第36話 内側から掛ける鍵
キーノがパンを隠さなくなったのは、四度目の朝だった。
残した半分を布で包み、寝台脇へ置いた。女が食器を下げに来ても手を伸ばさず、そのまま見ていた。
パンは持っていかれなかった。
昼には豆の入ったスープが出た。キーノは器を受け取り、今朝の包みを開く。布へついた屑まで拾って口へ入れ、空になった布を畳んだ。
鬼太郎は自分の寝台から、それを見ていた。
「何だ」
「いえ。食べ終わったようでしたので」
「見れば分かる」
キーノは包んでいた布を枕の下へ入れようとして、先に入っていた袋へ指をぶつけた。布を取り出し、寝台の端へ置き直す。
鬼太郎は顔を戻した。窓の下までなら、昨日より楽に歩けた。だが、戻って座ると胸が速く打ち、まだ横になりたくなる。
すぐに試したいことは幾つもあった。あの夜に思い出した冷気や電撃を、今ならどこまで出せるのか。掌へ通した感覚を思い浮かべるだけなら、何も失われていない。
けれど、身体を起こしたまま考えていると、先に脚が重くなった。
「今日は、そこまでだよ」
女が足元の履物を寝台の下へ押した。
「まだ歩くとは言っていませんよ」
「足を下ろしかけてた」
鬼太郎は毛布へ戻した足を見た。キーノの方から、鼻で笑う音がした。
◆
四日目の午後、治療師は大きな包みを抱えた女を連れてきた。
灰色の外套を脱ぐと、下には布の切れ端があちこちへ縫いつけられた前掛けがあった。包みを椅子へ載せ、古着を二人の間へ広げていく。
キーノはすぐに、洗って畳んであった自分の服へ目をやった。乾いた血は薄くなっていたが、切られた跡は残っている。
「捨てるのか」
「替えを買いたいんです」
鬼太郎が答えた。
「その服では、劇場を知る人に気づかれやすいでしょう。僕の分も、傷の所を切られていますし」
「この子らかい」
古着商が治療師を見た。
「名前と怪我の理由を聞かなきゃ、普通の客だよ」
「聞かなくても、普通じゃなさそうだけどね」
女はキーノの返事を待たず、上着を一枚持ち上げた。飾りはなく、灰色の袖口へ補修が入っている。
「腕を上げてみな。丈を見る」
「自分で着る」
キーノが手を出した。
女は上着を渡し、次の包みを解いた。キーノは襟の裏を見てから袖を通す。布の中で片手が止まり、すぐに抜いた。
「ここ、引っかかる」
「裏地の継ぎ目だ。直せるよ」
「直してからなら、着る」
「先に決めな。買わない服まで縫い直す気はない」
キーノは上着を膝へ置いた。もう一枚と持ち比べ、袖を折り、胸の前で布を引く。
「どっちが丈夫だ」
「そっち。少し重いけどね」
「なら、こっちだ」
鬼太郎は自分の服を選びながら、二人の話を聞いていた。キーノは色を聞かれたときには答えなかったが、首へ留め具のあるものと足首を紐で絞るものは、手に取る前に退けた。
女が理由を聞いても、邪魔だとしか言わない。
鬼太郎は、避けた服を戻させなかった。
衝立の向こうへ入ったキーノは、しばらく出てこなかった。椅子を引く音に続いて短い舌打ちが聞こえ、治療師が声を掛ける。
「手が要るかい」
「いらない」
布が動き、灰色のシャツと茶色のズボンを着たキーノが出てきた。袖も裾も少し余っている。足元の靴は、底だけが厚く新しかった。
キーノは膝を曲げてから、両腕を前へ伸ばす。右の袖口を引き、次に靴を床へ擦りつけた。
「走ってみないと、分からない」
「ここで走れば、私が止めるからね」
治療師が言った。
「服は破けなくても、こっちの仕事が増える」
キーノは不満そうに椅子へ戻った。服を脱ぐとは言わなかった。
替えの一組と上着も決めると、枕の下から報酬袋を出した。膝へ硬貨を並べかけたところで、鬼太郎が尋ねる。
「上着の内側へ、ポケットをつけてもらっては?」
キーノの手が止まる。
