第四十話 本物だけで作られた嘘
机の上には、依頼書が一枚だけ置かれていた。
その隣に、革袋がある。
鬼太郎が触れる前に、仲介人は言った。
「俺のところへ直接来た仕事じゃない」
「どこからですか?」
「知らん男が持ってきた。そいつも、別の奴から頼まれただけだと言っている」
「その方は、もう帰りましたか?」
「帰した。待たせておく理由がなかった」
鬼太郎は椅子へ座り、先に依頼書を手に取った。
紙は新しい。
字は読みやすく、条件ごとに行が分けられている。
回収対象は、封印された鉄箱。
箱を運んでいた男が生きていれば、連れ帰る。
箱は開けない。
封が傷ついていれば減額。
運び手が生存していれば追加報酬。
敵の生死は問わない。
期限は、今夜から明け方まで。
場所は、街道を外れた林の中にある閉鎖済みの劇場。
最後の行には、協力者を一名まで認めると書かれていた。
「箱の大きさは?」
仲介人は、机の引き出しから別の紙を出した。
「縦と横はここだ。高さは、子供の膝より少し上。取っ手が左右に一つずつある」
「重さは?」
「成人二人で運んでいた。中身の重さは分からん」
「封は」
「深緑の蝋。三本の鍵を束ねた印」
「箱そのものに、傷や印はありますか?」
「右の取っ手の下に、古いへこみが一つ」
質問するたび、答えが出てきた。
鬼太郎は依頼書へ目を戻した。
「運んでいた方の名前は?」
「トーマス・ヘイル。四十前後。茶色い髪、左耳の下に刃物の傷。右手の小指が途中からない」
「劇場へ連れ込まれたことは、誰が確認したのですか?」
「荷馬車を追った者が、林の入口まで見ている。劇場から出てきたところまでは見ていない」
「依頼人の名前は?」
「明かさない」
「箱の中身も?」
「明かさない。ただし、開けるなとは書いてある」
「引き渡しは」
「明け方までに、北の街道にある古い料金所へ運ぶ。依頼人側の男が、これと同じ印の半札を持って待つ」
仲介人は、半分に割られた真鍮の札を置いた。
断面は複雑に欠けている。
同じ形を適当に作って合わせるのは難しい。
「運び手が死んでいた場合は?」
「箱だけでいい。死体は要らん」
「協力者への報酬は、別に出ますか?」
「出ない。この額をどう分けるかは、お前が決めろ」
条件に穴がないわけではない。
依頼人の名と箱の中身は伏せられている。
だが、それだけなら珍しい仕事ではなかった。
回収対象の特徴は細かい。
運び手の識別方法もある。
引き渡し場所も、確認に使う半札も用意されている。
鬼太郎は革袋を開いた。
中の硬貨を一枚ずつ机へ並べる。
前金は総額の四分の一。
安くはない。
だが、知らない依頼人が危険な仕事を急がせる金額として、不自然に高すぎるわけでもなかった。
「この前金は、持ってきた方が出したのですか?」
「ああ。俺が数えた。混ぜ物もない」
「僕を名指ししましたか?」
「名前は知らなかった」
仲介人は、机へ肘をついた。
「炎と小さな拳銃を使う、外国人の子供を探していると言った」
鬼太郎の指が、硬貨の上で止まった。
「ずいぶん、詳しく探していますね」
「今のお前なら、その程度は知られている」
「一名まで協力者を認める、という条件も?」
「最初から書いてあった」
「二人以上ではいけない理由は」
「書いていない」
仕事を持ち込んだ者は、鬼太郎を探している。
そのうえで、協力者を一人だけ認めている。
鬼太郎が誰と何度も組んだかを知っていれば、その一人が誰になるかは想像できる。
「断るなら、前金は返す」
仲介人が言った。
「俺は依頼人を知らん。この仕事が書かれているとおりだとは保証しない」
「危険が隠されていた場合は?」
「俺からの補償はない。持ち込んだ男を探すなら、見た目と帰った方向は教える」
「必要ありません」
鬼太郎は硬貨を革袋へ戻した。
「受けます」
「罠かもしれんぞ」
「その可能性はあります」
罠を作るために、本物の硬貨を使っている。
鉄箱の特徴を用意し、運び手の名前と身体的特徴まで決めている。
依頼を持ってきた男にも、知らないことを知らないまま話させている。
それだけの手間をかけて呼ぶ相手が、本当に自分なのか。
確かめる価値はあった。
「もう一つ、頼みがあります」
鬼太郎は依頼書を折った。
「あの傭兵へ、伝言を届けてください」
◆
サーシェスの寝床を、鬼太郎は知らない。
サーシェスも、鬼太郎の個室を知らない。
それでも、仕事を組ませた者は、次の仕事があることを伝えられる。
仲介人は、以前サーシェスへ依頼を回した連絡役に短い紙を預けた。
今夜。
閉鎖された劇場。
回収と、生存者がいれば連れ帰る仕事。
外からの射撃支援が必要。
罠の可能性あり。
