第42話 空いた棚
二日間、鬼太郎は依頼を受けなかった。
最初の朝は、階段を下りるより先に朝食を運んでもらった。右脇腹は、深く息を吸っても痛まない。昨日の張りも薄れていたが、確認のために走ることはやめた。
シュライクの細部を清め、部品を戻すと棚へ収める。後は購入した本と、机に重なった紙を整理した。
キーノは自室から書きかけの紙を持ってきた。
「これ、見本なしで書いた」
出口、値段、時間。その下には、前の契約書から拾った言葉があった。鬼太郎は読める所と、形が違う所を指した。
キーノが書き直す隣で、ヴェイルへの手紙を書く。工房へ行く候補日を挙げ、検査を頼めるか、左手に無理がないかも尋ねた。
「使いへ渡してきてください」
「仕事か」
鬼太郎はペンを止めた。
「お願いのつもりでしたが、仕事として受けたいなら」
「違うなら、そう言えばいい」
キーノは封をした手紙を取り、廊下へ出ていった。部屋へ戻ってからも報酬は求めず、自分の紙を机へ置いた。
二日目の夕方、返事が届いた。
検査はできる。左手を使う所は弟子に任せる。ホロウェイにも話を通し、翌日の昼前に工房へ行く、とあった。
鬼太郎は文字を読んでから、封筒を伏せた。
「明日、鞄を見に行きます」
「私も行く」
「では、今度はこちらを仕事として頼みたいんです。道を覚えて、周囲を見て、購入品を持ち帰るまで確認する。工房の説明も、覚えられる範囲で」
キーノはまだペンを持ったまま聞いた。
「あの男がいたら?」
「知らせてください。追う仕事は含めません」
固定報酬と、監視者を見つけた場合の追加を紙へ書いた。キーノは数字を確かめ、短い行を一つずつ読んだ。
途中で分からない言葉を尋ね、答えを聞いてから受けると言った。
◆
ホロウェイの工房は、表通りに看板を出していなかった。
革製品店と古い時計店の間を抜け、細い道を奥へ進む。黒い扉には、折り重なる鞄を刻んだ真鍮板があった。
キーノは扉より先に、後ろの道を見た。
茶色い外套はいない。途中の店にも、同じ顔はなかった。
鬼太郎は紹介状を取り出した。封を切っていないことを確かめ、扉の金具へ近づける。赤褐色の封蝋が光り、内側で鈴が鳴った。
細い窓が開いた。
「封を見せな」
鬼太郎が上げると、杖先が伸びてきて印へ触れた。光が二度瞬き、幾つかの錠が動く。
扉を開けた魔女は、灰色を帯びた赤毛を後ろで束ね、厚い革の前掛けをしていた。指には古い小さな傷がある。
「ベアトリス・ホロウェイだ。ヴェイルから話は聞いた。まず、手紙を」
鬼太郎は封筒を渡した。
ホロウェイは宛名と印を見てから、自分で封を破った。鬼太郎たちを座らせず、最後まで読んでいる。
キーノは棚へ近づかず、窓と扉の位置を見た。
「名前は」
「購入の記録には、キリル・ヴァシレフを使います。こちらはキーノさん」
「キーノ・ファスリス・インベルンだ」
キーノが自分で言った。ホロウェイは追及せず、手紙を机へ置く。
「紹介状は、ここへ入るためのものだ。値段は下げない。親切で売る品もないよ」
「承知しています」
「子供だからと、変な物を出すなとはある。子供だから売れとは書いてないね」
鬼太郎は魔女を見上げた。
「使い道を聞いて、決めていただけますか」
ホロウェイは一度紹介状へ目を戻し、裁断台の横の椅子を示した。
「そこへ座りな。金の話は、その後だ」
◆
「何を入れる」
「本、衣服、野営の道具。それから、銃の整備用品と弾薬。魔法の道具も増えると思います」
ホロウェイのペンが止まった。