「金を入れるためか」
「いまの外側では、少し浅そうです」
彼女は袋をポケットへ入れて立った。腰を一度動かすと、布袋の端が覗いた。
「内側につけろ。閉まるやつだ」
キーノは古着商へ上着を渡した。位置を尋ねられ、自分の脇腹より少し前を指す。
女が針を出す間に、鬼太郎は二人分の代金を聞いた。
「私が払う」
「今回は、僕に用意させてください。外へ出るための服ですから」
キーノは硬貨を袋へ戻さなかった。
「選んだのは私だ」
「ええ。着るのも、キーノさんです」
「なら、私の服だろ」
「お渡しする服です。返していただくつもりはありませんよ」
キーノが女へ目を向ける。女は針を動かしたまま言った。
「どっちが払ってもいいけど、着直す前に決めとくれ。金が足りないなら、縫ったポケットを外すことになる」
キーノは袋の口を押さえた。
「後で、代わりの仕事をしろとは言わないな」
「言いません。食事や寝床と同じです」
「高い服を選んでたら?」
「払えるか、相談したでしょうね」
キーノはしばらく鬼太郎を見てから、硬貨を袋へ戻した。
「じゃあ、今回は払え」
「分かりました」
鬼太郎が代金を出すと、古着商はようやく針を止めた。縫い終わった上着をキーノへ渡す。彼女は袋を入れ、蓋を閉じ、手の届き方を確かめた。
枕の下へ戻す必要は、なくなったらしかった。
◆
五日目の朝、鬼太郎は治療所の裏庭まで歩いた。
戸口へ手をつかずに戻ると、女が椅子を示した。鬼太郎は座って呼吸が落ち着くのを待つ。
「移る場所は、本当にあるんだね」
「ええ。今日の昼には、鍵も届きます」
「薬は持たせる。飲む量は、この線まで。勝手に増やすな。走るな、重い荷を持つな。魔法を試すなら、せめて座って済む弱いものだけだ」
瓶へつけた印を見せられ、鬼太郎は受け取った。
「治療と、働けるようになることは別、ということですね」
「分かってるなら、次に来たときも言わせないでおくれ」
鬼太郎は返事をして、隣のキーノを見た。彼女は瓶の印より、栓と口の縁を確かめている。
今朝の分を自分で飲み、残りを服と一緒に包んだ。
治療所の使いには、前日から部屋の手配を頼んでいた。以前の個室がある建物の同じ階に、空き部屋が一つあった。一月分を先に払い、錠を替えさせた。鍵を家主に残さない条件も伝えてある。
話を聞いたキーノは、荷をまとめる手を止めた。
「お前と同じ部屋じゃないのか」
「寝台が一つしかありません」
「床もあるだろ」
「僕は、今は床で眠りたくないですね」
「私でもいい」
鬼太郎はキーノへ向き直った。
「一人になりたいときも、僕が出ていくのを待つことになりますよ」
「出ろと言えばいい」
「ですから、最初から別にしました。話があれば、廊下を渡れば済みます」
キーノは自分の荷を見た。服の包みが一つと、薬の瓶。古い舞台衣装は、その下へ重ねてある。
「嫌なら、そっちを出てもいいんだな」
「もちろんです。僕の部屋を調べてから決めても構いませんが、寝台は増えませんよ」
「部屋の話だ」
「部屋からは、いつでも出られます」
キーノは包みを持ち上げた。
外には、治療所が呼んだ幌つきの馬車が待っていた。帳簿と金は蓋のある箱へまとめ、鬼太郎の足元へ置いてもらった。銃はホルスターへ戻したが、抜いて確かめることはしなかった。
車輪の音を聞いているうちに、右脇腹の奥が少し重くなる。鬼太郎は座り直し、窓布の隙間へ目をやった。
サーシェスは来なかった。
どこへ仕事に行ったのかも、聞いていない。頼めば運搬を受けたかもしれないが、いま運ぶためだけに狙撃のできる傭兵を呼ぶ理由はなかった。
馬車は古い煉瓦造りの建物の前へ止まった。
キーノは降りると、入口より先に、路地の奥を見た。
「裏にも階段があります」
鬼太郎が伝える。
