第3話 炎より早いもの
車の鍵が床へ落ちた。
男は慌てて拾い、今度は立ち上がるときに車の側面へ肩をぶつけた。鬼太郎は、まだ震えているその手を見た。
「少し休んでからにしましょう」
「何をする気だ」
「運転をお願いするのですよ。その状態では、買い手に会う前に死んでしまいます」
男は口を開きかけたが、言い返さなかった。
待つ間に、ポケットの中身を出させた。財布や煙草に交じり、折り畳みナイフが床へ置かれる。
鬼太郎はそれだけを布で包み、自分の鞄へ入れた。
「金は取らないのか」
「途中で必要になるでしょう。食事に招いてくださる話も、まだ果たされていませんし」
男は目を伏せ、財布を拾った。
鬼太郎も壁へ背を預けた。朝から歩き、火を使い、重い砂を運んでいる。椅子へ座れば眠ってしまいそうだった。
目は閉じなかった。男が落ち着いたら、その分だけ逃げる方法も考えられるようになる。
日が傾き始めたころ、男の運転で車庫を出た。
鬼太郎は後部座席で鞄を抱え、運転席の両手を見ていた。道中、買い手について尋ねたが、男が知ることは少なかった。
書類や荷物を国外へ出す仕事も扱う。周りには部下がいて、銃を持っている。
「何人です?」
「日によって違う」
「あなたより落ち着いて話せる方ですか?」
男は鏡越しに鬼太郎を見た。
「俺みたいにはいかないぞ」
「それなら、お話が早そうですね」
車は街へ入り、機械や部品を扱う倉庫の前で止まった。
◆
入口の男は、誘拐犯の焦げた上着を見た。
「何があった」
「買い手を呼んでくれ」
「そいつを売りに来たんじゃないのか」
「違う! 最初はそうだった。だが、こいつは――」
入口の男が上着の内側へ手を入れる。
鬼太郎はその手を見た。武器があるのだろう。
「先にお話をした方がよいと思いますが」
「何だと?」
「そいつに触るな!」
誘拐犯の声が裏返った。
入口の男は二人を見比べ、倉庫の奥へ消えた。戻ってきたときには、もう二人を連れていた。
買い手は年齢の読みにくい男だった。鬼太郎へすぐには話しかけず、誘拐犯の頬と服の焦げ跡を見た。
「中へ入れ」
奥の事務所には机と書類棚があった。部下二人が出口の近くに立つ。
誘拐犯は、手から火が出たと話した。何も持っていなかった。変な言葉を言っただけで、木箱も扉の前も燃えた。
買い手は笑わなかった。
「二人とも、その子供から離れろ」
部下の一人が眉を寄せたが、距離を取った。
「信じるのですか?」
鬼太郎が尋ねると、買い手は誘拐犯を指した。
「こいつは私の前で芝居のできる人間じゃない。それに、妙な話なら聞いたことがある」
「火を出す子供の話を?」
「鍵のかかった部屋から消えた人間。傷もないのに死んだ男。大半は作り話だがな」
鬼太郎は買い手の顔を見た。
父を殺した者たちのような人間は、ほかにもいるらしい。
「見せてもらえるか」
「燃やすものを用意していただけるのでしたら」
倉庫の裏には、コンクリートで固められた荷捌き場があった。壊れた椅子が一脚置かれ、周りの荷物は離されている。
鬼太郎が右手を上げると、部下が拳銃を抜いた。
「それを向けたままでは、集中しづらいのですが」
「下ろせ」
買い手が命じた。部下は銃をしまわず、先だけを下げる。手は安定していた。いつでもこちらへ向け直せる位置だった。
鬼太郎は椅子へ向き直った。狙うものと、撃ってくるかもしれない者が、違う場所にいる。
そのことを気にしながら、アギを放った。
買い手は一歩下がった。部下の一人は抜いた拳銃を持ち上げかけ、買い手に止められた。
