第三十八話 名前には、値段と敵がつく
仲介人が机へ並べた依頼書は、四枚あった。
鬼太郎は、近いものから読んだ。
一枚目は、逃げた運び手の捜索。
二枚目は、魔法薬の材料を横流しした者から、取引帳簿を回収する仕事。
三枚目は、持ち主の変わった銀時計を取り戻す仕事。
四枚目は護衛だったが、依頼人も目的地も伏せられている。
「二枚目を」
鬼太郎は帳簿回収の紙を取った。
「報酬が一番高いものではないぞ」
「一番、条件がはっきりしています」
帳簿は黒い革表紙。
中には材料の仕入れ先、量、横流し先が記録されている。回収期限は三日。頁が欠けていれば減額。焼失した場合は失敗。持ち逃げした元在庫係は、生死を問わない。
「材料そのものは?」
「回収対象ではない。残っていた分を持ち帰れば、別に払うそうだ」
「帳簿を持っている場所は」
「分かっていれば、お前に探させん」
「元在庫係の名前、最後に見た場所、取引相手、よく使う店を教えてください」
仲介人は、別の紙を引き出した。
以前なら、鬼太郎が尋ねるまで伏せていた情報だった。
今は、最初から用意している。
鬼太郎は紙を受け取り、知らない隠語を二つ確認した。
署名はしない。
偽名も、本名も必要のない仕事だった。
◆
元在庫係は、三日間で二度、寝床を変えた。
最初の部屋には、着替えと空の瓶だけが残されていた。
二つ目の部屋では、床板の下から切り取られた帳簿の頁が一枚見つかった。
住所も名前も書かれていない。
だが、紙から甘い薬草の匂いがした。
元在庫係が働いていた店の匂いではない。
鬼太郎は近くの薬種店を三軒回った。
一軒目では知らないと言われた。
二軒目では、子供へ売るものはないと追い返された。
三軒目の主人は、紙を鼻へ近づけたあと、すぐに返した。
「洗濯屋で使う香り消しだ」
「薬草では?」
「薬草を煮た臭いを消すためのものだ。まともな洗濯屋は、こんな濃さで使わん」
鬼太郎は代金を置き、店を出た。
周辺の洗濯屋は二軒。
一軒は表通りにあり、夜まで客が出入りしていた。
もう一軒は、営業しているはずの昼間にも鎧戸を閉じている。
裏手には石炭を入れる低い口があった。
正面扉の枠には、細い銀糸が渡されている。
触れた者を知らせるものか、別の何かかは分からない。
鬼太郎は扉へ近づかなかった。
夜を待ち、石炭口の錆びた留め金へ布を巻く。
音を抑えながら金具を外した。
六歳の身体なら、肩を斜めにすれば通れる。
内側へ落ちる前に、暗い地下を見た。
石炭は積まれていない。
代わりに、木箱が六つ並んでいた。
箱の隙間から、乾燥した葉と瓶の口が見える。
横流しされた材料だった。
上階から話し声がする。
「明日の朝には帳簿を燃やす」
「先に写しを売れ。仕入れ先まで入ってる」
鬼太郎は地下を見回した。
階段は一つ。
その上に、閉じた扉がある。
扉を開ければ音が出る。
鬼太郎は木箱を一つ、階段の下まで動かした。
中の瓶同士が、かすかに触れ合う。
上の会話が止まった。
扉が開く。
杖先の光が階段を降りてきた。
「誰だ」
男が二段目へ足を置く。
鬼太郎は階段の横へ伏せていた。
男の杖が箱へ向く。
その手首へ〈シュライク〉を向けた。
一発。
杖が階段を跳ね落ちた。
男が叫ぶ前に、鬼太郎は立ち上がる。
二階から別の足音が近づいた。
元在庫係は、黒い革表紙の帳簿を抱えている。
鬼太郎を見ると、机のランプへ手を伸ばした。
帳簿を燃やすつもりだった。
二発目。
弾丸が、ランプへ伸びた右前腕を貫いた。
帳簿が床へ落ちる。
鬼太郎は先にそれを拾った。
表紙を確かめる。
切り取られた一頁以外は残っていた。
「欠けた頁はどこです?」
「知らねえ」
「一枚は、あなたの前の部屋にありました」
鬼太郎は銃口を、男のもう一方の腕へ移した。
「残りがあるなら、今のうちに教えてください。一頁ごとに、僕の報酬が減ります」
男は、壁際の洗濯籠を見た。
その視線だけで十分だった。
◆
