第三十五話 銃声のない対岸
契約を終えたあと、鬼太郎はサーシェスと別れて個室へ戻った。
今夜の期限まで、時間は残っている。
薬品商の侵入者から取った二本の杖を、鞄から出す。包みを解かないまま、父の書類や最初の襲撃者から回収した杖とは分けて、床板の下へ収めた。
簡易鑑定で見つからなかった仕掛けが、存在しないとは限らない。
少なくとも、未知の杖を三本も仕事へ持ち込む必要はなかった。
携行するのは〈シュライク〉と予備弾薬。それに、漏れ鍋の奥の壁を開くために使ってきたウォードの杖だけだ。
灯りを覆う布とは別に、白い布を一枚畳む。
書類鞄を見つけたとき、対岸へ合図を送るためのものだった。
回収品を包むための布も用意する。
依頼人の封がどの程度傷みやすいかは分からない。鞄を裸のまま抱え、壁や床へ擦りつけるよりはよい。
〈シュライク〉を抜き、弾倉と薬室を確かめる。
休息へ入る前に清掃し、二発を補ってある。
異常はない。
鬼太郎は銃をホルスターへ戻し、上着を着た。
◆
日が傾き始めるころ、鬼太郎は廃税関倉庫から離れた石橋の下へ入った。
先に来ていたサーシェスは、細長いケースを足元へ置いていた。
「遅刻じゃねえな」
「約束した時刻です」
「そういう返しをすると思ったぜ」
サーシェスが留め具を外す。
中に入っていたのは、細長い銃身を持つ狙撃銃だった。先端には、銃声を抑えるための筒が取りつけられている。
そのほかに、腰の右側へリボルバー。反対側には鞘へ入ったナイフ。上着の内側には、一本の円筒が収められていた。
「それは?」
鬼太郎が円筒を見る。
「煙だ。逃げ道が潰れたときに使う」
「爆発するものは持ってこなかったのですか」
「鞄ごと紙屑にして、ただ働きしたいなら持ってくるがな」
サーシェスは狙撃銃を取り出し、照準器と弾倉を確かめた。
必要なものだけを選んでいる。
銃火器を扱えるという言葉を示すため、持てるだけ持ってきたわけではない。
「ここからは別々だ」
サーシェスがケースを閉じる。
「俺は川を回る。坊主は街道側を見ろ。仲良く並んで歩いて、見張りに紹介してやる必要はねえ」
「同感です」
「日が落ちるまで撃たん。配置が変わったら、仲介人の図より自分の目を信じろ」
「あなたも」
鬼太郎は橋の反対側から出た。
◆
廃税関倉庫は、川岸から少し張り出すように建っていた。
煉瓦壁の一部は黒ずみ、使われなくなった看板が街道側へ傾いている。川側には、かつて荷を積み下ろしした木製の足場と、大きな搬入口が残っていた。
鬼太郎は街道を正面から進まなかった。
空き家の裏手と崩れた石塀を使い、倉庫が見える位置を変えながら観察する。
街道側に一人。
上着の内側に杖を入れた男が、正面扉と道を往復している。
川側にも一人いる。
搬入口の外へ出たり、中へ戻ったりしていた。腰から伸びて見える細いものは杖だった。
壊れた窓から、倉庫内を横切る影が三つ見えた。
その後、二階の足場に別の影が現れた。
中に四人。
外に二人。
確認できただけで、六人いる。
仲介人から聞いた人数より一人多い。
鬼太郎は、さらに待った。
同じ人間を二度数えていないか、それとも見えていない者がまだいるか。
街道側の見張りが扉を開ける。内側の誰かと短く話し、また外へ戻った。
中の四人は減っていない。
六人で間違いなかった。
正面扉の周囲には、白い線が細く引かれている。扉の上と左右の煉瓦には、小さな記号が刻まれていた。
ルークの手帳にあった、入口を監視する図と似ている。
線のつながりも、記号の形も同じではない。
近づいた者を知らせるのか。
扉を開けた者へ作用するのか。
それとも、別の魔法なのか。
鬼太郎には判断できなかった。
分からないまま解除を試せば、見張りへ自分の位置を教えるだけかもしれない。
正面から入る案を捨てる。
倉庫の側面へ回ると、壁際へ空の木箱が積まれていた。二階近くには、ガラスの割れた小窓がある。
その下を、錆びた排水管が通っている。
窓の周囲には、正面扉にあった白い線も、煉瓦の記号も見えなかった。
安全だとは限らない。
鬼太郎は壁から欠け落ちた小石を拾い、小窓へ投げた。
小石はガラスの残っていない部分を抜け、内側の床へ落ちる。
光も、音も起きなかった。
中の人影にも変化はない。
鬼太郎は木箱へ手を掛けた。
◆
川の対岸にある廃荷役小屋は、屋根の半分が落ちていた。
サーシェスは一階を使わず、残っている梁を伝って二階へ上がった。
窓枠の下へ布を敷き、狙撃銃を置く。
照準器の向こうに、倉庫の搬入口が見えた。
川側の見張りが一人。
倉庫内の灯りの位置。
開いている窓。
対岸から見える範囲だけでも、仲介人の図とは違う箇所がいくつもある。
「さて」
サーシェスは照準器から目を離し、倉庫の側面を見た。
積まれた木箱の陰で、小さな人影が動いている。
鬼太郎は、打ち合わせで決めた正面扉へ向かっていなかった。
箱へ足を掛け、壁を登ろうとしている。
「勝手に変えやがる」
口元は笑っていた。
正面扉に何かあったのだろう。
届かない射線へ消えたからといって、失敗したと決める理由はない。
