第35話 掌の取り分
料金所の屋根は、木立の向こうに沈んでいた。
使われなくなった街道の脇で、古い腕木だけが道へ張り出している。サーシェスは手前で馬を止め、御者台から降りずに窓を見た。灯りはない。だが、開いた鎧戸の内側で、一度だけ何かが動いた。
「ここだ」
荷台からトーマスが言った。
「俺が出る前も、こっちで札を合わせた」
「それより前の話は、後だ。今は座ってろ」
サーシェスが腰のリボルバーへ手を置くと、小屋の脇から男が出てきた。外套の裾は乾いている。道に立ったまま、御者台を見上げた。
「子供はどうした」
「代わりだ。箱と運び屋はいる」
「本人が来る話だった」
「本人へ頼んだ話だろ。持ってくる奴まで決めてたか?」
男の視線が荷台へ動いた。
「札を」
「先に、そっちを見せろ」
しばらく睨み合った後、男が懐から欠けた札を出した。サーシェスも片割れを取り出す。御者台の縁で近づけると、割れ目の凹凸が噛み合い、刻まれた線が一本につながった。
男は札を引き取ろうとした。
サーシェスは自分の半分を離さない。
「まだ、渡してねえぞ」
「確認は済んだ」
「受領も金も、済んでねえ」
男は手を引いた。空を見てから、小屋の方へ顎を向ける。別の男が杖を持って出てきた。
東の木々の輪郭は見え始めていたが、朝日はまだ出ていなかった。最初の男が懐中時計を確かめ、鎖ごと外套へ戻す。
「期限内だ。箱を見る」
「ここで引き取るのか」
「ここは照合する場所だ。受領は河岸の倉庫でする。箱を道端で降ろせと言われた方が、信用できるか?」
「どこの倉庫だ」
男が通りと扉の印を告げた。トーマスが覆いの隙間から顔を出す。
「知ってる。荷を出した所だ」
「お前の話も聞く。今は顔を見せろ」
男はトーマスの左耳の下と右手を見た。それから鉄箱へ目を移し、封蝋へ近づけた杖を止める。
「開けてないな」
「開ける仕事じゃねえ。詳しく調べるなら、金を出す所で一度にやれ」
サーシェスは荷台の布を戻した。
「期限はここへ着くまでか、倉庫へ入れるまでか。後で変えるなよ」
男の眉間に皺が寄った。
「ここへ、夜明けまでだ。照合済みと書く」
小屋から紙挟みを出させ、男は時刻と荷馬車の到着、半札の一致を記した。サーシェスは御者台を下り、手渡された紙を読み終えてから内側へしまう。
「俺が先へ乗る」
男が御者台へ足を掛けかけた。
「歩け」
「道案内だ」
「道は聞いた。角で待てばいい。俺の隣へ座る仕事までは頼んでねえ」
杖を持つ方の男が、口元を歪めた。案内役は何も言わず前へ歩き出した。
サーシェスが馬を進めると、背後からトーマスの声がした。
「あの子供に、似てるな」
「どこがだ」
「疑う所が、多い」
「箱と一緒に攫われた奴に言われてもな」
トーマスは黙った。
前を行く男は振り返ったが、サーシェスの顔を見て、また歩き始めた。
◆
倉庫の裏門を入ると、朝の光は高い壁に遮られた。
サーシェスは荷馬車を横づけする前に、出口を見た。通ってきた門のほかに、河岸へ続く大扉がある。荷役が二人、紙挟みを持つ灰色の外套の男、左右に杖を持った護衛。料金所から来た二人も門の脇に残った。
「トーマス・ヘイル」
灰色の男が呼んだ。
「ここにいる」
トーマスが荷台から降りる。男は顔を見て、依頼前の荷の扱いについて二つ尋ねた。返答を聞いても表情は変わらず、紙の一か所へ短い印をつける。
「生存。本人確認済み」
「俺は道で捕まったんだ。箱を渡したんじゃない。あいつらが馬の前へ――」
「経緯は後で聞く」
「今、聞けるだろ」
男は鉄箱へ向かった。トーマスの声が止まる。
サーシェスは箱の固定を外さず、覆いだけを退けた。左右の取っ手、右下のへこみ、深緑の封蝋。灰色の男は三つの鍵の印へ細い金属棒を当て、縁を辿った。
「外に傷がある」
「持って出る前からか、後からか。お前は区別できるのか?」
「損傷があれば減額だ」
「封と留め具は?」
男は金属棒を止めた。さらに箱の四隅を調べ、トーマスにも運ぶ前の状態を尋ねる。