「表が通れなければ、台所の脇から」
キーノはそちらへ目を向け、窓の数を数え直した。それから鬼太郎より先に、建物へ入った。
階段を上がる途中では、二人とも一度休んだ。どちらが先に止まったかを、キーノは言わなかった。
◆
部屋には、寝台と机と椅子が一つずつあった。
鬼太郎は開いた扉の外へ立ち、キーノが寝台の下を確かめるのを待った。窓の留め具を動かし、暖炉を覗き、机の引き出しを全部抜く。
御者が運んだ荷は、廊下へ置いてもらった。
「お前、入らないのか」
「まだ見ている途中かと思いまして」
「勝手に見てろ」
鬼太郎が鍵を差し出すと、キーノは手を止めた。
「二本か」
「両方とも、こちらにあります」
「家主は?」
「持っていません。錠を替えるときに、そう頼みました」
キーノは二本を見比べた。一本を取り、机へ置いてから、もう一本を鬼太郎の方へ押す。
「預かれ」
「よろしいのですか」
「二本とも落としたら、使えない」
「分かりました」
鬼太郎は預かった鍵を、自分の部屋のものと分けた。
「使うなら、先に私へ聞け」
「ええ。返事がなければ、また来ます」
「死んでたら?」
「その疑いがあれば、開けますよ」
「疑ったと言えば、いつでも開けられるな」
鬼太郎は廊下を見た。
「では、まず呼びます。物音も聞きます。それでも返事がなく、普段と違えば」
「勝手に、普段を決めるなよ」
「少しずつ覚えることにします」
キーノは机の鍵を取った。扉を閉め、内側のつまみを回す。すぐに開け直し、もう一度動かした。
「これなら、自分で出られる」
誰へともなく言った後、鬼太郎へ顔を向ける。
「入っていい」
鬼太郎は廊下の荷を指した。
「重い方は、先ほどの御者に。僕は今、それを持つなと言われていますので」
「役に立たないな」
「部屋を用意するところまでは、働きましたよ」
キーノは言い返さず、自分の包みを先に持ち込んだ。
御者が荷を置いて去ると、鬼太郎は水差しと食料、石鹸と布の場所を伝えた。キーノは服を寝台へ載せ、瓶は机の隅へ並べる。古い衣装も包み直し、捨てずに椅子の下へ置いた。
「あと、本」
荷を見終わってから、キーノが言った。
「魔法使いが読むやつだ。お前、持ってるだろ」
「あります。何を知りたいんですか」
「私にも使えるのか」
鬼太郎は、治療所で助手が彼女の歯を見たときの顔を思い出した。
「まだ、試したことは?」
「ない。あいつらは、自分で使おうとすると取り上げた」
キーノは服の上に置いた手を開いた。
「使えないって言われた。使わせもしなかったくせに」
鬼太郎は隣の自室の方へ目を向けた。そこには、使っていない杖があった。
「何も起こらないかもしれませんよ」
「だから、試すんだろ」
「ええ。僕も、きちんと練習したことはありません。一緒に試すことになります」
キーノの目が、鬼太郎の顔へ戻った。
「お前もか」
「杖で呪文を使う方は」
彼女は少し黙った。それから椅子を一脚、机から引いた。
「持ってこい」
◆
自室へ戻ると、鬼太郎は窓と錠を確かめた。
床板の下の父の書類には触れず、その場所が荒らされていないことだけを見る。預けていた荷にも、目立つ変化はなかった。
保管した杖は三本あった。
両親を襲った者の一本と、薬品倉庫で捕まえた二人のもの。ウォードの杖は治療所から戻った包みにあり、こちらは漏れ鍋の壁を開ける役に使っていた。
鬼太郎は三本を別々の布で包み、薄い入門書と一緒に持った。帳簿と手紙は自室にしまい、キーノの扉を叩く。
内側から鍵を回す音がした。
「遅い」
「廊下で一度、休みました」
「隠さないんだな」
「見れば分かりますからね」
椅子へ座ると、ようやく息が楽になった。鬼太郎は三本の杖を机へ並べ、本を開く。明かりを灯す項目の図を確かめてから、キーノの手へ目をやった。
