第三話
家の中から、人の声が消えていた。
残っているのは、焼けた肉と布の臭い。それから、どこかで小さく燃え続ける炎の音だけだった。
墓場鬼太郎は、廊下に倒れた男を見下ろした。
先ほどまで人間だったものは、黒く焼け焦げている。胸元を中心に衣服が炭化し、皮膚との境目さえ分からなくなっていた。
自分が、こうした。
右手を開き、掌を見る。
火傷はない。熱も残っていない。
「アギ……」
小さく唱えてみる。
今度は炎が出なかった。
出そうとして唱えたわけではない。ただ、口にした言葉の響きを確かめたかった。
それだけで、頭の奥に沈んでいた何かが反応する。
精神を集中させる。
内側に存在する力へ触れ、それを火炎という形へ変え、狙った場所へ放つ。理屈として説明することはできない。だが、手順だけは分かる。
長い間、繰り返してきた動作のように、魂が覚えている。
「なるほど。使い方は分かるのですね」
なぜ使えるのかは、分からなかった。
鬼太郎は焼死体のそばに落ちているものへ目を向けた。
細長い棒。
男が母へ向けていたものだった。
先端から緑色の光を放ち、それを受けた母は倒れた。父も同じものを受け、二度と動かなかった。
鬼太郎は袖で手を覆い、棒を拾い上げた。
焦げてはいるが、折れてはいない。
木で作られているように見える。引き金も、刃も、電池を入れる場所もない。銃器として考えるには構造が単純すぎた。
試しに焼死体へ向けてみる。
何も起きない。
当然だった。
使い方を知らない道具が、手に持っただけで動くはずがない。
しかし、これが両親を殺した武器であることは間違いなかった。
棒から放たれた光を受けた瞬間、人間が傷一つなく死ぬ。現在の科学で説明できる現象とは思えない。
「魔法、とでも呼ぶべきでしょうか」
童話の中にしか存在しない言葉だった。
だが、自分も何もない空間から炎を生み出した。非科学的という意味では、どちらも同じである。
ただし、男たちは棒を必要とし、鬼太郎は必要としなかった。
同じ力なのか。
異なる仕組みなのか。
判断するには、何もかも足りなかった。
鬼太郎は棒を持ったまま、玄関へ戻った。
父は倒れたときと同じ姿勢で、壊れた食卓のそばに横たわっていた。
目は、鬼太郎が閉じたままになっている。
「お父さん」
呼びかけても答えはない。
分かっていたことを、もう一度確認しただけだった。
生き残った男が戻ってくるかもしれない。
今度は一人ではなく、さらに多くの仲間を連れてくる可能性もある。父母を殺した光を使う者たちが何人いるのか、鬼太郎には分からない。
近隣の住民が騒ぎを聞きつけることも考えられる。やがて警察が来れば、六歳の子供が一人で残されている理由を尋ねられるだろう。
燃えた男についても説明しなければならない。
「面倒ですね」
この家には、もう用がなかった。
父と母がいて初めて、鬼太郎にとって守る価値のある場所だった。二人がいない以上、家は壁と屋根を組み合わせただけの建物にすぎない。
鬼太郎は二階へ上がった。
六歳の身体で運べる荷物には限界がある。
大きな旅行鞄ではなく、両肩で背負える小さな鞄を選んだ。着替えを二組、下着、防寒用の上着。台所から日持ちするパンと干した肉、水を入れた瓶を持ってくる。
両親の寝室では、引き出しから現金を取り出した。
同じ場所に、家族の身分を証明する書類がまとめられていた。
父の書類には、英国で生まれたことが記されている。母の出生地は日本。鬼太郎自身の書類も、その束の中にあった。
一枚ずつ確かめ、必要だと思われるものを鞄へ入れる。
父の上着から財布を抜き取るときも、ためらいはなかった。
死人に金は必要ない。
これから生きる自分には必要だった。
最後に、回収した棒を布で包み、鞄の底へ収める。
使い方は分からない。
それでも、調べる価値はある。
