第37話 最初に聞く相手
入門書には、昨日の先があった。
キーノは窓から入る明かりへ頁を傾け、隣の図を指した。杖を持つ手は同じなのに、先端へ描かれていた白い印が消えている。
「これは、消すやつか」
「ええ。ノックスと書かれています」
「どうやる」
鬼太郎は文字の行へ視線を移した。動きを説明する言葉を読み、分からない単語の前で止まる。自室へ辞書を取りに戻ると、キーノはその間も本を見ていた。
「ここが分からなかったんです。止める位置についての説明でした」
「字は読めるんだろ」
「知らない言葉は、読めても意味が分かりません」
キーノは辞書の細かい文字を見下ろした。
「それにも、分からない字があったら?」
「ほかの説明を探すか、人に聞きます」
「面倒だな」
「昨日の図の下は、読めますか」
キーノの指が、開いた頁の端で止まった。
「明かりの出し方だ」
「何が書いてあるか、という意味です」
「読めたら、お前に聞いてない」
鬼太郎は本を閉じず、机の空いた所へ紙を置いた。キーノがペンを見る。
「魔法は、後か」
「両方にしましょう。僕がいないと、次の頁へ進めないのは不便でしょうから」
「お前も、分からない所があった」
「ですから、一緒に覚えます。僕より早く読めるようになっていただけると、助かりますね」
キーノはすぐにはペンを取らなかった。机の上には自分で選んだ杖と、借りた本がある。鬼太郎はその間へ、文字の見本を書き始めた。
「数字は分かりますか」
「舞台の順番にあったやつなら。数も数えられる」
「名前は?」
「私のは分かる。形を知ってるだけだ」
鬼太郎は紙へ、自分の名ではなく彼女の名を書いた。キーノの指が、その上を辿る。
「これだ」
「ほかに、読めるようになりたいものはありますか」
キーノは窓の外へ顔を向けた。路地を挟んだ店に、木の札が下がっていた。
「出口。危険。毒」
鬼太郎が書くのを見て、もう一つ加える。
「値段。それから時間」
「今持っているお金も、確かめられますね」
「金は読めないと使えないのか」
「相手に聞いて、言われるまま払うことはできますよ」
キーノが内ポケットへ手を入れた。
「それは、嫌だ」
袋を開き、硬貨を机へ並べる。鬼太郎は紙へ一枚ずつ輪郭を写し、印と価値をその下へ書いた。
キーノは大きな硬貨を選んだが、鬼太郎が取り上げたのは、それより小さいものだった。
「こっちの方が高いのか」
「同じ金属で、同じ場所のお金とは限りませんから」
紙の端へパンと水差しの絵を描くと、キーノはようやくペンを取った。硬貨の下の数字を書き写し、途中で見本を隠す。
一つは書けた。次は、向きが逆になった。
「似すぎだ」
「僕も、最初は間違えました」
「今も?」
「間違えないよう、受け取る前に見直しています」
キーノは逆に書いた数字を指で擦った。インクが広がる。
鬼太郎は布を渡し、紙の別の所を示した。書き直す間、向こうからは、しばらくペンを走らせる音だけがした。
◆
三日後、二人は近所の食料品店へ出かけた。
鬼太郎は階段の途中で一度足を止めた。廊下で息を整えてから、また下りる。前を歩くキーノは振り返ったが、急げとは言わなかった。
店先には丸パンと干した肉が並び、値段を書いた札が出ていた。
キーノは紙で見た数字を探した。指を出しかけ、引っ込める。
「これで、一つか」
「ええ。二つなら?」
彼女が答えた額へ、鬼太郎は二人の食料を買うための硬貨を渡した。
「僕も隣にいます。やってみますか」
キーノは返事の代わりに店へ入った。
注文する声は、部屋にいるときより短かった。パンを二つ、干し肉を小さな包み一つ。店主が合計を告げると、手元で二度数えてから払う。
釣りが掌へ落ちた。
キーノは店主が次の客へ向く前に、硬貨を台へ置いた。
「足りない」
「何がだい」