「弾と魔法薬を、一緒に放り込むつもりかい」
「分けられるものが欲しいです」
「どこへ持っていく」
「当面は英国の中へ。後には、外国へ運びます。船や列車を使うこともあるでしょう」
「水へ落とす、燃える場所へ入れる、放り投げる。どれがある?」
鬼太郎は少し考えた。
「全部、あり得ますね」
「鞄の方が逃げたくなりそうだ」
キーノが横から言った。
「本人も、よく落ちる」
「好きで落ちているわけではありませんよ」
ホロウェイはペンを置いた。棚から革の切れ端を取り、裏に残る細い線を見せる。
「何をしても壊れない物はない。口より大きい物も通らない。生き物を長く入れておく保証もしないよ」
鬼太郎は頷いた。
「その上で、壊れた時に、入れた物を取り出せる可能性のあるものを。修理もできる方がよいです」
「安い品は、内側が崩れ始めても分からない。気づいた時には物が出ない。前に見たのも、そういう品だろう」
「底の位置が、揺れていました」
「買わなくて正解だね」
魔女は革を戻し、奥の棚から三つの鞄を下ろした。
最初は大きな旅行鞄だった。一つに広がった内側には、底が見えないほどの奥行きがある。
「量を運ぶなら、これだ」
「奥へ入れた本は、すぐ取れますか」
「入れ方次第だね。中身を全部出せば取れる」
鬼太郎が口を閉じると、キーノが先に首を振った。
「それは嫌だ。毎回、片づくまで帰れない」
「僕も、今回は外します」
二つ目は小さな肩掛けだった。逃げる時には邪魔になりにくいが、持っている本と衣服を入れるだけで余裕が減る。
鬼太郎は持ち上げ、軽さを確かめてから戻した。
三つ目は、黒に近い濃茶色の鞄だった。角に金具、底に重ねた革。手提げのほか、外せる太い肩紐がある。
留め具が三つ並んでいた。
「内側を三つに分けてある。普通の品、金属と工具、危険物。右の赤い線が、危険物だ」
ホロウェイが開くと、内側には棚と固定帯があった。キーノが覗き込み、外側の幅をもう一度見る。
「これなら、どこにあるか分かる」
「入れた場所を覚えていればね。勝手に並べ替えてくれる鞄じゃない」
「その方がいい」
鬼太郎は棚の幅と、口の大きさを見た。本も野営道具も入りそうだったが、何でも通るわけではない。横へ長い物は別に考える必要がある。
「一つの場所が傷んだら、ほかも失いますか」
「同時に崩れにくくしてある。傷んだ所を閉じ、残りから切り離せる。ただし、中へ弾を裸で投げ込むな。薬も専用の瓶と容器へ入れな」
「重さは、なくなりますか」
「軽くなるだけだ。入れすぎれば重くなる。それを無視すれば、縫い目より内側を傷めるよ」
鬼太郎は底革を持ち上げ、金具の付け根を見た。
「検査をお願いするなら、この品にします」
ホロウェイは壁の時計へ目をやった。
「来る頃だ。まだ、買う約束はしていないね」
「ええ。説明どおりで、払える額であれば」
「そこを忘れる客よりは、話が早い」
◆
工房の鈴が鳴り、ヴェイルとマイルズが入ってきた。
職人の左手は固定され、首から吊られていた。マイルズの片目は開いていたが、額にはまだ布がある。銅縁の工具箱は、弟子が持っていた。
鬼太郎は先に、二人分の移動費を渡した。
「検査料は、取らんぞ」
「移動費は別と、お約束しましたから」
ヴェイルは袋を受け取り、濃茶色の鞄を見た。
「それか」
「用途に合うと思いました。三つに分かれ、修理できる作りだと伺っています」
「使い道は聞いたんだろうな」
ヴェイルがホロウェイへ尋ねると、魔女は裁断台の紙を指した。
