神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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名前には、値段と敵がつく

第三十八話 名前には、値段と敵がつく

 

 仲介人が机へ並べた依頼書は、四枚あった。

 

 鬼太郎は、近いものから読んだ。

 

 一枚目は、逃げた運び手の捜索。

 

 二枚目は、魔法薬の材料を横流しした者から、取引帳簿を回収する仕事。

 

 三枚目は、持ち主の変わった銀時計を取り戻す仕事。

 

 四枚目は護衛だったが、依頼人も目的地も伏せられている。

 

「二枚目を」

 

 鬼太郎は帳簿回収の紙を取った。

 

「報酬が一番高いものではないぞ」

 

「一番、条件がはっきりしています」

 

 帳簿は黒い革表紙。

 

 中には材料の仕入れ先、量、横流し先が記録されている。回収期限は三日。頁が欠けていれば減額。焼失した場合は失敗。持ち逃げした元在庫係は、生死を問わない。

 

「材料そのものは?」

 

「回収対象ではない。残っていた分を持ち帰れば、別に払うそうだ」

 

「帳簿を持っている場所は」

 

「分かっていれば、お前に探させん」

 

「元在庫係の名前、最後に見た場所、取引相手、よく使う店を教えてください」

 

 仲介人は、別の紙を引き出した。

 

 以前なら、鬼太郎が尋ねるまで伏せていた情報だった。

 

 今は、最初から用意している。

 

 鬼太郎は紙を受け取り、知らない隠語を二つ確認した。

 

 署名はしない。

 

 偽名も、本名も必要のない仕事だった。

 

     ◆

 

 元在庫係は、三日間で二度、寝床を変えた。

 

 最初の部屋には、着替えと空の瓶だけが残されていた。

 

 二つ目の部屋では、床板の下から切り取られた帳簿の頁が一枚見つかった。

 

 住所も名前も書かれていない。

 

 だが、紙から甘い薬草の匂いがした。

 

 元在庫係が働いていた店の匂いではない。

 

 鬼太郎は近くの薬種店を三軒回った。

 

 一軒目では知らないと言われた。

 

 二軒目では、子供へ売るものはないと追い返された。

 

 三軒目の主人は、紙を鼻へ近づけたあと、すぐに返した。

 

「洗濯屋で使う香り消しだ」

 

「薬草では?」

 

「薬草を煮た臭いを消すためのものだ。まともな洗濯屋は、こんな濃さで使わん」

 

 鬼太郎は代金を置き、店を出た。

 

 周辺の洗濯屋は二軒。

 

 一軒は表通りにあり、夜まで客が出入りしていた。

 

 もう一軒は、営業しているはずの昼間にも鎧戸を閉じている。

 

 裏手には石炭を入れる低い口があった。

 

 正面扉の枠には、細い銀糸が渡されている。

 

 触れた者を知らせるものか、別の何かかは分からない。

 

 鬼太郎は扉へ近づかなかった。

 

 夜を待ち、石炭口の錆びた留め金へ布を巻く。

 

 音を抑えながら金具を外した。

 

 六歳の身体なら、肩を斜めにすれば通れる。

 

 内側へ落ちる前に、暗い地下を見た。

 

 石炭は積まれていない。

 

 代わりに、木箱が六つ並んでいた。

 

 箱の隙間から、乾燥した葉と瓶の口が見える。

 

 横流しされた材料だった。

 

 上階から話し声がする。

 

「明日の朝には帳簿を燃やす」

 

「先に写しを売れ。仕入れ先まで入ってる」

 

 鬼太郎は地下を見回した。

 

 階段は一つ。

 

 その上に、閉じた扉がある。

 

 扉を開ければ音が出る。

 

 鬼太郎は木箱を一つ、階段の下まで動かした。

 

 中の瓶同士が、かすかに触れ合う。

 

 上の会話が止まった。

 

 扉が開く。

 

 杖先の光が階段を降りてきた。

 

「誰だ」

 

 男が二段目へ足を置く。

 

 鬼太郎は階段の横へ伏せていた。

 

 男の杖が箱へ向く。

 

 その手首へ〈シュライク〉を向けた。

 

 一発。

 

 杖が階段を跳ね落ちた。

 

 男が叫ぶ前に、鬼太郎は立ち上がる。

 

 二階から別の足音が近づいた。

 