帳簿は、切り取られた二頁を含めて依頼人へ渡った。
地下に残っていた材料にも追加報酬がついた。
元在庫係と、手首を撃たれた男は生き残った。
鬼太郎は殺害を求められていなかった。
追手になれない程度に負傷させれば、帳簿を持って帰るには足りた。
数日後、仲介人は新しい依頼書を三枚出した。
そのうち一枚には、依頼人からの追記があった。
――扉の防護を壊さずに入った子供を使え。
「壊さなかっただけです」
鬼太郎は言った。
「訂正するか?」
「いいえ」
正しい入口を知られない方がよい。
その依頼のあとには、銀の秤を取り戻した。
次は、支払いを持って逃げた運び手を生きたまま連れ戻した。
さらに、呪物商の使いが落とした封筒を、別の買い手へ渡る前に回収した。
仕事のたび、鬼太郎は条件を確認した。
必要なら撃った。
火を使えば回収品まで失う場所では、アギを使わなかった。
プリンパも、使えば何が起こるか制御できない場所では避けた。
報酬が入り、弾薬と食事と部屋代に変わる。
残りは床板の下へ増えていった。
薄かった上着が不要になり、雨を弾く外套が必要になったころ、仲介人は一枚の依頼書だけを机へ置いた。
「一人用ではない」
「何を運ぶのです?」
「封印された鉄箱だ。中身は知らなくていい。運搬車には依頼人の御者がつく」
「襲撃の見込みは」
「高い」
「相手の人数は」
「分からん」
「では、サーシェスにも話を」
鬼太郎は、少しも迷わず言った。
◆
雨の中で再会したサーシェスは、以前より短い銃を持っていた。
狙撃銃ではない。
肩へ当てる銃床と、両手で持てる短い銃身。腰にはリボルバー。上着の内側には煙を出す円筒が二本あった。
「今度は窓から撃つ仕事じゃねえ」
サーシェスが言った。
「箱と一緒に走れるものを選んだのですね」
「坊主も、前より話が早くなったじゃねえか」
「あなたが、同じ説明を二度必要としない程度には使えると分かりましたので」
「そりゃ光栄だ」
鉄箱は、屋根付きの小さな荷車へ固定されていた。
御者が一人。
鬼太郎は荷台。
サーシェスは御者台の脇へ座る。
箱の封は、黒い蝋と細い鎖でできている。開封は禁止。箱を荷車から外すのも、緊急時を除いて認められていなかった。
雨に濡れた街道を離れ、古い貨物路へ入る。
両側には使われなくなった倉庫が並んでいた。
道の中央に、壊れた荷車が横倒しになっている。
御者が馬を止めた。
「朝にはなかった」
サーシェスは、荷車ではなく倉庫の屋根を見た。
「止めるな。右へ寄せろ」
「通れない」
「止まってりゃ、もっと通れなくなる」
屋根の端で、何かが光った。
杖先だった。
鬼太郎は荷台から身を低くする。
赤い光が、直前まで頭のあった場所を通り過ぎた。
同時に、後ろの路地から三人が出てくる。
前の壊れた荷車の陰にも人影が立った。
前と後ろ。
予定していた道は塞がれた。
「坊主、箱を見ろ」
サーシェスは後方を向かなかった。
「後ろは?」
「見えなくする」
円筒が、荷車の後ろへ転がる。
白い煙が噴き出し、追手三人の姿を隠した。
杖から放たれた光が煙を裂くが、狙いは合っていない。
サーシェスは前へ短銃を向けた。
壊れた荷車の陰から出た男が、盾を作ろうと杖を上げる。
完成する前に、銃声が二つ続いた。
一発が肩へ。
もう一発が腿へ入った。
男が倒れ、杖先の光が消える。
「右の倉庫へ入れ!」
サーシェスが御者へ叫ぶ。
扉は半分開いている。
御者が馬を右へ向けた。
鬼太郎は、その扉を見た。
雨で濡れた地面に、車輪の跡がない。
今夜、開かれた扉ではない。
「そこは使われていません」
「だから入るんだよ」
サーシェスは御者台から降り、扉へ走った。
短銃を肩へ掛け、両手で重い扉をさらに開く。
荷車が倉庫へ入った。
「突き抜けろ。反対側にも扉がある」
倉庫の奥は暗い。
サーシェスが先へ走る。
鬼太郎は荷台で、鉄箱を固定した縄へ手を置いた。
煙を抜けた追手が、入口に現れる。
一人が盾を正面へ張っていた。
