第四十一話 檻の中から、幕は上がる
石段は、二十段を越えていた。
鬼太郎は壁際へ寄り、一段ずつ降りた。
足元の石は古い。
中央だけが浅く擦れ、端には黒い汚れが残っている。
人が歩いている。
荷物も運ばれている。
使われていない建物の階段ではなかった。
下から聞こえる声は、さらに増えていた。
低い話し声。
笑い声。
硬いもの同士が触れる音。
兵士や見張りが合図を交わしているだけではない。
酒を飲み、席へ着き、何かが始まるのを待っている者がいる。
鬼太郎は最後の段へ足を下ろした。
正面には細い通路が続いている。
壁へ掛けられた油灯は新しく、芯も切り揃えられていた。
古い扉の蝶番だけに油が差されている。
床には、車輪の跡が二本あった。
重いものを載せた台車が、同じ方向へ何度も通っている。
鬼太郎は壁の影から、通路の先を見た。
扉が一枚、半分だけ開いている。
そこから、石の床と柱の一部が見えた。
誰かが通った気配はない。
見張りの姿もない。
それでも、扉の隙間は、子供一人が中を見るには十分な幅で残されていた。
「親切ですね」
鬼太郎は小さく呟いた。
右手を上着の内側へ入れたまま、扉へ近づく。
隙間から見える場所が増えた。
その先は、地下に作られた小さな劇場だった。
舞台の床は石で覆われている。
古い木の舞台を、そのまま残したものではない。
床の周囲には細い排水溝が走り、舞台袖には水を満たした樽が並んでいる。
天井からは、いくつもの滑車と袋が吊られていた。
客席側は暗い。
厚い幕と消えた灯りの向こうに、人の声だけがある。
舞台中央には、鉄箱が置かれていた。
低い台の上に載せられ、左右の取っ手が見えている。
少し離れた柱には、男が縛られていた。
両手を背へ回され、胸と腰を太い縄で固定されている。
顔は横を向いていた。
茶色い髪。
左耳の下に、古い刃物傷がある。
鬼太郎は、開いた扉の裏へ身を隠した。
「トーマス・ヘイルさん」
舞台まで届き、客席へは届きにくい声量で呼ぶ。
男の肩が跳ねた。
顔が動き、扉の方を見る。
「誰だ」
声は掠れていた。
「鉄箱を取り戻すよう頼まれました。いくつか確認します」
「助けに来たのか」
「質問へ答えていただければ」
トーマスは何度も頷いた。
「あの箱を運んでいたのは、あなたですか?」
「そうだ。俺と、もう一人で運んでた」
「どこで奪われました?」
「北の街道だ。荷馬車を止められた。御者は、最初にやられた」
「ここへ連れてきた方々の顔は?」
「布を巻いてた。四人……いや、途中で増えた。分からん」
「箱を開けたところは見ましたか?」
「見てない。何も話しちゃいない。俺は中身も知らない」
息が早い。
答えを用意して待っていた者の話し方ではなかった。
鬼太郎は、男の背へ回された右手を見た。
小指が途中からない。
名前、傷、指。
依頼書の特徴と一致する。
「まだ動けますか?」
「縄さえ切ってくれれば」
「少し、お待ちください」
「待て、どこへ行く」
鬼太郎は答えず、舞台の構造へ目を移した。
鉄箱も見る。
取っ手は左右に一つずつ。
右の取っ手の下には、古いへこみがある。
蓋の縁に、深緑の蝋が垂れていた。
印までは、この距離からでは見えない。
箱も男も、本物らしい。
本物の餌を置いている。
鬼太郎は舞台の左右を見た。
石床へ埋められた銀色の線。
客席と舞台の境を走る深い溝。
左右の壁際には、人が一人立てるほどの狭い足場がある。
幕の後ろに、杖先のような細い影が一度だけ動いた。
敵はいる。
だが、全員ではない。
聞こえる声の数と、舞台周辺へ置ける人数が合わなかった。
舞台袖の水。
石の床。
天井の袋。
火を使う相手へ用意した場所だと考えれば、意味は通る。
鬼太郎は床の溝をもう一度見た。
鉄格子を落とすなら、客席との間だろう。
そうすれば観客を守りながら、舞台にいる者を閉じ込められる。
ほかの三方には、同じ深さの溝が見えない。
薄い石板で隠されている部分までは、扉の裏から判別できなかった。
◆
林の北東で、男が立ち上がった。
サーシェスは、倒れた石壁の陰から見ていた。
男は西の窓を見た。
次に、斜面を見る。
古い物置の屋根も確認した。
三つとも、昼間にサーシェスが避けた場所だった。
男は誰もいないことに気づいていない。
気づいたとしても、別の場所を探す様子はなかった。
用意された射線だけを見張るよう言われている。
男が上着から、小さな筒を出した。
劇場の窓へ向ける。