鬼太郎は、その黒い銃口を見ていた。
銃という武器は知っている。戻った記憶にも、銃声や火薬の臭いはあった。だが、扱い方を思い浮かべようとしても、何も出てこなかった。
分かるのは、男が指を動かせば、自分が死ぬかもしれないことだった。
アギを放つために力を引き出すより、早いかもしれない。
「お前は何者だ?」
燃える椅子を見ながら、買い手が尋ねた。
「それを調べるために、英国へ行こうとしています」
事務所へ戻ると、鬼太郎は移動の手助けを求めた。
買い手が告げた金額は、家から持ち出した金では足りなかった。
「では、働きます」
「あれだけで英国まで行けると思うな。珍しい力と、使える力は違う」
「試してみますか?」
机へ一枚の紙が置かれた。街外れの修理工場と、簡単な見取り図がある。
「私の帳簿を持ち逃げした者がいる。取り戻せ」
「何人です?」
「少なくとも三人」
「武器は?」
「持っている。その先を確かめるのも仕事だ」
鬼太郎は紙へ目を落とした。建物の奥に事務室がある。帳簿がそこにあるとは書かれていない。
「成功すれば、英国へ?」
「一度で払える値段じゃない。戻れば次の仕事を与える。寝床と食事を用意し、働いた分を渡航費として記録する」
「記録をごまかさない保証は?」
「ない。嫌なら別の道を探せ」
鬼太郎は少し笑った。
「分かりやすくて結構です」
紙を受け取ると、買い手は部下の銃へ向いた視線に気づいた。
「使えるのか」
「今は使えません。ですが、便利そうですね。僕が火を出すより、あの方が撃つ方が早いでしょう?」
銃を持つ部下が鬼太郎を見た。
「戻ってきたら触らせてやる」
買い手はそう言い、誘拐犯へ車を出すよう命じた。
男は拒もうとしたが、買い手が先に口を開いた。
「お前が連れてきた客だ。最後まで面倒を見ろ」
鬼太郎が扉を開けると、男もついてきた。
◆
修理工場の近くで車を止め、歩いた。
表には大きな扉と、人が出入りする小さな扉がある。鬼太郎は誘拐犯を表へ向かわせ、自分は裏へ回った。
男には買い手から逃げたいと話させる。帳簿と引き換えに助けてほしいと言えば、すぐに追い返されることはないだろう。
「俺を囮にするのか」
「案内だけで済む場所なら、よかったですね」
「殺されるぞ」
「でしたら、長くお話をしてください。僕が見つけるまで」
男は黙り、小さな扉へ歩いていった。
鬼太郎は背中を見送った。親しげに声をかけてきたときより、歩幅が狭い。
命じれば従う相手でも、工場の中へ入れば、向こうへ助けを求めるかもしれなかった。裏切らないと信じて使うのではない。裏切る相手でも、今は入口へ人を集める役になる。
長く話してくれれば、それでよい。
鬼太郎は裏の窓を調べた。三つのうち一つは割れていて、穴を板で塞いである。錆びた釘が緩み、下に隙間ができていた。
表から扉を叩く音がする。話し声が重なったところで、鬼太郎は板を引いた。
軋む音を聞いて手を止め、また引く。ようやく外れた板を地面へ置き、鞄を先に中へ入れた。
肩を斜めにして、窓を通る。
部品置き場だった。棚の向こうでは、男たちが誘拐犯を問い詰めている。
「買い手に送られたのか?」
「違う! 逃げたいんだ。あいつは、妙なものまで使い始めた」
「妙なもの?」
「火を出す子供だ」
鬼太郎は棚の陰から中を見た。
男が三人いる。一人が誘拐犯を壁へ押さえ、一人が拳銃を持ち、もう一人は奥の扉の前に立っていた。
机の上に帳簿はない。奥の扉が事務室だろう。
「外を見てこい」
拳銃を持つ男が命じた。
