬車の一部が覗いていた。
「起きたか」
「……治療所ですか」
「お前が行けと言ったんだろ」
返そうとして、喉が張りついた。女が水を持ってきたが、すぐには起こしてくれなかった。肩の下へ布を入れられ、少量ずつ飲む。
「立つんじゃないよ」
「どこまで、済んでいますか」
「傷の処置と、薬を半分。残りは、もう少し後だ」
鬼太郎は脚の方を見た。巻いた布が新しくなり、左腕にも清潔な包帯があった。腹へ手をやると、女に止められる。
「触っても血は増えない」
「塞がった所は」
「塞がってる。だから余計な魔法も使ってない。あとは眠って、飲める分を飲みな」
掌へ力を集めようとはしなかった。劇場で通した感覚は残っているが、今の身体を起こすだけでも息が重い。確かめるなら、もう少しまともに座れるときだ。
反対側の寝台で、キーノがこちらを見ていた。
「治療は?」
「受けた。縛られてない」
「そうですか」
彼女の手にも包帯があった。布は上手に巻かれていたが、本人はまだ端へ腰掛け、足を床につけている。
「鉄箱と、トーマスさんは」
「外だ。箱も封も、そのまま。金と帳簿はここにある」
サーシェスが足元の鞄を靴で示した。
「期限は、まだですか」
「今から出りゃ、料金所へ間に合う。お前が喋り続けなきゃな」
鬼太郎は開いた戸口を見た。外はまだ暗い。半札を入れた場所を思い出し、上着へ目を移す。
「内側の、小さなポケットに」
サーシェスが上着を取り、指を入れた。欠けた札が出てくる。
「これか」
「はい。僕が持参する条件は、ありませんでした」
「代わりに届けろって?」
「お願いできますか。追加分は、お支払いします」
「治療費の立て替えもだ」
「もちろんです」
「箱と運び屋を渡して、残りを受け取る。ほかに?」
鬼太郎は一度目を閉じた。条件を思い出すのに、いつもより時間が要った。箱の封、本人の特徴、前金。どれも知っているのに、並べようとすると途中で息を継がなければならなかった。
「受領したと、分かるものを。途中で、別の場所へと言われたら――」
「向こうの札を合わせて、理由を聞く。知らねえ所へ黙って荷を放り込んだりはしねえよ」
サーシェスは札をしまった。
「箱と男だけ先に取られて、金は後だと言われたら、持って帰る。それでいいな」
「ええ」
「治療屋に伝言が来ても、勝手にここを出るなよ。俺が戻る」
鬼太郎は小卓の手紙を見た。上着から出されても、折り目は同じだった。
「お願いします」
サーシェスは金と帳簿の鞄を寝台の下へ寄せた。長銃を持ち、女へ向き直る。
「こいつらは置いてく。戻るまで寝かせとけ」
「あんたがいない方が、静かになりそうだね」
「坊主が起きたままなら、賭けてもいいぞ」
裏庭でトーマスが何か尋ねた。サーシェスの返事に続き、荷馬車の紐を引く音がする。
鬼太郎は耳を澄ませた。箱は外へ出せた。トーマスも生きている。まだ仕事は済んでいないが、自分が寝台から降りなければ進まないわけではなかった。
車輪が回り始めた。
「眠るのか」
キーノの声がした。
「そのつもりです」
「今度は、倒れる前にか」
「寝台で倒れると、ご迷惑ですか」
「返事がなくなる前に言え」
鬼太郎は彼女へ顔を向けた。膝の上の手が、包帯の端を握っていた。
「では、少し眠ります」
キーノは何も答えなかった。
目を閉じると、荷馬車の音が門の外へ遠ざかった。今度は、最後までその音が何なのか分かっていた。
キーノはしばらく隣の寝台を見ていた。呼吸が続いているのを確かめ、床から片足を上げる。
女が毛布を持ってきた。
「掛けるかい」
「置け。自分でやる」
毛布は寝台の端へ置かれた。キーノは裏を確かめてから膝へ引き寄せ、もう片方の足も上げた。
開いた扉の向こうで、空がわずかに薄くなり始めていた。