「ここのへこみは、前からだ」
トーマスが指した。
「封も、俺が運んでたときと同じだ。それは、あの子供にも話した」
灰色の男は紙へ目を落とし、護衛へ小さく手を振った。杖先が箱から下がる。
「条件は満たしている。受領する」
「金と、受領証」
「荷を中へ入れてからだ」
サーシェスは固定紐へ伸ばしかけた手を引いた。
「俺は待てるぞ。ここへ来た時刻は紙に残ってる。後で箱が遅れたことにはできねえ」
灰色の男が料金所の案内役を見た。案内役は返事の代わりに紙挟みを示す。
「……残額を」
奥から革袋が運ばれてきた。サーシェスは中身を台へ広げ、金額を照合した。前金四分の一を除いた残り。依頼書に記された額から欠けていない。
数え終わるまで、灰色の男は待った。
「子供は、どこにいる」
「寝てる」
「何があった」
「それを聞く金は、この中に入ってねえな」
サーシェスは硬貨を袋へ戻した。
受領証には箱一個、封と留め具に破損なし、トーマス生存と本人確認済みの文が並んだ。料金所で期限内に照合したことも加えさせ、印が押されたのを確かめる。
それから初めて、台車を留めた紐を外した。
荷役が鉄箱を降ろす。トーマスは一度サーシェスを振り返ったが、呼び止めなかった。灰色の男の後ろへつき、倉庫の奥へ入っていく。
サーシェスは空の荷台を見た。劇場から箱を出すだけで、随分かかった。あの坊主が腹を塞いだときの顔まで思い出し、口の端が上がる。
「次も依頼を出せるか」
灰色の男に尋ねられ、そちらを見た。
「生きてりゃな」
「連絡先は」
「頼んだ仲介がいるだろ。俺は受取人の世話までしねえよ」
手綱を取り、門を出る。
次の角で、河岸の硝子へ後ろを映した。同じ者は出てこない。それでも治療所へまっすぐ戻るのはやめ、荷馬車を処分する方へ向かった。
◆
パンを隠す指が、毛布の端で止まった。
キーノは隣の寝台を見た。鬼太郎の目が開いていた。
「取り上げるのか」
「いいえ」
鬼太郎は背中へ挟まれた布に体重を預け、机の器へ目を移した。湯気の少なくなったスープと、半分のパン。女が置いていったものだった。
「後で食べる分ですか」
「次に出るか、知らない」
「必要なら、頼めますよ」
「誰の金でだ」
「僕が払います」
キーノはパンを毛布の下へ滑らせた。やめろとは言われなかった。
「治療の金も、私の分までか」
「ええ。サーシェスさんへ返します」
「後で、私へ払えと言うなよ」
「言いません」
キーノは匙を取った。最初の一口よりは、腹が驚かなくなっていた。ゆっくり食べろと女に言われたのは気に入らないが、急いで吐いたら、隠したパンも食べられなくなる。
鬼太郎は自分の器を持ち上げようとして、途中で卓へ戻した。女が近づき、背中の布を一枚増やす。器を手の届く所へ寄せられる間、黙っていた。
「まだ駄目か」
キーノが尋ねると、鬼太郎は匙を持つ指を見た。
「座って食べるには、少し早かったようです」
「寝て食え」
「喉へ詰まらせるから、そういうことを勧めるんじゃないよ」
女が横から言った。
「じゃあ、どうする」
「私が支える。あんたは自分のを食べな」
キーノは向き直った。鬼太郎が助けを借りて食べ始める音を聞きながら、匙へ残る豆を拾う。客席へ雷を放った腕でも、器を支えられないことがあるらしい。
器が空になったところで、裏門を叩く音がした。
キーノは足を床へ下ろした。立ち上がる前に、サーシェスの声が聞こえる。
「金を取りに来たぞ、坊主」
「それなら、どうぞ」
鬼太郎の返事は、キーノより早かった。
◆
サーシェスが差し出した受領証を、鬼太郎は寝台の上で読んだ。
紙を傾けると文字がぼやけた。窓の方へ向け直し、料金所での時刻から末尾の印まで目を通す。残額の袋は、別に小卓へ置かれていた。
「問題ありません。ありがとうございます」
「箱を渡す前に金を出させた。向こうが何を知ってたかは聞いてねえ」
「トーマスさんは?」
「自分で歩いて中へ入った。道で攫われた話を、まだしたそうだったな」