このままでは、外した板を見つけられる。だが、出ていけば二人分の銃口がこちらへ向くかもしれなかった。
鬼太郎は、棚の脇に積まれた木箱へ目を向けた。
帳簿から離れた場所を燃やせばよい。
力を引き出すと、身体の奥に重さを感じた。倉庫で見せた分も含め、今日は何度も使っている。
それでも炎は集まった。
「アギ」
木箱が割れ、布へ火が移った。
「火だ!」
三人の顔がこちらを向く。鬼太郎は棚の反対側へ回り、机の陰を走った。
一人は火へ向かい、一人は部品置き場へ銃を向けている。奥の扉が空いた。
鬼太郎は事務室へ入った。
机の下に旅行鞄があった。開くと、衣服と紙幣の下から黒い革の表紙が見えた。
背についた傷は、買い手から聞いた特徴と同じだった。数頁を開き、日付と金額が並んでいることだけ確かめ、自分の鞄へ収める。
外で銃声がした。
鬼太郎は扉から離れた。来た窓へ戻るには、男たちのいる作業場を通らなければならない。
壁の上に、小さな換気窓があった。
鬼太郎は鞄から折り畳みナイフを取り、ポケットへ入れた。
椅子を机へ載せ、上がった。足元が揺れる。窓の留め金は錆びていて、押しても動かなかった。
ポケットからナイフを出し、閉じた柄で金具を叩く。
「いたぞ!」
事務室の扉が開いた。
鬼太郎が振り返る。男の手に拳銃があった。こちらを見て、銃口が上がる。
飛び降りるには、足場が悪かった。
机の上の椅子が揺れる。足を動かせば落ちる。男は一瞬、子供がそんなところにいることを理解できない顔をした。
その間に、鬼太郎は手を上げていた。
鬼太郎は右手を向け、内側の力をつかんだ。
「アギ」
火球が飛ぶより先に、銃声が響いた。
換気窓の枠が弾け、木片が頬を裂いた。
男の胸へ炎が当たる。悲鳴とともに後ろへ倒れ、拳銃が床を滑った。
拾いに行く時間はなかった。作業場から、残る男たちの声が近づいている。
鬼太郎はもう一度、留め金を叩いた。外れた窓を押し上げ、鞄を先に外へ落とす。
身体を滑らせ、地面へ肩から落ちた。
息が詰まる。立つと膝が痛んだ。
背後で発砲が続いた。鬼太郎は鞄を拾い、車へ走った。
誘拐犯は先に逃げ出し、車のそばに立っていた。
「乗ってください!」
「帳簿は?」
「あります。早く!」
男が運転席へ飛び込んだ。鬼太郎が後部座席へ入るのと、工場の扉が開くのは、ほとんど同時だった。
砕けた後部窓から、ガラスが降ってきた。
鬼太郎は鞄を抱えて伏せた。車が急発進し、身体が座席へ押しつけられる。
「追ってくる!」
顔を上げると、工場の前で別の車に灯りがついていた。
こちらへ向きを変えようとしている。
鬼太郎は割れた窓のそばへ膝をついた。揺れる座席へ左手をつき、右手を車の正面へ向ける。
「アギ」
火球は車体へ届かず、手前の地面で弾けた。
相手の車が急に曲がった。金網の支柱へぶつかり、片方の前照灯が消える。
「曲がれる道を使ってください」
「分かってる!」
何度か角を曲がり、工場の灯りが見えなくなった。鬼太郎は座席へ座り直した。
息が速い。右手を下ろしても、指先の震えが残った。
鞄を開き、帳簿を確かめる。弾は当たっていなかった。
頬へ触れると血がついた。
銃を向けた男は、わずかに驚いていた。その分だけ、撃つのが遅れたのだろう。それでも、炎が届くより先に弾丸は飛んできた。
アギが当たれば、男は倒れる。
当たるまでの間に撃たれれば、鬼太郎も死ぬ。
それを知らずにいることと、知っていて何も変えないことでは、後の方が愚かだった。
右手を握り、開く。火を放ったときの熱は残っていないのに、指先はまだ震えている。