 元在庫係は、黒い革表紙の帳簿を抱えている。

 

 鬼太郎を見ると、机のランプへ手を伸ばした。

 

 帳簿を燃やすつもりだった。

 

 二発目。

 

 弾丸が、ランプへ伸びた右前腕を貫いた。

 

 帳簿が床へ落ちる。

 

 鬼太郎は先にそれを拾った。

 

 表紙を確かめる。

 

 切り取られた一頁以外は残っていた。

 

「欠けた頁はどこです?」

 

「知らねえ」

 

「一枚は、あなたの前の部屋にありました」

 

 鬼太郎は銃口を、男のもう一方の腕へ移した。

 

「残りがあるなら、今のうちに教えてください。一頁ごとに、僕の報酬が減ります」

 

 男は、壁際の洗濯籠を見た。

 

 その視線だけで十分だった。

 

     ◆

 

 帳簿は、切り取られた二頁を含めて依頼人へ渡った。

 

 地下に残っていた材料にも追加報酬がついた。

 

 元在庫係と、手首を撃たれた男は生き残った。

 

 鬼太郎は殺害を求められていなかった。

 

 追手になれない程度に負傷させれば、帳簿を持って帰るには足りた。

 

 数日後、仲介人は新しい依頼書を三枚出した。

 

 そのうち一枚には、依頼人からの追記があった。

 

 ――扉の防護を壊さずに入った子供を使え。

 

「壊さなかっただけです」

 

 鬼太郎は言った。

 

「訂正するか?」

 

「いいえ」

 

 正しい入口を知られない方がよい。

 

 その依頼のあとには、銀の秤を取り戻した。

 

 次は、支払いを持って逃げた運び手を生きたまま連れ戻した。

 

 さらに、呪物商の使いが落とした封筒を、別の買い手へ渡る前に回収した。

 

 仕事のたび、鬼太郎は条件を確認した。

 

 必要なら撃った。

 

 火を使えば回収品まで失う場所では、アギを使わなかった。

 

 プリンパも、使えば何が起こるか制御できない場所では避けた。

 

 報酬が入り、弾薬と食事と部屋代に変わる。

 

 残りは床板の下へ増えていった。

 

 薄かった上着が不要になり、雨を弾く外套が必要になったころ、仲介人は一枚の依頼書だけを机へ置いた。

 

「一人用ではない」

 

「何を運ぶのです?」

 

「封印された鉄箱だ。中身は知らなくていい。運搬車には依頼人の御者がつく」

 

「襲撃の見込みは」

 

「高い」

 

「相手の人数は」

 

「分からん」

 

「では、サーシェスにも話を」

 

 鬼太郎は、少しも迷わず言った。

 

     ◆

 

 雨の中で再会したサーシェスは、以前より短い銃を持っていた。

 

 狙撃銃ではない。

 

 肩へ当てる銃床と、両手で持てる短い銃身。腰にはリボルバー。上着の内側には煙を出す円筒が二本あった。

 

「今度は窓から撃つ仕事じゃねえ」

 

 サーシェスが言った。

 

「箱と一緒に走れるものを選んだのですね」

 

「坊主も、前より話が早くなったじゃねえか」

 

「あなたが、同じ説明を二度必要としない程度には使えると分かりましたので」

 

「そりゃ光栄だ」

 

 鉄箱は、屋根付きの小さな荷車へ固定されていた。

 

 御者が一人。

 

 鬼太郎は荷台。

 

 サーシェスは御者台の脇へ座る。

 

 箱の封は、黒い蝋と細い鎖でできている。開封は禁止。箱を荷車から外すのも、緊急時を除いて認められていなかった。

 

 雨に濡れた街道を離れ、古い貨物路へ入る。

 

 両側には使われなくなった倉庫が並んでいた。

 

 道の中央に、壊れた荷車が横倒しになっている。

 

 御者が馬を止めた。

 

「朝にはなかった」

 

 サーシェスは、荷車ではなく倉庫の屋根を見た。

 

「止めるな。右へ寄せろ」

 

「通れない」

 

「止まってりゃ、もっと通れなくなる」

 

 屋根の端で、何かが光った。

 

 杖先だった。

 

 鬼太郎は荷台から身を低くする。

 

 赤い光が、直前まで頭のあった場所を通り過ぎた。

 

 同時に、後ろの路地から三人が出てくる。

 

 前の壊れた荷車の陰にも人影が立った。

 