準備を終える頃には、襲撃からそれほど時間が経っていなかった。朝の光は、閉じられたカーテンの隙間から変わらず差し込んでいる。
食卓には、食べ終えた朝食の皿が残っていた。
母が使っていた布巾。
父が読んでいた新聞。
床に落ちて割れたカップ。
昨日までの暮らしが、そこで突然切れていた。
鬼太郎は父の前へ立った。
次に、母のいる廊下へ移る。
二人の身体を一か所へ運ぶことはできなかった。二十四歳の精神が戻っても、肉体は六歳のままである。
だから、それぞれの場所で別れを告げることにした。
鬼太郎は両親へ向け、丁寧に頭を下げた。
「六年間、お世話になりました」
返事はない。
それでよかった。
父と母は、自分を育てた。
食事を与え、住む場所を与え、自分を大切に扱った。だから鬼太郎も、二人を大切にしていた。
その二人を、見知らぬ者たちの手へ渡すつもりはない。
役人に運ばせ、知らない場所で土へ埋めさせるつもりもなかった。
自分のものは、自分で始末する。
鬼太郎は家の中央へ立った。
右手をカーテンへ向ける。
今度は、先ほどとは違う。
怒りに任せ、身体が勝手に動いたのではない。
精神を静める。
内側の力をつかみ、火炎の形を思い描き、手の先へ導く。
どのような理論で成立しているのかは知らない。
それでも、発動までの過程は理解できた。
「アギ」
火球が放たれた。
赤い炎がカーテンへ食らいつく。
乾いた布を駆け上がり、窓枠から天井へ燃え移った。熱を受けたガラスに亀裂が走る。
鬼太郎はもう一度、別の部屋へ手を向けた。
「アギ」
二つ目の火球が家具を砕き、その破片ごと炎で包んだ。
使える。
アギだけは、再び自分の力になっている。
確認できたのは、それだけだった。
煙が天井に溜まり始める。
鬼太郎は鞄を背負い、壊れた玄関から外へ出た。
一度も振り返らなかった。
家は背後で燃え続けている。
父も、母も、焼死した襲撃者も、やがて家と一緒に灰になるだろう。
鬼太郎は町へ続く道を歩き始めた。
◆
六歳の歩幅では、町までの道は長かった。
鞄の重さが肩へ食い込み、しばらく歩くだけで脚が疲れる。前世の精神が戻ったからといって、身体能力まで戻るわけではない。
鬼太郎は無理に急がなかった。
道端で短い休憩を取り、水を飲む。その間も、頭の中で先ほどの出来事を整理し続けた。
二人の男は、細い棒を持っていた。
父は彼らの力を知っていた。
戦争は終わった、あの人も消えた、と話していた。
つまり父は、あの男たちと無関係ではない。
家族へ話していない過去があったのだろう。
男たちが父を探して来たのか、偶然見つけたのかは分からない。
だが、一人は生きている。
あの男は、杖を持たない六歳の子供が炎を放ったところを見た。仲間のもとへ戻れば、そのことを話す可能性が高い。
敵がこちらを探す理由は、以前より増えたことになる。
「名前も人数も分からない相手ですか。あまり愉快ではありませんね」
殺し合うことが嫌なのではない。
相手について何も知らないまま、一方的に狙われることが気に入らなかった。
次に会うまでには、少なくとも同じ場所へ立つ必要がある。
そのためには、まずこの世界を知らなければならない。
先ほど蘇った光景を思い返す。
崩壊した都市。
空を塞ぐもの。
人間を獲物のように扱う異形の存在。
血と鉄と火薬の臭いが染みついた世界。
そこで自分は生きていた。
長い時間を戦い続け、二十四歳で死んだ。
具体的な人名も、自分が死んだ理由も思い出せない。それでも、あそこが今歩いている場所と同じ世界ではないという感覚だけは、明確だった。
ただし、感覚だけで結論を出すつもりはない。
現在が、前世の世界に災厄が起こるより前の時代という可能性もある。
過去なのか。
別の世界なのか。
それを確かめなければ、今後の方針すら決められない。