「あんたより荒く使いそうだ。私の説明が足りなきゃ、好きに言い足しな」
マイルズが箱を開いた。
まず、小さな鏡が出てきた。ヴェイルが角度を指示し、弟子が鞄の口へ向ける。鏡の中に細い線が浮き、棚の奥から縫い目へ集まっていた。
キーノは覗き込み、鏡と実物を見比べた。
「何を見てる」
「広さと、歪みだ。見えている奥が、そのままの距離とは限らん」
「広くても、壊れかけてたら?」
「だから、次を使う」
弟子が先端に球のついた細い道具を出した。ヴェイルの言う順序で三つの内側へ入れ、揺れが収まるのを待つ。
「右だけ、少し違うな」
「耐火の層だ」
ホロウェイが答えた。ヴェイルは頷く前に、別の角度からもう一度確かめさせた。
「不安定なのとは違う。支える所が多い分だ」
鬼太郎は、店頭で底が揺れた鞄を思い出した。似て見えても、同じ原因とは限らない。自分だけで決めれば、今の違いも分からなかっただろう。
次は縫い目だった。
マイルズが革を持ち、ヴェイルが右手だけで確かめる。外側の底革を替えても、内側をほどく必要がないこと。傷んだ一か所を閉じられる線が、留め具の裏へ残されていること。
説明したホロウェイは口を挟まず、二人の手元を見ていた。
重い革袋が幾つか運ばれてくる。
鬼太郎は一つずつ鞄へ入れた。外の形は変わらないが、持ち上げると徐々に重くなる。最後の一つでは、急に手へ掛かる重みが増した。
「今が、止める所だ」
ヴェイルが言った。
「もっと入るように見えても、やめろ。警告を無視して詰めれば、どんな品でも壊す」
鬼太郎は鞄を下ろし、袋を出した。重さが元へ戻る。
最後に、底の金具の下へ隠れた製作者印を鏡で見た。扉と同じ、折り重なる鞄の形が浮かぶ。
「上から押した偽物ではない。新しい品だ。説明と、違う所はない」
「危ない所は?」
鬼太郎が尋ねると、職人はすぐには答えなかった。三つの留め具をもう一度見てから、鏡を弟子へ返す。
「本体を焼き切られれば、中身も助からん。空間を裂く呪い、勝手な改造、入れすぎ。そこまでは防げない」
「あなた以外にも、修理できるんですね」
「読める印と、手を入れられる箇所が残っている。裏返せば、壊す者にも構造を読まれやすい」
鬼太郎は留め具へ触れた。
失わないための品でも、奪われて構造を調べられる危険までは消えない。だからといって、誰にも直せない物を選ぶ気にはならなかった。
「今の用途なら、私もこれを選ぶ」
ヴェイルは椅子へ座った。
「検査は終わりだ」
鬼太郎は持参した紙へ、完了の印をもらった。マイルズも立会人として署名する。
その紙をしまってから、鬼太郎はホロウェイへ向き直った。
「値段と保証を、伺います」
◆
告げられた額は、安くなかった。
救出で受け取った金から、サーシェスへの報酬と経費、キーノの分、治療や移動を引く。残った大半が、目の前の鞄へ変わる。
以前からの蓄えは残せる。それでも、同じ物を続けてもう一つ買うことはできなくなる額だった。
鬼太郎は財布を開く前に、保証書へ目を通した。
製作時の欠陥なら修理か交換。定められた期間の通常使用の乱れは点検する。戦闘、火、水没、呪い、入れすぎなどで傷めた分は有料。本体を失った時、中身の回収までは保証しない。
「外国からは、どう頼めば?」
「先に梟便で、状態を知らせな。壊れた鞄を、そのまま送りつけるなよ。運ぶ途中にひどくなる」
「あなたが不在の場合は」
ホロウェイは裏面へ、ほかの職人を二人記した。フランスとドイツ。印を読める相手だが、勝手に中を直そうとした品までは請け負わない、と念を押す。