鬼太郎は紙へ視線を戻した。本人も箱も本物だった。だから罠も、仕事として受けるだけの形になっていた。
引渡し先が劇場とつながっていたかは、この受領証からは分からない。今、調べ始められる身体でもなかった。
「荷馬車は」
「手放した。車体の印を消して、ばらす奴にな。馬ごと渡して処分料と相殺だ」
「受け取ったお金は、なしですね」
「ああ。俺が余計に払った分もねえ」
サーシェスは椅子を引き寄せた。
「じゃあ、次はこっちの番だ」
鬼太郎は女へ卓を借りたいと頼んだ。食器を片づけてもらい、寝台の間へ置く。金を広げる前に、サーシェスが裏戸を閉めた。
キーノの顔が上がる。
「鍵は掛けねえ。治療屋が見てる前で金を数えるのが嫌なだけだ」
サーシェスはそう言って、鞄を開いた。
赤、青、黒の帳簿三冊が出てくる。鬼太郎は一度だけ表紙を見た。手紙と照らし合わせるにしても、今は三冊を読む余力がなかった。
「そいつの分け前を、どうする」
「すぐ売るのは、避けたいです」
「俺もだ。誰に見せるかで、面倒が変わる」
「僕が預かっても?」
「売り先を決める前に、俺へ話せ。利益が出たら、そこで三対二だ」
「分かりました。費用が必要になった場合も、先に相談します」
帳簿は閉じたまま、銃や手紙とは別の包みへ戻された。
次は現金だった。残額と劇場から持ち出した硬貨を混ぜる前に、それぞれ数える。鬼太郎は自分の前金からも、今回の仕事の支出を確かめた。最初に決めた取り分を、倒れた後の代行分で曖昧にするつもりはなかった。
異なる硬貨を価値ごとに揃え、五つへ分ける。三つを鬼太郎側、二つをサーシェス側へ。
サーシェスが自分の分を数え終えてから、鬼太郎は三つの山の一つへ指を伸ばした。
「治療と薬の十六枚を、お返しします」
「食い物は、まだ治療屋に払ってねえ」
「それは、こちらから」
女の記録と照合し、二人の処置と薬代をサーシェスへ戻す。食事と滞在にかかる金は、別に取り分けた。
引渡しの代行分は、料金所から倉庫への経路と処分までの手間を聞いて決めた。サーシェスが告げた額へ、鬼太郎は少し顔を上げる。
「戻る途中の寄り道まで、ずいぶん丁寧に数えましたね」
「つけられてねえか、確かめながら戻ったんだ。まっすぐ来りゃよかったか?」
「いいえ。次は、頼む前に伺います」
「起きてからの楽しみが増えたな、坊主」
鬼太郎は求められた額を払い、残った金を自分の方へ寄せた。
「私の分は」
キーノが言った。
卓の上へ伸びていたサーシェスの手が止まる。
「お前は、依頼を受けてねえだろ」
「あの男を出した。箱を運ぶ奴らも、私が開けた」
「自分が逃げるためじゃねえのか」
「だから、何だ。そっちも役に立っただろ」
鬼太郎はキーノを見た。彼女は自分の膝の上で、包帯の巻かれた指を握っている。金の卓へは、まだ手を出していなかった。
「ええ。助かりました」
サーシェスが鬼太郎へ向き直る。
「五分を分け直す話なら、断るぜ」
「変えません。キーノさんへは、僕の分からお支払いします」
「いくらだ」
キーノの問いへ答える前に、鬼太郎は残った硬貨を数えた。
自分の拘束を外しただけなら、こちらの依頼への支払いにはならない。トーマスを解放し、運べる人手も連れてきた。二人がモーンを追っている間に、それを済ませていたことには価値がある。
鬼太郎は硬貨を分け、サーシェスの方へ少し押した。
「この働きへの額としては、どうでしょう」
「事前の契約なし。人探しまで頼まれてたわけでもねえ。そんなもんだろ」
「僕も、そう思います」
鬼太郎は、二人が何に対する支払いを考えたかをキーノへ話した。彼女は途中で口を挟まなかったが、最後に卓へ身を寄せた。
「私は、そいつがトーマスだとは知らなかった」
「ええ。僕たちのためだけに動いたとも思っていません」
「なら、なぜ払う」
「実際に、必要な方が外へ出られましたから。頼んでいれば、ほかの誰かへ払った仕事です」
キーノの視線が硬貨へ落ちた。
鬼太郎は小さな布袋を出し、口を開いた。自分の手元で金を入れ、結ばずに差し出す。
