第39話 宛名のない報告
同じ男を見つけたのは、魔法界ではなかった。
食料品店から出たところで、キーノが鬼太郎の袖へ触れた。通りの反対側に仕立屋があり、広い硝子へ茶色い外套が映っている。
靴に白い泥はなかった。
「左の袖。歩くと、右肩が下がる」
鬼太郎は買った包みを抱え直した。窓越しに見える男は、店先の帽子を見ている。二人が進み始めても、すぐには動かなかった。
最初の角を曲がり、少し先の金物店へ入る。棚を一巡して出ると、離れた所に男がいた。
次には市場を抜けた。予定していなかった林檎を買い、別の出口から通りへ戻る。
茶色い外套は、また現れた。
「今度は、ついてきた」
キーノが低い声で言った。
「ええ。部屋へは戻らないようにしましょう」
「捕まえないのか」
「あの人を待つ相手が、いるかもしれません」
キーノは硝子の中の男を見た。鬼太郎は人の出入りの多い食堂へ入り、奥にも出口があるのを確かめる。食事を取ってから出る頃には、男の姿はなかった。
それでも一度遠回りし、同じ者が続かないことを見てから帰った。
部屋で手帳を開くと、キーノが先に言った。
「次は、こっちが追う」
「誰が?」
「私とお前で」
「二人とも向きを変えれば、気づかれますよ」
鬼太郎は男の特徴の下へ、今日の経路を書いた。進む道を変えてもついてきたことと、食堂の後は見つからなかったことを、別の行にする。
「サーシェスさんへ、相談しましょう」
「今度は、あいつの金を使うのか」
「依頼の話を聞いていただく分は、もう払いました。受けていただくなら、仕事の報酬は別です」
キーノは少し考え、手帳を自分の方へ寄せた。
「私が見つける分も、別だな」
「お願いするなら、そうなりますね」
彼女はそれを聞いてから、林檎の包みを開いた。
◆
翌朝の診察では、前より長く歩かされた。
速足の後で止まり、身体を捻る。脇腹に痛みはなく、息もすぐに落ち着いた。試射の翌日と、四属性を試した後の状態も伝えると、女は鬼太郎の顔を見た。
「短い仕事なら、止めないよ。寝ずに追い回すものと、何日も帰れないものは避けな」
「帰れる経路も、先に確かめます」
「帰る頃には死んでました、じゃ困るからね」
鬼太郎は返事をし、治療所を出た。今日は杖も銃も、試す予定はない。仕事を選ぶため、キーノと仲介人の所へ向かった。
机には三枚の依頼書が出された。
一枚目は横丁内の小箱の運搬。距離も短く、封を守って届ければ終わる。報酬は安いが、候補には残した。
二枚目は、死んだ持ち主の屋敷から銀の器を持ち帰るものだった。
「呪いがある、とだけですか」
「依頼人は、それ以上言わなかった」
「先に試した方は?」
「答えなかったな」
鬼太郎は紙を戻した。
「こちらは断ります」
「値を上げさせても?」
「金が増えたら、隠した話も全部出す方でしょうか」
仲介人は二枚目を脇へ退けた。
三枚目で、鬼太郎の目が止まった。
エドガー・ヴェイル。五十代、灰色の髪。右耳の上が欠けている。空間を拡張した鞄や箱の補修をする職人だった。
「連れ去られたのは、昨夜ですか」
「密輸屋が、安い鞄をまとめて直させようとした。壊れかけてて、触れば中身を失うかもしれんと断ったらしい」
「最後に生きているのを見た人は?」
「いる。左手を痛めつけられていたが、歩いていた」
回収するのは本人と、銅で縁取られた黒い工具箱。蓋を開けず、壊さずに持ち帰る。所有者以外が開けようとすると、中の道具を焼く防護があるという。
場所はロンドン近郊の旧貨物集積所。確認できた敵は六人、そのうち二人は杖を持つ。残りも武器を持っている可能性があった。
