第三十七話 五つに分けた夜
廃税関倉庫の灯りが見えなくなるまで、誰も口を開かなかった。
先を歩く運び屋は、右脚を引きずっている。
石畳の継ぎ目に靴先を取られるたび、肩が大きく揺れた。それでも倒れず、自分の足で進んでいた。
鬼太郎は、その三歩後ろを歩く。
布で包んだ書類鞄は、背中へ固定したままだった。肩へ食い込む重さは変わらない。
封も、留め具も、倉庫を出たときのまま。
サーシェスは最後尾にいた。
狙撃銃には布を巻き、吊り帯で背へ回している。右手は空いていたが、上着の裾からリボルバーの握りが見えた。
三人とも、街灯の下は避けて進んだ。
「道はこっちで合ってるんだろうな」
サーシェスが運び屋へ言った。
「……川を離れたら、二つ目の橋を北だ」
「聞いた場所と同じです」
鬼太郎が答える。
引き渡し先は、依頼を受けた非正規両替所ではなかった。
川から離れた古い荷車置き場。その奥にある、看板を外した建物だった。
依頼人は鞄の保管場所と引き渡し場所を分けている。
倉庫を見張っていた者が逃げても、依頼人へ直接たどり着けないようにするためだろう。
鬼太郎は一度、背後を見た。
追ってくる足音はない。
サーシェスも同じものを確かめていたが、視線は鬼太郎と重ならなかった。川へ戻る路地と、家並みの切れ目を順に見ている。
「止まってください」
鬼太郎が言った。
運び屋が足を止める。
サーシェスは理由を尋ねず、近くの壁際へ寄った。
前方の角から、二人分の話し声が近づいていた。
酔った男たちが路地へ入ってくる。
鬼太郎たちは、閉じた店の庇の下で待った。
男の一人が運び屋の腫れた顔を見たが、目を逸らした。子供と、銃を持つ男と、殴られた男が夜道に並んでいる理由を知りたくはないらしい。
二人の足音が遠ざかる。
「行けますか?」
鬼太郎が尋ねた。
「行くしかないだろ」
運び屋は吐き捨てた。
「そうですね。ここで動けなくなった場合、追加報酬として認められるところまでは運びます」
「親切だな」
「いいえ」
鬼太郎は微笑んだ。
「追加分より高くつくなら、置いていきます」
運び屋は返事をしなかった。
後ろで、サーシェスが低く笑った。
◆
看板を外した建物には、通りへ面した扉がなかった。
荷車置き場を抜け、崩れかけた煉瓦塀の内側へ回る。そこに、鉄板を張った狭い扉があった。
鬼太郎は扉を叩く前に、周囲を見た。
二階の窓は板で塞がれている。
屋根の端にも、人影はない。
サーシェスは荷車の陰に立ち、来た道を見張った。
鬼太郎が、指定された間隔で扉を叩く。
三度。
少し置いて、二度。
覗き窓が開いた。
中から片目だけが現れる。
「荷は」
「ここに」
鬼太郎は背を向けなかった。
代わりに、肩越しに布で包んだ鞄を見せる。
「余分が一つあります」
運び屋が顔を上げた。
覗き窓の目が、その腫れた顔を確かめる。
窓が閉じた。
内側で、二つの錠が外れる音がした。
「入れ」
扉を開けた男は、片手に杖を持っていた。
先に運び屋を通し、鬼太郎を見る。
「鞄を渡せ」
「確認する方の前で渡します」
「俺が確認する」
「あなたが依頼人側の確認役だと、僕は聞いていません」
男の眉が動く。
「ここまで来て、持ち逃げを心配してんのか?」
「持ち逃げだけではありません。ここで僕から受け取ったあと、封が壊れていると言われる可能性もあります」
鬼太郎は男の杖を見た。
「誰の手に渡ったときまで無傷だったのか、はっきりさせておきたいのです」
男は何か言いかけた。
「坊主の言う通りだ」
荷車の陰から、サーシェスが言う。
「受け取るなら、金を持ってる奴の目の前で受け取れ。あとで揉めると、俺の取り分まで遅れる」
男は二人を見比べ、扉を広く開けた。
「銃は抜くな」
「そっちが杖を振らなけりゃな」
サーシェスは狙撃銃を背負ったまま中へ入った。
◆
建物の中は、使われなくなった荷車の修理場だった。
壁には空の工具掛けが残り、床の中央には油染みが黒く広がっている。
奥の机に、三人の男がいた。
一人は、廃税関倉庫の仕事を持ってきた仲介人だった。
その横に、灰色の外套を着た痩せた男が座っている。机の端には杖を置き、手袋をした両手を重ねていた。
もう一人は扉の近くへ立ち、入ってきた三人を順に見た。
仲介人の視線が、鬼太郎の背から運び屋へ移る。
「生きていたか」
「見れば分かるだろ」
運び屋が答えた。
「歩ける程度にはな」