鬼太郎は撃たない。
代わりに、盾の外にある床へ左手を向けた。
「アギ」
炎が、積まれていた空の麻袋へ走る。
燃え上がった布が、追手と荷車の間へ崩れた。
男は盾を保ったまま足を止める。
その間に、奥の扉が開いた。
荷車は裏の細道へ抜ける。
サーシェスが最後に外へ出て、扉を閉めた。
「予定と違いますね」
鬼太郎が言う。
「予定どおり待ち伏せに突っ込みたかったか?」
「いいえ。この方がよいです」
後ろから、扉を破る音がする。
サーシェスは追手へ戻らなかった。
倒した者の武器も、所持品も取りに行かない。
御者へ次の道を指示し、自分は荷車の後ろへ移った。
鉄箱を届けるまでが仕事だった。
敵を全員殺すことではない。
◆
箱の封は、最後まで切れなかった。
依頼人は予定した場所と違う道から現れた荷車を見て、最初に箱を調べた。
御者の無事は、その後だった。
報酬は、契約どおり鬼太郎とサーシェスへ分けられた。
「追わなかったのですね」
別れる前、鬼太郎が言った。
「何をだ」
「煙を抜けてきた方々です。あなたなら、もう二人ほど殺せたでしょう」
「箱を置いてか?」
サーシェスは笑った。
「殺しは好きだが、ただ働きは嫌いなんでね」
「なるほど」
「がっかりしたか、坊主」
「いいえ」
鬼太郎は男を見る。
「評価を上げました」
「そいつは、次の取り分に入るのか?」
「入りません」
「なら安い褒め言葉だ」
サーシェスは報酬袋を振り、雨の向こうへ消えた。
◆
雨が止み、外套の前を閉じなくても歩ける日が増えた。
鬼太郎の仕事も増えた。
一人で、古い時計塔から契約書を回収した。
サーシェスと組み、運河沿いの倉庫から二人の密輸商を追い出した。
別の夜には、屋根の上から取引場所を見張り、裏切った運び手だけを帰路で捕らえた。
サーシェスが別の依頼へ出ているときは、一人でできる仕事を選んだ。
鬼太郎が別の町へ行っている間、サーシェスも別の雇い主から金を受け取った。
二人は同じ部屋に住まない。
互いの予定を報告しない。
必要な仕事があり、条件が合ったときだけ同じ紙へ名前の代わりとなる印を残した。
それでも、三度目に組んだころには合図が減った。
鬼太郎が火を使えない場所では、サーシェスが先に別の退路を探した。
サーシェスが高い位置へ移れば、鬼太郎はその射線を横切らない道を選んだ。
説明したからではない。
同じ失敗をしなかっただけだ。
仲介人が差し出す紙から、簡単な依頼書なら辞書を使わず読めるようになった。
早口の隠語も、聞き返す回数が減った。
ただし、分からない契約文まで理解したふりはしない。
以前より長くなった袖が、数か月後には手首を出した。
鬼太郎は同じ色の大きい上着を買った。
〈シュライク〉の握りも、手の成長に合わせてわずかに調整した。
銃の名前は変わらない。
使える能力も増えなかった。
だが、同じ一発を撃つまでに見られるものは増えた。
店の扉を開けたとき、客が会話を止めるまでの速さ。
杖へ伸びる指。
自分を知らないふりをする者の視線。
自分の仕事で金を失った者が、どの出口へ近い席を選ぶか。
鬼太郎の名前を知る者は少ない。
それでも、炎と小さな拳銃を持つ外国人の子供を知らない者は減っていった。
◆
証人を生きたまま連れ戻す依頼が来たのは、最初の帳簿回収から半年以上が過ぎたころだった。
証人は、賭け金の帳面をつけていた男だった。
取り立て屋へ売られ、地下へ閉じ込められている。
依頼人が欲しいのは、男の証言。
死亡なら報酬なし。
ほかに捕らえられている者は、契約の対象ではない。
鬼太郎は、金を借りたい子供のふりをして建物へ入った。
受付にいた男は笑った。
「いくら要る」
「僕ではなく、父が困っています」
「親父はどこだ」
「外です。まず条件を聞いてこいと言われました」
男は、隣にいた若い見張りへ顎を向けた。
「裏で聞いてやる。来い」
鬼太郎は従った。
廊下の奥に、地下へ降りる扉がある。