 前と後ろ。

 

 予定していた道は塞がれた。

 

「坊主、箱を見ろ」

 

 サーシェスは後方を向かなかった。

 

「後ろは?」

 

「見えなくする」

 

 円筒が、荷車の後ろへ転がる。

 

 白い煙が噴き出し、追手三人の姿を隠した。

 

 杖から放たれた光が煙を裂くが、狙いは合っていない。

 

 サーシェスは前へ短銃を向けた。

 

 壊れた荷車の陰から出た男が、盾を作ろうと杖を上げる。

 

 完成する前に、銃声が二つ続いた。

 

 一発が肩へ。

 

 もう一発が腿へ入った。

 

 男が倒れ、杖先の光が消える。

 

「右の倉庫へ入れ!」

 

 サーシェスが御者へ叫ぶ。

 

 扉は半分開いている。

 

 御者が馬を右へ向けた。

 

 鬼太郎は、その扉を見た。

 

 雨で濡れた地面に、車輪の跡がない。

 

 今夜、開かれた扉ではない。

 

「そこは使われていません」

 

「だから入るんだよ」

 

 サーシェスは御者台から降り、扉へ走った。

 

 短銃を肩へ掛け、両手で重い扉をさらに開く。

 

 荷車が倉庫へ入った。

 

「突き抜けろ。反対側にも扉がある」

 

 倉庫の奥は暗い。

 

 サーシェスが先へ走る。

 

 鬼太郎は荷台で、鉄箱を固定した縄へ手を置いた。

 

 煙を抜けた追手が、入口に現れる。

 

 一人が盾を正面へ張っていた。

 

 鬼太郎は撃たない。

 

 代わりに、盾の外にある床へ左手を向けた。

 

「アギ」

 

 炎が、積まれていた空の麻袋へ走る。

 

 燃え上がった布が、追手と荷車の間へ崩れた。

 

 男は盾を保ったまま足を止める。

 

 その間に、奥の扉が開いた。

 

 荷車は裏の細道へ抜ける。

 

 サーシェスが最後に外へ出て、扉を閉めた。

 

「予定と違いますね」

 

 鬼太郎が言う。

 

「予定どおり待ち伏せに突っ込みたかったか?」

 

「いいえ。この方がよいです」

 

 後ろから、扉を破る音がする。

 

 サーシェスは追手へ戻らなかった。

 

 倒した者の武器も、所持品も取りに行かない。

 

 御者へ次の道を指示し、自分は荷車の後ろへ移った。

 

 鉄箱を届けるまでが仕事だった。

 

 敵を全員殺すことではない。

 

     ◆

 

 箱の封は、最後まで切れなかった。

 

 依頼人は予定した場所と違う道から現れた荷車を見て、最初に箱を調べた。

 

 御者の無事は、その後だった。

 

 報酬は、契約どおり鬼太郎とサーシェスへ分けられた。

 

「追わなかったのですね」

 

 別れる前、鬼太郎が言った。

 

「何をだ」

 

「煙を抜けてきた方々です。あなたなら、もう二人ほど殺せたでしょう」

 

「箱を置いてか?」

 

 サーシェスは笑った。

 

「殺しは好きだが、ただ働きは嫌いなんでね」

 

「なるほど」

 

「がっかりしたか、坊主」

 

「いいえ」

 

 鬼太郎は男を見る。

 

「評価を上げました」

 

「そいつは、次の取り分に入るのか?」

 

「入りません」

 

「なら安い褒め言葉だ」

 

 サーシェスは報酬袋を振り、雨の向こうへ消えた。

 

     ◆

 

 雨が止み、外套の前を閉じなくても歩ける日が増えた。

 

 鬼太郎の仕事も増えた。

 

 一人で、古い時計塔から契約書を回収した。

 

 サーシェスと組み、運河沿いの倉庫から二人の密輸商を追い出した。

 

 別の夜には、屋根の上から取引場所を見張り、裏切った運び手だけを帰路で捕らえた。

 

 サーシェスが別の依頼へ出ているときは、一人でできる仕事を選んだ。

 

 鬼太郎が別の町へ行っている間、サーシェスも別の雇い主から金を受け取った。

 

 二人は同じ部屋に住まない。

 

 互いの予定を報告しない。

 

 必要な仕事があり、条件が合ったときだけ同じ紙へ名前の代わりとなる印を残した。

 