サーシェスは銃口の向きを変えた。
小窓から中へ入った場合、鬼太郎が通る足場。
その下にある川側の窓。
鬼太郎の頭が出そうな場所を避け、倉庫内へ通る線を引き直す。
◆
最初の木箱は、鬼太郎が足を乗せるとわずかに沈んだ。
体重をすべて預ける前に降りる。
隣の箱へ移り、角を踏む。
そこから排水管へ手を伸ばした。
錆が指へ付く。
管そのものを強く引かず、壁へ固定している金具へ足を置く。煉瓦の欠けた場所へ指を掛け、身体を持ち上げる。
六歳の腕は、生前の身体ほど長くも強くもない。
一度で窓枠へ届かない。
途中で止まり、足場を確かめる。
無理に腕だけで上がれば、金具が外れたときに身体を支えられない。
右足を一段上へ移す。
左手を窓枠へ掛ける。
残っているガラスへ服を触れさせないよう、身体を横へ向けた。
窓の内側は、二階の細い足場だった。
鬼太郎は腹ばいになって入り、音を立てずに両足を引き込んだ。
すぐには立たない。
窓の下で伏せたまま、倉庫内を見る。
二階の中央近くに、古い机がある。
その上へ、革の書類鞄が置かれていた。
封は見える。
壊された跡はない。
下階には四人。
一人は、椅子に縛られた男の前に立っている。ほかの三人は、入口、川側、階段の近くへ分かれていた。
椅子の男は頭を垂れている。
額から血が流れ、片方の目が腫れていた。それでも胸は上下している。
運び屋は生きている。
連れて帰れば追加報酬になる。
だが、書類鞄より先に助ける理由はなかった。
「名前を言え」
運び屋の前にいる男が杖を顎へ当てた。
「誰に渡すはずだった」
運び屋の口が動く。
声は聞こえない。
男が椅子を蹴った。
鬼太郎は、書類鞄までの板を目で追った。
足場は壁に沿って机へ続いている。途中に階段があり、下の男が一人、その近くを行き来していた。
鬼太郎は白い布を出さなかった。
まだ、鞄を確保していない。
◆
川側の見張りは、一定の間隔で搬入口から外へ出ていた。
サーシェスは、そのたびに照準を合わせた。
すぐには撃たない。
倒れた身体が倉庫内から見える位置では、消音器を使っても意味がない。
見張りが川辺の足場を歩く。
倉庫へ背を向ける。
さらに二歩進み、積まれた古い樽が、搬入口側から男の腰までを隠した。
風が川下へ流れる。
サーシェスは、照準器の中央を男の後頭部へ重ねた。
引き金を絞る。
抑えられた発砲音が、廃荷役小屋の中で短く鳴った。
川の音と風が、その残りを運び去る。
男の頭が前へ落ちた。
身体は樽の向こうへ崩れ、倉庫側から見えなくなる。
杖を抜く動きはなかった。
盾を作る時間もなかった。
サーシェスは照準器を動かし、搬入口と窓を順に見る。
誰も出てこない。
倉庫内の影も変わらない。
「一人」
小さく数え、次の弾を送った。
◆
決めた時刻を過ぎて間もなく、川側の見張りが窓の下から消えた。
鬼太郎の位置から、倒れたところまでは見えない。
だが、戻ってくるはずの時間を過ぎても姿を現さなかった。
対岸の仕事が始まった。
鬼太郎は伏せた姿勢から立ち、足場へ体重を移した。
板が軋まない場所を選び、机へ進む。
下階の四人は、まだ川側の異変に気づいていない。
正面扉が開いた。
外にいた見張りが戻ってくる。
「交代はどうした」
階段近くの男が尋ねた。
「まだだ。あいつが戻ってから出る」
扉が閉じられる。
外に一人、中に四人だった配置が変わった。
生きている敵は、全員が倉庫内にいる。
鬼太郎は足を止めなかった。
書類鞄まで、あと数歩。
古い板へ左足を置く。
乾いた音が、足の下で鳴った。
大きくはない。
だが、下にいた一人が顔を上げた。
鬼太郎は右手を上着の内側へ入れる。
男はまだ鬼太郎を見つけていない。
先に、川側の窓へ目を向けた。
見張りが戻らないことを、不審に思ったのだろう。
窓へ近づき、外を覗く。
樽の向こうに倒れた身体を見つけた。
「お――」
男が杖を上げる。
警告の声になる前に、頭が横へ弾かれた。
川側の開いた窓を抜けた弾丸が、そのまま男を倒した。
杖が床を跳ねる。
身体が背後の机へぶつかり、置かれていたランプを落とした。
ガラスの割れる音が倉庫へ響く。
「敵だ!」
誰かが叫んだ。
残った四人が一斉に杖を抜く。
一本の杖が天井へ向けられた。
短い呪文。
倉庫内の灯りが、すべて消える。
暗闇の中で、鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。
まだ撃たない。
相手の足音と声から位置を拾う。
書類鞄は、手を伸ばせる距離にある。
下では、拘束された運び屋が椅子ごと床へ倒れた。
◆
照準器の中から、倉庫の灯りが消えた。
サーシェスは二発目の空薬莢を送り出す。
暗い窓へ撃ち続けても、弾を捨てるだけだ。
狙撃銃を窓から引き、立ち上がる。
鬼太郎を助けに行くのではない。
川側から逃げる者を止めるには、倉庫の搬入口を別の角度から見られる位置へ移る必要がある。
それが、自分の取り分に含まれた仕事だった。
サーシェスは狙撃銃を持ち、崩れた階段へ向かう。
対岸からは、もう銃声が聞こえなかった。