見張りが鍵を開け、鬼太郎の肩へ手を置いた。
「親父が払えねえなら、お前が――」
鬼太郎は振り向いた。
「プリンパ」
見張りの目から、焦点が消える。
肩を掴んでいた手が離れた。
男は背後を振り返り、受付の男へ杖を向ける。
「近づくな」
「何してやがる」
「俺を売ったな」
会話は、それ以上続かなかった。
見張りの杖から赤い光が放たれる。
受付の男が机の陰へ飛び込んだ。
鬼太郎は、二人の間から外れた。
地下への扉を開け、階段を降りる。
鍵束は、混乱した見張りの腰から取っていた。
地下には鉄格子が四つあった。
三つに人がいる。
依頼書にあった男は、一番奥で壁へ寄りかかっていた。右手の指が腫れ、顔に乾いた血がついている。
「歩けますか?」
「誰だ」
「あなたを連れ戻すよう頼まれた者です」
鬼太郎は鍵を試した。
三本目が合った。
隣の格子から、女の声がした。
「私も出して」
鬼太郎は振り返る。
女のほかに、若い男もいた。
依頼書に二人のことは書かれていない。
「あなた方を連れ出した場合の報酬は、誰が払います?」
「何を言って――」
「いないのでしたら、ここで待っていてください」
証人の腕を取る。
男は自力で立てた。
階上で、机の割れる音がした。
プリンパがいつまで続くかは分からない。
鬼太郎は証人を先に歩かせた。
「お願い、鍵だけでも」
女が鉄格子を掴む。
鬼太郎は足を止めなかった。
鍵束を持ち帰ることも、契約に含まれていない。
だが、背後へ投げれば追手も使える。
鬼太郎は鍵束を階段の下に置かれた水桶へ落とした。
沈んだ場所は見える。
手を伸ばせば、格子の外にいる者なら拾える。
自分で格子の外へ出られない者には届かない。
それ以上はしなかった。
◆
階上へ戻ると、受付の男は床へ倒れていた。
混乱した見張りが、その胸へ杖を向けている。
鬼太郎と証人を見る。
敵味方を判断できない目だった。
杖先が動く。
鬼太郎は証人を壁際へ押し、〈シュライク〉を抜いた。
一発。
見張りの右肩へ当たる。
杖が落ちた。
男は倒れたが、意識はある。
「そこで休んでいてください」
鬼太郎は、床の杖を遠くへ蹴った。
証人を連れ、正面扉から出る。
外には、依頼人の用意した馬車が待っていた。
証人を乗せ、扉を閉じる。
御者が鞭を鳴らした。
鬼太郎は、追ってくる者がいないことを窓から確かめた。
女と若い男を残したことは、考えなかった。
生存した証人は、報酬になった。
ほかの二人は、ならなかった。
◆
その仕事のあと、噂が一つ増えた。
杖を持つ者を、言葉だけで狂わせる子供。
話が別の店へ渡るころには、目を見ただけで仲間同士を殺させることになった。
以前の噂も残っている。
呪いが効かない。
盾を銃で撃ち抜く。
杖なしで人を焼く。
一晩で十人殺した。
鬼太郎は、一つも訂正しなかった。
報酬は上がった。
同時に、依頼を断る者も現れた。
「あの子供が関わるなら降りる」
「依頼人の名前を先に出せ」
「受けるなら倍だ」
そんな返事が、仲介人のもとへ届いた。
ある呪物商は、鬼太郎が店へ入る前に戸を閉めた。
別の故買屋は、売る品がないと言いながら、上着の下で杖を握っていた。
路地ですれ違った男は、足元へ唾を吐いた。
鬼太郎は、どれにも腹を立てなかった。
扉を閉める店は使わない。
品を売らない者からは買わない。
唾は、自分の靴にかからなければ関係ない。
ただし、依頼へ必要な相手が同じ態度を取るなら、仕事の一部として処理する。
仲介人は、以前より厚い紙の依頼書を使うようになった。
危険、対象、取得権、追加報酬が最初から分けて書かれている。
子供だから省いてよいと考える者は、もうほとんどいなかった。
◆
最初の帳簿を回収してから、十一か月近くが過ぎた。
最後の大きな仕事は、閉鎖された地下競売所から黒い台帳を取り戻すことだった。
台帳と一緒に、封をした入場札の束も回収する。
競売所の持ち主は、夜明けまでに記録を焼くつもりだという。