彼女は札と品物を順に指す。最後に払った額を言い、釣りを一枚ずつ並べた。
店主は台の上を数え直した。鬼太郎も同じ数を確認したが、口は挟まなかった。
「悪かった。もう一枚だ」
小さな硬貨が足される。
キーノはそれを受け取り、残りと合わせて袋へ戻した。店を出てから、ようやく鬼太郎を見た。
「わざとか?」
「分かりません」
「お前は見てただろ」
「間違えた所は見ました。そうしようと思ったかまでは、見えませんでした」
キーノは食料の包みを持ち直した。
「次も見ればいいんだな」
「ええ。店を離れる前に」
鬼太郎が歩き出すと、彼女もついてきた。今日は、代金を払うために自分の報酬袋を出す必要はなかった。それでも、足りない一枚は自分で見つけた。
部屋へ戻ると、キーノは買った品物を机へ置いた。
「次は、一人でもできる」
「道と品物が同じなら、そうでしょうね」
「違っても、札を読めばいい」
「読める言葉を、増やしましょうか」
キーノは昨日の紙を探し始めた。
◆
光を消す練習は、買い物の後にした。
ルーモスは、毎回ではないが灯るようになっていた。キーノがその明かりを見ながらノックスを唱えても、最初の二度は消えない。三度目に杖先を止めると、白い点がなくなった。
「今の所だ」
キーノが本の図を指した。
「止めるのが、先か」
「同じように試せますか」
やり直すと、今度はルーモスの方が失敗した。キーノは舌打ちして、本へ目を戻す。
鬼太郎も別の椅子で杖を試した。針先ほどの光は出る。それ以上続かず、二本を替えても、どちらがよいのか判断できるほど揃った結果にはならなかった。
紙へ杖を分けて記録し、今日はそこまでにした。
その後の数日は、文字と魔法の両方に使った。キーノが眠いと言えば本を閉じ、同じ字を書きたくないと言えば、品物の札へ替えた。食事はいつもどおり届いた。断った分を働けと言うこともなかった。
短い言葉を読めるようになった頃、鬼太郎はサーシェスへ宛てた伝言を書いた。
以前から仕事を取り次ぐ仲介人に渡し、返事もそこへ届けさせる。二人がいる建物の場所は書かなかった。
「ここへ呼ばないのか」
キーノが尋ねた。
「相談は、仲介人の貸し部屋でできます」
「私は、ここを知ってる」
「住んでいますからね」
「あいつは、まだ別か」
「ええ。何を頼むかも、決まっていません」
返事が届いたのは夕方だった。鬼太郎が開く横で、キーノは紙へ目を寄せた。
「明日。ここは……昼か?」
「正午です。場所は、こちらが指定した所でよいそうです」
キーノは時刻の数字へ指を置いた。
「私も行く」
「何か、お話が?」
「お前が、あいつに何を約束させるか聞く」
鬼太郎は紙を折る手を止めた。
「キーノさんとの約束とは、別になりますよ」
「だから聞くんだ。私には言わなかったことを、あいつには言うかもしれない」
「それは、あるでしょうね」
「なら、なおさらだ」
鬼太郎は同席を断らなかった。返事の紙をもう一度広げ、翌日の時刻を彼女と確かめた。
◆
酒場の二階へ着いたとき、約束の時刻には少し早かった。
サーシェスは既に座っていた。長銃はなく、机には革手袋が置いてある。仲介人が紙束を揃える間に、鬼太郎は椅子を引いた。
「立って来たか、坊主」
「階段では、一度休みました」
「そこは黙ってりゃ分からねえぞ」
「途中で休憩をお願いするかもしれませんので」
サーシェスは笑い、キーノへ目を向けた。彼女は机の短辺へ座った。鬼太郎と男の顔が、どちらも見える位置だった。
「小娘も買う話に口を出すのか」
「買われる気なのか」
「値段によるな」
鬼太郎は二人の間へ、一枚の紙を置いた。
「欲しいのは、次の仕事を選ぶ前に、僕の条件を聞いていただくことです」
サーシェスが一行を読んだ。
「専属にする金は、ねえってことか」