町の建物が見え始めたのは、太陽が高く昇ってからだった。
◆
町へ入ると、すぐに何人かの大人が鬼太郎へ目を向けた。
六歳ほどの子供が、大きな鞄を背負って一人で歩いている。目立たない方がおかしい。
「坊や、一人なの?」
店先にいた女が声をかけてきた。
鬼太郎は足を止め、穏やかに微笑んだ。
「父が少し遅れています。先に行くよう言われました」
「どこまで?」
「すぐそこです。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、それ以上尋ねられる前に歩き出す。
六歳の姿は不便だが、使い方によっては警戒されにくい。礼儀正しく振る舞えば、多くの大人は自分に都合のよい事情を想像してくれる。
最初に新聞を扱う店を探した。
店頭に並ぶ新聞の日付を確認する。
記されている年は、断片的に蘇った記憶にある時代よりも古い。
これだけなら、過去へ転生したという仮説と矛盾しない。
鬼太郎は一部を購入し、人目の少ない場所で記事へ目を通した。
政治。
国際情勢。
科学技術。
どれも、前世の記憶と完全には結びつかなかった。
次に町の図書館へ向かった。
受付の女は鬼太郎を見て眉を上げたが、父を待っている間に本を読みたいと説明すると、奥の閲覧室を使わせてくれた。
世界地図。
歴史年表。
各国の記録。
科学に関する書籍。
鬼太郎は手の届く範囲から必要なものを集め、一冊ずつ調べていった。
記憶は壊れている。
自分が暮らしていた都市の光景は思い出せても、そこへ至るまでの歴史を最初から最後まで説明することはできない。
それでも、比較できる断片はあった。
国の関係。
過去に起きた争い。
都市の姿。
前世で常識として知っていた出来事と、書物に記された歴史には、細かな違いが幾つも存在した。
一つだけなら、記憶違いと考えられる。
二つでも、資料の誤りを疑える。
だが、異なる資料を調べるたびに矛盾が増えていく。
歴史の流れそのものが、自分の知っているものと一致していなかった。
さらに、どの資料を調べても、杖から光を放って人を殺す者たちについては一行も記されていない。
魔法は、物語や迷信として扱われている。
鬼太郎の鞄には、物語では済まされない証拠が入っていた。
あの力を持つ者たちは存在する。
しかし、一般社会には知られていない。
自分たちの存在を隠していると考えるのが自然だった。
鬼太郎は開いていた本を閉じた。
「過去、ではありませんね」
前世の世界へつながる過去ならば、歴史の土台まで異なる理由がない。
似た国があり、似た言葉があり、同じような人間が暮らしている。
それでも、ここは自分が生きていた世界ではない。
異なる歴史を歩んだ、別の世界。
そう結論づければ、蘇った記憶との矛盾を最も少なく説明できる。
問題は、その別世界でどう生きるかだった。
アギについて記した資料は見つからない。
回収した棒についても同じだった。
町で調べられる範囲には、求める答えが存在しない。
ならば、知っている者を探すしかない。
鬼太郎は鞄から父の書類を取り出した。
父は英国で生まれた。
襲撃者の力を見ても驚かず、それが何であるかを理解していた。戦争と、既に消えた何者かについても知っていた。
父の過去と、杖を使う者たちはつながっている。
父が生まれ育った場所をたどれば、何か見つかる可能性がある。
鬼太郎は机の上へ世界地図を広げた。
ブルガリアから西へ指を滑らせる。
幾つもの国と海を越えた先。
指先が、英国の上で止まった。
六歳の子供が一人で向かうには、遠い。
必要な金も、移動手段も、国境を越える方法も調べなければならない。
簡単ではない。
だからといって、諦める理由にはならなかった。
鬼太郎は地図を見下ろし、わずかに微笑んだ。
「次は、イギリスですか」