 それでも、三度目に組んだころには合図が減った。

 

 鬼太郎が火を使えない場所では、サーシェスが先に別の退路を探した。

 

 サーシェスが高い位置へ移れば、鬼太郎はその射線を横切らない道を選んだ。

 

 説明したからではない。

 

 同じ失敗をしなかっただけだ。

 

 仲介人が差し出す紙から、簡単な依頼書なら辞書を使わず読めるようになった。

 

 早口の隠語も、聞き返す回数が減った。

 

 ただし、分からない契約文まで理解したふりはしない。

 

 以前より長くなった袖が、数か月後には手首を出した。

 

 鬼太郎は同じ色の大きい上着を買った。

 

 〈シュライク〉の握りも、手の成長に合わせてわずかに調整した。

 

 銃の名前は変わらない。

 

 使える能力も増えなかった。

 

 だが、同じ一発を撃つまでに見られるものは増えた。

 

 店の扉を開けたとき、客が会話を止めるまでの速さ。

 

 杖へ伸びる指。

 

 自分を知らないふりをする者の視線。

 

 自分の仕事で金を失った者が、どの出口へ近い席を選ぶか。

 

 鬼太郎の名前を知る者は少ない。

 

 それでも、炎と小さな拳銃を持つ外国人の子供を知らない者は減っていった。

 

     ◆

 

 証人を生きたまま連れ戻す依頼が来たのは、最初の帳簿回収から半年以上が過ぎたころだった。

 

 証人は、賭け金の帳面をつけていた男だった。

 

 取り立て屋へ売られ、地下へ閉じ込められている。

 

 依頼人が欲しいのは、男の証言。

 

 死亡なら報酬なし。

 

 ほかに捕らえられている者は、契約の対象ではない。

 

 鬼太郎は、金を借りたい子供のふりをして建物へ入った。

 

 受付にいた男は笑った。

 

「いくら要る」

 

「僕ではなく、父が困っています」

 

「親父はどこだ」

 

「外です。まず条件を聞いてこいと言われました」

 

 男は、隣にいた若い見張りへ顎を向けた。

 

「裏で聞いてやる。来い」

 

 鬼太郎は従った。

 

 廊下の奥に、地下へ降りる扉がある。

 

 見張りが鍵を開け、鬼太郎の肩へ手を置いた。

 

「親父が払えねえなら、お前が――」

 

 鬼太郎は振り向いた。

 

「プリンパ」

 

 見張りの目から、焦点が消える。

 

 肩を掴んでいた手が離れた。

 

 男は背後を振り返り、受付の男へ杖を向ける。

 

「近づくな」

 

「何してやがる」

 

「俺を売ったな」

 

 会話は、それ以上続かなかった。

 

 見張りの杖から赤い光が放たれる。

 

 受付の男が机の陰へ飛び込んだ。

 

 鬼太郎は、二人の間から外れた。

 

 地下への扉を開け、階段を降りる。

 

 鍵束は、混乱した見張りの腰から取っていた。

 

 地下には鉄格子が四つあった。

 

 三つに人がいる。

 

 依頼書にあった男は、一番奥で壁へ寄りかかっていた。右手の指が腫れ、顔に乾いた血がついている。

 

「歩けますか?」

 

「誰だ」

 

「あなたを連れ戻すよう頼まれた者です」

 

 鬼太郎は鍵を試した。

 

 三本目が合った。

 

 隣の格子から、女の声がした。

 

「私も出して」

 

 鬼太郎は振り返る。

 

 女のほかに、若い男もいた。

 

 依頼書に二人のことは書かれていない。

 

「あなた方を連れ出した場合の報酬は、誰が払います?」

 

「何を言って――」

 

「いないのでしたら、ここで待っていてください」

 

 証人の腕を取る。

 

 男は自力で立てた。

 

 階上で、机の割れる音がした。

 

 プリンパがいつまで続くかは分からない。

 

 鬼太郎は証人を先に歩かせた。

 

「お願い、鍵だけでも」

 

 女が鉄格子を掴む。

 

 鬼太郎は足を止めなかった。

 

 鍵束を持ち帰ることも、契約に含まれていない。

 

 だが、背後へ投げれば追手も使える。

 

 鬼太郎は鍵束を階段の下に置かれた水桶へ落とした。

 

 沈んだ場所は見える。

 