「その必要もありません。僕が頼む仕事のない間まで、何もしないでいていただくつもりはありませんから」
「それで、誰より先に呼びたい?」
「ええ」
「今までも呼べてただろ」
鬼太郎は紙の端を押さえた。
劇場で格子が上がったとき、巻上機の所にいたのはこの男だった。こちらが倒れた後にも、頼んだ二つを持ち帰った。次も同じ働きを買えると思っていて、別の依頼人に遠くへ連れていかれていては困る。
「知らない方を、仕事のたびに試すのは面倒なんです」
「俺を試すのは、終わったか?」
「十分に働いていただきました。僕が見ていない所でも、回収するものを忘れずに」
「褒めた分だけ、安くはならねえぞ」
「高くなる前に、条件へ戻りましょう」
サーシェスが机へ両肘を置いた。
最初に揉めたのは期間だった。鬼太郎が一年を出すと、男は長すぎると返した。前払いでも、一年分を先に渡すつもりはない。
「短くして、また決めればいいだろ」
キーノが言った。
「三か月くらいにしろ」
「お前の金じゃねえだろ、小娘」
「一年が嫌なら、そう言えばいい。長いって言ったのはあんただ」
鬼太郎は紙へ三か月と書いた。
「まず、それで。自動では延長せず、終わる前に相談しましょう」
「金は?」
継続して払う分は、一月ごとの前払いにした。仕事を頼まない月も払う。その代わり、サーシェスがまだ別の依頼を受けていなければ、鬼太郎からの話を先に聞く。
鬼太郎が額を出し、男が上げた。仲介人に最近の仕事の相場を言わせ、二人で書き直す。落ち着いたのは、中ほどの危険を伴う依頼一件分に近い額だった。
「既に仕事を受けてる時は、そっちが先だ」
サーシェスが念を押す。
「ええ。完了する予定と、次に連絡を受けられる時刻を知らせてください。待てなければ、ほかの方へ頼みます」
「それで文句なし、と」
「僕に呼ばれたら、ほかの約束を破る方へ、お金を払い続けたいとは思いませんよ」
サーシェスはその行を指で叩き、仲介人に書かせた。
返事は連絡を受けてから一日以内。すぐ話を聞けなければ、その理由を返す。急ぎの連絡には二本線の印をつけ、受け取れる状況なら早く返す代わりに、別の呼び出し料を払う。
「戦ってて受け取れなきゃ、違反か?」
「いいえ。連絡の届かない時まで、返事はできませんから」
「そいつだけで、毎回逃げられるぞ」
キーノが紙を覗いた。
「そういうことばかりなら、次の月は払いません」
サーシェスが声を上げて笑った。
「先に金を渡して、その間に見分けるのか」
「ええ。お互いに、続ける意味があるか分かるでしょう」
仕事を受けるかどうかは、その都度決める。継続報酬を受け取っていても、断った仕事に罰金はない。話を聞いた後は、報酬、危険、装備、期限を別に決める。
これまでの三対二を、全部の依頼に当てはめることもしない。
「俺が一人で行くなら、俺の値段だ」
「もちろんです。指定の装備をお願いするなら、必要な費用もこちらで」
「途中で弾も足も増えたら?」
「理由を伺って精算します。受けた仕事での負傷は、治療費も僕が持ちます」
サーシェスの笑いが止まった。
「死んだら、どこへ払う」
「指定する方は、いますか」
「いねえ」
鬼太郎は仲介人へ、空欄にしておくよう頼んだ。
「後で決めたくなれば、加えましょう」
「死体は?」
「回収できるなら、その時に――」
「燃やせ。できなきゃ置いてけ。売るなよ」
鬼太郎が返事をすると、サーシェスはもう一度紙を見た。キーノもその行へ目を落とし、読める単語を探していた。
男が彼女の方へ顎を向ける。
「こいつの仕事も、お前が決めるのか」
「私のことは、私に聞け」
「この契約には、含めません」
鬼太郎は答え、次の行へ指を置いた。
「ただし、今の条件で同行しているキーノさんを狙う依頼は、受けないでください。僕の居場所や仕事を売ることもです」