報酬は、鬼太郎が五分の三、サーシェスが五分の二。
それ以上は書かなかった。
鬼太郎は個室へ戻り、〈シュライク〉を分解した。
一年の間に何度も繰り返した手順だった。
汚れを拭い、部品を確かめ、組み直す。
弾薬を数える。
予備を分ける。
依頼書と半札は、濡れないよう布で包んだ。
簡易鑑定だけ済ませた二本の杖には触れない。
使えるか分からないものを、罠かもしれない場所へ持っていく理由はなかった。
日が傾き始める前に、連絡が戻った。
サーシェスは仕事を受ける。
待ち合わせ場所として指定されたのは、街外れの空き厩舎だった。
鬼太郎が着いたとき、サーシェスは干し草のなくなった飼葉桶へ腰を預けていた。
「よう、坊主」
「お待たせしました」
「待っちゃいねえ。罠かもしれねえ仕事にしちゃ、ずいぶん早い呼び出しだ」
鬼太郎は依頼書を渡した。
サーシェスは最初から読み、最後の一行で口元を歪めた。
「協力者一名まで、ねえ」
「気になりますか?」
「ずいぶん俺たちに親切な依頼人じゃねえか」
「親切なのか、最初から人数を数えているのかは、まだ分かりません」
「お前を探して、相棒一人分の席まで空けてある」
サーシェスは紙を返した。
「俺なら、二人まとめて殺すときにそう書く」
「僕も候補の一つには入れています」
「それで受けたのか」
「前金は本物でした。運び手も、箱も、本当にあるかもしれません」
「なくても、敵はいる」
「ええ。何もない場所へ行くよりはよいでしょう?」
サーシェスが、喉の奥で笑った。
「違いねえ」
報酬の分け方に異論は出なかった。
鬼太郎が内部へ入り、箱と運び手を確認する。
サーシェスは外から射線を作る。
これまでに何度も行った役割だった。
ただし、今回は相手がその形を知っている可能性がある。
「先に見ます」
鬼太郎が言った。
「建物も、その周りも」
「俺は撃てそうな場所を見てくる」
「撃ちやすい場所には、気をつけてください」
「言うようになったじゃねえか、坊主」
サーシェスは立ち上がった。
長銃は、まだ持っていない。
偵察を終え、必要なものを選んでから運ぶつもりだった。
◆
劇場は、街道から外れた林の中にあった。
屋根の一部が沈み、外壁には蔦が這っている。
剥がれかけた看板には、文字の跡だけが残っていた。
正面の窓は板で塞がれている。
街道から眺めただけなら、十年以上使われていない建物に見えた。
鬼太郎は、林へ入る前にサーシェスと別れた。
一緒に歩けば、二人分の足跡と気配が同じ場所へ残る。
鬼太郎は劇場の正面が見える茂みまで回った。
入口の脇に、男が一人いる。
古い木箱へ座り、瓶から酒を飲んでいた。
杖は見えない。
腰の上着が片側だけ膨らんでいる。
拳銃か、短い刃物が入っている形だった。
男は何度も欠伸をした。
ときおり立ち上がり、林の中へ小便に行く。
それでも、正面扉が見えなくなる距離までは離れなかった。
退屈している。
酔っている。
だが、持ち場を忘れてはいない。
鬼太郎は男を見たまま、劇場の窓を数えた。
板は日に焼け、端が腐っている。
その中に三枚だけ、色の違う釘が使われていた。
板そのものは古い。
釘だけが新しい。
誰かが最近、外した板を打ち直している。
正面を離れ、外壁に沿って大きく回る。
劇場の裏には、荷物を入れるための搬入口があった。
扉の下には枯れ葉が溜まっている。
その一部が、細い線を描いて途切れていた。
扉は最近、一度以上開いている。
近くには古い排水溝もあった。
蓋の隙間は狭い。
七歳の身体でも、肩を通せる幅はない。
鬼太郎は無理に触れず、位置だけを覚えた。
裏手の地面には、荷車の轍が残っている。
雨で縁が崩れているものと、まだ土が乾ききっていないものが混ざっていた。
使われていない建物にしては、新しい。
人を閉じ込め、鉄箱を置くためだけに使った跡とも限らない。
もっと前から、誰かがここへ物を運んでいる。
鬼太郎は一周し、最初に決めた場所へ戻った。
サーシェスが来たのは、それからしばらく後だった。
「三か所だ」
挨拶より先に、サーシェスは言った。
「何がですか?」
「長銃を置きたくなる場所だ。西の窓、向かいの古い物置、その裏の斜面」
「舞台は見えますか?」
「見えねえ」
サーシェスは、劇場の方角へ顎を向けた。
「入口と窓は見える。人が飛び出してくりゃ撃てる。だが、中へ入ったお前へ射線は通らねえ」
「それでも、撃ちやすい場所に見える」
「ああ。だから気に入らねえ」
西の窓には、板の間へ細い隙間が残されていた。
古い物置の屋根は低く、長銃を伏せて置ける。
斜面からは、正面扉と搬入口の両方が見えた。