「本人であることを確認してください」
鬼太郎が言う。
「鞄とは別の追加報酬です」
灰色の外套の男が、初めて顔を上げた。
「名前を」
運び屋が名を答える。
鬼太郎の知らない名前だった。
「誰から荷を受けた」
次の問いに、運び屋は場所と時刻を答えた。
「鞄の封は」
「受け取ったときから赤だ。蝋の中に横向きの鍵が一つ。留め具は二つとも真鍮」
灰色の外套の男は、仲介人へ目を向けた。
仲介人が一度うなずく。
「本人だ。生存も確認した」
「では、追加報酬の条件は満たしましたね」
「ひどく痛めつけられている」
外套の男が言った。
「契約は無傷で連れ帰れ、でしたか?」
鬼太郎は尋ねた。
仲介人が、机に置かれた契約の控えを開く。
「生存した状態で引き渡す。自力で歩ける必要はない。負傷の有無も条件に入っていない」
「俺は歩いてきたぞ」
運び屋が机へ手をつく。
「だったら、さっさと払え」
外套の男は運び屋の顔をしばらく見たあと、手袋の指を解いた。
「認めよう」
鬼太郎はそれ以上、運び屋を見なかった。
追加報酬は確定した。
「次は鞄です」
鬼太郎は机から二歩離れた場所で止まった。
右手で布の結び目を解く。
鞄を床へ置かず、両手で支えたまま布だけを外した。
革の表面に、新しい裂け目はない。
二つの真鍮の留め具は閉じている。
赤い封蝋も残っていた。
外套の男が立ち上がる。
杖ではなく、細い金属の棒を取り出した。
「触れます」
鬼太郎が言う。
「待て」
外套の男は、金属棒の先で封蝋の縁をなぞった。
棒に光も変色も起きない。
次に、横向きの鍵をかたどった印を覗き込む。
鞄の側面、底、二つの留め具を順に調べた。
「封は本物だ。継ぎ目もない。留め具に開けた跡もない」
「中身を確認しますか?」
「ここでは開けない」
「では、封を保った状態で受け取ったと確認してください」
外套の男が、仲介人を見る。
「確認した」
仲介人が答えた。
「封、留め具ともに無傷。回収条件を満たしている」
鬼太郎は、そこで初めて鞄を机へ置いた。
外套の男の両手が取っ手へ掛かる。
鬼太郎は手を離した。
背中から、重さが消える。
依頼品が何であったのかは、最後まで分からなかった。
知ることは、契約に含まれていない。
◆
仲介人は、机の下から二つの箱を出した。
一つは基本報酬。
もう一つは、生存していた運び屋への追加報酬だった。
どちらの箱にも、依頼を受けたときに決めた額が入っている。
鬼太郎は数を確認した。
仲介人が、基本報酬を五つの同じ高さへ分ける。
秤へ載せ、差が出た分を一枚ずつ移す。
三つが鬼太郎の前へ。
二つがサーシェスの前へ置かれた。
次に、追加報酬も同じように五つへ分けられる。
「運び屋を連れ出したのは坊主だ」
サーシェスが言った。
取り分を譲る声ではなかった。
契約の分け方を、鬼太郎が自分に有利な方へ変えるか見ている。
仲介人の手が止まる。
「分け方を変えるのか?」
「変えません」
鬼太郎が先に答えた。
サーシェスを見る。
「追加報酬を含め、五分の三と五分の二です」
「俺は縄を解いてねえぞ」
「あなたが川側を塞いでいたので、連れ出す時間がありました」
「律儀だな」
「契約どおりです」
サーシェスは、鬼太郎の前に置かれた三つへ手を伸ばさなかった。
「なら、二つはもらう」
仲介人が追加報酬を分け終える。
鬼太郎は自分の六つの山を、基本報酬と追加報酬に分けたまま数え直した。
サーシェスも、自分の四つを一度だけ数えた。
どちらも、相手の分へは触れない。
「倉庫に残った二人は?」
仲介人が尋ねた。
「一人は右手首を撃ち、階段の支柱へ縛りました。もう一人は壁へ叩きつけられて意識を失っていました」
鬼太郎が答える。
「杖は?」
「手の届かない場所へ移しました。持ち帰ってはいません」
「死体は四つだ」
サーシェスが言った。
「俺が三つ。坊主が一つ」
外套の男の目が、鬼太郎へ向く。
六歳の子供の身体と、右脇の上着の膨らみを見比べる。
「倉庫の正面には防護があったはずだ」
「ありました」
「どうやって破った」
「破っていません」
鬼太郎は答えた。
「別の場所から入りました」
「どこからだ」
「それを報告する契約でしたか?」
外套の男が口を閉じる。
仲介人は、鬼太郎の言葉を訂正しなかった。
侵入方法は、次の仕事にも使える。
報酬に含まれていない情報まで渡す必要はない。
「敵の杖も、所持品も取らなかったそうだな」