「生きて引き渡す。工具箱も無傷。それで満額ですね」
「明日の夜までだ。本人確認ができれば、負傷は条件内だ」
鬼太郎は末尾の一行を読み直した。完遂すれば、信用できる拡張鞄の製作者へ紹介状を出す、とある。
「品をもらえるわけでは、ありませんね」
「会わせるだけだ。値引きも含まん」
キーノの視線が、鬼太郎の普通の鞄へ動いた。
「広い方を買うためか」
「それだけではありませんが、必要な紹介です」
報酬も、ただの運搬よりずっとよかった。鬼太郎は準備金と、人数が事前情報より増えた場合の扱いを尋ねた。
仲介人が奥へ確認に行く。戻ってきたときには、九人以上なら追加、紹介状は依頼完遂と同時に封をした状態で渡す、と加わっていた。
依頼人が後から都合で紹介を取り消さないこと、職人本人が断った場合は鬼太郎の失敗にしないことも確かめる。
「工具箱は、本人が必要と言えば開けても?」
「道具を失わずに運ぶためなら認める。お前たちが勝手に開ければ破損扱いだ」
鬼太郎は紙の表現を二か所聞き直し、前金を受け取った。
キーノはその間も、机から離れなかった。
「私は何をする」
外へ出る前に尋ねられ、鬼太郎は彼女へ向き直った。
「集積所へは、連れていきません。いま任せられる仕事がありませんから」
「見ることはできる」
「まだ退路も、誰をどこから見られるかも分かりません。今回は別の方をお願いします」
キーノの目が細くなった。
「茶色い外套です。仲介人や打ち合わせの場所へ行く間に、同じ人がいないか見てほしい」
鬼太郎は紙を出し、観察する時間と報酬を記した。見つからなくても固定分は払う。帽子や服が変わっていても同じ男と判別できれば、追加を出す。
「追うのは、サーシェスか」
「受けていただければ。キーノさんは見つけて、合図をする所までです」
「あいつが逃がしても、私の分は減らないな」
「減りません」
キーノは数字を確かめてから、受けると言った。
◆
サーシェスからの返事は、昼過ぎに届いた。
先の仕事は済んだ。二時間後、貸し部屋へ行く。
緊急の二本線は使わなかった。鬼太郎はキーノと先に部屋へ入り、机の上へ依頼書の写しと、監視者についての記録を分けて置いた。
「初っ端から、二つか」
入ってきたサーシェスが二枚を見た。
「先に、職人の方をお願いします」
鬼太郎は対象と期限、工具箱の防護を伝えた。男は一通り読んでから、椅子を引いた。
「九人から追加か。魔法使いだけ増えてても同じか?」
「人数へ含みます。杖を持つ人の数では、別に決めていません」
「次は、そこも取れよ」
「覚えておきます」
依頼するのは外周の確認と、必要なら狙撃の位置の確保。突入時の役割は、下見を終えてから決める。サーシェスは人と壊せない箱の二つを運ぶ手間を挙げ、鬼太郎が出した額より上を求めた。
弾薬と移動は経費にし、爆薬は下見後に相談する。金額が決まると、男は写しを自分の方へ引いた。
「受ける。もう一つは?」
鬼太郎は手帳を開いた。男が三度姿を見せたこと、進路を変えても続いたこと、近づいてはこなかったことを話す。
キーノが、袖と肩の特徴を補った。
「小娘が見つけたら、俺が追うのか」
「ええ。捕まえるより、誰へ報告するかを知りたいんです」
「こっちも、別の仕事だな」
「そのつもりで、額を伺っています」
追った時間への固定分と、確認できた情報への追加。見失っても、何をして逃げたか分かれば、その情報には払う。何も分からなければ固定分だけにする。
サーシェスが紙の端へ金額を書いた。