合図を送る道具かもしれない。
サーシェスは長銃を置いた。
撃てば、外に狙撃手がいると劇場中へ知らせる。
石壁の陰から出る。
風が木の枝を揺らしたときだけ、一歩進む。
男は窓を見たまま、背後を振り返らない。
サーシェスは最後の距離を詰めた。
左手で口を塞ぐ。
右手のナイフを、顎の下から入れた。
男の身体が一度強く跳ねた。
声は出なかった。
サーシェスは倒れる重さを肩で受け、枯れ葉の上へ静かに下ろした。
「見張る場所が決められてる奴は楽だな」
男が持っていた筒を確かめる。
中には、色のついた光を一度だけ出す仕掛けが入っていた。
腰の袋からは、鍵が二本と、青く塗られた小さな木札が出てきた。
木札には、数字だけが刻まれている。
客の札か、裏口を通るための印か。
今は分からない。
サーシェスは鍵と木札を自分の上着へ入れた。
そのとき、劇場の地下から重い音が響いた。
鉄が落ちる前の、鎖の震える音だった。
地面を通じて、足裏へ伝わってくる。
サーシェスは劇場を見た。
上階の窓に灯りはない。
銃声も聞こえない。
「派手に捕まりに行きやがったな、坊主」
死体の靴には、淡い色の土がついていた。
この場所の黒い土ではない。
男が別の道から来た跡だった。
サーシェスは長銃を拾った。
報酬の五分の三を持ってくる人間を、見えない場所で死なせるつもりはない。
それ以上に、自分まで呼んだ者たちが何を用意したのか見てみたかった。
男の足跡を逆へ辿り始めた。
◆
鬼太郎は舞台へ出た。
〈シュライク〉を右手に持つ。
銃口は床へ向けたままだった。
客席の声が、わずかに小さくなる。
気づかれたのではない。
待っていたものが現れ、声を抑えた。
鬼太郎は先にトーマスへ近づいた。
「動かないでください」
「早くしろ」
右手の小指を近くで確認する。
左耳の下の傷も、作ったばかりのものではない。
縄は柱の裏へ回され、鉄の金具へ通されていた。
表から切れる部分だけを切っても、胸と腰の縄は外れない。
柱の後ろへ回れば、客席と舞台袖の両方へ背を向けることになる。
鬼太郎は縄へ触れず、鉄箱へ向かった。
「おい」
「箱を先に確認します」
「俺を置いていく気か」
「生きていれば、追加報酬が出ます。置いてはいきませんよ」
舞台中央へ進む。
床の銀線を踏む直前で、一度止まった。
線は鉄箱の周囲を四角く囲んでいる。
細い。
何かの文字や図形につながっているようにも見えるが、鬼太郎には読めない。
線を避けて箱へ触れることはできない。
鬼太郎は銀線を越えた。
何も起きない。
身体の内側にある現世の魔力にも、変化はなかった。
箱の前へしゃがむ。
深緑の蝋。
三本の鍵を束ねた印。
封は切られていない。
右の取っ手の下には、古いへこみがある。
依頼書に書かれた箱で間違いない。
鬼太郎は左手で、取っ手へ触れた。
頭上で、金具が外れた。
音を聞く前に、左手を離して立ち上がる。
客席側へ、最初の鉄格子が落ちた。
石床の溝へ鉄が突き刺さり、舞台全体が震える。
鬼太郎は客席と反対側へ走った。
背後から、二枚目の鉄格子が落ちる。
右へ向きを変える。
そちらの格子は、ほかより遅い。
下端と床の間に、まだ身体を通せる隙間がある。
鬼太郎は身を低くした。
格子の下へ滑り込む直前、壁の中から別の鉄枠が横へ飛び出した。
頭を上げていれば、首へ当たっていた。
鬼太郎は床へ手をつき、後ろへ身体を押し戻した。
鉄枠が目の前を通り過ぎる。
遅れていた格子が落ちた。
四方が閉じる。
鬼太郎は立ち上がり、〈シュライク〉を構えた。
金具を外した者は見えない。
鎖は天井裏へ入り、起動部は石壁の向こうにある。
厚い格子へ撃てば、弾丸が跳ね返る。
箱以外に、遮蔽物はない。
撃つべき相手もいなかった。
トーマスは鉄格子の外にいる。
「何だ、これは。おい、俺を出せ!」
舞台袖から黒い服の男が二人現れた。
トーマスの柱へ手をかける。
柱の土台には、小さな車輪がついていた。
「その人は、回収対象なのですが」
鬼太郎が言った。
男たちは答えない。
トーマスごと柱を舞台奥へ引いていく。
鉄格子の隙間から撃つことはできる。
だが、男たちの身体はトーマスと重なっている。
追加報酬を自分から壊す理由はなかった。
鬼太郎は銃口を下げた。
四方の格子を見る。
一本ずつが太く、間隔は子供の頭より狭い。
床へ刺さった下端は、石の中で固定されている。
天井の鎖は、格子の外側にある。
アギで鉄は燃えない。
水樽と天井の袋は、炎が広がったときに使うのだろう。