相手は呪物商、故買屋、運び手、取り立て屋へ広く品を流していた。
鬼太郎がこれまでの仕事で損をさせた者も、その取引先に含まれている。
「人気者だな、坊主」
サーシェスは、地下競売所を見下ろす建物の屋根で笑った。
「あなたも知られ始めていますよ」
「子供の後ろで撃ってるスクイブ、だったか?」
「子供に使われている銃兵、という話も聞きました」
「そいつを言った奴は、まだ生きてるか?」
「確認していません」
競売所は、表から見れば古い酒蔵だった。
正面扉には灯りが二つ。
見張りが三人。
裏の搬入口は開いている。
仲介人が得た図では、そこが最も短い侵入路だった。
サーシェスは搬入口を見たまま、動かなかった。
「開きすぎだな」
「ええ」
雨は降っていない。
荷を運び出した跡もない。
それでも、扉は人一人が通れる幅で開いている。
暗い内側には、倒れた木箱が一つ見えた。
侵入者が隠れやすい位置だった。
「お前が裏から来るって、知ってる奴がいる」
「正面の防護を避けることは、もう噂になっていますから」
「なら、その噂どおりには入るな」
サーシェスは屋根の反対側へ移った。
酒蔵の隣には、使われなくなった製氷所がある。
二つの建物の地下は、古い排水路で近くまでつながっていた。
完全につながっている保証はない。
だが、開いた搬入口よりはましだった。
◆
排水路の格子は、半分が錆び落ちていた。
鬼太郎が先に入る。
サーシェスは外へ残った。
地下で何かが起きたとき、同じ罠へ二人で入らないためだった。
排水路は途中で煉瓦壁に塞がれている。
上を見ると、古い清掃口があった。
鬼太郎は壁へ足を掛け、蓋を押す。
一年前より伸びた身体は、以前より腕が長い。
それでも大人ほどの力はない。
両肩で押し、錆びた蓋を少しずつずらした。
冷たい床へ出る。
競売所の地下だった。
廊下の先に、明かりがある。
男が二人、黒い台帳から頁を外していた。
隣の炉には火が入っている。
「裏はまだか」
「音がしねえ。入ったら終わりだ」
搬入口には、やはり罠がある。
鬼太郎は廊下の陰から、室内を見る。
黒い台帳。
封をした入場札の束。
どちらも机の上にあった。
一人が外した頁を炉へ持っていく。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。
一発目は、頁を持つ右手へ。
二発目は、杖を抜こうとしたもう一人の左肩へ。
二人が床へ倒れる。
鬼太郎は室内へ入り、燃える前の頁を拾った。
台帳へ挟む。
頁の順番を確かめる時間はない。
入場札の束も鞄へ入れた。
そのとき、天井の奥から低い音がした。
石が擦れる音。
廊下の壁に、黒い線が浮かび上がる。
一本。
次に二本。
競売所全体へ広がっていく。
鬼太郎は、線へ触れなかった。
机の陰にいた男が笑った。
「持って帰れると思ったか」
建物を壊す仕掛けか。
中にいる者を閉じ込める防護か。
判断する情報がない。
鬼太郎は来た道へ戻る。
廊下の向こうから、三人分の足音が近づいていた。
排水路へ戻るには、その前を横切る必要がある。
別の階段は、正面側へ続いている。
鬼太郎は鞄を背へ回した。
足音が角へ近づく。
同時に、上階で銃声が三つ響いた。
足音が止まる。
続いて、窓ガラスの割れる音。
サーシェスが外から別の入口を作った。
「上だ!」
追手の一人が叫ぶ。
三人の注意が階段へ向く。
鬼太郎は廊下を横切り、清掃口へ滑り込んだ。
排水路へ降りる。
背後で煉瓦が割れた。
黒い線は床まで伸びている。
鬼太郎が格子を抜けると、サーシェスが製氷所の陰から手を振った。
「走れ、坊主!」
「追手が残っています」
「建物も残らねえ!」
酒蔵の屋根が沈んだ。
煉瓦壁に亀裂が走る。
正面から見張り二人が逃げ出した。
サーシェスは短銃を向ける。
撃てる距離だった。
だが、引き金を引かなかった。
代わりに、鬼太郎と崩れ始めた壁の間へ煙の円筒を投げる。
白い煙が広がる。