鬼太郎は一度下げさせ、男が受けると答えた所で止めた。
「俺が捕まえても、怒るなよ」
「追えずに襲われた場合まで、手を出すなとは言いません。そうでなければ、報告先を先に」
キーノが二人を見た。
「合図は、袋を持ち替える。右から左だ」
「何もなくても持ち替えるなよ」
「間違えない」
「俺が見る前に持ち替えてたら、分からねえぞ」
彼女は袋を膝へ置き、サーシェスを睨んだ。
鬼太郎は出る順序と、見つからなかった場合の合流場所を決めた。男は少し遅れ、別の出口から通りへ出ることになった。
◆
灰色の襟巻きをした男が、古道具店の前にいた。
帽子は違う。外套の前を閉じ、擦れていた袖も見えにくくしている。
キーノは食料の小さな袋を右手に持ち、鬼太郎の隣を歩いた。店の窓を横切った男が、歩く瞬間に右肩を下げる。
袋を左手へ移した。
鬼太郎は何も言わず、予定していたパン屋へ入った。小さなパンを一つ買い、キーノが釣りを確かめる。その間、男は向かいで新聞を開いていた。
店を出ても、目を合わせない。
仲介人の建物へ戻るまで、キーノは男へ顔を向けなかった。
◆
サーシェスは、二人が消えた扉ではなく、新聞の男を見ていた。
男はしばらく同じ場所に残った。二人を待つつもりなのかと思った頃、紙を畳み、来た道へ戻り始める。
帽子屋へ入り、違う帽子で出てきた。襟巻きは外して脇へ抱えている。
サーシェスは肉屋の客になり、吊られた肉の間から動きを見た。男は途中で靴紐を直し、歩いた道を少し戻った。
慣れている。
坊主たちに気づかれたと思っているかは分からないが、自分の後ろを見ずに帰るほど迂闊ではなかった。
男は古い煉瓦壁に挟まれた路地へ入った。
サーシェスは入口の前を通り過ぎ、向かいの建物の割れ窓越しに奥を覗いた。男が懐から出したのは、杖だった。
壁へ触れる。
腰ほどの高さの煉瓦が一枚沈み、黒い口が開いた。男は薄い封筒を入れる。見える側に宛名はない。
煉瓦が戻り、男が周囲を見た。
サーシェスは窓の陰へ顔を引いた。
乾いた破裂音がした。
覗き直したとき、路地には誰もいなかった。男が走って出た様子も、奥の扉が開いた音もない。
サーシェスは路地へ入らなかった。
消えた奴を追うために、知らない仕掛けへ手を入れる気はない。周囲の店と窓、男が杖を触れさせた高さを覚え、反対の通りへ出た。
◆
「姿くらましでしょうね」
食堂の奥で報告を聞いた鬼太郎は、そう答えた。
仲介人の建物は見られている。三人はそこへ集まり直さず、時刻をずらして別の場所へ来ていた。
「追えるか」
サーシェスが聞く。
「僕には使えません。どこへ移ったかも、分かりませんし」
「投函口も開けてねえ。中を探れば、受取人へ何か伝わるかもしれん」
「それで構いません。報告が来なくなれば、こちらが気づいたと知らせることにもなります」
鬼太郎は聞いた順に書いた。変装、道を戻る動き、杖、封筒、隠された投函口、離脱の仕方。
キーノが紙を覗く。
「じゃあ、泥も袖も、もう関係ないのか」
「別の服になっても見分けたでしょう。それがなければ、サーシェスさんも追い始められませんでした」
「誰へ送ったかは、分からなかった」
「分かった所まで、次に使います」
鬼太郎はキーノへ、観察した時間の分と変装後の識別分を渡した。サーシェスにも追跡と、確認した情報への金を払う。
キーノは自分の分を数え、男の袋を見たが、中身を尋ねはしなかった。
「物盗りじゃねえな」
サーシェスが言った。
「殴る機会も、抜き取る隙もあった。手は出してこなかった」
「何を見たいんだ」