銀線は格子の内側を囲んでいる。
炎を出す前から、対策が重ねられていた。
鬼太郎は〈シュライク〉を下ろしたまま、客席の暗闇を見た。
敵はまだ姿を見せていない。
檻を壊そうとすれば、こちらの手段だけを見せることになる。
向こうが何人いるか。
誰が指示を出すか。
杖を持つ者がどこへ立つか。
客と戦う者が、同じ出入口を使うか。
幕を上げさせた方が、多く見える。
鬼太郎は鉄箱へ背を預けた。
「始めないのですか?」
◆
鐘が一度鳴った。
客席の端から、灯りがついた。
一つ。
もう一つ。
左右から中央へ、油灯の火が増えていく。
古い劇場の地下に、段状の客席が現れた。
座っているのは、すべて大人だった。
仮面をつけた者。
外套の襟で顔を隠す者。
隠す必要がないと考えている者。
数十人いる。
灯りが鬼太郎を照らすと、客席から歓声が上がった。
「本当に子供だ」
「銃を持っているぞ」
「火を見せろ」
「呪いが効かないというのは、あれか」
鉄格子の外、四方の高所に人影が立った。
全員が杖を持っている。
互いに離れ、同じ場所へ固まっていない。
舞台袖には、水樽のそばに二人。
天井の袋を落とす縄のそばに一人。
鉤のついた網を抱えた者が、左右に一人ずつ。
鬼太郎は顔を動かさず、目だけで位置を数えた。
正面上階の桟敷席に、男が現れた。
痩せた身体を、暗い色の上着で包んでいる。
男が片手を上げると、客席の声が少しずつ静まった。
「今夜お集まりの皆様へ、まずは新しい演目をご紹介しましょう」
声は、劇場全体へよく通った。
「杖を使わず、人を焼く子供」
客席の何人かが笑った。
「呪いを受けても、自ら取り除く。魔法使いの防護を小さな銃で破り、仲間同士を殺し合わせる」
事実と違う部分がある。
訂正する必要はなかった。
「これまで、何人もの取引を壊し、何人もの雇われ人を殺してきた。今夜、その子供がどこまで壊れずにいられるかを、皆様にお見せします」
拍手が起きた。
男は鬼太郎を見下ろした。
鬼太郎は鉄箱から背を離した。
「あなたが、依頼人ですか?」
「私一人ではない」
男は客席へ腕を広げた。
「依頼人は、この客席に何人もいる」
鬼太郎は、仮面と外套で埋まった席を見渡した。
地下競売所で失った者。
帳簿を奪われた者。
人や品物を失った者。
誰がどれかは分からない。
全員が、金を払ってここへ来ている。
「なるほど」
鬼太郎は微笑んだ。
「探す手間が省けました」
笑いが一度途切れた。
すぐに、別の笑いがそれを覆った。
桟敷席の男は表情を変えない。
「威勢がよい。最後まで、その顔が残ることを期待しましょう」
「最後?」
「あなたは、今夜最後の特別演目です」
男の声に合わせ、舞台袖の一人が長い革帯を持ち上げた。
別の者が、刃物の並んだ台を押してくる。
「檻から出した後、炎を封じ、銃を取り上げ、どの呪いまで耐えられるのかを確かめる。傷が残るのか。痛みを感じるのか。噂がどこまで本当なのか。時間をかけて、皆様にご覧いただきます」
観客が足を踏み鳴らした。
「死ねば、その身体と持ち物にも買い手がいる。生き残れば――次の夜にも、席を売れるでしょう」
鬼太郎は答えなかった。
男の顔。
四方の術者。
水と網。
舞台袖へ消えたトーマス。
客席の左右にある扉。
桟敷席の奥にある通路。
一つずつ覚える。
「ですが、その前に」
男が手を下ろした。
「今夜最初の演目を始めましょう」
舞台奥の黒い幕が、左右へ開いた。
その向こうに、もう一つの舞台があった。
中央には、鉄製の台が置かれている。
表面には細い溝が刻まれ、下の桶へ続いていた。
台の上に、小さな身体がある。
鬼太郎と、ほとんど変わらない年頃に見えた。
淡い金色の髪。
首、両手首、両足首を、銀色の金具で固定されている。
衣服には、乾いた血と新しい血が重なっていた。
鉄の台も赤黒く汚れている。
それなのに、露出した腕や脚には、傷痕がほとんど見えない。
少女は泣いていなかった。
立つことも、腕を動かすこともできない。
それでも目だけを動かしていた。
台の横へ立つ男の腰。
そこに下がった鍵。
男が手に持つ細い刃物。
舞台袖へ続く出口。
順番に見ている。
逃げるために必要なものを探している目だった。
最後に、その目が鉄格子の中へ向いた。
鬼太郎と少女の視線が合った。
助けを求めてはいない。
諦めてもいない。
捕まえた者を殺し、ここから出る機会を、まだ探している。
鬼太郎は、その目を静かに見返した。