第41話 封を切る前に
荷車が窪みを越えるたび、ヴェイルの目が工具箱へ向いた。
縄は緩まず、銅の縁も荷台へぶつからない。それでも職人は何度も確かめた。鬼太郎は箱ではなく、遠ざかる道へ目を向けていた。
倉庫の灯りは、もう見えなかった。
「一度止めるぞ」
サーシェスが崩れた石壁の陰へ荷車を寄せた。鬼太郎は先に降り、後ろの道と壁の向こうを見た。
追ってくる者は見えない。
「箱へ、何かつけられていませんか」
ヴェイルが側面を調べた。
「外から分かる物はない。私の防護も眠ったままだ。細かく調べるには道具を出さなければならん」
「では、ここではそのままで」
鬼太郎は弟子の方を見た。男は腫れた目を押さえ、工具を膝へ置いている。
「お名前を、聞いていませんでした」
「マイルズ・ケント」
「マイルズさん。吐き気や、目眩はありますか」
「頭は重い。吐きそうではない」
鬼太郎が引渡し先で治療を受けるよう伝えると、男は逆にこちらの脇腹を見た。
「お前も、そこを触ってる」
「前の傷が、少し張るんです」
「今夜じゃないのか」
「ええ」
マイルズが師匠を見る。ヴェイルは返事をせず、片手で縄を確かめていた。
鬼太郎は荷台へ戻った。傷口が開いた感触はなく、張りも強くはなっていない。ディアを使わずにいられるうちに、仕事を終える方がよかった。
サーシェスが再び馬を進める。
車輪の軋む音に混じり、ヴェイルが弟子へ、指が動くかと聞いた。マイルズは動かしてみせたが、左の肩は上がらなかった。
鬼太郎はその様子を覚え、依頼書を上着越しに押さえた。負傷があっても、本人を生きて引き渡せば条件内。その一文を、倉庫で別の意味にされるつもりはなかった。
◆
指定の倉庫には、まだ灯りが残っていた。
合図の回数だけ扉を叩くと、内側から番号を尋ねられた。鬼太郎が答え、開いた門を荷車で通る。
代理人は、荷台の二人を見て顔をしかめた。
「ヴェイル。一人多いぞ」
「私の弟子だ」
「こいつまで頼んではいない」
「ええ。そちらは、別の約束です」
鬼太郎は荷車を下りた。サーシェスは御者台へ残り、門と代理人の両方を見ている。
代理人が工具箱へ手を伸ばした。
「開けるのは、ご本人にお願いします」
「中身を確かめるんだ」
「勝手に動かせば、中の道具が焼けるそうです。今、触った分まで僕の責任にはしないでくださいね」
手が止まった。
ヴェイルは荷台から下り、箱へ近づいた。
「先に、本人かを聞け。それとも、道具が燃えた後で私かどうか決めるのか」
代理人は不機嫌そうに紙を出した。
三か月前に修理した箱、最後に回した客。その二つを尋ねると、ヴェイルは値を惜しんで手間を増やした代理人の判断まで、つけ加えて答えた。
「本人だ」
「生存、歩行可能、左手に負傷。条件内で受領する、とお願いします」
鬼太郎が言うと、代理人は紙から顔を上げた。
「分かっている」
「でしたら、書く手間だけですね」
代理人が追記する間に、ヴェイルの指示で箱を下ろした。サーシェスと荷役の男が左右の取っ手を持ち、低い台へ置く。
職人はまず銅の縁を撫で、錠の周りを見た。次に右手を置いて短い言葉を唱える。傷に見えていた印が、三本の細い光になった。
箱が開いた。
内側には、銀糸の巻き枠、細い針、小さな鏡と折り畳まれた測定具が並んでいた。マイルズが一つずつ名を読み、ヴェイルが位置と数を確かめる。
鬼太郎は道具へ触れなかった。
箱を開けなくても、これを扱える職人との約束があれば、次に買う物は選びやすくなる。その約束は、まだ紙にはなっていなかった。
「欠けはない。焼けてもいない」