視界が切れた直後、酒蔵の側壁が外へ倒れた。
二人は製氷所の裏へ走る。
煉瓦と梁が、さきほどまでいた場所へ落ちた。
土埃が煙と混ざる。
「二人、逃がしましたね」
安全な路地まで離れてから、鬼太郎が言った。
「撃ってりゃ、瓦礫の下で一緒に死ねたぜ」
「それは困ります」
「報酬が減るからか?」
鬼太郎は答えなかった。
台帳はある。
入場札もある。
仕事は完了できる。
それでも、サーシェスが瓦礫の下で死ぬ場合を考えたとき、最初に浮かんだのは取り分ではなかった。
同じ動きができる者を、また探す手間。
説明を重ね、使えるか確かめる時間。
そして、別の雇い主のために、この男が失われることへの不快感だった。
◆
台帳と入場札は、欠けた頁を含めて依頼人へ渡った。
競売所を使っていた者たちは、記録を失った。
取引先の一部は名を知られ、別の者は前金を失い、用意していた品を売る場所を失った。
鬼太郎は台帳の中身を読んでいない。
それでも、その仕事で誰が損をしたかは、後から知ることになった。
呪物商。
故買屋。
人を運ぶ者。
珍しい生き物や、人に近い何かを扱う者。
護衛を請け負っていた傭兵。
これまで別々に鬼太郎を恨んでいた者たちが、同じ競売所の損失でつながった。
仲介人は、以前より多い報酬を机へ置いた。
「次から、お前を使いたい奴には、この額を基準にする」
「危険が増えた分ですか?」
「名を聞いただけで逃げる奴がいる。逆に、お前を殺すなら受けるという奴もいる」
「どちらも、仕事が早くなりますね」
仲介人は笑わなかった。
「お前の名前は知られていない」
「必要ありません」
「だが、何者かは知られている。炎を使う。小さな銃を持つ。呪いが効かない。盾を撃ち抜く。仲間を狂わせる。スクイブの銃兵と組むことがある」
「正しい話は、ほとんどありませんね」
「訂正するか?」
「いいえ」
鬼太郎は報酬を数えた。
初めてこの部屋へ来たころなら、同じ危険へ提示された額の何倍もある。
その一年の途中で、父の書類に記された誕生日も過ぎた。
鬼太郎は七歳になっている。
背丈は少し伸びた。
手も、〈シュライク〉を受け取ったころより大きい。
知らない単語は減った。
床板の下の金は増えた。
敵も増えた。
「あの傭兵は?」
仲介人が尋ねた。
「自分の取り分を持って帰りました」
「次も使うのか」
「そのつもりです」
「先に押さえておかないと、別の仕事へ行くぞ」
鬼太郎の指が、硬貨の上で止まった。
サーシェスは独立した傭兵だ。
条件のよい依頼があれば、誰の仕事でも受ける。
そこで死ぬ可能性もある。
鬼太郎と敵対する依頼を、先に受ける可能性さえあった。
これまでは、それで構わなかった。
使えるときだけ金を払い、役目が終われば別れる。
だが、一年近く、何度も仕事を見た。
射線を変える。
罠を読む。
殺しを楽しみながら、報酬を失う追撃は捨てる。
鬼太郎が説明しなくても、次に必要な位置へ動く。
代わりを探せばよいだけの傭兵ではなくなっていた。
他人の依頼で使われ続けるのは、気に入らない。
他人の判断で失われるのは、もっと気に入らない。
自分が必要なとき、必ず使える場所に置いておきたい。
それは友情ではなかった。
仲間と呼ぶには、まだ早い。
ただ、有能なものを自分の側へ置き、ほかの者に勝手に使わせたくないという欲だった。
「次に組む仕事で、もう一度確認します」
鬼太郎は硬貨を袋へ入れた。
「その後は?」
「条件を出します」
まずは傭兵として。
サーシェスが受け取る価値のある報酬と、断れば失う利益を並べる。
力ずくで縛るより、その方が長く使える。
鬼太郎は席を立った。
背後の机には、次の依頼書が残っている。
一年前は、仕事を選べることが値段の証だった。
今は、その紙を置いた者たちが、鬼太郎に選ばれる側になっていた。
名前に値段がつくたび、その裏には恨みが一つ増えた。
その恨みが同じ場所へ集まり始めていることを、鬼太郎はまだ知らなかった。