狙撃手が短時間で選ぶなら、どれも悪くない。
だが、どこへ伏せても舞台は見えない。
「林の北側に、踏み固めた跡がある」
サーシェスが続けた。
「一人分だ。立ったり座ったりして、同じ場所に長くいた。劇場を見る位置じゃねえ。西の窓と斜面を見る位置だ」
「狙撃する方ではなく、狙撃する方を見る場所ですね」
「俺たちに親切な奴が、もう一人いるらしい」
劇場へ入った者を待つ配置ではない。
外へ残る者を探す配置だった。
それでも、罠だと証明できるものではない。
鉄箱を奪った者が、追っ手や狙撃手を警戒しているだけかもしれない。
鬼太郎は、正面の見張り、新しい釘、搬入口の枯れ葉、轍について伝えた。
サーシェスは聞き終えると、劇場を見た。
「使ってねえふりをして、使ってやがる」
「そのようですね」
「依頼書どおり、箱を奪った連中が立て籠もってるだけかもしれねえ」
「そうであれば、予定どおり回収できます」
「俺たちを呼ぶための舞台なら?」
「どこまで用意したのか、見せていただきましょう」
鬼太郎は笑った。
罠だと分かれば退くべき仕事もある。
報酬より失うものが大きいなら、近づく理由はない。
だが今回は、相手が自分とサーシェスを知ったうえで場所を用意しているかもしれない。
自分を殺すために、どの程度のものを集めたのか。
サーシェスが、相手に読まれた射線をどう外すのか。
確かめたいと思った。
◆
日が沈むまでに、二人は一度林を離れた。
サーシェスは長銃を選び、リボルバーとナイフを持った。
腰の後ろには、煙を出す投擲物を一つだけ留めている。
鬼太郎は〈シュライク〉と予備の弾薬を持った。
ほかに増やしたものはない。
荷物が多ければ、狭い場所で身体の動きを妨げる。
二人は地面へ簡単な図を描き、位置を決めた。
サーシェスは、昼間に見つけた三つの場所を使わない。
劇場の北東、倒れた石壁と木の根が重なる低い場所へ回る。
舞台へ直接は撃てない。
その代わり、上階の窓二つと、林の監視役がいた場所を横から見られる。
鬼太郎は搬入口から入る。
箱を見つけても、すぐには触れない。
深緑の蝋、三本の鍵の印、右の取っ手のへこみを確認する。
運び手がいれば、左耳の下の傷と、右手の小指を確かめる。
外で敵が動いた場合、サーシェスは一発を合図にする。
二発続けば、外の位置を捨てて移動する。
鬼太郎が決めた時刻までに戻らなければ、サーシェスは同じ場所で待たず、別の入口を探す。
「中で囲まれたら?」
サーシェスが尋ねた。
「敵を減らします」
「助けを待つとは言わねえんだな」
「あなたも、言われても待たないでしょう?」
「そりゃそうだ」
サーシェスは歯を見せた。
「死ぬなら、合図する前に死ぬなよ。取り分が減る」
「追加報酬まで受け取ってからにします」
二人は別れた。
◆
夜の劇場は、昼よりも古く見えた。
雲が月を隠すたび、屋根と林の境が消える。
正面の男は、まだ木箱へ座っていた。
瓶は足元に置かれている。
瓶の中身は、昼より減っていた。
酔って見せるために口をつけ、ほとんど捨てている。
鬼太郎は正面へ近づかなかった。
地面の低い場所を選び、裏手へ回る。
搬入口の前で一度止まった。
昼間には見えなかった油の匂いがする。
錆びているのは、扉の表面だけだった。
蝶番と、内側へ続く金具には、新しい油が差されている。
鬼太郎は手袋をした指で扉を押した。
鍵はかかっていなかった。
わずかな隙間が開く。
暗い廊下が、奥へ伸びていた。
侵入を防ぐための扉ではない。
誰かを中へ通すための扉だった。
鬼太郎は一度、林の北東へ目を向けた。
サーシェスの姿は見えない。
それでよい。
見える場所へいるなら、昼間に見つけた監視役にも見える。
鬼太郎は扉の隙間へ身体を滑り込ませた。
背後で、扉を元の位置まで戻す。
廊下には、埃と油の匂いが混じっていた。
床板は古い。
だが、壁際だけは埃が薄い。
何人かが、同じ方向へ何度も歩いている。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜かず、右手だけを上着の内側へ入れた。
足音を消して進む。
廊下の先に、地下へ続く石段があった。
下から、油を燃やす匂いが上がってくる。
灯りを使っている。
さらに耳を澄ます。
一人ではない。
二人でもない。
靴底が石を叩く音。
椅子を引く音。
低く交わされる、いくつもの声。
閉鎖された劇場の地下で、人が集まり始めている。
鬼太郎は、暗い階段の下を見た。
「依頼書には、敵の人数までは書かれていませんでしたね」
声は誰にも届かないほど小さい。
口元だけが、わずかに笑っていた。
鬼太郎は一段目へ足を置いた。