ヴェイルが上段を戻した。
「測定具も動く。横倒しにも、されていないな」
代理人は箱の中を覗き、受領書へ書き加えた。
未開封で到着。所有者による開封後、内容物に欠損、焼損なし。
鬼太郎はその行を読んでから、次の話へ進んだ。
「敵は十人いました」
「六人と聞いていたが」
「ええ。九人以上で追加と、書いていただきました」
代理人はすぐには返事をしなかった。
「十人いた証拠は?」
鬼太郎は紙へ集積所の図を描いた。正面、二階、別棟、荷車。その四つへ、一人ずつ重ねて数えないよう印をつける。
サーシェスが自分の撃った位置を指し、ヴェイルも別棟の護衛と外で見た者を確かめた。
「地下に、もう一人」
マイルズが言った。
「俺を見張っていた。階段で撃たれた奴だ」
「死体を持ってきたわけじゃない」
「全員を殺して運ぶ仕事では、ありませんよ」
鬼太郎は逃げた棍棒の男も隠さなかった。
「存在する人数の条件です。僕たちから離れたので、追いませんでした」
代理人は依頼書と図を見比べた。サーシェスは御者台から下りてきたが、口を挟まず、机の反対側へ立った。
やがて代理人が、十人と書いた。
残額と追加報酬の袋が出される。鬼太郎はその場で数え、約束した額に足りていることを確かめた。
「紹介状を、お願いします」
代理人は引き出しから厚い封筒を出した。赤褐色の封蝋は、まだ割れていなかった。
宛名は、ベアトリス・ホロウェイ。
「この製作者なら、お前の望む品も扱っているだろう」
「中の文面は、確認できますか」
「開ければ無効だ」
鬼太郎は封へ触れる前に、手を止めた。
「では、控えを。何を紹介されたのか分からないまま、伺うのも困ります」
代理人は別の紙を出した。正規の代金を払う意思があり、品質と保証、修理先を確かめたい客。子供だからと粗悪品を出さないよう求める文もあった。
無償の提供も、値引きも約束していない。
鬼太郎は控えを読み、封筒へ目を戻した。
「期限は?」
「発行から三か月。面会と購入交渉に一度だ。買わずに帰っても、使った扱いになる」
「分かりました」
普通の鞄から薄い本を出し、その間へ封筒を挟んだ。
最後に受領証を確かめる。本人、工具箱、追加人数、支払額、紹介状。印が押された紙を受け取ってから、鬼太郎は鞄を閉じた。
代理人は、マイルズへ目を向けた。
「弟子の追加分は、こちらからは出さんぞ」
「そちらへ求める約束は、していません」
鬼太郎はヴェイルへ向き直った。
「机をお借りしても?」
職人は黙って椅子を引き、弟子へ筆記具を持たせた。
◆
マイルズの書く手は、最初の一行で止まった。
「買う前に、調べるんですか」
「ええ。悪い品だと分かってから、戻しに行くよりよいでしょう」
「店が断ったら?」
「ホロウェイなら、私の話を聞く」
ヴェイルが答えた。
「断られた品を無理に開けるわけではない。その場合は、別の品か、別の日にする」
鬼太郎は最初の約束を短く読み上げた。購入する最初の拡張鞄一つ。検査料は取らず、容量、安定性、縫い目と術式、耐荷重、製作者印と修理できる作りかを確かめる。危険な所があれば、理由を説明する。
マイルズが書き、ヴェイルが横から見た。
「検査した結果、買わなかったら」
鬼太郎が尋ねる。
「一回分だ。次からは料金を取る」
「移動費は、こちらで。紹介状の期限内にお願いしたいのですが」
「連絡先を書く。勝手に日を決めず、先に知らせろ」
鬼太郎は頷き、その条件も加えてもらった。
二通を書き終えると、ヴェイルは右手で署名した。マイルズも立会人として名を残し、鬼太郎は仕事で使う番号を記した。