「最初は、触れるだけにしてください。合わないかもしれません」
彼女は端の一本へ指を載せた。何も起こらない。持ち上げて握ってみても、杖先は暗いままだった。
二本目を取ったとき、眉が寄った。
「これ、嫌だ」
「どのように?」
「握り返されるみたいだ。手はないのに」
鬼太郎はその一本を脇へ置いた。
三本目へキーノが触れると、白い火花が一つ飛んだ。二人とも動きを止める。火花は机へ落ちる前に消えた。
「今のは」
「僕は何もしていません」
キーノは杖を置かず、指の位置を変えた。もう火花は出なかったが、嫌だとも言わなかった。
「それを、仮に使ってみましょう」
「呪文は」
「ルーモスです。ここに、動きがあります」
図を彼女の方へ向けると、キーノは手首と杖先を見比べた。鬼太郎は残る二本のうち、握ったときの抵抗が少ないものを取る。
「お前が先にやれ」
「失敗しても、明かりは消えませんよ。もともと点いていませんので」
「失敗する方へ、先に決めるな」
「それも、そうですね」
鬼太郎は図を見直し、杖を動かした。
「ルーモス」
何も起こらなかった。
キーノの口が開きかける。鬼太郎が二度目を試すと、乾いた音がした。
掌から腕へ、力を通す。炎を出すときとは違う流れへ意識を向け、もう一度、同じ言葉を唱えた。
針の先ほどの光が浮かび、すぐに消えた。
「弱いな」
「ええ」
鬼太郎は杖先を見た。炎も冷気も、こんなふうには途切れなかった。力を送っても、杖が十分に応えない。発音や動かし方が正しいかも、自分ではまだ判断しきれなかった。
別の一本に替えてみたが、こちらでは光さえ出なかった。
「壊れてるのか」
「それも考えましたが、いまのところは分かりません。僕に合わない可能性もあります」
「どうする」
「今日は、キーノさんの番にします」
鬼太郎は杖を置き、指を緩めた。大きな力を出したつもりはないのに、肩が疲れていた。
キーノは本を自分の方へ引いた。図の手を見て、杖を上げる。
「ルーモス」
一度目は、何もなかった。
二度目に火花が散り、彼女は手首を少し戻した。図と同じ位置で止めるよう、ゆっくり動かし直す。
「ルーモス」
白い光が灯った。
小さく揺れている。窓からの光に紛れそうだったが、キーノの指の上側を白く照らしていた。
鬼太郎は何も言わず、消えるまで見た。
キーノは杖を持ち直し、明かりのなくなった先端へ顔を近づける。
「出た」
「ええ。僕より長く続きました」
「私の方が上だな」
「いまは、そうですね」
キーノがこちらを見る。何か言い返すのを待っているようだった。
鬼太郎は本へ指を置いた。
「二度目の後に、手首を直しましたね。どこを変えたか、覚えておいてください」
「覚えてる」
「それなら、次に比べられます」
彼女は杖先を見直した。劇場で見せられていた杖の光とは、ずいぶん違った。小さく、音もなく、誰も倒れなかった。
キーノの手から、まだ杖は下がらない。
「もう一度――」
言いかけて、あくびを噛み殺した。
鬼太郎は本から手を離した。
「続きは、明日にしましょうか」
「本は置いていけ」
「分かりました」
立つときには、椅子へ手をついた。キーノは支えようとはせず、使わなかった二本の杖を布の方へ寄せた。
鬼太郎はそれを包み、戸口へ向かう。
「薬の量は、先ほどの印までですよ」
「それは覚えた。もう出ろ」
鬼太郎が敷居を越えると、扉が閉じた。
内側から、錠が動く。
手元には予備の鍵があった。鬼太郎はそれを使わず、自分の部屋へ戻った。
向こうの部屋では、キーノが杖を机へ置いていた。服の内側の袋を確かめ、本をその隣へ寄せる。寝台へ腰掛けても、扉は見えた。
鍵は、机の端に置いてある。
彼女は靴を脱ぎ、自分で毛布を引いた。