買い手には、帳簿を渡す。それで約束は果たしたことになる。
次に何を求めるかは、もう決まっていた。
◆
街へ戻る途中、人家のない場所で車を止めさせた。
水を飲む間、男は何度も後ろを見た。
「俺は、言われたとおりにした」
「ええ」
「工場にも入った。逃がしてやった。買い手にも、役に立ったと話してくれ」
「それで、どうするのです?」
「全部忘れる。お前のことも喋らない。子供にも手を出さない」
鬼太郎は瓶の蓋を閉めた。
「僕を売ろうとしたときには、随分と親切でしたね」
「あれは……」
「今のお話と、どちらを信じればよいのです?」
男は返事を探すように口を動かした。
鬼太郎が右手を上げると、扉へ飛びついた。
「待て! 役に立っただろう!」
「はい。ですから、ここまで運転をお願いしました」
男は車外へ転がり出た。足がもつれ、道路へ手をつく。
鬼太郎は、その背中へ掌を向けた。
この男は、鬼太郎と買い手の居場所を知っている。逃がせば、別の誰かへ火の話をするかもしれない。
もう案内も運転も必要なかった。
「アギ」
男の上着が燃えた。
鬼太郎は車を降り、男が動かなくなるまで道路の端で待った。呼吸が止まったことを確かめ、鞄を背負う。
街の灯りは、歩いて戻れる距離に見えていた。
◆
倉庫の入口にいた男が、鬼太郎の後ろを見た。
「一人か。あいつは?」
「用が済みました」
それ以上は尋ねられなかった。
事務所では、買い手が帳簿を受け取った。表紙を見て終わらず、頁と、間に挟まれた紙まで確かめる。
「工場にいた者は?」
「三人いました。一人にはアギが当たっています。残る二人は生きていますよ」
「殺さなかったのか」
「帳簿を取り戻す仕事でしたので」
買い手は鼻を鳴らし、最後の頁を閉じた。
「欠けていない。中を読んだか?」
「依頼の品か確かめるため、最初だけ。日付と金額は見ましたが、意味は分かりません」
買い手はしばらく鬼太郎を見つめ、それから引き出しへ帳簿をしまった。
「約束があったな」
部下が拳銃から弾倉を外し、内部にも弾がないことを確かめた。机の上へ銃だけが置かれる。
「触ってみろ」
鬼太郎は右手を伸ばした。
冷たい金属の感触には、覚えがあった。だが、どのように構え、どこを狙えばよいのかは、思い出せなかった。
持ち上げると、手の中で傾いた。
重い。握る部分が太く、指を回しきれない。引き金へ人差し指を届かせようとすると、掌が浮いた。
左手を添えても、長く支えるのは難しかった。
「無理だな」
部下が言う。
「その手じゃ撃てても当たらん」
「そうですね」
鬼太郎は机へ戻した。
買い手が尋ねる。
「諦めるか?」
「なぜです?」
「今のお前には扱えない」
「これは、僕に合わないだけでしょう?」
鬼太郎は小さな右手を開いた。
「合うものがなければ、作ればよいのではありませんか」
部下が呆れた顔をした。買い手は笑わなかった。
「子供の手に合わせる銃職人など、表にはいない」
「表にいる方へお願いするつもりだったのですか?」
買い手の目が細くなった。
やがて立ち上がり、上着を取る。
「勘違いするな。今日の仕事で払うのは、銃へ触れさせるところまでだ」
「ええ。約束は守っていただきました」
「その先は、別の話になる。金を払うのもお前だ」
「お話をする相手は、紹介していただけますか?」
買い手は事務所の扉を開けた。
「ついてこい」
鬼太郎は鞄を持ち、椅子から下りた。
頬の傷が引きつれたが、口元は緩んでいた。
銃を向けられた場所へ、また炎だけを持って戻る必要はなくなりそうだった。