片方を受け取り、紹介状とは別の包みへ入れる。
「これで、私が逃げると思わずに済むか」
ヴェイルが言った。
「日や内容を、違って覚えていても確かめられます。僕の言い分だけに合わせていただく必要も、ありません」
職人は自分の一通を見た。折り目をつけ、上着へしまう。
マイルズは筆記具を机へ戻した後も、鬼太郎を見ていた。
「本当に、これで終わりか。俺は、何も――」
「依頼したのは、ヴェイルさんです」
「俺が、こいつに頼んだ。お前に借金を負わせたんじゃない」
ヴェイルは弟子を立たせた。
「今は手当てを受けろ。道具を落とす前にな」
マイルズは膝へ置いていた小さな工具を握り直す。鬼太郎へ何か言いかけ、やめた。
それから、短く頭を下げた。
鬼太郎は礼を求めず、二人が奥へ行くのを見送った。
◆
荷車は依頼人側へ残した。
処分する手間と費用は相手側で持ち、その分を報酬から引かないと確かめた。サーシェスも長銃と荷を下ろし、鬼太郎と一緒に倉庫を出る。
精算は、中立の貸し部屋で行った。
鬼太郎は約束した固定報酬を出し、地下で頼んだ追加の援護分をその隣へ置いた。サーシェスが二つを数える間、別の紙へ弾薬と煙幕の費用を書く。
「長銃が二発。リボルバーが四発、煙幕一つ。爆薬はなしです」
「あとは、ここまでの移動だな」
額を合わせて渡す。サーシェスは鬼太郎の追加報酬の袋を見た。
「十人いた方は?」
「人数で増える条件を、サーシェスさんとは決めていませんでしたね」
「そうだな」
不満というより、次の話を待つ顔だった。
「今度は、人数が増えた場合の取り分も先に決めましょう。こちらが危険の分を受け取るなら、入っていただく方にも関係します」
「次は俺から言うつもりだった。今回の分は、これでいい」
男は袋をしまった。
「弟子は、検査がなけりゃ置いてきたか?」
鬼太郎は書類を重ねる手を止めた。
「ヴェイルさんが動かなくなれば、本来の仕事も終わりません。ほかの対価か、連れ出す方法を考えたでしょうね」
「自分が助けたがってた、とは言わねえんだな」
「お会いしたばかりの方ですよ」
サーシェスが笑った。
「そこの割り切りは、少しも治ってねえ」
「傷とは、別ですから」
男は椅子を引き、長銃を取った。
「次は、いつ呼ぶ」
「少なくとも二日は、仕事を休みます」
「医者に言われる前にか」
「おそらく、同じことを言われますので」
「楽しみを減らすなよ、坊主」
「また治療所から運んでいただくより、安く済みますよ」
サーシェスは返事の代わりに手を振り、別の道へ歩き出した。
◆
廊下へ上がると、斜め向かいの扉の下から、細い光が漏れていた。
鬼太郎が自分の錠へ鍵を差す音で、その光が動いた。キーノの扉が開く。
「戻ったか」
「ええ。伝言の時刻には、間に合いましたね」
キーノは杖を下げ、机を振り返った。畳んだ紙は、受け取ったままの位置にあった。
「使ってない」
「それで結構です」
鬼太郎は自室の扉を開けたが、中へ入る前に、用意しておいた報酬を出した。
キーノの手はすぐには伸びてこなかった。
「本当に、何もしなかったぞ」
「出られる状態で待っていていただきました」
「お前が戻ったら、要らない紙だ」
「ええ。使わずに済んだ方がよい紙でした」
キーノはそれを聞き、硬貨を受け取った。廊下で数えてから、服の内側へ入れる。
鬼太郎が鞄を持ち直すと、彼女の目が右手へ動いた。
「血がついてる」
「ほとんどは、僕のものではありません」
「ほとんど、か」
「指を少し擦った程度です。仕事は、終わりました」