「中を、ご確認ください」
キーノは取る前に、鬼太郎を見た。
「血の分じゃないな」
「違います」
「治療の金を、ここから取るのもなしだ」
「そちらは、もう分けました。これはキーノさんの取り分です」
彼女は袋を取った。硬貨を寝台へ出し、指で一枚ずつ並べる。色の違うものを分ける仕草は迷わなかったが、高さの違う山を見たところで止まった。
「これで、何が買える」
「服や、食べ物です。どこで買うかによっても変わりますが」
「服一枚か」
「それよりは多く」
「分からない」
鬼太郎は卓の硬貨から、同じ種類を一枚取り上げた。今朝の食事の額を女へ尋ね、その一枚で買える分と釣りを、キーノへ示す。
キーノは寝台の金を見直した。
「何度も食える」
「ええ」
「私が、一人で持っていっても使えるのか」
「その店で使える硬貨なら」
キーノは一枚を掌へ載せ、裏返した。それからすべて袋へ戻し、口紐を結ぶ。一度引き、もう一度引いた。
置く場所を探して、破れた服を見下ろす。
鬼太郎は手を出さなかった。袋はしばらく彼女の膝にあり、やがて枕の下へ入った。
◆
精算を終えると、鬼太郎は背中の布を一枚抜いてもらった。
座っていた時間が長すぎたらしい。食事の後より、指が冷えていた。サーシェスは残りの金を袋へ戻し、帳簿の包みと一緒に寝台の下へ置く。
「数える方は、まだ働くんだな」
「途中で間違えていれば、教えてください」
「今なら、俺に都合のいい方へ直せるぞ」
「では、元気になってから、もう一度」
「それが一番面倒だ」
サーシェスは椅子から立った。受領証は鬼太郎が手元の布へ挟み、手紙とは別に置いた。開封済みの孔雀と笛の紙へ、サーシェスが一度だけ目をやる。
「そっちは、どうする」
「今日は、しまいます」
「名前を追うのは、起きてからか」
「思い出せるとも限りません。持って歩いて見せるものでも、なさそうです」
鬼太郎は折った紙を布へ包んだ。文字を読み直さなくても、死体も持ち物も求めていない文面は覚えていた。誰が自分の死だけを欲しがったのか。その問いまで、治療師の薬で消えたわけではない。
だが、今から捜しに行くつもりはなかった。
「サーシェスさん」
「まだ取り損ねた金でもあったか?」
「逆です。お支払いする方の相談を、後日お願いしたいんです」
男が足を止めた。
「次の仕事か」
「今後も、必要なときに、あなたへ仕事を頼めるようにしたいので」
「今だって、金を出しゃ頼めるだろ」
「別の方の仕事で、遠くへ行っていなければ」
サーシェスが振り向いた。笑いが、少し遅れて口元へ浮かぶ。
「高くつく話をするな、坊主」
「内容を聞いてから、値段をつけてください」
「寝たまま話すなら、寝言の値段にするぞ」
鬼太郎は寝台から動かなかった。
「では、もう少し身体が戻ってから」
「その間は、別の仕事を受ける」
「まだ、お願いをしただけですから」
サーシェスは帽子を取り、長銃へ手を伸ばした。キーノの枕の方を見たが、金の場所については何も言わず、裏戸を開ける。
「次は、自分の足で金を持ってこいよ」
「その方が、経費を減らせますね」
「そういう所だ」
男は笑いながら外へ出た。
女が戻り、二人の薬の残りを見た。飲めるか尋ねられ、鬼太郎は少し待ってほしいと答えた。キーノは自分の杯を取り、顔をしかめながら一口飲む。
「それで、元へ戻るのか」
「それだけでは無理ですよ。食べて眠って、少しずつです」
女の返事に、キーノは杯を置いた。
鬼太郎も横になり、窓から伸びる光を見た。箱もトーマスも引き渡した。報酬と分配は済み、サーシェスは次の仕事へ向かった。
寝台の下の包みへ、今すぐ手を伸ばす必要はない。
「キーノさん」
「何だ」
「パンも、悪くなる前に召し上がってください」
毛布の端が動かなくなった。
「金を払ったら、口も出すのか」
「せっかく残した分ですから」
キーノはしばらく黙っていた。やがてパンを出し、固くなりかけた端を齧る。
空いた手は、枕の下へ入らなかった。