「受けたら?」
「その後は、仕事を頼む相手としては扱えませんね」
「敵になるって言えよ」
サーシェスは、楽しそうだった。
「こっちにも同じ条件だ。俺の寝床を売るな。受けた仕事の途中で、勝手に条件を変えるな」
「ええ」
「私が先に噛んだら?」
キーノが尋ねると、男は即座に撃つと答えた。
「自衛を禁じるつもりはありません。どちらが先に何をしたかは、確かめます」
鬼太郎が言うと、キーノは眉を寄せた。
「私だけ、守られるんじゃないのか」
「理由なくサーシェスさんを襲うことまで、許す約束はしていませんよ」
「こいつが、先に約束を破ったら」
「もちろん、逆も同じです」
キーノは少し考え、男から紙へ視線を移した。
「じゃあ、それも書け」
◆
仲介人が契約書を二通に書き直す間、鬼太郎は椅子の背へ身体を預けた。
水を飲み、足を少し伸ばす。サーシェスは急かさず、できた一枚を先に読んでいた。
支払いがなければ、その時点で継続は終わる。次の月の金を受け取らない自由も、サーシェス側に残した。どちらからでも途中で終了を申し出られるが、受けた仕事は完了するか、引継ぎと精算を相談する。既に払った月の継続報酬は返さない。同じ月に契約を結び直しても、二度は払わない。
「何度も取りに来ると思ったのか」
サーシェスが最後の条項を見て言った。
「穴を見つけたら、使いそうでしたので」
「よく分かってるじゃねえか」
鬼太郎は二通を並べ、声に出して読み始めた。キーノは知っている数字を指で追い、途中で止める。
「そこ、もう一度」
「断った仕事については、損害も罰金も請求しない、という行です」
「説明じゃなく、書いてある方を読め」
鬼太郎は同じ行を読み直した。キーノの指が、拒否を示す短い言葉で止まった。
「これか」
「ええ」
「覚えておく」
サーシェスは、口を挟まなかった。
互いの居場所と仕事を売らないこと、個別の報酬と費用、終了時の扱いまで確認し終えると、仲介人が印を入れた。本名ではなく、仕事上の番号と呼称で二人が署名する。
鬼太郎は一月分の革袋を机へ置いた。仲介人に数えてもらい、サーシェスも自分で確かめてから受け取った。
「今、俺に頼む仕事は?」
「ありません」
「何もしねえうちに、金だけもらったな」
「次に長い仕事を受ける前に、僕の話を聞いていただければ」
「聞いて、断るかもしれねえぞ」
「それは、提示した内容によりますね」
サーシェスは袋をしまい、契約書を別のポケットへ入れた。
「つまらねえ話ばかり持ってくるなよ、坊主」
「値段を聞く前に、断らないでくださいね」
男は笑って立ち上がった。キーノの脇を通るとき、上着へ隠した仮杖を見た。
「光るようにはなったのか、小娘」
「消す方も、できた」
「そりゃ大したもんだ。今度は、消した後に逃げ道を見失うなよ」
「あんたは、暗くても見えるのか」
「見えるうちに覚えるんだよ」
サーシェスは返事を待たずに部屋を出た。
鬼太郎は契約書を畳んだ。男の行き先を尋ねる必要はなかった。仕事は頼んでいない。今夜何をするかも、買ったものには入っていない。
キーノが、先ほど指で押さえていた行を見た。
「あいつにも、断らせるんだな」
「受けていない仕事ですから」
「全部断ったら、お前が損する」
「ええ。そのときは、続ける理由がなくなります」
鬼太郎は紙を上着へしまった。三か月の間に使い道があるかは、これからだった。それでも、別の依頼人の後に並ぶだけだった昨日よりはよい。
階段を下りるとき、キーノが一段下で立ち止まった。
「さっきの字、帰ったら書け」
「断る、の方ですか」
「その横もだ。罰金を取らないって所」
「分かりました」
鬼太郎は手すりへ手を置き、彼女が歩き始めるのを待った。
酒場の外では、サーシェスの姿はもう見えなかった。