 手を伸ばせば、格子の外にいる者なら拾える。

 

 自分で格子の外へ出られない者には届かない。

 

 それ以上はしなかった。

 

     ◆

 

 階上へ戻ると、受付の男は床へ倒れていた。

 

 混乱した見張りが、その胸へ杖を向けている。

 

 鬼太郎と証人を見る。

 

 敵味方を判断できない目だった。

 

 杖先が動く。

 

 鬼太郎は証人を壁際へ押し、〈シュライク〉を抜いた。

 

 一発。

 

 見張りの右肩へ当たる。

 

 杖が落ちた。

 

 男は倒れたが、意識はある。

 

「そこで休んでいてください」

 

 鬼太郎は、床の杖を遠くへ蹴った。

 

 証人を連れ、正面扉から出る。

 

 外には、依頼人の用意した馬車が待っていた。

 

 証人を乗せ、扉を閉じる。

 

 御者が鞭を鳴らした。

 

 鬼太郎は、追ってくる者がいないことを窓から確かめた。

 

 女と若い男を残したことは、考えなかった。

 

 生存した証人は、報酬になった。

 

 ほかの二人は、ならなかった。

 

     ◆

 

 その仕事のあと、噂が一つ増えた。

 

 杖を持つ者を、言葉だけで狂わせる子供。

 

 話が別の店へ渡るころには、目を見ただけで仲間同士を殺させることになった。

 

 以前の噂も残っている。

 

 呪いが効かない。

 

 盾を銃で撃ち抜く。

 

 杖なしで人を焼く。

 

 一晩で十人殺した。

 

 鬼太郎は、一つも訂正しなかった。

 

 報酬は上がった。

 

 同時に、依頼を断る者も現れた。

 

「あの子供が関わるなら降りる」

 

「依頼人の名前を先に出せ」

 

「受けるなら倍だ」

 

 そんな返事が、仲介人のもとへ届いた。

 

 ある呪物商は、鬼太郎が店へ入る前に戸を閉めた。

 

 別の故買屋は、売る品がないと言いながら、上着の下で杖を握っていた。

 

 路地ですれ違った男は、足元へ唾を吐いた。

 

 鬼太郎は、どれにも腹を立てなかった。

 

 扉を閉める店は使わない。

 

 品を売らない者からは買わない。

 

 唾は、自分の靴にかからなければ関係ない。

 

 ただし、依頼へ必要な相手が同じ態度を取るなら、仕事の一部として処理する。

 

 仲介人は、以前より厚い紙の依頼書を使うようになった。

 

 危険、対象、取得権、追加報酬が最初から分けて書かれている。

 

 子供だから省いてよいと考える者は、もうほとんどいなかった。

 

     ◆

 

 最初の帳簿を回収してから、十一か月近くが過ぎた。

 

 最後の大きな仕事は、閉鎖された地下競売所から黒い台帳を取り戻すことだった。

 

 台帳と一緒に、封をした入場札の束も回収する。

 

 競売所の持ち主は、夜明けまでに記録を焼くつもりだという。

 

 相手は呪物商、故買屋、運び手、取り立て屋へ広く品を流していた。

 

 鬼太郎がこれまでの仕事で損をさせた者も、その取引先に含まれている。

 

「人気者だな、坊主」

 

 サーシェスは、地下競売所を見下ろす建物の屋根で笑った。

 

「あなたも知られ始めていますよ」

 

「子供の後ろで撃ってるスクイブ、だったか?」

 

「子供に使われている銃兵、という話も聞きました」

 

「そいつを言った奴は、まだ生きてるか?」

 

「確認していません」

 

 競売所は、表から見れば古い酒蔵だった。

 

 正面扉には灯りが二つ。

 

 見張りが三人。

 

 裏の搬入口は開いている。

 

 仲介人が得た図では、そこが最も短い侵入路だった。

 

 サーシェスは搬入口を見たまま、動かなかった。

 

「開きすぎだな」

 

「ええ」

 

 雨は降っていない。

 

 荷を運び出した跡もない。

 

 それでも、扉は人一人が通れる幅で開いている。

 

 暗い内側には、倒れた木箱が一つ見えた。

 

 侵入者が隠れやすい位置だった。

 

「お前が裏から来るって、知ってる奴がいる」

 

「正面の防護を避けることは、もう噂になっていますから」

 