「取得を認められていませんでしたから」
「聞けば認めたかもしれない」
「そのために鞄を背負ったまま残る方が、高くつきます」
外套の男は鞄の取っ手から手を離した。
「噂より慎重だ」
「どの噂でしょう」
「呪いの中を歩き、杖も使わず工場を焼き、盾を銃で破った子供がいる」
鬼太郎は微笑んだ。
「ずいぶん強そうですね」
否定はしなかった。
正しい手順を知らない者は、間違った対策を用意する。
その噂が報酬を上げるなら、なおさら訂正する理由はない。
サーシェスが、喉の奥で笑った。
「盾を正面から撃ち抜けるなら、俺も見てみてえな」
「今回は見られませんでしたね」
「次があるなら、派手に頼むぜ」
「報酬次第です」
仲介人は二人の前へ、空の革袋を置いた。
鬼太郎は自分の取り分を入れる。
袋は重くなったが、先ほどまで背負っていた鞄よりは小さい。
サーシェスも報酬をまとめ、上着の内側へ収めた。
五つに分けた仕事は、契約どおりに終わった。
◆
荷車置き場を出るころには、夜が薄くなり始めていた。
運び屋は建物の中へ残った。
依頼人がその傷を治すのか、口を塞ぐのか、別の場所へ移すのか。鬼太郎の仕事ではない。
通りへ出る前に、サーシェスが足を止めた。
「俺は西へ行く」
「僕は南です」
「知ってる。ついてきたら撃つところだった」
「同じことを考えていました」
サーシェスは歯を見せた。
「今回の坊主は、三つ分より少しは働いたな」
「あなたも、二つ分は働きました」
「褒め方が相変わらずだ」
「評価を変える必要がありませんので」
鬼太郎は答えた。
正確には、少しだけ違っていた。
サーシェスは、決めた場所へ留まり続けるだけの狙撃手ではない。
倉庫の灯りが消えれば位置を変え、対岸を警戒した敵の盾の外へ回った。自分の役割を捨てず、その役割を果たせる場所を選び直した。
報酬を払って使う価値はある。
だが、それだけだった。
一度うまく働いた傭兵が、次も同じように動くとは限らない。
鬼太郎は、男の名前も過去も尋ねなかった。
サーシェスも、鬼太郎の本名や寝床を聞かなかった。
「また人数の足りねえ仕事が出たら呼べ」
サーシェスが言う。
「条件が合えば」
「死にそうな仕事なら、なおいい」
「僕の取り分が増える条件なら、考えます」
「可愛げのねえ坊主だ」
笑いながら、サーシェスは西へ歩き出した。
鬼太郎は見送らない。
南へ向かって歩き始める。
同じ仕事を五つに分けても、帰る道まで同じになるわけではなかった。
◆
個室へ戻ると、鬼太郎は扉の錠を掛けた。
報酬を床板の下へ収める前に、もう一度数える。
不足はない。
上着を脱ぎ、〈シュライク〉を机へ置いた。
弾倉を外す。
薬室を確かめる。
廃税関倉庫で使ったのは三発。
階段の金具。
男の右手首。
中心人物の側頭部。
銃身と薬室を清掃し、残った弾を点検する。異常はない。
予備から三発を補った。
布で包んでいた鞄の革粉が、肩と背へわずかに残っている。
濡らした布で拭き、服の縫い目も確かめた。
新しい傷はない。
プリンパを一度使ったあとの頭痛もなかった。
鬼太郎は寝台へ横になる。
目を閉じる前に思い出したのは、鞄の中身ではない。
暗くなった窓を捨て、別の射線を引いた男の動きだった。
次も同じように動くのか。
それを知るには、もう一度、金を払って組めばいい。
ただし、次である必要はなかった。
◆
三日後。
鬼太郎は非正規両替所の奥で、あの仲介人と向かい合っていた。
〈シュライク〉は清掃済み。
使った三発も補充してある。
身体に、任務を妨げる痛みはない。
仲介人が椅子へ座るよう促したが、鬼太郎は立ったままだった。
「休むかと思っていた」
「三日休みました」
「あの傭兵は一緒ではないのか」
「今回は、一人でできる仕事をください」
仲介人は、机の引き出しへ手を掛けた。
「選べるほどあると思っているのか?」
「一件もないのであれば、そう言ってくだされば帰ります」
しばらく、返事はなかった。
やがて仲介人は笑い、引き出しから数枚の紙を出した。
一枚ではなかった。
「名前が売れると、仕事が増える」
紙を机へ並べる。
「同時に、お前の名前を聞くだけで嫌な顔をする連中も増える」
「報酬を払う方が増えるのであれば、どちらでも構いません」
鬼太郎は、並んだ依頼書へ目を落とした。
名前は、金になる。
敵意もまた、次の仕事を連れてくる。