鬼太郎は手を開いて見せた。金具に触れた所に、小さく皮の剥けた箇所があるだけだった。
キーノは腹の方へ目を下げた。
「そっちは」
「少し張ります。出血はありません」
「診せに行け」
「着替えてから、行くつもりです」
鬼太郎は部屋へ入り、上着を脱いだ。キーノは戸口に残り、こちらの荷を見ていた。
「二人だけの仕事じゃなかったのか」
「職人と箱は、揃いました。それから、弟子の方が一人」
「ほかにも、いた?」
「地下に。追加の条件を決めて、連れ出しました」
「何をもらった」
鬼太郎は検査契約の包みを示した。
「買う鞄を調べていただきます。紹介状も受け取りました」
「それで、広い方を買えるのか」
「品を見せてもらい、値段を払う必要はありますよ」
「まだあるのか」
「今度は、選び方を知る方も一緒です」
キーノは包みから目を離し、机へ視線を移した。新しい本と普通の鞄は、出発前の位置にある。
「じゃあ、早く診せてこい」
「ええ。少し、待っていてください」
「待つ仕事は、もう終わった」
キーノはそう言い、自分の部屋へ戻った。
◆
治療師は、傷痕を見てから鬼太郎の顔を見た。
「開いてはいない。出血もないね。治ったばかりの所を、使いすぎたんだろう」
「走る距離は、短くしました」
「走ってなくても、窓を越えたり捻ったりしたんだろうが」
鬼太郎は、少しだけ考えてから頷いた。
使った魔法と銃の数を伝える。ディアは使わなかったと聞くと、女は初めて肩の力を抜いた。
「今ある張りを消そうとして、余計に疲れることはしなかったんだね」
「治す傷があるかも、分かりませんでしたから」
「それでいい。二日は仕事を休みな」
「その予定です」
女はしばらく黙った。
「何だい。言われる前に決めたのか」
「前にも伺いましたので」
「最初からそうしてくれりゃ、診る方も楽なんだけどね」
帰り道では、歩調を上げなかった。
追ってくる者はいない。茶色い外套も、灰色の襟巻きも見えなかった。それでも、見つけられないことを、相手がいなくなった証拠にはしなかった。
部屋へ戻り、まずシュライクについた泥を落とした。長い点検は明日に回し、今夜の四発を補充する。
紹介状は、本の間から取り出した。
ベアトリス・ホロウェイ。期限三か月。
まだ会っていない相手の名を、紙へ書き写す。キーノが読める字だけを拾って覗いていた。
「三、か月か」
「ええ。二日休んでも、間に合います」
「明日は行かない?」
「手紙で、先にヴェイルさんへ都合を伺います。買いに行くのは、その後です」
鬼太郎は封筒を開けず、検査契約と一緒に乾いた包みへ収めた。
金を払うだけでは、通れない扉だった。仕事を終え、紹介状を得て、職人の時間も買った。それでも、その向こうの鞄が自分に向くかは、まだ見ていなかった。
卓の明かりが背中に遮られて、紙が読みにくくなった。キーノが仮杖を向け、「ルーモス」と唱える。二度目で灯った光が、宛名を白く照らした。
「今日は、寝ます」
キーノは少し驚いたように、鬼太郎を見た。
「片づけは」
「寝台の上は、空いていますよ」
「机の方だ」
「明日でも、逃げませんから」
キーノは机を見た。依頼の受領証、薬代や報酬の記録、購入品の一覧。どれも鬼太郎が使うもので、今夜中に退けろと命じる者はいなかった。
彼女は自分の杖を持ち上げ、部屋を照らしていた小さな光へ目をやる。
「ノックス」
白い明かりが消えた。
鬼太郎は封筒をしまった引き出しを閉じ、キーノが廊下へ出ていくのを待った。
隣の部屋で、鍵が回る。
鬼太郎も自分の錠を掛け、今日は本を開かなかった。