「なら、その噂どおりには入るな」

 

 サーシェスは屋根の反対側へ移った。

 

 酒蔵の隣には、使われなくなった製氷所がある。

 

 二つの建物の地下は、古い排水路で近くまでつながっていた。

 

 完全につながっている保証はない。

 

 だが、開いた搬入口よりはましだった。

 

     ◆

 

 排水路の格子は、半分が錆び落ちていた。

 

 鬼太郎が先に入る。

 

 サーシェスは外へ残った。

 

 地下で何かが起きたとき、同じ罠へ二人で入らないためだった。

 

 排水路は途中で煉瓦壁に塞がれている。

 

 上を見ると、古い清掃口があった。

 

 鬼太郎は壁へ足を掛け、蓋を押す。

 

 一年前より伸びた身体は、以前より腕が長い。

 

 それでも大人ほどの力はない。

 

 両肩で押し、錆びた蓋を少しずつずらした。

 

 冷たい床へ出る。

 

 競売所の地下だった。

 

 廊下の先に、明かりがある。

 

 男が二人、黒い台帳から頁を外していた。

 

 隣の炉には火が入っている。

 

「裏はまだか」

 

「音がしねえ。入ったら終わりだ」

 

 搬入口には、やはり罠がある。

 

 鬼太郎は廊下の陰から、室内を見る。

 

 黒い台帳。

 

 封をした入場札の束。

 

 どちらも机の上にあった。

 

 一人が外した頁を炉へ持っていく。

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。

 

 一発目は、頁を持つ右手へ。

 

 二発目は、杖を抜こうとしたもう一人の左肩へ。

 

 二人が床へ倒れる。

 

 鬼太郎は室内へ入り、燃える前の頁を拾った。

 

 台帳へ挟む。

 

 頁の順番を確かめる時間はない。

 

 入場札の束も鞄へ入れた。

 

 そのとき、天井の奥から低い音がした。

 

 石が擦れる音。

 

 廊下の壁に、黒い線が浮かび上がる。

 

 一本。

 

 次に二本。

 

 競売所全体へ広がっていく。

 

 鬼太郎は、線へ触れなかった。

 

 机の陰にいた男が笑った。

 

「持って帰れると思ったか」

 

 建物を壊す仕掛けか。

 

 中にいる者を閉じ込める防護か。

 

 判断する情報がない。

 

 鬼太郎は来た道へ戻る。

 

 廊下の向こうから、三人分の足音が近づいていた。

 

 排水路へ戻るには、その前を横切る必要がある。

 

 別の階段は、正面側へ続いている。

 

 鬼太郎は鞄を背へ回した。

 

 足音が角へ近づく。

 

 同時に、上階で銃声が三つ響いた。

 

 足音が止まる。

 

 続いて、窓ガラスの割れる音。

 

 サーシェスが外から別の入口を作った。

 

「上だ!」

 

 追手の一人が叫ぶ。

 

 三人の注意が階段へ向く。

 

 鬼太郎は廊下を横切り、清掃口へ滑り込んだ。

 

 排水路へ降りる。

 

 背後で煉瓦が割れた。

 

 黒い線は床まで伸びている。

 

 鬼太郎が格子を抜けると、サーシェスが製氷所の陰から手を振った。

 

「走れ、坊主!」

 

「追手が残っています」

 

「建物も残らねえ!」

 

 酒蔵の屋根が沈んだ。

 

 煉瓦壁に亀裂が走る。

 

 正面から見張り二人が逃げ出した。

 

 サーシェスは短銃を向ける。

 

 撃てる距離だった。

 

 だが、引き金を引かなかった。

 

 代わりに、鬼太郎と崩れ始めた壁の間へ煙の円筒を投げる。

 

 白い煙が広がる。

 

 視界が切れた直後、酒蔵の側壁が外へ倒れた。

 

 二人は製氷所の裏へ走る。

 

 煉瓦と梁が、さきほどまでいた場所へ落ちた。

 

 土埃が煙と混ざる。

 

「二人、逃がしましたね」

 

 安全な路地まで離れてから、鬼太郎が言った。

 

「撃ってりゃ、瓦礫の下で一緒に死ねたぜ」

 

「それは困ります」

 

「報酬が減るからか?」

 

 鬼太郎は答えなかった。

 

 台帳はある。

 

 入場札もある。

 

 仕事は完了できる。

 