鬼太郎は読み終え、金を出した。
ホロウェイが数える隣で、キーノも枚数を目で追った。釣りが戻ると、受領証の額と見比べる。
「合ってる」
「あんたも数えてたのかい」
「そういう仕事だ」
キーノは手を引いた。ホロウェイはそれ以上尋ねず、受領証と保証書、製作者印の写しをまとめて渡した。
使い方は、購入後に教わった。
中央が普通の品、左が金属と工具、右の赤線が危険物。傷み始めると口が閉まりにくくなる、床が傾く、重さがおかしくなる。その時は詰めるのをやめ、直しに持ってくる。
留め具の内側の線を杖でなぞれば、一つを閉じられる。呪文は要らないが、力の通る杖が必要だった。
「閉じたら、自分で開け直すな。中を直したことにはならないよ」
鬼太郎は手順を書き留め、キーノにも線の位置を見てもらった。今すぐ試して閉じることはしなかった。
肩紐を短くすると、七歳の身体でも地面を引きずらずに持てた。手提げも握りやすい。中には保証書しか入っていないのに、空の普通鞄よりは重かった。
「次に来る時は、それを見せな」
ホロウェイが受領証を指す。破った紹介状は、彼女の机へ残った。
ヴェイルとマイルズは先に帰った。鬼太郎も鞄を持ち上げ、キーノと工房を出る。
細い道を抜けるまで、彼女は二度後ろを見た。
◆
帰っても、鞄へすぐに全部は入れなかった。
鬼太郎が机へ本を並べると、キーノは新しい留め具を見た。
「入れるために買ったんだろ」
「取り出す場所を、先に決めます」
本は普通の品の棚へ、題名を確かめながら収めた。次に予備の服。野営道具を置く所は空いたままにする。
整備の道具と油は左へ。油は容器を包み、動かないよう留めた。予備弾薬は箱に入れて、右の赤い線の方へ移す。
すぐ使う弾とシュライクは、身体側に残した。
二本の使っていない杖も、別々の布で包んで収める。ウォードの杖とキーノの仮杖は、手元へ置いた。
三冊の帳簿へ手が伸び、鬼太郎は止めた。
「それは、入れないのか」
「全部を一つにすると、奪われた時も一度で済みますから」
「そのために、丈夫なのを買ったのに?」
「奪われない保証は、ありませんでしたね」
鬼太郎は帳簿を、元の保管場所へ戻した。父の書類と孔雀の手紙も、今日は移さなかった。
キーノは棚を覗き込んだ。
「部屋を出ても、本と服は持っていける」
「ええ。ほかの道具も」
「全部持って、逃げられるな」
鬼太郎は空いた所へ目を向けた。新しい本や、野営の道具を入れても、まだ余るだろう。
英国へ来た時には、荷を増やすたびに捨てる物を選んだ。今は持っていく方法を先に選べた。
「逃げる時にも使えます。でも、次の場所へ行くためにも欲しかったんです」
「次?」
「すぐでは、ありませんよ」
鬼太郎はキーノを見た。行き先を話す時には、彼女がそこへ行きたいかも尋ねる必要がある。今、部屋を使っていることと、その時も隣にいることは別だった。
キーノは少し待ったが、それ以上は聞かなかった。
「今日の金を、先に出せ」
「お疲れさまでした。品物と説明の確認も、助かりました」
約束した固定報酬を渡した。監視者は見つからず、その分の追加はない。
キーノは数え、自分の服へしまった。鞄の棚へ入れることはしなかった。
「工房への道は、もう分かる」
「次に扉を開けてもらうには、受領証も必要ですね」
「それは、お前がなくすなよ」
鬼太郎は書類の包みを確かめ、留め具へ手を置いた。
本と衣服、道具を入れても、棚はまだ空いていた。
その余白へ何を収めるか、今日は決めずにおいた。