キーノの問いに、鬼太郎は買い物の記録へ目を落とした。
「僕が誰と歩き、何を買い、どこへ行くか。少なくとも、そういうことは書けたでしょうね」
「偽物を見せるか?」
サーシェスが楽しそうに言う。
「まずは、知られて困る所を見せないようにします。今日の現場へまで連れていくつもりはありません」
鬼太郎は手帳を閉じた。
封筒に孔雀の印があったとは、聞いていない。劇場の手紙と同じ相手だと決める材料もなかった。
分からない所を一つの名前で埋めるより、別々に置いておく方がよかった。
◆
出発前、キーノへもう一つの仕事を頼んだ。
決めた時刻まで二人が帰らなければ、仲介人へ紙を届ける。戻った場合でも、外へ出られる状態で待った分は払う。
紙にある時刻と店の印を、キーノは声に出して確かめた。
「私が持っていくのは、これだけか」
「はい。現場へ見に来る必要はありません」
「字が分からなくても、渡せる」
「全部は読めなくても、渡す相手と時刻が分かればできます」
キーノは紙を折り、自分の部屋の机へ置いた。
鬼太郎は自室で銃と予備弾を確かめた。帳簿と手紙は持たず、依頼書の写しだけを上着へ入れる。
日が落ちてから、サーシェスと別々に集積所へ近づいた。
使われない線路の先に、屋根の欠けた倉庫がある。柵は壊れているが、裏の泥には新しい轍があった。
鬼太郎は草の陰から正面を見る。銃を持つ男と、上着の下へ長い刃物を隠す男。二階窓にも一人いた。
裏手には荷車と二人。中の声と動く影を合わせると、六人では済まない。
給水塔の跡へ回ったサーシェスから、短い合図があった。鬼太郎も位置を変え、窓の奥に灯る杖先の光を見た。
金属を叩く音が、床の下から聞こえた。
一度、二度。少し間があり、また二度。
鬼太郎は耳を澄ませた。作業の音にしては繰り返し方が同じだったが、何が鳴らしているのかまでは分からない。
裏口が開いた。
灰色の髪の男が、二人に挟まれて出てくる。右耳の上が欠け、左手には血の滲んだ布が巻かれていた。
エドガー・ヴェイル。
男たちは職人を別棟へ押し込み、戻ってきた。次に運び出した黒い箱には、銅色の縁がある。
工具箱は荷車へ積まれた。
鬼太郎は別棟から荷車までの距離を見た。同じ扉から二つを持ち出すつもりでは、間に合わないかもしれなかった。
「夜半までに済ませろ。夜明け前には出る」
荷車の傍で声がした。
「爺は?」
「手が使えなきゃ、置いてけ。箱は積め」
鬼太郎は腹の傷痕へ、服の上から一度触れた。痛みはない。荷車へ水袋と毛布が積まれ始め、長い移動の支度だと分かった。
依頼書には、明日の夜までと書いてある。
ここで明日を待てば、職人と箱は別の場所へ行くかもしれない。
鬼太郎は姿を低くしたまま、来た道へ戻った。
壊れた石橋の下で、サーシェスと合流する。男は長銃を肩から下ろし、すぐに尋ねた。
「八人はいるな。爺は見たか」
「別棟です。箱は、荷車へ」
「夜明け前に動くぞ」
「こちらでも、聞きました」
鬼太郎は地面へ倉庫と別棟、荷車の位置を描いた。サーシェスが二階窓から伸びる線を足し、自分の見えた範囲を示す。
「明日の夜ってのは、こっちの都合だったな」
「ええ。先に箱だけ運ばれると、面倒です」
「今夜か、坊主」
鬼太郎は地面の図を見た。まだ分からない入口があり、床下の音もある。職人の左手がどこまで使えるかも、遠目では分からない。
それでも、箱が荷車へ載ったのは見た。
「二つを、一緒に持ち出せるうちに」
サーシェスの口元が上がった。
鬼太郎は図へ指を置き、別棟と荷車へ向かう道を分けた。