 それでも、サーシェスが瓦礫の下で死ぬ場合を考えたとき、最初に浮かんだのは取り分ではなかった。

 

 同じ動きができる者を、また探す手間。

 

 説明を重ね、使えるか確かめる時間。

 

 そして、別の雇い主のために、この男が失われることへの不快感だった。

 

     ◆

 

 台帳と入場札は、欠けた頁を含めて依頼人へ渡った。

 

 競売所を使っていた者たちは、記録を失った。

 

 取引先の一部は名を知られ、別の者は前金を失い、用意していた品を売る場所を失った。

 

 鬼太郎は台帳の中身を読んでいない。

 

 それでも、その仕事で誰が損をしたかは、後から知ることになった。

 

 呪物商。

 

 故買屋。

 

 人を運ぶ者。

 

 珍しい生き物や、人に近い何かを扱う者。

 

 護衛を請け負っていた傭兵。

 

 これまで別々に鬼太郎を恨んでいた者たちが、同じ競売所の損失でつながった。

 

 仲介人は、以前より多い報酬を机へ置いた。

 

「次から、お前を使いたい奴には、この額を基準にする」

 

「危険が増えた分ですか?」

 

「名を聞いただけで逃げる奴がいる。逆に、お前を殺すなら受けるという奴もいる」

 

「どちらも、仕事が早くなりますね」

 

 仲介人は笑わなかった。

 

「お前の名前は知られていない」

 

「必要ありません」

 

「だが、何者かは知られている。炎を使う。小さな銃を持つ。呪いが効かない。盾を撃ち抜く。仲間を狂わせる。スクイブの銃兵と組むことがある」

 

「正しい話は、ほとんどありませんね」

 

「訂正するか?」

 

「いいえ」

 

 鬼太郎は報酬を数えた。

 

 初めてこの部屋へ来たころなら、同じ危険へ提示された額の何倍もある。

 

 その一年の途中で、父の書類に記された誕生日も過ぎた。

 

 鬼太郎は七歳になっている。

 

 背丈は少し伸びた。

 

 手も、〈シュライク〉を受け取ったころより大きい。

 

 知らない単語は減った。

 

 床板の下の金は増えた。

 

 敵も増えた。

 

「あの傭兵は?」

 

 仲介人が尋ねた。

 

「自分の取り分を持って帰りました」

 

「次も使うのか」

 

「そのつもりです」

 

「先に押さえておかないと、別の仕事へ行くぞ」

 

 鬼太郎の指が、硬貨の上で止まった。

 

 サーシェスは独立した傭兵だ。

 

 条件のよい依頼があれば、誰の仕事でも受ける。

 

 そこで死ぬ可能性もある。

 

 鬼太郎と敵対する依頼を、先に受ける可能性さえあった。

 

 これまでは、それで構わなかった。

 

 使えるときだけ金を払い、役目が終われば別れる。

 

 だが、一年近く、何度も仕事を見た。

 

 射線を変える。

 

 罠を読む。

 

 殺しを楽しみながら、報酬を失う追撃は捨てる。

 

 鬼太郎が説明しなくても、次に必要な位置へ動く。

 

 代わりを探せばよいだけの傭兵ではなくなっていた。

 

 他人の依頼で使われ続けるのは、気に入らない。

 

 他人の判断で失われるのは、もっと気に入らない。

 

 自分が必要なとき、必ず使える場所に置いておきたい。

 

 それは友情ではなかった。

 

 仲間と呼ぶには、まだ早い。

 

 ただ、有能なものを自分の側へ置き、ほかの者に勝手に使わせたくないという欲だった。

 

「次に組む仕事で、もう一度確認します」

 

 鬼太郎は硬貨を袋へ入れた。

 

「その後は?」

 

「条件を出します」

 

 まずは傭兵として。

 

 サーシェスが受け取る価値のある報酬と、断れば失う利益を並べる。

 

 力ずくで縛るより、その方が長く使える。

 

 鬼太郎は席を立った。

 

 背後の机には、次の依頼書が残っている。

 

 一年前は、仕事を選べることが値段の証だった。

 

 今は、その紙を置いた者たちが、鬼太郎に選ばれる側になっていた。

 

 名前に値段がつくたび、その裏には恨みが一つ増えた。

 

 その恨みが同じ場所へ集まり始めていることを、鬼太郎はまだ知らなかった。

 

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